ようこそ!海浜幕張めぐみ教会へ!- Welcome to Kaihin Makuhari Grace Church!!

2月14日礼拝の音声です。

10時45分より

前   奏
招きの言葉 黙示録1章12-18節
さ ん び 「あなたをたたえます~You are Worthy of My Praise~」
さ ん び 「叫べ全地よ~Shout to the Lord~」
開会の祈り
主の祈り
教会福音讃美歌 20番 「力に満ちたる」
聖書朗読 ヨシュア記5章10-15節
聖書の話「あなたは味方ですか、それとも敵ですか。」 マーク・ボカネグラ牧師
教会福音讃美歌 157番 「インマヌエルの主イエスこそ」
献   金
報   告
とりなしの祈り マーク・ボカネグラ牧師
頌栄(教会福音讃美歌) 271番 「父・子・聖霊の」
祝   祷 マーク・ボカネグラ牧師
後   奏  567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

ヨシュア5:10-15 – 「あなたは味方ですか、それとも敵ですか。」

2021/2/14

私と妻のめぐみは映画鑑賞が好きですが、映画の趣味が全く合いません。めぐみはわかりやすい映画が好きです。誰が悪役で、誰が「いいもの」かがはっきりしていて、「いいもの」が「悪もの」と戦い続けて、「悪もの」が完全に倒され、「いいもの」が完璧で幸せな人生を送る「めでたし、めでたし」で終わる映画が、めぐみの大好物なのです。しかし、私は正反対です。わたしはモヤっとした映画が好きです。特に、「いいもの」が徐々に「悪もの」になって、主人公が堕落したり、全ての人物が負けてしまい、誰が勝者で誰が「ヒーロー」なのか全くわからず、モヤモヤしながら、「めでたし、めでたし」ではなく、「いたわし、いたわし」で終わるような映画が、私の大好物です。

映画の趣味としてどっちがいいかということでは全くありませんし、どんなジャンルでも素晴らしい映画はあります。しかし、聖書の話はどちらかというと、「モヤっとする」話だと思います。特に、ヨシュア記はそうです。私たちは4章を読み続けてきました。ここは、ある意味、比較的にわかりやすい話です。神様は「善」、偶像は「悪」。神の民は神様に従っているから「いいもの」、そして、カナン人は偶像を礼拝しているから「悪」。しかし、少しずつ「悪もの」と「いいもの」のイメージに「ひび」が見えてきます。2章のラハブの話でそれを少し見ることができました。異邦人の遊女が信仰のヒーローで、イスラエル人の戦士たちはみことばに逆らった者でした。そして、ヨシュア記5章以降、「いいもの」だったはずの「神の民」が神様の恵みを受け続け、少しずつ調子にのってしまい、最終的に「悪者」になってしまうのです。

クリスチャンの皆さん。無宗教の皆さん。日本人の皆さん。外国人の皆さん。何々「派」の皆さん。自分にどんな「カテゴリー」または「ラベル」を張ってもいいですが、自分は「いいもの」でしょうか?または「悪もの」でしょうか?そして、それはなぜでしょうか?

本日の箇所は、ヨシュア記の「ヒーロー」であるヨシュアが調子にのってしまう場面です。「俺はいいやつで、お前ら異邦人は敵だ!」と思ってしまったヨシュアに神様が忠告されます。「いや。待て。神はお前の味方だ、と勝手に決めるのは誰だ?神の味方とは神のみことばに従う者だ。お前はそもそも、みことばに従っているのか?」と神様はヨシュアをへりくだらせるのです。しかし、驚くべきことは、調子にのってしまったヨシュアでも、神様は愛しつづけ、救い続けられたということです。つまり、聖書の中には、ヒーローはいませんし、人間はみな、「悪者」で、「神の敵」です。そして、唯一の「いい者」は神様です。ご自分の敵を赦し、ご自分の「味方」として私たちを救われる神様なのです。私たちはそれを理解してそのようにこの世界を見ているでしょうか?

