ようこそ!海浜幕張めぐみ教会へ!- Welcome to Kaihin Makuhari Grace Church!!

2月21日礼拝の音声ファイルです。

前   奏 
招きの言葉 ガラテヤ人への手紙5章22-23節
さ ん び 「あなたをたたえます You Are Worthy of My Praise」
さ ん び 「主イエスの愛で The Power of Your Love」
開会の祈り
主の祈り
教会福音讃美歌 40番 「父の神の真実」
聖書朗読 マタイの福音書23章13-39節
聖書の話      「わざわいだ」 廣橋嘉信牧師
教会福音讃美歌 387番 「弟子となしたまえ」
献   金 
報   告
とりなしの祈り 廣橋嘉信牧師
頌栄(教会福音讃美歌) 271番 「父・子・聖霊の」
祝   祷 廣橋嘉信牧師
後   奏  567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

2021年2月21日 マタイ23:13−39「わざわいだ」

序文)先回からの文脈が続きます。イエス様はパリサイ人、律法学者たち、一般民衆の思いつくあらゆるキリストへの誤解、偏見、悪意、曲解のすべてを、見事な回答によって沈黙させられました。23章13節から、主イエス様は新約聖書の中で、最も手厳しく、悲しいことば「わざわいだ」を7回も連続して、当時の宗教指導者たちの実態について、パリサイ人と律法学者たちに直接、警告の数々を投げかけ、正しい道に引き戻そうとされました。ここは主が山上の説教で、クリスチャン人生の「幸い」な指針を7回連続して語られたことと対照になっています。主イエス様への態度によって、私たちの人生が「幸い」か「わざわい」かの正反対の報いを受けることが示されています。

今朝の箇所で、主は大きく分けて三つの観点からの「わざわい」を語られました。

Ⅰ 律法学者、パリサイ人の教え全体が間違っている。

「わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは人々の前で天の御国を閉ざしている。おまえたち自身も入らず、入ろうとしている人々も入らせない。
 わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは一人の改宗者を得るのに海と陸を巡り歩く。そして改宗者ができると、その人を自分より倍も悪いゲヘナの子にするのだ。」(13〜15節)

 律法学者、パリサイ人たちの教えの全体に誤りがある。彼らは「天の御国を閉ざしている。」どのようにして閉ざしているのかというと、ルカの福音書11:52に書かれている。「わざわいだ、律法の専門家たち。おまえたちは知識の鍵を取り上げて、自分は入らず、入ろうとする人々を妨げたのだ。」

律法の専門家たちは、知識の鍵を持ち去り、自分で入ろうとせず、入ろうとする人々を妨げているのです。御国に入る知識の鍵、神の真理の扉を開く鍵を律法学者は持っていました。ところが、彼らは聖書を正しく解説することをしないで、自分も御国に入らず、入ろうとする人々を妨げてきました。生まれつきの盲人であったバルティマイが、主イエス様によって救われ喜び感謝していたとき、律法学者たちは、イエス様のことを「その人は神から来た人ではない。安息日を守っていないからだ」と律法を解釈してみせて、入信しようとしていたバルティマイを妨げました。彼らは無益であるどころか有害でさえあったのでした。実は知識の鍵はみことばを正しく解釈するだけでとどめられるのではありません。それは「このキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されています」(コロサイ2:3)とありますように、知識の根源であるキリストが鍵なのです。人はキリストと結びつくことにより、自分も人々も御国に入ることができるのです。主イエス様は「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません」(ヨハネ14:6)と言われました。鍵を握っているのは自分であると主は言われたのです。律法学者は、実に法に服さない者、空論に走る者、人の心を惑わす者となったのです。一切の知恵と知識の宝がキリストに隠されていることを疑わせ、キリストに結びつこうとする求道者や、初信者を惑わして妨げる者のことを、キリストが「わざわいだ」と言われたのです。教会はみことばの知識を主から得て、人格的に主と交わりを持ち、信徒が自分もキリストとの交わりを喜んでいなければ、求道の人々、未信徒を主に結びつかせ、御国に導き入れることができません。

次の「わざわい」は、パリサイ人たちが間違った動機からの外国伝道に熱心であったことを示しており、同時に彼らの律法主義の教えからは改宗者を得ることは大変難しかったと考えられます。その困難を乗り越えてパリサイ信徒となった外国人たちは、ユダヤ人パリサイよりももっと熱心にパリサイ主義に走ったことでしょう。それほど御国のために「わざわいな」ことはないとイエスは言われました。主イエス様が達成された、本当の恵みの福音こそが伝えられ、信じられ、神の国の民が増えることこそ幸いなのです。ここは、外国伝道が問題とされているのではなくて、伝える内容と動機が問われているのです。

