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2月7日礼拝の音声ファイルです。

<聖晩餐式礼拝 式 順>

前 奏
神の招きと賛美
司会者:主イエス・キリストの恵みがあなたがたすべてとともにあります
ように。
会 衆:主の恵みがありますように。
司会者:さあ、主に向かって喜び歌おう。われらの救いの岩に向かって、
喜び叫ぼう。
会 衆:感謝の歌をもって、御前に進み行き、賛美の歌をもって、主に喜び
叫ぼう。
一同:主は大いなる神であり、すべての神々にまさって、大いなる王である

教会福音讃美歌44番 「主をほめたたえよ」
開会の祈り     司会者

罪の告白の招き  イザヤ書55章6-7節    司会者
罪の告白の祈り
会 衆:あわれみ深い神よ。私たちはあなたに対して罪を犯したことを告白し
ます。思いと言葉と行いにおいて、禁じられたことを行い、すべきことを怠りました。私たちは心と知性と力を尽くしてあなたを愛しませんでした。自分自身のように隣人を愛することもできませんでした。あわれみのゆえに、これまでの私たちをお赦しください。今ある私たちを造り変え、私たちのこれからの歩みを導いてください。そうすれば、あなたのみ心を喜び、あなたの道を歩むことができます。あなたの聖なる御名の栄光が現われますように。アーメン。
個人的な告白 ( 黙祷のうちに )

赦しの確証 詩篇32篇1-2節 司会者
会 衆:  アーメン

平和のあいさつ
司会者:神はキリストによって私たちを赦してくださいましたから、私たちも
互いに赦しの恵みを分かち合いましょう。私たちの父なる神と主イエス・
キリストから恵みと平和があなた方の上にありますように。
会 衆:主の平和が、あなたとともにありますように。

教会福音讃美歌390番 「主よわれは君のもの」
聖 書 朗 読  マタイの福音書 23章 1-12 節
聖書の話  「自分を低くする者は」 廣橋嘉信牧師
教会福音讃美歌468番 「キリストの愛 我に迫れり」

聖晩餐式
[制定のことば] コリント人への手紙 第一11章23-29節
[式 辞][祈 り][分 餐] 配餐者 大場長老 那須長老
[一同で祈る]
私たちの贖い主イエス・キリストの父なる神よ。私たちは、主の聖晩餐に
あずかることができた恵みを心から感謝いたします。
この主との親しい交わりにおいて与えられた祝福によって、神の子、光の子らしく歩む誓いに生き、各々の十字架を負いつつ御国で祝うその日まで、この聖礼典を重んじ、守らせてくださいますように。
私たちの贖い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

献 金
報 告
教会福音讃美歌  272番 「みつにまして ひとつの神」
祝 祷
後 奏      567番 「アーメン・アーメン・アーメン」

2021年2月7日 「  自分を低くする者は 」 マタイ23:1-12 

序文)今年の初めから、マタイの福音書を継続して学んでいます。文脈的には、それまで主イエス様に向かってパリサイ派、サドカイ派、律法学者たちが、次々と論争を仕掛け、罠にかけようとしてきましたが、ことごとく主イエス様から明快な反論にあい、ついに沈黙しかなくなりました。そこで、攻守交代となり、今度は、イエス様から彼らに進んで質問をされました。人間の思いつくあらゆるキリストへの誤解、偏見、悪意、曲解のすべては、沈黙させられました。23章から、主イエス様は悲しくも手厳しいことば「わざわいだ」を7回も連続して、警告の数々を、群衆と弟子たちに発して、正しい道に引き戻そうとされました。

Ⅰ 言行不一致はいけない 1−4節

「律法学者たちやパリサイ人たちはモーセの座に着いています。ですから、彼らがあなたがたに言うことはすべて実行し、守りなさい。しかし、彼らの行いをまねてはいけません。彼らは言うだけで実行しないからです。」
 「律法学者たちやパリサイ人たち」はモーセの座についています。モーセの位置を占めている。だから彼らの言うことは聞いても良いが、行っていることは真似してはならない。彼らは言行不一致である。さらに、主イエス様は、ここで、「彼らは、重くて負いきれない荷を束ねて人々の肩に載せるが、それを動かすのに自分は指一本貸そうともしません」と非難し、わざわいだとおっしゃいました。

