ようこそ!海浜幕張めぐみ教会へ!- Welcome to Kaihin Makuhari Grace Church!!

2月28日礼拝の音声ファイルです。

2月28日説教
ヨシュア記6:1-16 「エリコの勝利のパレード」

エリコの戦いには二つのストーリーがあります。それは、神様とイスラエルのストーリーと、神様とエリコの人々のストーリーですが、本日は、神様とイスラエルのストーリーに焦点を当てたいと考えています。

信仰深い人、または、信仰の熱い人を想像してみてください。他の宗教であれば、滝の下で修行しているお坊さん、メッカに向かって熱心にお祈りするイスラム教徒、または、旧約聖書を暗記し、ヘブライ語でお祈りを唱えるユダヤ教徒。「信仰深い」キリスト教徒を想像すると、どんな人を思い浮かべますか?毎日早朝からお祈りする牧師、熱心に伝道する宣教師、時間とお金を惜しげもなく捧げ、いろんなところで奉仕する信徒。「信仰深い」人は「熱心」で、「常にいいことをしている」人というイメージが強いと思います。

しかし、これは聖書が語っている「信仰深さ」でしょうか。私たちのイメージをイエス様が思い描く「信仰深さ」と比較してみましょう。イエス様はある二人の兄弟の例え話をされました。弟の方は、自分勝手で怠慢な子でした。自分の父親に「遺産をよこせ」と求めました。そして、もらった遺産を女、お酒、快楽のために全部使ってしまいました。放蕩息子です。しかし、お金がなくなり、バイトしてもいい給料がもらえなかったので、放蕩息子は父親のところに戻って、「父さんの会社に就職したい」と言いました。父親は、放蕩息子が戻ったことだけで、大喜びし、また息子として受け入れ、祝宴を開き、惜しげもなくその放蕩息子を祝福したのです。そして、放蕩息子は父親の祝福をそのまま受け取りました。

もう一人の息子は理想の息子です。努力家でした。従順で忠実、そして、父親に不平を言うこともありませんでした。今の時代であれば、ちゃんと勉強して、ちゃんといい大学に入学して、自分でバイトして学費を払って、大手会社に入社できたのに親の店を引き継いで、遊ばずに毎日働いて、ちゃんと親孝行して、親の面倒を見て、まっすぐな人生を送った息子です。しかし、父親が放蕩する弟を受け入れたとき、努力家の兄は親に怒鳴ったのです。「自分がどれほど、お父さんに尽くしてきたと思っているんですか?そして、何もしていない弟に大祝宴をし、私のためには、一回もレストランへ食事に行って、祝ってくれたこともなかった。信じられない。お父さんを赦せない。」と言って、怒りが爆発して、弟の祝宴に参加しませんでした。

イエス様はこの二人の兄弟を比較して、結論づけられました。何もしないで放蕩する弟のような人は信仰があり、自分の身を捧げた努力家の兄のような人は信仰がない、ということでした。私たちの「信仰深さ」のイメージはイエス様の定義と合致するのでしょうか?

イエスさまの定義から考えると、毎日、奉仕しているからと言って、その人が「信仰深い」とは言えないのです。人生経験が豊富で、クリスチャンとして長く歩んでいるから、教会の人たちと深くつながっているから、あるいは、聖書を深く理解しているから、「信仰深い」とは言えないのです。そのような人よりも、日曜礼拝だけ来て、すぐに帰る人のほうが「信仰深い」可能性があるかもしれません。信仰の深さは奉仕、経験、知識、熱心さ、忙しさの度合で決まるものではありません。信仰基準14.2と小教理問答問86では、信仰は「ただキリストを受け入れ、より頼むこと」と定義していますが、「より頼む」を指す英語は「Rest」…すなわち、「休む」…という意味なのです。つまり、信仰の本質は何かを「する」ではなく、与えられている救いを受け取り、そして、「休み」ながらイエス様にお任せすることです。つまり、キリストにある信仰は「安らぎ」を与えるものなのです。

