ようこそ!海浜幕張めぐみ教会へ!- Welcome to Kaihin Makuhari Grace Church!!

4月11日礼拝の音声ファイルです。
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前   奏
招きの言葉 ローマ人への手紙4章4-8節
さ ん び 「ジーザス・イズ・アライブ〜Jesus Is Alive」
さ ん び 「ひとりの御子さえ〜How Deep the Father’s Love for Us」
開会の祈り
主の祈り
教会福音讃美歌 359番 「私の望みは主イェスだけにある」
聖書朗読 ヨシュア記6章17-27節
聖書の話      「神様はえこひいきされません」 マーク・ボカネグラ牧師
教会福音讃美歌 316番 「御前に立つとき」
献   金
報   告
とりなしの祈り マーク・ボカネグラ牧師
頌栄(教会福音讃美歌) 271番 「父・子・聖霊の」
祝   祷 マーク・ボカネグラ牧師
後   奏  567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

ヨシュア6:17-27 「神様はえこひいきされません」     マーク・ボカネグラ牧師

エリコの戦いには二つのストーリーがあります。それは、神様とイスラエルのストーリーと、神様とエリコの人々のストーリーですが、本日は、神様とエリコの人々のストーリーに焦点を当てたいと思います。

6:17のような一節を読むと、キリスト教は非常に厳しくて不公平だと思われがちです。

17  この町とその中にあるすべてのものは主のために聖絶せよ。遊女ラハブと、その家にともにいる者たちだけは、みな生かしておけ。彼女は私たちが送った使いたちをかくまってくれたからだ。

聖書のこのような一節を読むと疑問が二つ浮かんできます。一つは、なぜ神様はエリコの中にある「すべてのもの」をーすなわち、男も女も若者も年寄りも(6:21)ー聖絶しなければならないのか?町にいる人々をなぜ全員同じように扱われるのか?神様は、一人一人の行いをちゃんと考慮されずに、みんなに同じ罰を与えるということは厳しすぎるのではないかという疑問です。

そして、もう一つは、なぜ遊女ラハブと彼女の家族だけが救われるのか? 遊女ラハブと彼女の家族は他の町の人と何が違うのか?つまり、神様の裁きは不公平ではないかという疑問です。

この二つの疑問は、私たちの考える基準を明らかにしていると思います。それは、「裁き」ということを、人の「行い」を基準にしているということです。私たちは一人一人の「行い」や「達成」、「成功」に人の価値を置いているということです。もちろん、これは悪いことではありません。むしろ、いいことだと思います。しかし、私たちはこの世の人々の「行い」を見ると、善と悪にも度合があることがわかります。例えば、犯罪を犯してしまう人と犯さない人でも、どちらも自己中心的な思いはあるでしょうが、自己中心さの度合が違うということが言えるでしょう。しかし、神様はなぜかこの違いを考慮されないで、「いい人」も「悪い人」も同じように裁かれます。そして、遊女ラハブやクリスチャンも特別に「いい人」でもないのに、なぜか神様の厳しい裁きから逃れられるのです。「神様はえこひいきしている」と思うかもしれません。ですから、私たちが神様の基準に対して、深い疑問をもつのはなおさらのことかも知れません。

もし神様の裁きに対して、このような疑問をもつなら、神様の「最後の裁き」に対しても、同じ疑問をもつかもしれません。なぜなら、エリコの裁き、そして、カナンの裁きは、実は、聖書の「最後の裁き」のひな形だからです。エリコの裁きを通して、神様がどのようにこの世を裁かれるのかについてお話ししたいと思います。

神様は一つの基準ではなく、二つの基準で、私たちを二回裁かれます。それは、「行い」による裁きと、「信仰」による裁きです。この二つの基準を見極めないと、神様の裁きと救いについて深く誤解してしまうと思います。この二つの基準を前提に、ヘブル書11:31は本日の箇所を次のように解釈しています。

31  信仰によって、遊女ラハブは、偵察に来た人たちを穏やかに受け入れたので、不従順な者たちと一緒に滅びずにすみました。

この一節には、神様の二つの基準が見られます。まず、エリコの「不従順」な者たち遊女ラハブは、行いの裁きによれば「滅び」に値します。それがこの節の前提です。しかし、遊女ラハブは「信仰」をもっていたので「不従順な者たちと一緒に滅びずにすみました」と書いてあります。つまり、「行い」による裁きのあとで、神様は「信仰」による基準をもって、もう一度エリコの住民を裁かれたということなのです。本日はヘブル11:31のレンズをとおして、二つの質問に答えていきたいと思います。①エリコの住民はどのように裁かれたのでしょうか?②ラハブはどのように裁かれたのでしょうか?

