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3日(土)10:00-11:00 受難週祈祷会 ヨハネ19:31-42 墓に葬り

A イエスの死の真実性と、真理性が教えられている。葬りが書かれている。

33節 本当にイエスが死なれたことの証拠である。兵士が主のすねを折らなかったのは、すでに死んでおられたからである。

34節「イエス・キリストのわき腹を槍で突き刺した。すると、直ちに血と水が出てきた。」死が確かである事の第二の証拠である。槍はいのちの源である心臓をめがけて脇腹から突き出された。本当に確実に死んだものとなった。

目撃者がいた。それは十字架のそばにいた弟子ヨハネである(35節)。

主イエスさまが十字架上で息を引きとられたのは、午後3時でした。次の日は安息日で、午後6時から始まりました。葬りのために3時間しかありませんでした。普通でも葬りは時間的余裕があまりありません。どのように葬られたか?

B 葬り

1 主イエスの葬り

イエスが召された時、弟子たちとガリラヤからついてきた婦人弟子たちは、全くどうしてよいのか分からない状態でした。だいたい自分たちの愛する者が亡くなると、そのショックで普通はどうして良いのかわからないものです。イエスさまのように犯罪人として十字架上に死んだような場合、助けもなく、準備もなく、親しい者たちは誰もどのようにしたらよいか、考えつかなかったのです。そのままに放置するなら、主イエスさまの体は、強盗たちと同様に辱めを受けて、満足に墓に葬られることもなかったでしょう。

そのような時に、神は、使命を果たし終えた、愛する御子の体を注意深く取り扱われました。「彼は富む者とともに葬られた」(イザヤ53:9)という預言が成就する方法で驚くべく働かれました。一人の人をこの時のために用意しておられたのです。アリマタヤのヨセフが、神のご用意された人でした。彼はイエスの死までは全く表面には出てこなかった人でした。その彼が突然にあらわれて、しかも、このむつかしい役割を見事に立派に敬意を込めてなしとげたのです。彼はサンヒドリン(ユダヤの国会議員)の一員でした。正しく、立派で、神の国を待ち望んでいた信仰ある人でした。そして、富める者で、自分のために新しいお墓をすでに用意していたのでした。

ルカ福音書によると、この人はユダヤ議会の中で、イエス・キリストに対してなされた計画や行動に同意しなかった人でした。イエスを地上から抹殺するという決定にさいして賛成の票を投じなかったのです、しかし、他の福音書でもそうですがヨセフが積極的に反対したとも書いていません。おそらくヨセフは自分が賛成できない彼らの行動を見て、それを阻止できないことを知り、身を引いて沈黙を守ったと考えられます。ヨハネ19:38には「イエスの弟子ではあったがユダヤ人を恐れてそのことを隠していたアリマタヤのヨセフがイエスのからだを取りかたづけたいとピラトに願った」とあります。マルコが「思い切って」(14:43)と表現したのはそれなりの理由があったのでした。他の弟子たちがそうであったようにヨセフもまた恐怖心にとらえられていたのです。わたしたちも、その場にいたらきっと同様に、恐れてかくれたことでしょう。

その彼が、誰もイエスの葬りために働きそうもないときに「思い切って」働いたのです。何が、彼の心を変えたのでしょうか。勇気を出させ、ピラトの所に行き、身分を明らかにして、議員であるゆえに、ピラトもまたその願いを聞いてくれたのでしょうが、なぜ、そのようにできたのでしょうか。

それは、イエスの十字架上に裂かれた体と、ほとばしった血を見ていたときに、十字架上での祈りことばを遠く離れて聞いたからでしょうか。天地が暗くなった事実に心をゆすぶられたからでしょうか。推測するしかありませんが、イエスの死が彼の心をまことの愛で補え、大胆なものに変えたのです。多くの人々がイエスの生前の力ある業、奇跡、教えを見聞きして信仰に導かれました。しかし、ヨセフはイエスの死ぬ時の様子をみて信仰に目覚め、神の立ち返ったのはたしかです。イエスを犯罪人としてではなく、栄誉ある者として葬るために直ちに努力し、自分のもっているものを全部用いて、そのように葬りをなしとげました。決断して実行し、終るまでに3時間しかなかったのです。

 

神の民は、主イエスの死のような、愛する者の死に直面して、初めて信仰に目覚めることがあります。それまでの一応はクリスチャンといった風情から、積極的な信仰者に変身し、主の愛に応えはじめる者がいます。教会が火事で焼けたとか、牧師が急死したとか、親しいものが突然召されたとか、特別な出来事に触れて初めて目覚めるのです。