 律法学者の働きの一つは、日常生活に適用する民事律法、祭儀律法の研究と解釈にありました。彼らは学問を通して律法の中心を追求し、その時代の実生活に関係したことが語られていない場合には、その大綱にそって、細かい規定を作ったりしました。それは次第次第に詳細なものとなり複雑になりました。みことばに明らかに書かれていることと、そうでないが学者たちが考え出したもので、言い伝えられてきたものは権威あるものとされて、人々の生活を規定しました。それらは重くて負いきれない荷物です。

旧約聖書に神が啓示された救い主、贖い主を遣わすとの喜びのメッセージ、約束の福音を読み取り、人々に伝えるという根本を見失って、ただ、律法を自分の力で守ることによって救いを勝ち取るようにと教え、自分たちの考え出した細かい規定をも守らないとのろわれると教えました。人々は苦しみました。救いの道として啓示されたみことばの真意と違うものを学問の産物として受け取らされ、救われることがなかったのです。そして律法学者たちは、自分たちのために多くの抜け道を作って事実上は律法の細部にいたるまで行おうとしなかったのです。人々に厳しく、自分には甘い彼らを真似てはいけない。

Ⅱ 動機がたかぶりにある 5−10節

彼らがしている行いはすべて人に見せるためです。彼らは聖句を入れる小箱を大きくしたり、衣の房を長くしたりするのです。宴会では上座を、会堂では上席を好み、広場であいさつされること、人々から先生と呼ばれることが好きです。しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただ一人で、あなたがたはみな兄弟だからです。あなたがたは地上で、だれかを自分たちの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただ一人、天におられる父だけです。また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただ一人、キリストだけです。」

見せるためだけの信仰はダメですよ。周囲の目を気にしているだけの信仰は、天から見ておられる神を無視している。神を思う思いが薄れている。

「聖句を入れる小箱を大きくしたり」というこの習慣の根拠聖句は、申命記11:18「あなたがたは、わたしのこのことばを心とたましいに刻み、それをしるしとして手に結び付け、記章として額の上に置きなさい」にあります。聖句とは[申命記 6:4,5]「聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」です。小箱は、ひたいの真ん中と、左腕上部二箇所に巻き付けていました。13歳以上の男子はこれをつけることが求められていました。パリサイ人、律法学者たちは、この小箱を大きい小箱にして巻いていた。「衣の房を長くしたりするのです。」祈りの時に用いた肩掛けのような物でその縁についていた青い紐のこと。大きくして目立つようにした。アピールしている。「宴会では上座を、会堂では上席を好み」これが宴会の席ぐらいの問題ならばまだよいのです。

 続いて主は、ユダヤ教の指導者たちが好んで使っていた「先生」(ラビ)「父」「師」を弟子たちの間では使わないようにと言われました。イエス様は、ことばそのものの使用を禁じられた訳ではありません。のちに使徒たちが書いた書簡で、これらの言葉は普通に使用されていました。真の先生はキリストご自身です。天から遣わされた先生です。父は天の父だけです。神に代わって、上に立って威張り散らし、権力志向、プライドだらけのパリサイ人、律法学者たちのように、弟子たちが互いを先生、父、師と呼んではいけない。「師」はキリストだけです。リーダー、コーチ、アドバイザーなどの意味を全て込めているのが「師」です。これは主イエス・キリスト様だけです。

しかし、主が教えようとされたのは、それ以上のことでした。

Ⅲ めぐみの福音の力によって  12節

「あなたがたのうちで一番偉い者は皆に仕える者になりなさい。だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。」

 自分を高くする者で、低くされた者の実例は、聖書の中に出てきます。神のみ使いたちの中で、自己満足をもって、自分を見つめだした者たちが、天の光から外の暗やみに投げ落とされ、不従順の例となったことを示しています。また、そのかしらである悪魔が、蛇を通して、私たちの最初の両親アダムとエバの心に吹き込んだ思いも、神のようになりたいという高ぶりの毒でありました。それぞれ高い地位から現在のみじめで悲惨な罪の深い淵に落ちました。天においても地においても高ぶりは地獄の門です。罪の根本的な姿が高ぶりにはこもっています。

 自分を高くする。それによって人間は根本的に神に逆らい、神よりも自分を賢いとします。神よりも自分に能力があるとします。悲惨や戦争や流血や自己主義、野心、嫉妬、失意などは、自分自身の高ぶりや、他人の高ぶりによって引き起こされるのです。

 このような高ぶりは神に対してなされるものでありますから、神はそうした者を低くします。罪の結果を問い、地獄に落とします。どれほど多くのひとたちが「神はいない」といって、現実に苦しみを招いていることでしょうか。

