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30日(火)10:00-11:00 イエスの裁判  受難週祈祷会 ヨハネ18:12-27  19-32

イエス様が大祭司アンナスの所に連れて来られて尋問をうけた。これは予備的な尋問であった。彼の弟子たちのこととは、その人たちがどういう人たちか、何人か、どんな地位を占めているか、名前はなどである。教えのこととは、主の信条、内容、原理などについてである。教えの特有なことは何かである。これはサンヒドリンの前で、異端と冒涜の罪で公式に告発する根拠を得ようとしたからである。質問に対して、イエス様は弟子たちの性質や信仰について話すことをしなかった。むしろ、教えについて「世にむかって公然とはなしたので、聞いた人々からきくことができます。」会堂や神殿のような公の場所にいた人々は聞いたので証言できますと答えられた。少なくとも神殿では4回も話された記録がある。主イエス様のご生涯の概観をご自身でなさった。威厳のある言い方である。イエスさまがご自分について証言するとそれは根拠がなく受け入れられないというユダヤ教の証言についての原則がある。それで他の人から聞きなさいと答えられた。「なぜあなたはわたしに尋ねるのか」(21節)、これはアンナスの裁判の不正についての抗議である。それが大祭司への暴言ととがめられた。役人が平手で打った。何もとがめられるようなことはなさらなかった。[公然]公の場所で明瞭に教えられたこと、曖昧では無かったことを示す。「隠れて」は教えには何も秘密めいたところがないことを示す。

 この裁判の進行中にペテロの拒絶が起こっていた。昨日話したところである。

 

次に「明け方」(28節)に、総督ピラトのところにイエス様は連れて来られた。ここから40節までは、ヨハネの福音書にしかでてこない四つの事柄を含んでいる。第一は主の邪悪な敵たちの間違った熱心についてである。ユダヤ人たちは一週間つづく、過ぎ越しの祭りの中の、過ぎ越しの食事の前に汚れを受けないようにと総督官邸に入らなかった。「汚れ」は、パン種の入ったパンを除去していない家に入ることは汚れるのである(出エジプト12:18-19)。過ぎ越しの本当の意味を彼らは知らなかった。目の前に、本物の過ぎ越しの子羊イエスさまがおられるのにである。バプテスマのヨハネが「見よ。世の罪を取り除く神の子羊」(ヨハネ1:29)と証言したイエス様を目の前におきながらです。実に、過ぎ越しは、人の外側を聖めるだけでなく、内側も聖める。真の神の子羊が死ぬことにより、過ぎ越しは成就する。なんと、ユダヤ人たちは、神の子羊イエスを死刑にしようと心から願っていた。これほどの邪悪があるだろうか。

 

 31-32節 ピラトはユダヤ人たちが「もしこのひとが悪いことをしていなかったら、私たちはこの人をあなたに引き渡しはしなかったでしょう」と言った言葉に対して、「あなたがたがこの人を引き取り、自分たちの律法に従ってさばきなさい。」といった。

 ピラトは「悪いこと」をしたという表現をローマ法に違犯した「犯罪者」と同等に扱うことを拒否した。サンヒドリンの代表者に、人からでなく、神から与えられたと主張している自分達の律法で裁くがよいと突き返した。ユダヤの死刑は石打ちの刑。それはローマ支配下にある政治情勢の中で、彼らには出来ないことであった。ピラトが万一石打ち刑を許可したとしたら、イエスのどのような死に方をするかの預言に反することとなっていた。イエス様の贖いの死は石打ちによってではない。神にのろわれた者として木にかけられるからである。ガラテヤ3:13=申命記21:23。