エリコの話は、クリスチャンライフのひな形とも言えます。地理的に、エリコは約束の地への「入口」と言うことが出来ます。約束の地へ入るためには、まず、エリコに入る必要がありました。ですから、エリコに入る手段は、約束の地に入る手段でもあり、究極の約束の地である天国に入るひな形でもあります。エリコに入るために、神様が命令されたのは「信仰のみ」でした。「わたしがあなたのためにエリコへ入る方法を確保することを信じて、受け入れ、より頼みなさい」と。つまり、神様は「何もしないで。ただ私を見て、休んでいなさい」と民に命令されたのです。信仰はイエス様が完成した救いにあって、「休む」ことです。「信仰深さ」についてもう少し思いめぐらすために、神様が宣言された「福音」と、「福音」にあって休む民の姿を見ていきたいと思います。

まず、神様は勝利の「福音」を民に宣言されます。

6:1節を読むと、エリコに入るために、長い攻城戦が必要だとすぐにわかります。

エリコはイスラエルの子らの前に城門を堅く閉ざして、出入りする者はいなかった。

どんな将軍でも攻城戦は避けたいのです。なぜなら、勝利するまでに大きな犠牲を払う必要があるからです。攻撃する側は二つの選択肢しかありません。自分の軍の兵隊を多数犠牲にして軍が敗れるという高いリスクを負ってでも、門を突破するか、あるいは、背後から他国の軍隊に攻撃されるリスクを負って、数か月間も自分の軍の兵隊に報酬を払いながら、城壁内の人たちが飢え始めるか紛争を起こすことを待って、相手が白旗を振って出て来ることを待つか。どちらも犠牲の大きい選択肢です。ですから、イスラエルの人たちにとって神様の命令に従って、エリコに入るには、ものすごい勇気、根性、犠牲が必要だということが大前提だったのです。神様がおっしゃった「強くあれ、雄々しくあれ」の意味は、「どんな犠牲があっても、全てを神に捧げて、勇気をもって戦え!」と言う意味だと、ヨシュアと神の民は理解してしまったかもしれません。

この前の聖書箇所を見ると、予想外の展開があります。攻城戦の前に、ヨシュアは一人で偵察しに行きました。攻城戦の戦略を練るために、エリコへ行ったと私は個人的に思いますが、そのとき、突然、抜き身の剣を手に持った男がヨシュアの前に現れて、「わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。」とおっしゃいました。それは、つまり、ヨシュアではなく、「主の軍」の将軍がこの攻城戦を仕切るという意味だと思います。「主の軍」は、見えない御使いの軍でもあり、一人の御使いは一つの剣で7万人を一瞬で殺すことができる威力を持っています。そして、この将軍は、ヨシュアの代わりに、自分の剣をエリコに向けて、「主の軍」の包囲攻撃を始めたのです。

しかし、そのあと、神様は神の民にどのような命令をされたでしょうか?

6:2「見よ、わたしはエリコとその王、勇士たちをあなたの手に渡した。」

実は、神様は何も命令されませんでした。「見なさい」とは、命じられましたが、神様は彼らに勝利を一方的に与えると宣言されているのです。神様はここで「命令」や「律法」ではなく、「福音」を宣言しておられます。「福音」はギリシャ語から由来しているのですが、「良い知らせ」という意味です。当時、新しい王様が生まれたときや戦争に勝ったときなどに、王様は大使たちを派遣してその「福音」を宣べ伝えることを命じていました。そして、この福音を聞いた者に求められたのは、ただその話を聞いて、喜ぶことでした。つまり、福音である「グッドニュース」は、「グッドアドバイス」ではないのです。私たちが勝利を獲得するために良い手段を教えてくれる「グッドアドバイス」ではなく、すでに勝利が与えられたことを宣言する「グッドニュース」、「福音」なのです。6:2では、神様は戦争が始まる前に、すでに「福音」を宣言されました。すでに完成し終了した、過去の、客観的な事実として神様は「わたしはエリコとその王、勇士たちをあなたの手に渡した。」と宣言され、私たちにこの「福音」、この「ニュース」を受け取って、信じ、神様にあって喜ぶことを求められるのです。これが「信仰」なのです。