2 このような者たちのために、神が成し遂げられた救いのみわざは終始一貫して、謙遜の中に勝ち取られたものであります。自分を低くする者で、高くされた最高の実例のお方は、神のみ子イエス・キリストご自身です。

 神のみ子は天の栄光の座から、この汚れた地上に来られました。ご自分を無にして仕える者の姿をとり、地上生涯を全うし、自分を卑しくし、死にまでも従われたのです。それゆえに、神は、キリストを高く上げられました。神の栄光の右の座にまで引き上げられました。悪魔が高ぶりにより、地獄を私たちに日々に提供するとき、第一のアダムの罪への堕落が、その影響力と共に、私たちを苦しめました。第二のアダムとなって下さったイエス様は謙遜によって天国を私たちに日々提供しておられるのです。謙遜の力を、いのちを、わたしたちに与えて、神のみ前に本来あるべき立場へと私たちを立たせてくださるのです。ですから、イエス様の十字架により、救いにあずかった一人一人には、イエス様の特徴である謙遜の徳が宿っていなければなりません。

3 イエス様は弟子たちにいくたびも、この「謙遜」について教え示されました。あるときはことばを変えて「あなた方の間で、人の先に立ちたいと思うものは、あなた方のしもべになりなさい」と本気で忠告されました。 

 主に従う一人一人の道は、自分を神様の目に低くする道であります。それは他の人々に仕えて行く道です。神の国において偉くなろうとするならば、へりくだる道しかないのです。そしてそのような道は、謙遜のいのちである主イエス様に心のうちに住んでいただく以外にないのです。

 私たちは熱心で活動的な信仰もっているかもしれません。しかし謙遜が欠けていることもありうるのです。弟子たちが最後の晩餐の席上でも、なお、誰が一番偉いかと論じ合ったことを覚えておきましょう。個人的な努力や、外からの教えも実のところ高ぶりを克服し、優しいへりくだった心をもたらすには無力なのです。聖書にこの上座を選ぶというたとえ話があるので、今日、多くの人々が虚偽の謙遜によって末席を選び、主人のすすめによっても容易に席を立とうとしないために時間が空費されることもしばしばです。この課題を避けるために大抵は座席指定をするようになりました。

 自分を低くする者とは、キリストの心を心とする者です。それは聖霊によって与えられるいのちであり、変化であり、力です。自分に死に、キリストに生きることが、謙遜の徳を身に付ける道です。それは自分の罪に日々に死に、キリストのいのちに日々に生きることです。結局のところ、謙遜は招いた主人の判断に任せること、神の判断に全部任せることなのです。そうしたら、神があなたを生かしてくださるのです。用いてくださるのです。神が高くしてくださるのです。神があなたを赦してくださるのです。きよめてくださるのです。

結び)福音の力によって

 謙遜のために、何が必要でしょうか? 救いの始まりにおいて、主イエス様の十字架のうちに、神のめぐみを発見したのですから、現在も日々に発見し続けることです!イエス・キリストの十字架に来ることは、まさに一回だけでよいはずはなく、常にプロセスとして来るべきなのです。使徒パウロは書きました。「このように、あなたがたは主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストにあって歩みなさい。」(コロサイ2:6)聖書は私たちに「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与える」と教えます(ヤコブ4:6)。

 謙虚に神に来ることは、イエス・キリストの十字架を通して、キリストに来ることを意味している。パウロが書いています。「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません。この十字架につけられて、世は私に対して死に、私も世に対して死にました」(ガラテヤ6:14)。

神があなたに段々と罪を示されるとき、あなたは赦されるためばかりでなく、変化する力のためにも、十字架のイエス・キリストに謙虚に再び、再三、再四、来ることを学ぶのです。神の変化させてくださる福音の恵みの流れが、あなたの生活に注ぎ入れられ始めるのは、十字架においてのみです。水のように神の恵みと力が常に低い所に流れ下るのです。神の現臨と力の現れが、今日、それほど多くの生活と宣教にあらわされていないのは、なぜかという理由は、誇りと自己過信の罪のゆえです。聖書は神の臨在と力は謙虚と悔い改めた心以外のいかなる場所にも示されないと教えています。

「 ──主のことば──わたしが目を留める者、それは、貧しい者、霊の砕かれた者、わたしのことばにおののく者だ。」(イザヤ66:2)

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