では、一つ目の質問、エリコの住民はどのように裁かれたのでしょうか?

神様はえこひいきされず、エリコの住民を彼らの「行い」のみによって裁かれました。神様は、私たちの性別、年齢、人種、教育、宗教、知識、年収、ステータスによって裁かれるのではなく、「行いのみ」によって裁かれるのです。えこひいきしないで、平等に神様は人を裁かれます。

私は前の説教で「聖絶」について説明したことありますが、ここで少し違った角度から説明します。「聖絶」というのは、人種的、宗教的、または、政治的な虐殺ではありません。「聖絶」というのは、神様の「最後の審判」の前味なのです。つまり、もし神様がこの世に来られ、世界中の人たちを裁いたとしたら、カナンの地の戦いは「最後の審判」の模擬試験のようなものだと言えます。

創造主である神様は、ご自分の被造物を裁いたり、計られる権利を当然お持ちです。そして、神様はご自分の「性質」によって人間を計られます。なぜなら、人間は「神様の似姿」に造られたものなので、神様は御自分の性質によって人間を裁かれるのです。では、神様とは、どういうお方なのでしょうか?小教理問答問4の答えは、「神は霊であられ、その存在、知恵、力、聖、義、善、真実において、無限、永遠、不変のかたです」と書いてあります。ですから、神様は、人間が「知恵」のある、「力」のある、「聖い」、「義」と「真実」をもって、変わりなく、完全に歩めたかどうかを計られるのです(参照:マタイ5:45)。

聖書では、神様の存在は「聖い炎」で表現され(参照:出エジプト3:2, 19:18)、神様の裁きは「聖い炎で燃やされる」というふうに表されることがあります。その意味は、神様の裁きは、人が聖なる聖なる聖なる神様の御前に立つことができるか否かを確かめるためです。、神様の「聖い炎」によって、人が紙くずのように燃やされるのか、あるいは、ダイアモンドや金銀のように燃やされないかがわかります。

一番わかりやすい例はシナイ山です。出エジプト19章では、神様の存在がシナイ山に宿られたとき、神様はご自分の聖い炎を頂上に置かれました。その後、神様はイスラエル人に「息のある者すべてー男も女も若者も年寄りもーはシナイ山に登ることはできない」と警告されました。なぜなら、聖なる神様の御前に立つに値しない者は燃やされ、「聖絶」されてしまうからでした。そして、神様の御前に立つに値したモーセだけが、シナイ山に登ることができたのです。今度は、シナイ山の聖なる聖なる聖なる神様がカナンの地、つまり、エリコに来られたということなのです。

イスラエルと彼らの「聖なる神様」が「裁き」をもってカナンの地に向かって来ていることを、エリコの住民たちはよくわかっていました。彼らはそのことをイスラエル人がヨルダン川を渡って、カナンの地に入る前から知っていました。そして、それは、エリコの王と王国のエリートだけが知っていた情報ではなく、社会の底辺(ていへん)にいた、エリコの遊女ラハブさえも知っていたことでした。

ヨシュア2:9-11 (遊女ラハブは)彼らに言った。「主がこの地をあなたがたに与えておられること、私たちがあなたがたに対する恐怖に襲われていること、そして、この地の住民がみな、あなたがたのために震えおののいていることを、私はよく知っています。2:10  あなたがたがエジプトから出て来たとき、があなたがたのために葦の海の水を涸(か)らされたこと、そして、あなたがたが、ヨルダンの川向こうにいたアモリ人の二人の王シホンとオグにしたこと、二人を聖絶したことを私たちは聞いたからです。2:11  私たちは、それを聞いたとき心が萎えて、あなたがたのために、だれもが気力を失ってしまいました。あなたがたの神、主は、上は天において、下は地において、神であられるからです。」

エリコの住民はみな、聖なる神様が近づいておられることを知っていましたが、「まだヨルダン川を渡っていないから、私たちは大丈夫。まだ時間もあるし、聖なる神様がここに来ない可能性もあるかもしれない」と思ったかもしれません。しかし、エリコの戦い以前に、神様がイスラエル人のために川を涸(か)らされたことを知って、神様がエリコに向かっていることが確実にわかりました。

ヨ 5:1  ヨルダン川の反対側、すなわち西側にいるアモリ人のすべての王たちと、海沿いにいるカナン人のすべての王たちは、主がイスラエル人の前で、彼らが渡り終えるまでヨルダン川の水を涸らしたことを聞くと、心が萎え、イスラエル人のゆえに気力を失ってしまった。