そのことを思い巡らすために、この箇所の三つの展開を見ていきたいと思います。最初の場面では、神の敵を約束の地に迎えられる神様が見られます。

10-12節を見ると、神の民が初めて「過ぎ越しの祭り」という儀式を約束の地で行っています。「過ぎ越し」という儀式は、神様がどのように神の民をエジプトの奴隷制度から救い出されたかを記念する儀式です。当時、神様が幾つもの災いでエジプトを打ったにもかかわらず、エジプトの王であるパロは神の民を解放しませんでした。ですから、神様は、エジプトの長男を全員殺すという災いをくだされたのです。神様から見ると、エジプト人だけではなく、神の民災いに値するものでした。しかし、神様は神の民に逃げ道も与えられました。もし傷のない子羊の血を自分たちの家の門に塗ったら、この災いから救われると言われました。この「子羊」が代わりに罰を受けることによって、神の民は神様の「敵としての罰」から逃れられるということでした。それ以来、この儀式は毎年行われ、神の民は子羊をほふり、自分たちの家の門に血を塗ったのです。それは、神様が恵み深いお方であり、どんなに罪深い民であっても、力強く救い続けてくださることを民が毎年思い出すためでした。

神の民がエジプトから脱出した後、40年間の寄留生活がありました。非常に苦しい40年間だったと思います。飢え死にする恐れ、疲れ果てて荒野で死ぬ恐れ、敵の王国に奇襲され殺されるなどの恐れと向き合いました。しかし、最も彼らが恐れていたのは、そういうことではありません。最も恐れていたのは、自分たちの罪や失敗によって、神様のみ怒りを受け、神様の裁きによって全滅させられることだったと思います。「自分たちは罪深いから、約束の地に入れないかもしれない」と思ったかもしれませんし、「辛すぎて、もう約束の地をあきらめる」とつぶやいたかもしれません。しかし、毎年の過ぎ越しの祭りを通して、神様は彼らに思い出させられたと思います。「あなたがたが恐れている力を私は恐れてはいない。あなたがたの罪にも驚いてはいない。出エジプトのように、あなたが恐れている力を撃破し、あなたがたの罪を赦す方法も用意してある。あなたがたを置き去りにはしない。私はあなたがたと共にいる。」

本日の箇所に書かれている場面は、40年間もさまよい続けた神の民にとって感動の場面です。彼らがエジプトに寄留していたときには、この過ぎ越しの祭りは「約束の地」にたどり着くまで、彼らに「希望」と「期待」を与える儀式だったのですが、「約束の地」で儀式を行ったときには、彼らの「希望」が成就したことを実感することができました。しかも、彼らが食べていた「天から降るマナ」が終わり、「約束の地」の食物を食べ始めることができたのです。新約時代のクリスチャンのたとえに言い換えると、彼らが感じたことは、私たちが天国で初めて「聖餐式」のパンを食べる時の感動と似たようなことだと思います。喜びで心がはち切れそうな、感動のときだったと思います。

しかし、衝撃的な事実があります。出エジプト12章では、過ぎ越しの祭りの規定が書いてあり、48節にはこう書いてあります。

もし、あなたのところに寄留者が滞在していて、主に過越のいけにえを献げようとするなら、その人の家の男子はみな割礼を受けなければならない。そうすれば、その人は近づいてそれを献げることができる。彼はこの国に生まれた者と同じになる。しかし無割礼の者は、だれもそれを食べてはならない。

つまり、神様の恵みを表す「過ぎ越しの祭り」は割礼を受けている人のみ授かることができたのです。逆に言うと、無割礼の人は正式には「神の民」ではないということです。割礼というのは、神の民である「しるし」なのです。パスポートのようなものです。ですから、イスラエル人でありながら、無割礼の人は、「神の国」の王様から見ると、「神の国」のパスポートや特権を拒んでいる人なのです。神様から見ると、無割礼の人は、自分の王様に対する忠誠を公に告白しないで自分のパスポートを捨てるような兵士で、偶像礼拝する「神の敵」と同様なのです。

しかし、前回のヨシュア記の説教でわかったように、イスラエル人は無割礼のまま、40年の間、荒野で「過ぎ越しの祭り」を授かっていたのです。これは驚きの事実です。自分の「戸籍」を登録しないまま、「パスポート」を見せないまま王宮に入って、「私は神の民だ!」と告白しながら、堂々と王様と共に食事をするようなことです。そして、リーダーであったモーセ、そして、サブリーダーであったヨシュアがそれを40年間も、許し続けたということも驚きです。ある意味、神のしもべとしては失格です。

しかし、最も驚くべきことは、神様が40年間、民のみことばに対する無関心、罪に対する無頓着、そして、彼らのかたくなさを罰せずに、彼らを受け入れ、「過ぎ越し」の恵みを与え続けられたということです。神様はご自分の食卓にご自分の民を「神の敵」のまま招待されました。そして、彼らが約束の地にたどり着いたとき、神様は初めて彼らを注意されたのです。なぜそうされたのでしょうか?それは申命記9:6-7を教えるためだと、私は思います。