新約では、私たちにも同じようなことが求められています。「イエス様があなたの代わりに戦い、罪、死、サタンを倒し、永遠のいのちと天国をあなたの手に渡した」と宣言する「大使たち」があなたに福音を語ります。わたしたちはまだ罪、死、サタンとの戦争の真っ最中にいますが、わたしたちから見ると、むしろ、勝利への希望が見えない攻城戦のように、大きな犠牲が求められるという戦い方が求められているようです。しかし、神様はあえて、私たちに「福音」を宣言され、私たちには何の犠牲も求めてはおられません。エリコで神様が神の民に福音を語られた時のように、あなたが今までどのような罪を犯したか、どんな奉仕をしたか、また、どんな経験と知識をもって歩んでいるのかなどは全く関係ありません。そして、あなたに何かの行動や何かの奉仕などを全く求めておられません。ただただ、この「福音」を受け入れ、喜び、イエス様の完成されたみわざに「休み」、すべてをお委ねすることを、求めておられるのです。

しかし、ある人は、「いや、神様は彼らに何らかの奉仕を求めましたよ。エリコを包囲し、ラッパを吹くことです。」はい、おっしゃる通りです。しかし、区別しなければなりません。信仰は、神様によって勝利がすでに与えられた福音に対する「感謝のほめ歌」ですが、勝利を得るための神様の命令に対する「従順な応答」ではありません。

2節の福音が語られたとき、神様は民に次のようなのことを求められました。

ヨシュア記6:2  主はヨシュアに告げられた。「見よ、わたしはエリコとその王、勇士たちをあなたの手に渡した。6:3  あなたがた戦士はみな町の周りを回れ。町の周囲を一周せよ。六日間そのようにせよ。6:4  七人の祭司たちは七つの雄羊の角笛を手にして、箱の前を進め。七日目には、あなたがたは七回、町の周りを回り、祭司たちは角笛を吹き鳴らせ。6:5  祭司たちが雄羊の角笛を長く吹き鳴らし、あなたがたがその角笛の音を聞いたら、民はみな大声でときの声をあげよ。そうすれば町の城壁は崩れ落ちる。民はそれぞれ、まっすぐに攻め上れ。」

わたしは今まで、この箇所の命令は攻撃の準備のために下されたのだと考えていました。自分が勝手に考えていたイメージはは、角笛の音で少しずつ城壁を崩すようなものでした。確かにこの数節だけを読むと、そのように解釈しがちですが6-7節を読んで自分の解釈が間違いだと気づきました。

6:6  ヌンの子ヨシュアは祭司たちに呼びかけた。「契約の箱を担ぎなさい。七人の祭司たちは七つの雄羊の角笛を持ち、主の箱の前を進みなさい。」6:7  そして民に言った。「進んで行き、町の周りを回りなさい。武装した者たちは主の箱の前を進みなさい。」

つまり、角笛は、勝利を得るための武器ではないのです。エリコを回るという目的は、エリコを攻撃するためでもありません。これは軍事行動ではなく、パレードなのです。「契約の箱」は主の軍の将軍であられる神様を表しています。そして、角笛を吹き鳴らす行為は、将軍が来られたことを周りの人たちにアナウンスする意味なのです。つまり、角笛は、敵を倒すための武器ではなく、将軍を褒めたたえるための楽器でした。そして、神様はもうすでに勝利されたかのように続けて7日間も、戦う準備ではなく、私たちにパレードすることを命令されたのです。なぜなら、神様ご自身が戦われるので、私たちは何もする必要がなかったからです。エリコの前の話はヨルダン川が割られた話です。神様を表す契約の箱が川に入った瞬間、ヨルダン川が割れました。神の民の助けなしで、神様はヨルダン川を割り、約束の地への道を確保されたのです。そして、その同じ契約の箱がエリコを回ります。つまり、エリコの城壁が崩れ落ちるのは、民の角笛によってではなく、「主の軍の将軍」の見えない剣によってなされるのです。