Ⅱ 教えが本末転倒している。

「わざわいだ、目の見えない案内人たち。おまえたちは言っている。『だれでも神殿にかけて誓うのであれば、何の義務もない。しかし、神殿の黄金にかけて誓うのであれば、果たす義務がある。』愚かで目の見えない者たち。黄金と、その黄金を聖なるものにする神殿と、どちらが重要なのか。また、おまえたちは言っている。『だれでも祭壇にかけて誓うのであれば、何の義務もない。しかし、祭壇の上のささげ物にかけて誓うのであれば、果たす義務がある。』目の見えない者たち。ささげ物と、そのささげ物を聖なるものにする祭壇と、どちらが重要なのか。祭壇にかけて誓う者は、祭壇とその上にあるすべてのものにかけて誓っているのだ。また、神殿にかけて誓う者は、神殿とそこに住まわれる方にかけて誓っているのだ」(16〜21節)

 律法学者、パリサイ人のことを主は「目の見えない案内人」と呼び変えておられます。それはこれからのべる事柄について「目が見えない」からだというのです。それは「誓い」が、本来は神様に向けて行われるはずの事柄なのに、彼らの教えはことごとく本末転倒している。「神殿」よりも「黄金」、「祭壇」よりも「供え物」を尊んだパリサイ人に対して、主イエス様は、逆に「黄金」よりも「神殿」、「供え物」よりも「祭壇」さらにはそれらよりも、「神様」ご自身が尊ばれるのでなければ、何もならないと教えられました。「天にかけて誓う者は、神の御座とそこに座しておられる方にかけて誓っているのだ」(22節)。本末転倒も甚だしい教えを彼らがしているので、彼らは目が見えない案内人なのでした。

「わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちはミント、イノンド、クミンの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実をおろそかにしている。十分の一もおろそかにしてはいけないが、これこそしなければならないことだ。目の見えない案内人たち。ブヨはこして除くのに、らくだは飲み込んでいる。」(23〜24節)

十分の一献納についても同様なのです。畑や農園、家畜の産する物の十分の一は神様の物として献納する制度が定められていました。自分の収入、産物、給与などは、全て基本的には神様のもので、それは管理を自分に託されているという聖書の理解です。それで、十分の一は神様に献納する。現代の献金の精神の源がここにあります。しかしその根本は献納された物で、神に仕える祭司、レビ人、など神殿に仕える者の生活を支え、貧乏人に施すことが求められています。それは「正義とあわれみと誠実」の実現でした。パリサイ人、律法学者たちはモーセの律法が命じてもいない「ミント、イノンド、クミン」という庭の小さな草木に至るまで、十分の一献納を当てはめながら、神への忠実とか、貧乏人へのあわれみなどの目的を忘れている。自分たちの敬虔さをアピールしているが、肝心の目的を忘れている。

「ブヨはこして除く」これは律法の汚れた動物の規定(レビ11:20-23)と関係している。ブヨは禁じられた動物と理解して、神経質に小さい昆虫をこしている。しかし汚れていると規定されているもっと大きな動物ラクダを飲み込んでいる。

主イエス様は、神様の教えの中には、「もっと重要なもの」と小さなものがある。小さいことも「十分の一もおろそかにしてはいけない」が、重要な目的を見失っては何もならない。神への忠実と人々へのあわれみなどである。「神を愛し、隣人を愛する」ことこそ見失われてはならない。

Ⅲ 彼らの偽善に対する警告がある。

「わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは杯や皿の外側はきよめるが、内側は強欲と放縦で満ちている。目の見えないパリサイ人。まず、杯の内側をきよめよ。そうすれば外側もきよくなる。わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは白く塗った墓のようなものだ。外側は美しく見えても、内側は死人の骨やあらゆる汚れでいっぱいだ。同じように、おまえたちも外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいだ。」(25-28節)

 外形に注意ばかり注いで人々の受けを良くしようとしているが、内面は無頓着、汚れているまま、偽善と不法に満ちている。本質的に神の前に!を意識していない。

「わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは預言者たちの墓を建て、義人たちの記念碑を飾って、こう言う。『もし私たちが先祖の時代に生きていたら、彼らの仲間になって預言者たちの血を流すということはなかっただろう。』こうして、自分たちが預言者を殺した者たちの子らであることを、自らに対して証言している。おまえたちは自分の先祖の罪の升を満たすがよい。蛇よ、まむしの子孫よ。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうして逃れることができるだろうか。だから、見よ、わたしは預言者、知者、律法学者を遣わすが、おまえたちはそのうちのある者を殺し、十字架につけ、またある者を会堂でむち打ち、町から町へと迫害して回る。それは、義人アベルの血から、神殿と祭壇の間でおまえたちが殺した、バラキヤの子ザカリヤの血まで、地上で流される正しい人の血が、すべておまえたちに降りかかるようになるためだ。」(29〜35節)

律法学者が「預言者たちの墓を建て」いるという点については、主は、それによって先祖のしわざに同意していると言っています。それは律法学者たちが、先祖の行なった預言者殺しと同じ精神、同じ動機を持っていることへの怒りです。