申命記9:6  「知りなさい。あなたの神、主は、あなたの正しさゆえに、この良い地をあなたに与えて所有させてくださるのではない。事実、あなたはうなじを固くする民なのだ。9:7  あなたは荒野であなたの神、主をどれほど怒らせたかを忘れずに覚えていなさい。エジプトの地を出た日からこの場所に来るまで、あなたがたは主に逆らい続けてきた。」

私たちクリスチャンにも同じようなことが言えます。私たちも無頓着で、無関心な、固い心を持っていて、罪を犯しながらも神様の恵みを授かっています。ただ神様はそれをいちいち注意されません。いつか、私たちが天国に着く日、私たちの罪が明らかになり、神様は私たちにこう言われます。「あなたの神、主は、あなたの正しさゆえに、この良い地をあなたに与えて所有させるのではないことを知っておきなさい。事実、あなたはうなじを固くする民だ。しかし、安心しなさい。あなたはあなたの行いによってではなく、私の恵みのみによって天国に入ることができるからだ。」神様は究極の約束の地である天国でも、神に敵対しているご自分の民を迎えてくださるのです。

しかし、二つ目の展開でヨシュアはこの事実をすぐに忘れてしまい、調子にのってしまいます。赦された「神の敵」はすぐに自分が「敵」であることを忘れてしまうのです。クリスチャンの私たちも、この事実を忘れて、調子にのってしまうことはないでしょうか?私はもちろんあります。

ヨシュアがなぜ調子にのってしまったかが、私にはよくわかります。約束の地で初めての「過ぎ越しの祭り」を行うことができて、神の民もヨシュアも非常に喜んだと思います。コロナのワクチンが世界中に配布され、安心して集まることができ、KMGCのクリスマスの祝会をまた盛大にお祝いできる喜びを想像してみてください。その100倍ぐらいの喜びが彼らの心の状態です。

ヨシュアはこの喜びをもって、13節に書いてあるように、一人でエリコの周りに行きました。ここにははっきり書いてありませんが、このあとの話はエリコの襲撃についてなので、ヨシュアは一人で、警備無しで偵察しに行ったと思います。かなり危険なことでしたが、「いや、大丈夫。神様は俺たちの味方だし、エリコのような汚れた偶像礼拝者を倒すんだし、神様からいただいたミッションのために準備をしているんだから、きっと神様は守ってくださる」と自分に言い聞かせたと思います。私だったら、そうしたと思います。

そして、13節には、ヨシュアが目を上げて見ると、一人の人がさやから抜かれた抜剣を手に持って彼の前に立っていたと書いてあります。つまり、相手はヨシュアと戦う準備をしていたのです。自分たちがこれから襲撃する都の周りだったので、ヨシュアの質問は自然な質問でした。「あなたは私たちの味方ですか、それとも敵ですか。」しかし、返って来た答えはヨシュアの霊的状態と、神の民の霊的状態をさらけ出されたような答えでした。「いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。」浮かれていたヨシュアの心に、この一言は、グサッと刺さったと思います。

まず、この人はただの人間ではありません。ただの御使いでもありません。この人は主の軍の将軍であると書いてあります。「主の軍」がどれほど恐ろしい軍なのか、ご存知でしょうか?「主の軍」は神様の御使いたちの「軍隊」を指しています。ダニエル7章には、天の神様の王座の周りに、幾万人の御使いが神様を囲んでいます。もちろん、彼らの一つの役目は神様の御名を褒めたたえることですが、もうひとつの役目は聖なる、聖なる、聖なる王座を守ることです。例えば、この世の神様の王座であったエデンの園は、御使いに守られていて、彼らは炎の剣をもって侵入者を斬り殺すような存在でした。その上、一人の御使いの剣の威力は想像を絶する力でした。

1歴21:16-17  ダビデが目を上げると、主の使いが地と天の間に立ち、抜き身の剣を手に持って、エルサレムの上に伸ばしているのを見た。ダビデと長老たちは粗布で身をおおい、ひれ伏した。 ダビデは神に言った。「民を数えよと命じたのは私ではありませんか。罪があるのはこの私です。私が悪を行ったのです。この羊の群れがいったい何をしたというのでしょう。わが神、主よ。どうか、あなたの御手が、私と私の父の家に下りますように。あなたの民を疫病に渡さないでください。」