同じように、信仰は「救いを得る手段」ではありませんし、武器ではありません。信仰は「神様のほめ歌を歌う」楽器のようなものです。信仰は「完成された救いの福音」をただ受け入れることなのです。神様が新約の時代にいる私たちに求めておられるのは、天国に入るための準備活動をすることでもありませんし、サタンとの戦争に私たちが加わることでもありません。また、私達は自分の「天国の国籍」を維持するために奉仕する必要もありません。なぜなら、神様は「グッドアドバイス」ではなく、「グッドニュース」を語ってくださったからです。イエス様の生涯、十字架とよがえりによって、勝利はすでに完成されました。わたしたちはただ待つだけです。そして、神様はわたしたちを「勝利のパレード」に加わることを求めておられます。礼拝、教会の奉仕、聖書の学び、お祈りなどのクリスチャンとしての歩みはこの「勝利のパレード」の延長線上にあることであり、それは義務ではなく、喜びの現れとして行うことなのです。皆さんは、クリスチャン生活を「勝利のパレード」として見ているのでしょうか?または、まだ勝利が決まっていない、犠牲が大きい「攻城戦」として見ているのでしょうか?

ですから、民は「福音」にあって休むことが求められています。

信仰の本質は「休む」ことなのです。仕事が終わったら、「働く」必要はありますか?もちろんありません。もし勝利が100%確実であれば、戦う必要はありますか?完成された救いに何か付け加える必要はありますか?全くありません。そうであれば、信仰は完成された救いにあって、「休む」ことです。

民が神様の命令にどのように従ったかを読むと、この意味がもう少し明確になります。

ヨシュア記6:10  ヨシュアは民に命じた。「あなたがたはときの声をあげてはならない。声を聞かせてはならない。口からことばを出してはならない。『ときの声をあげよ』と私が言うその日に、ときの声をあげよ。」6:11  こうして主の箱は町の周りを回り、その周囲を一周した。彼らは宿営に帰り、宿営で夜を過ごした。

攻城戦の一つの戦略は、城内の人々をできるだけ脅すことです。そして、それによって、城内に紛争を引き起こさせることです。しかし、ヨシュアはあえて、敵を脅すような行為を強く禁じました。つまり、彼らは角笛を鳴らしながら、完全沈黙でエリコを周ったのです。敵から見ると、謎の行動です。むしろ、戦略的には無意味なことです。そして、彼らはエリコを一周した後で、宿営へ帰って寝ました。戦争中に「休んだ」のです。6日間同じことをして、6日間連続、同じ所で休んだとしたら、それは、軍事戦略的には非常に危ないことです。そして、彼らは戦う陣を敷いておらず、パレードをする体制を取ったので、もし敵から奇襲されたら、簡単に全滅させられてもおかしくはなかったのです。普通に考えれば、6日間も角笛を吹く祭司たちや通り過ぎる契約の箱を見たり、完全に沈黙をして「契約の箱」に従う軍隊を見て、「宗教熱心な軍隊だね。攻撃の準備をする気配もない。余裕のある軍隊だな。だけど、宗教では戦争に勝てるわけがない。何考えてるんだろう。」と敵軍は呟いていたのではないかと思います。しかし、神の民の「余裕」の根っこは、民が神様の「福音」、神様の完全なる勝利にあって「休んでいた」からでした。

神様が勝利をくださった日のタイミングは非常に興味深いと思いませんか?7日目に勝利をお与えになると、神様は約束されました。週の七日目は「安息日」です。そして、ヨシュア記の序章である申命記には「安息日」の意味についてこう書いてあります。

申命記5:14-15 七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子や娘も、それにあなたの男奴隷や女奴隷、牛、ろば、いかなる家畜も、また、あなたの町囲みの中にいる寄留者も。そうすれば、あなたの男奴隷や女奴隷が、あなたと同じように休むことができる。あなたは自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、主が力強い御手と伸ばされた御腕をもって、あなたをそこから導き出したことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、主は安息日を守るよう、あなたに命じたのである。