エリコの住民は神様の裁きについて具体的に五つのことを知りました。① 神様がエリコへ向かっておられ、② 神様がカナンの地にご自分の王国を建てようとされていること、③ 神様は想像を絶する力を持っておられること、④ 創造主である神様は全ての人を裁かれること、そして、⑤ 神様に聞き従わない人たち、あるいは、神様のご性質から来る御心に沿わない歩み方をしている人たちは裁かれることでした。しかし、エリコの住民は、神様の「裁き」に耐えることができると思いました。6:1に書いてあるように、エリコの民は、白旗を振らず、城門を堅く閉ざし、「神様の裁き」を耐え忍んで、「聖い炎」の中を生き残ることができるという自信があったということも言えます。

そして、聖い神様はエリコを7日間をかけて、13周もエリコを周り、彼らを脅さず、ラッパを吹きながら神様の裁きが近づいていることを彼らに警告されました。それはある意味、恵み深いことでもありますし、エリコの民に悔い改めの機会を与えられたのだとも言えます。しかし、エリコの民はびくともしませんでした。彼らは神様の裁きに「耐えて、生き残ることできる」と思ったのかもしれませんし「そのような裁きは存在しない」と自分に言い聞かせたのかもしれません。どのようなことを考えていたのかは全くわかりませんが、神様の裁きが近づいていることを知っていたにもかかわらず、彼らは何もしませんでした。そして、神様は「審判」のとき、城壁を崩され、えこひいきすることなく、一人一人を裁かれたのです。

私たちはユダヤ人ではないので、ある意味、エリコの住民たちと同じような立場にいます。そして、私たちも「最後の審判」のために準備はできているか、また、神様のご性質にふさわしい人生を送ったかと問われます。現代の多くの人たちは、エリコの住民達と同じように「神様の裁き何か存在しないよ!」と言うかもしれません。または、「聖書のおきてはわからないけど、私は大きな罪なんか犯してませんし、比較的にいい人間だと思うから、もし神様が公平な裁判官なら、自分は神様の裁きに『合格』できる気がする…」と思うかもしれません。自分の性別、年齢、人種、教育、宗教、知識、年収、ステータスと関係なく、「行いのみ」で考えるなら、自分は天国に入れる、と思う人たちも多いと思います。それは、神様の裁きを受けても、自分は大丈夫だと思っているのかもしれません。

しかし、それは神様の「裁き」がどれほど恐ろしいものかを私たちが知らないからだと思います。ローマ書2章では、神様の基準について書いてありますが、びっくりするほど、非常にフェアな基準です。

6  神は、一人ひとり、その人の行いに応じて報いられます。 7  忍耐をもって善を行い、栄光と誉れと朽ちないものを求める者には、永遠のいのちを与え、 8  利己的な思いから真理に従わず、不義に従う者には、怒りと憤りを下されます。

この箇所に反対する人はあまりないと思います。「いいことをすれば、いい報酬が与えられる。悪いことをすれば、罰が下される。」どの哲学、どの宗教にも当てはまる価値観だと思います。そして、聖書を知らない人たちでも、神様はフェアにさばかれます。神様は、私たちが生まれつき持っている道徳観や、私たちが信じている基準によっても私たちを裁かれます(参照:ローマ2:14-15)。神様はこうおっしゃいます。「なるほど。あなたは聖書を信じないのですか?でも、あなたは、『隣人を自分自身のように愛しなさい』という言葉は信じるんですね。では、私はあなたの人生の履歴を全て見て、その基準によってあなたを計ります」と神様はさばかれます。しかし、皆さん、ご存知のように、誰も自分が信じている基準で「行い」を全うできる人はいません。ですから、神様は6:21に書いてある通り、えこひいきされず、フェアに、すべての町の者達、男も女も若者も年寄りも、神様の「聖い炎」で「最後の審判」を行われたのです。そして、すべての町の者が「聖絶」されてしまいました。

私たちはどうでしょうか?私たちも自分の性別、年齢、人種、教育、宗教、知識、年収、ステータスによって裁かれるのではなく、「行いのみ」によって裁かれるのです。神様はえこひいきせずに、平等に人を裁かれます。誰にも知られていない所であなたが行ったこと、プライベートで言ったこと、心の中で考えたことなどのすべてが計られます。そして、もちろん、あなたの行いを他の人の行いと比較されません。えこひいきもされず、フェアに、あなただけを見て、ご自分の基準のみによって、神様はあなたの「行い」のみを計られます。皆さんは神様の裁きを受けられる自信はありますか?