神はイエスのいのちにおいてばかりでなく、死においても、このように人々を導き、変えられるのです。単に、イエスさまばかりでなく、その弟子である、わたしたちも、その生きるにしても、死ぬにしても神に用いられることはこのことによっても分かります。

 

死と葬りは、イエスの完全な沈黙を示していますが、その沈黙において、人のために働かれる神様をわたしたちも共に仰ぎましょう。多くのクリスチャンが生前よりも自分の死と葬りにおいて、家族を救いに導き、信仰の覚醒を起させ、多くの未信者に伝道しているという事実は、なぐさめ深いことです。そのように働かれる天の父の心を信じて自分達の死と葬りを思い、準備をしましょう。

2 鄭重な葬り

「そこで、ヨセフは亜麻布を買い、イエスを取り降ろしてその亜麻布に包み、岩を掘って造った墓に納めた」(46節)。アリマタヤのヨセフは、イエスの体を鄭重に葬りました。イエスを葬るために手伝った人々がいました。ヨハネ福音書19:39にニコデモが没薬とアロエを混ぜあわせたものをおよそ30キログラムばかり持って来て手伝ったとあります。さらに、あの百卒長も、イエスの体を十字架から降ろすのを手伝ったと考えられます。また、ガリラヤから付いてきた婦人の弟子達も、亜麻布で体を包むのを手伝ったのではないでしょうか。いっでも、葬りは多くの人々の手伝いが必要です。なにしろ、本人は何もできないのですから。家族だけでは出来ることに心理的な制限が働きます。或る時点で、次へと事を進めないといけません。いろいろな手伝いが必要なのです。

彼らは協力して、真新しい墓まで、イエスの体を運び、そこに葬りました。それは、地上で受けた一切の恥辱をぬぐってあまりある栄誉ある葬りでした。盛大ではありませんでしたが、少数者による、真心のこもった真実な葬りでした。

ヨセフもニコデモも女たちもイエスさまの生前に出来なかったことを取り戻そうとしているかのように見えるほどに労したことでしょう。ヨセフが主イエスヘの愛を明らかにして示した時、イエスは死んでおられました。しかし、ヨセフのわざは聖書に書き記され、神の心に留められました。今日もあかしされています。死において仕える道もあるのです。

おしむらくは、ヨセフがイエスさまの生前にその信仰と愛をはっきりと示して、たとえ受け入れられなかっても、同じ議員仲間のニコデモとともにサンヒドリンで強力に積極的にイエスを弁護しておれば、たとえ聞かれなかったとしても、どんなにか主にとって励ましとなったことでしょうか。ヨセフの信仰をどんなに高めたことでしょうか。これは欲目かもしれませんが。

自分の愛する人のために、生きているときに贈るべき花を、亡き人の墓の上に置くことのないように心しましょう。たとえ、そのことが神に覚えられることはあっても、いかにも惜しいことではありませんか。その人が生きているときに語るべきことを語らなかったために、後になって心悔むことのないようにしましょう。生きている人への感謝の一言は、死者に対する埋めつくすほどの花にも勝っています。生きている人への謝罪の一言は、かぎりない悔いの涙よりも遙かによいのです。さらに、生きておられる神への賛美と奉仕と感謝は、あなたが死において表わすよりも、生きている時にこそ、表わすのが良いのです。日頃から信仰は目覚めていなければなりません。

主は確かに召されました。葬りが、その死の確実であったことを立証しています。主イエスも墓に葬られたということは、わたしたちの死と葬りにおいても慰めであります。主は死の床に3日間おかれました。ご自分のからだをもって何をすることの出来ない全く無力な状態におかれました。すべての人間が死においてそうなります。その中に、神は全能の力を働かせられます。葬られたイエスは、墓から、勝利のよみがえりを復活の体をもってなさったのです。わたしたちが、葬られる日、キリスト・イエスにある一人一人の体は、主にむすびついたままで、主の再臨の日のよみがえりを待つのです。それは、イエスをよみがえらせてくださった父なる神が、その信仰による子どもたちをも同じようにしてくださるからなのです。ここに深い慰めがあります。創造のはじめに土のちりでからだを作りいのちの息を吹き込まれてアダムを生き生きとさせてくださった聖書の神樣が、ちりにかえった信仰者のからだをよみがえらせて、天上に召された完全にきよくされた霊にもう一度結びつけられて、永遠に生かして下さる日の来ることを待ち望みましょう。

結び)イエス様のための敬意を込めた葬りに慰めを覚えます。あなた自身の死と葬りのために、主イエス様にある備えができていますか。信じる者は永遠のいのちを持つと主イエス様はおっしゃいました。よみがえりの日に共にいるといわれました。ご家族へのあかしはどうでしょうか。終わりを見つめて今日を生きる必要があるのです。恵と憐れみに支えられて日々をあゆみましょう。