 先祖は神のことばを伝えた預言者たちに聞くことをしませんでした。そして、自分たちの傲慢と偽善によって、預言者たちを次々と殺しました。そのことは当時の時代の人々に歓迎されたのでした。神に逆らい、世にこびへつらったのでした。律法学者たちは、その墓を建てました。それは過去の預言者たちの行いをほめたたえて実行しようとしたからではなくて、そのような誠実さからではなく、同時代の人々の人気を取ろうとする世俗的動機からでした。その証拠に、もし、真心から昔の預言者の語ったみことばに聞き従うために先祖たちが殺した預言者たちの墓を建てたのであれば、今の時代に生きて働いている神の預言者、新約の預言者や、使徒たち、そして神のロゴス・言葉そのものである主イエスに聞くはずなのです。

 ところが旧約時代と新約時代を橋渡しした預言者、バプテスマのヨハネを迫害し、排斥運動を繰り広げたのは、他ならぬ、律法学者、パリサイ人たちでした。バプテスマのヨハネは荒野で活躍していたのでした。

 今、目の前におられる主イエスを迫害し、最も激しく敵対し、排斥しようと画策し、イエスの口から出る言葉尻を捕らえて、言いがかりをつけようと密かに図って、色々の人々に策略を授けたのは律法学者たちだったのです。ついに彼らはイエスを十字架に架けることに成功したのです。使徒たちをユダヤ議会(サンヒドリン)に引き渡して、陰に陽にみことばを語らないようにと脅したのも彼らだったのです。だから彼らが預言者の墓を建て記念したのは、誠実に預言者に聞くためではなく、人々の人気取りの不誠実な動機だったのです。

 この時代は共同責任を問われているのでした。神のみことばが語られたとき、それを聞いた者の責任が生じるのです。他ならない、みことばが自分に向かって語られている神様がおられるのです。神様からのみことばに不誠実に耳をそらせてはなりません。

 自分が気に入らないからとか、他の人の手前、人気や、こびへつらいをもって、あるいは拒否したり、あるいは墓を建てて記念したりしてはなりません。

 自分の心を主イエス・キリスト様のみからだである教会に対して閉鎖するとき、その歩みは律法学者のように間違ってしまうのです。真理に対する敵対行為をしてしまうのです。

結び

「まことに、おまえたちに言う。これらの報いはすべて、この時代の上に降りかかる。エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者よ。わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。それなのに、おまえたちはそれを望まなかった。見よ。おまえたちの家は、荒れ果てたまま見捨てられる。わたしはおまえたちに言う。今から後、『祝福あれ、主の御名によって来られる方に』とおまえたちが言う時が来るまで、決しておまえたちがわたしを見ることはない。」(36〜39節)

「まことに」は、重要な内容であることを聞いている者たち、読んでいる者たちに知らせる常套句(じょうとうく)です。イエスの生きておられた時代に、報いのすべては降りかかる。「わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。それなのに、おまえたちはそれを望まなかった。」めんどりがひなを翼の下に集めるのは、食物を与え、安全なねぐらを用意すること、外敵から保護することなどを示しています。このたとえは、旧約聖書においては、神様がご自分の民であるイスラエルを養い育てられている姿を示し、主イエスは、そうしたのは「わたし」であると言われた。驚くべき宣言がある。旧約聖書でヤーウエ(エホバ・)として働かれている神は、「わたし」であると主張された。しかし「おまえたちはそれを望まなかった。」主イエス様の心からの働きを拒否した者について、イスラエル人たちは「見よ。おまえたちの家は、荒れ果てたまま見捨てられる。」と言われた。神の宮は廃墟となる。預言が成就する。エレミヤ12:7「わたしは、わたしの家を捨て、わたしのゆずりの地を見放し、わたしが心から愛するものを、敵の手中に渡した。」エレミヤ22:5「もしこのことばを聞かなければ、わたしは自分にかけて誓うが──主のことば──この家は必ず廃墟となる。」

この「わざわいだ」の段落の締めくくりは重要なおことばです。「今から後、『祝福あれ、主の御名によって来られる方に』とおまえたちが言う時が来るまで、決しておまえたちがわたしを見ることはない。」詩篇118:26[祝福あれ 主の御名によって来られる方に。]の引用です。これはイエス様が裁き主として来られるとき(再臨)の姿を示しています。

現在も、私たちは主イエス様を見てはいないのです。しかし信じています。やがて来られ、顔と顔を合わせて見ることを!その時の光景を黙示録1:7は次のように預言しています。

「見よ、その方は雲とともに来られる。すべての目が彼を見る。彼を突き刺した者たちさえも。地のすべての部族は彼のゆえに胸をたたいて悲しむ。しかり、アーメン。」

パリサイ人、律法学者たちが「わざわいだ」と言われた例を学びました。共通していることは主イエス様への不誠実です。現代に生きる神の民である私たちは、キリストのみからだの一員として、自分の信仰のはじまりの喜びや愛や感謝を主にささげたように、今もささげ続けましょう。これから御国に入ろうとする方々への励ましとなり、助けとなり、取りなしの祈りを続けましょう。ささいな言葉の論議でなく、御国の大局を見失わないように、御霊の実の一つは、「誠実」です。みことばを実行する者となりたいですね。聖霊の助けを得て、ならせていただきましょう。

10時45分開始です。
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