神の民がエジプトの奴隷であった時、彼らは常に自分の命と自由のために働いていました。しかし、神様は一方的に民を救われ、奴隷制度による「労働」から自由を与え、約束の地での充実した生活を約束され、一方的に民に「安息」をお与えになったのです。ですから、すでに与えれた出エジプトでの救い、自由、いのち、つまり、出エジプトでの「福音」を記念するために、七日目に「休む」ことを命じられたのです。それは、ある意味、七日目に休むことによって、自分がいただいている神様の救いと「福音」が完全であることを公に「行動」で告白する日でもあります。

ですから、七日目に何の戦闘準備もせずに、「勝利のパレード」をしながら七周もエリコを周ることは、神様の完璧な救いに「休む」ことへの信頼を「行動」で表しているのです。そして、七週目に彼らが「声」をあげる理由は、戦いのための雄叫び(おたけび)ではなく、神様の勝利の「福音」にあって休むことを告白をしているのです。

6:16 ヨシュアは民に言った。「ときの声をあげよ。主がこの町をあなたがたに与えてくださったからだ。」

そして、神の民が休んでいる中で、神様が彼らのために「働かれ」、エリコの城壁を崩し倒し、勝利を与えてくださったのです。

この勝利の与え方は、新約の時代にいる私たちへの与え方と全く同じなのです。私たちは「休んでいる中」で救いの勝利をいただいた者たちです。イエス様は新約のクリスチャンたちに「安息日」に救いを与えられたのです。新約時代の「安息日」は「主の日」である日曜日です。なぜなら、イエス様が十字架に架けられた三日後の日曜日の早朝に、みんなが寝ている間に、イエス様はよみがえって、罪、死、サタンの城壁を崩し倒されたからです。つまり、日曜日は、私たちが休んでいる中、イエス様が救いを一方的に与えてくださった日なのです。私たちは、その救いのために何かを貢献しましたか?いいえ、弟子たちは土曜の夜にただ寝ていただけでした。ですから、私達は毎週の日曜日に礼拝するとき、いただいた福音を思い出し、休みながら、神様にほめ歌を歌いながら、福音を受け入れるだけです。

しかし、クリスチャンである私たちはなぜ休むのが難しいのでしょうか?私たちは、「グッドニュース」から来る「安らぎ」によって歩んでいるのではなく、「グッドアドバイス」からくる「焦り」によって歩んでいるからです。この世の人は、常に焦っています。受験戦争、就活戦争、キャリア戦争、婚活戦争、育児戦争、昇進戦争、そして、人生の終わりへの終活戦争。社会的な勝ち組にゴールインするか、負け組に入るか、この世は常に心配していて、焦っています。残念ながら、多くの宗教の中でもその「焦り」はあります。そして、その焦りを解消するために、私たちは「何かしなくちゃ」と考えがちです。ですから、この世は常に「勝つ」ために「グッドアドバイス」を捜し求めていて、その「グッドアドバイス」に沿って生きようと焦るのです。いかがでしょうか?皆さんは、何かに焦っていませんか?「いい人」になるために、社会的にまたは宗教的に「勝ち組」に入るために焦っていませんか?覚えておくべきことは、その「焦り」の源が、イエス様の福音からではなく、この世の価値観から来ているということです。

クリスチャンである私たちはすでに勝利の「福音」をいただいているので、焦る必要は全くありません。ですから、エリコの戦いのように、「永遠のいのちが与えられる!神様が「よみがえり」を無償で与えてくださった!」とほめ歌を歌いながら、この世を周って歩んでいます。しかし、この世の価値観から見ると、それは謎の行動です。この世の人々はクリスチャンに対して「宗教心の熱い人だし、すごくポジティブな人かもしれないが、この世は弱肉強食の世界だから、努力して、犠牲を払って戦わないと、置き去りにされてしまい、強い者に食われてしまう…何か、クリスチャンのほめ歌や賛美ばっかり歌うだけでは、何の益にもならないし、強い者に食われてしまうような気がする…」と思っているかも知れません。