つまり、神様はこの場面で、ダビデ王の無頓着で傲慢な、罪深い行いの故に御使いを送られました。そして、御使いの剣はエルサレムに向けられ、その剣によって疫病が起こされ、7万人(参照:2サム24:15)が殺されたのです。さらにいうと、「過ぎ越しの祭り」でエジプトの長男を殺した破壊者も、「主の軍」の仕業とも言えるでしょう。しかし、ヨシュアの前に現れた人はこの御使いたちの上に立つ将軍なのです。しかし、この時点でヨシュアは知らなかったのですが、預言書(参照:ゼカリヤ1:8)と黙示録(参照:17:11; 19:11-14)を読むと、「主の軍」の将軍がイエス様であることがわかります。黙示録19章では、この将軍は白い馬に乗っている方で、目は燃える炎のようであり、その頭には多くの王冠があり、敵の血に染まった衣を着ていて、諸国の民を打つために鋭い剣と鉄の杖で激しい憤りをもって、ぶどうを踏み場で踏みつぶすように、この方は敵を潰されるのです。そして、この恐ろしい、主の軍の将軍は、ヨシュアにこのような意味の注意をしたのです。「お前、調子にのっている場合じゃない。主の軍の将は、私だ。お前ではない。もう忘れたのか?」そう言いながら、剣をヨシュアに向けます。これは想像を絶する程の、危険な状態なのです。どうでしょうか?私たちもヨシュアと同じように、忘れてはいないでしょうか?

それだけではありません。将軍は「私は今、来たのだ。」とヨシュアに宣言しているのです。どういう意味でしょうか?もし将軍が来ていたのなら、軍も来ていてもおかしくありません。2列6:17-20で神様がシリアという敵軍を目の見えない御使いの軍隊で包囲して撃破したように、エリコを包囲して撃破する準備をしに来たとも言えるでしょう。つまり、ヨシュアに「ヨシュア、お前は主に先立ってエリコと戦う気満々だっただろう?無割礼のままで約束の地に入って、みことばを無視して敵と戦うような軍が『主の軍』と言えるのか?みことばなしで、お前のアマチュアの軍でどうやってエリコの城壁を乗り越えるのだ?2軍のお前たちは、ベンチから1軍の私たちをただ見ていろ。」とおっしゃいました。

そして、最後に、「あなたは私たちの味方ですか、それとも敵ですか」というヨシュアの質問に対して、「どちらでもない。主の軍はお前たちのために戦ってはいない。主のために戦い、主の敵を殺す。むしろ、お前に聞く。お前は神様の味方なのか、敵なのか。どっちなんだ?」と剣をヨシュアに向けて、答えたのです。

この「主の軍の将軍」の質問は、ヨシュア、そして、私たちクリスチャンが忘れがちな事実を思い出させます。要するに、「みことばを信じる神の民」も「偶像礼拝する異邦人」も、どちらも「神の敵」なのです。「クリスチャン」と「ノンクリスチャン」のどちらも「神の敵」なのです。どちらもみことばを拒みつづけ、どちらも自分勝手な歩みで神様に敵対し、どちらも神の裁きに値する者たちなのです。そして、神様を信じながらも、無割礼のまま歩み続けたイスラエル人のように、私たちクリスチャンも、神様を信じても、罪を犯し続け、神様に敵対し続けているのです。そして、残念ながら、ヨシュア記を読み進めると、彼らの罪が徐々に悪化していって、異邦人と同じように偶像を礼拝するようになるのもわかります。

クリスチャンとして、私たちは根本的な事実を忘れていないでしょうか?私たちは今も神様に敵対してしまう罪人なのです。神様の「敵」なのです。どうして私たちは、ヨシュアのように、自分たちが求める「勝利」は神様が求める勝利と同じだと勝手に思い込んでしまうのでしょうか?「神様、あなたの栄光のために、どうか私の試合相手を負かしてください。」「神様、あなたの栄光のために、どうか受験戦争に勝利させ、合格させてください。」「神様、あなたの栄光のために、わたしに幸せな人生を与え、勝ち組にさせてください。」「神様、あなたの栄光のために、わたしの教会、わたしのミニストリーに成功をお与えください。」こういう祈りに対して、神様はどう答えられるでしょうか。「それは全ていいことのように聞こえるが、そもそも、いつ、私があなたの戦いのために戦うと言ったか?むしろ、あなたは神である私の戦いに心を向け、神のみことばを聞くべきではないのか?」と神様は私たちに問いかけられます。