ラハブは神様の裁きを受ける自信が全くなかったので、信仰の道を選びました。

次の質問に答えていきましょう。ラハブはどのように裁かれたのでしょうか?

ヨシュア 6:22  ところで、ヨシュアはこの地を偵察した二人の男に言った。「あの遊女の家に行き、あなたがたが彼女に誓ったとおり、その女とその女に連なるすべての者を連れ出しなさい。」

偵察した二人の男がラハブに誓ったことは何だったでしょうか?ラハブは二人に次のようなことを誓わせました。

ヨ 2:12  「今、主にかけて私に誓ってください。私はあなたがたに誠意を尽くしたのですから、あなたがたもまた、私の父の家に誠意を尽くし、私に確かなしるしを与え、2:13  私の父、母、兄弟、姉妹、また、これに属するものをすべて生かして、私たちのいのちを死から救い出す、と誓ってください」

とラハブはいいました。

要するに、偵察した二人の男が捕まえられそうになった時、ラハブが彼らに「エリコの審判」からの救いを与えたと同じように、ラハブは彼らに「神様の審判」からの救いを求めたのです。ラハブは、神様がえこひいきされない、正義を守る裁判官であることを知っていましたが、同時に信仰によって「目に見えない」救いの道、「目に見えない」望みがあると信じながら、神様の憐れみにより頼んだのです。

つまり、ラハブは「自分に良い行いがなくても、不敬虔な者を義と認める神様であることを信じます!」(参照:ローマ4:4-5)という信仰をもっていたのです。正義の裁判官の前にあって、そのような信仰を持っていたのです。当時の人たちにとっては、考えられないほどの不義で、わきまえのない、不可能にも思えるほどの希望だと思われたでしょう。。当然、神様は正義をもってラハブの懇願を拒まれることはできましたが、神様の裁きの執行官であるヨシュアは、何と命令したでしょうか?

ヨシュア  6:23  偵察した若者たちは行って、ラハブとその父、母、兄弟、彼女に連なるすべての者を連れ出した。彼女の親族をみな連れ出し、イスラエルの宿営の外にとどめておいた。6:24  彼らはその町とその中にあるすべてのものを火で焼いた。…

つまり、神様が「行いのみ」の「最後の審判」を執行する前に、「不敬虔な者を義と認める神様」を信じるラハブ一家を連れ出して、そので、神様の「聖い炎」によってエリコを裁かれたのです。

もうすでにお気づきかもしれませんが、「エリコの裁き」と神様の「最後の審判」は全く同じ裁き方です。「エリコの裁き」は神様の「最後の審判」のひな形なのです。神様は最後の日に、この世に来られます。そして、生きている者と死んでいる者、クリスチャンとノンクリスチャンをみな蘇らせ、一人一人に「行いのみ」の「最後の裁判」を下されます(使徒24:15)。聖書には、その裁きの場面をはっきりと描写している箇所があります。

黙示録 20:11  また私は、大きな白い御座と、そこに着いておられる方を見た。地と天はその御前から逃げ去り、跡形(あとかた)もなくなった。20:12 また私は、死んだ人々が大きい者も小さい者も御座の前に立っているのを見た。数々の書物が開かれた。書物がもう一つ開かれたが、それはいのちの書であった。

神様が裁きを執行される前に、全人類を二つのグループにまず分けられます。「いのちの書」に書いてある人々と、「いのちの書」に書かれてない、「数々の書物」に書かれている死んでいる人々とに分けられます。福音書でイエス様は、いろんなたとえを使ってこの「区分け」作業を描写されています。麦と毒麦(マタイ13:34-43)、良い魚と悪い魚(マタイ13:37-50)、羊とやぎ(マタイ15:32-33)、いのちの書に書かれている人たちと書かれていない人たち(黙示録3:5, 13:8)。

そして、「区分け」が行われた後で、神様はどのように裁かれるのでしょうか?