しかし、考えてみてください。七日目の「安息日」は究極の「安息日」を指しています(黙示録1:10参照)。究極の「安息日」は「最後の主の日」であり、七人の御使いが七つの角笛を吹き、主の軍の将軍であるイエス様が来られ、ご自分の剣をもって、エリコと同じように、一撃必殺でこの世の城壁を崩し倒されます(黙11:15-18参照)。そして、私たちが長年、この世から変な目で見られていたとしても、神様はか必ずご自分が宣言された福音を成し遂げられます。そして、もう一度皆さんにお聞きしますが、「最後の日」の裁きとよみがえりのために私たちは何か貢献したでしょうか?私たちの犠牲的な奉仕、聖書に根づいた神学、積極的な伝道活動、熱い祈り、心のこもった礼拝などが、イエス様を「援護」したと思いますか?とんでもないです。私たちの全ての奉仕はイエス様の「勝利のパレード」の延長線上におこったことなのです。つまり、信仰とは、イエス様により頼み、イエス様のみ業という土台に「休み」、ただイエス様の勝利を「褒めたたえる」ことなのです。

クリスチャンの成熟度は奉仕、経験、知識、熱心さ、忙しさの度合やセルグループに参加しているかどうかで決まるものではありません。それは、クリスチャンがどれほど福音から来る「深い安らぎ」を体験しているかによって決まります。イエス様は、なぜ「放蕩息子の弟」が「努力家の兄」よりも信仰深いと見なされたと思いますか?それは、「放蕩息子の弟」は自分の父親の惜しげもない恵みの「福音」を受け入れ、その恵みに「休む」ことができたからです。しかし、努力家の兄は、自分の奉仕で父の遺産を勝ち取りたくて、自分の努力、自分の奉仕の量によって「勝ち組」に入ろうとしました。つまり、イエス様は、信仰の度合いを父親に対する奉仕の「量」によって決めたのではなく、父親の恵み深い「福音」を喜んで受け入れるかどうかによって決められたのです。皆さんは与えられている福音によって、喜んで休んでいらっしゃるでしょうか?

そして、皆さん、安心してください。心を込めて賛美できても、できなくても。熱心であってもなくても。いろいろな事を犠牲にしても、しなくても。教会の交わりやイベントに加わっていてもいなくても。奉仕していても、奉仕しなくても。努力していても、努力していなくても。悔い改めが深くても浅くても。そういうことは、私たちの救いの度合いに全く関係ありません。福音の力強さとあなたの救いは全く変わらないのです。なぜなら、感謝なことに、私たちがより頼んでいる福音は、「私たちの熱心さ」による救いではないからです。私たちがより頼んでいるのは「熱心に私たちのために救いを与えるイエス様」なのです。私たちの霊的なアップダウンは、私たちがより頼んでいる「救い」と全く関係ありません。そのことを信じていますか?もし信じているなら、ただただその神様の「福音」を受け入れ、喜びましょう!そして、勝利のパレードである礼拝に加わり、天国で行なわれている放蕩息子達の祝宴に参加してイエス様をただ褒めたたえましょう。



前   奏 
招きの言葉 黙示録11章15-17節
さ ん び 「あなたをたたえます You Are Worthy of My Praise」
さ ん び 「あがめます全能の主 I worship You Almighty God」
開会の祈り
主の祈り
教会福音讃美歌 350番 「罪に悩み苦しむとき」
聖書朗読 ヨシュア記6章1-16節
聖書の話     「エリコの勝利のパレード」 マーク・ボカネグラ牧師
教会福音讃美歌 391番 「主と主のことばに」
献   金 
報   告
とりなしの祈り マーク・ボカネグラ牧師
頌栄(教会福音讃美歌) 271番 「父・子・聖霊の」
祝   祷 マーク・ボカネグラ牧師
後   奏  567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

コメントを残す