そして、14-15節に、最後の展開があります。神様は赦されたしもべに「戦いなさい」と命令されるのではなく、「履物を脱げ」と命令されます。

ヨシュアは自分の傲慢さに気づき、顔を地に付けて伏し拝み、「わが主は、何をこのしもべに告げられるのですか。」と言いました。私だったら、もう罪悪感が心の中に溢れて、なだめの供え物を何か捧げたい、この恩をどうにかして返したいと思うでしょう。おそらくヨシュアもこの時点で、自分の借りを返すために自分の命を懸けてでも、すべてを捧げようと思ったかもしれません。「深くあなたを裏切ったので、自分の忠誠を示すために何でもします。あなたのしもべにおっしゃってください。一番高価な生贄を用意して、なだめの供え物をすぐに用意します。鎧を着て、剣と盾の装備をして、最前線に立ってエリコへ突撃する準備もすぐにできます」という気持ちもあったかもしれません。しかし、神様は非常にシンプルな命令を下されます。「履物を脱げ」と。つまり、「『裸足』で私を拝み、『裸足』で私があなたのために戦うのを見ていなさい」と、神様は命令されるのです。これが信仰の本質なのです。

つまり、神様はご自分の戦いに、私たちの存在を必要とされませんし、私たちのなだめの供え物も必要とされません。なぜなら、私たちはただ戦いの邪魔になる者ですし、私たちが用意するなだめの供え物も自分たちが犯した罪に対して全く値しないからです。神様が私たちに求めておられるのは、履物をぬいで、神様にひれ伏し、弱く、罪深いまま、神様の前にひれ伏し、聖なる神様の御名を褒めたたえ、神様の恵みのみにより頼むことです。そしてヨシュアはそうしたのです。

しかし、聖書の話をよく知っている人は、弱い、罪深いままで神様の前でひれ伏すこともできません。なぜなら、私たちは神の敵として確実に死ぬからです。そのとき、「主の軍の将軍」であられるイエス様がどのような将軍であるかを思い出す必要があります。黙示録には、本日の箇所と似ている箇所があります。

黙示録 1:12-18  私(ヨハネ)は、自分に語りかける声を見ようとして振り向いた… 人の子のような方が見えた。その方は、足まで垂れた衣をまとい、胸に金の帯を締めていた。その頭と髪は白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は燃える炎のようであった。 その足は、炉で精錬された、光り輝く真鍮(しんちゅう)のようで、その声は大水のとどろきのようであった。また、右手に七つの星を持ち、口から鋭い両刃の剣が出ていて、顔は強く照り輝く太陽のようであった。 この方を見たとき、私は死んだ者のように、その足もとに倒れ込んだ。すると、その方は私の上に右手を置いて言われた。

「恐れることはない。わたしは初めであり、終わりであり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、世々限りなく生きている。」

その時、預言者ヨハネは、ヨシュアと同じように、剣を持っている「主の軍の将軍」であられるイエス様に出会い、「わ!私は絶対に死ぬ!」と思ったのです。しかし、この将軍は「恐れるな!」とヨハネを慰めます。その慰めの理由が「わたしは初めであり、終わりであり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、世々限りなく生きている」ということなのです。「えっと…あなたが死ぬんじゃなくて、私が死にますよ!」と少し、突っ込みたくなりませんか?

しかし、この慰めの言葉は非常に力強いメッセージです。黙示録では、イエス様という将軍を、「勝利を獲得する獅子」と描くと同時に、「屠(ほふ)られた子羊」とも描かれています。そして、その「子羊」とは、説教の冒頭でお話した「過ぎ越しの子羊」を意味しているのです。つまり、イエス様は私たちにこうおっしゃいます。

「恐れるな。私は獅子のように、神の敵を斬り倒す将軍であるが、あなたの『過ぎ越しの子羊』でもあるのだ。もしあなたが弱いまま、罪深いままで、私のみに頼るなら、私はあなたの代わりに主の裁きの剣を受ける。そして、その裁きの刃は、あなたを過ぎ越すのだ。私はあなたのために死んだ。しかし、今、あなたを守り続けるために生きている。安心しなさい。」

神様は、私たちが神の敵であるのに、ご自分の大切な将軍である一人息子を捧げてくださり、私たちをご自分の「味方」にしてくださったのです。そして、それほどまでに捧げてくださり、それほどまでに私たちを受け入れてくださる神様が、私たちの敵だと思いますか?パウロはこう言っています。

ローマ8:31-34  では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。  私たちすべてのために、ご自分のご子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。だれが、私たちを 罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。

私たちの恵み深い救い主に感謝しましょう。お祈りします。