黙示録 20:12 死んだ者たちは、これらの書物に書かれていることにしたがい、自分の行いに応じてさばかれた。13  海はその中にいる死者を出した。死とよみも、その中にいる死者を出した。彼らはそれぞれ自分の行いに応じてさばかれた。… 15  いのちの書に記されていない者はみな、火の池に投げ込まれた。

「死んだ者たち」は「いのちの書」に書かれていない人々なのです。彼らはどのように裁かれたのでしょうか?「自分の行いに応じてさばかれた」と書いてあります。神様はえこひいきされず、エリコと同じように、私たちを「行いのみ」によって裁かれます。そして、残念ながら、「正義による罰」とは神様の「聖い炎による罰」に投げ込まれることなのです。

しかし、皆さんにお聞きします。「いのちの書」に書かれている人たちはどうなったでしょうか?この聖書箇所を読むと、ラハブと同じように「いのちの書」に書かれている人たちは「自分の行い」に応じては裁かれませんでした。黙示録を続けて読むと、彼らは「裁きなし」で天国に入れるのです。そして、聖書全体から見ると、「いのちの書」に書かれている人たちはどういう人たちでしょうか?「義人」のリストでしたか?とんでもありません。アル中のノア。詐欺師で臆病者のアブラハム。詐欺師で臆病者Jrであるイサク。神様を馬鹿にしたサラ。病的に嘘ついてしまう泥棒ヤコブ。怒り狂った殺人者、モーセ。最低の不倫男、ダビデ。偶像礼拝者、遊女ラハブ…。このリストは「義を行った」人たちのではなく、「信仰を持っていた」人たちのリストなのです。それは、どんな信仰でしょうか。「自分に義の行いがなくても、神様は不敬虔な者を義と認めてくださるお方であることを信じます!」(参照:ローマ4:4-5)という信仰でした。つまり、何らかの方法で、神様は不義な人を「義人」として認めてくださるという信仰なのです。

しかし、ある人はこう言います。「そんな神様は不義な神様だ。最悪の裁判官だ。他の人に裁きを与えながら、ヒトラーのような悪人には裁きを与えないような裁判官だ。それはえこひいきだ!」と。それはおっしゃるとおりだと思います。箴言 17:15 「悪しき者を正しいとする者、 正しい人を悪いとする者、主はこの両者を忌み嫌われる。」つまり、神様は悪人を「義人」としてお認めにはなりません。ではどのように不義な人を「義人」として認めてくださるのでしょうか。

神様は、ラハブのように聖書の神様により頼んでいる不義な人、すなわち、信仰を持っている悪人を「義と認める」ために、ご自分の御子をこの世に送られました。そして、その御子がイエス様なのです。そして、イエス様が十字架に架けられた理由はこれです。

第二コリント 5:21  神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。

どういうことでしょうか?「最後の裁判」に神様は「いのちの書」に書かれている人々に言われます。「エリコのラハブよ。信仰を持っていますね。いのちの書に名前が書いてあります。いのちの書によると、あなたは『行いのみ』による最後の裁きでは、永遠の刑罰に値するものだが、記録によると、あなたはもうすでに裁かれています。あなたの代わりに、最後の裁判を受けて、裁きを『前払い』してくれた方がいます。つまり、イエス様があなたの代わりに十字架の上で「聖い炎」を受け、聖絶されました。それだけではありません。記録によると、あなたは「義人」として歩んでいました。あなたの代わりに「義」を行い、あなたが天国で必要な「義」を前払いしてくださった者がいました。だから、あなたはイエス様の名によって、義人として天国に入り、神である私の右の座に座りなさい。」これがクリスチャンに与えられる判決なのです。驚くべき恵みです。

ですから、信仰を持っている人たちは「裁きから逃れる人」ではありません。裁きから逃げることができるなら、神様がえこひいきされることになります。悪人を義とお認めにならない神様、そして、罪人を逃されない神様は、ご自分の御子を捧げるほどに、ご自分の長男を聖絶するほどにえこひいきされない裁判官なのです。

イエス様は、信仰を持っている人たちの罪を背負い、彼らの「最後の裁判」を受けてくださったのです。そして、神様は、ご自分の御子が私たちの罪を背負ってくださったとしても、手加減されません。えこひいきせず、悪人である私たちの最後の裁きを神様はすべてイエス様に与え、十字架の上で「聖い炎」でイエス様を聖絶されたのです。

ラハブは具体的に「救いの手段」を見ることはできませんでしたが、不敬虔な者を義と認めてくださる神様を信じたことによって、ラハブはこれから来られるイエス様により頼んだことが、ヘブル12:1で示唆されています(参照:ローマ3:25-26)。しかし、私たちはラハブと違って、具体的に「最後の審判」と「救いの手段」を見ることができます。神様の最後の裁きが近づいています。そして、私たちには二つの手段しかありません。自分の行い、自分の生涯で「神様の裁き」を受けるか、不敬虔な者を義と認めてくださる神様にお委ねするかです。自分の罪を認め、神様のみ恵みにより頼み、イエス様にお委ねしましょう。お祈りします。

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