ようこそ!海浜幕張めぐみ教会へ!- Welcome to Kaihin Makuhari Grace Church!!

2021年4月25日の礼拝音声です。
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前   奏
招きの言葉 ローマ人への手紙5章18-20節
さ ん び 「ジーザス・イズ・アライブ〜Jesus Is Alive」
さ ん び 「ひとりの御子さえ〜How Deep the Father’s Love for Us」
開会の祈り
主の祈り
教会福音讃美歌 127番 「主イエスは尊き」
聖書朗読 ヨシュア記7章1-26節
聖書の話      「一つの罪。」 マーク・ボカネグラ牧師
教会福音讃美歌 129番 「暗やみに輝く灯」
献   金
報   告
とりなしの祈り マーク・ボカネグラ牧師
頌栄(教会福音讃美歌) 271番 「父・子・聖霊の」
祝   祷 マーク・ボカネグラ牧師
後   奏  567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

ヨシュア7:1-24 「一つの罪」  2021年4月25日 マーク・ボカネグラ牧師

私のこの1年間の中で自分の罪深さを明らかにされた本は、もちろん聖書でしたが、その次は、ダン・アリエーリという経済学者の本だと思います。それは「ずる:嘘とごまかしの行動経済学」という題名です。アリエーリ先生の仮説は、大半の「ずる」は一人の悪人が犯した重罪ではなく、多くの「いい人」が犯す小さな「ずる」の積み重ねだということです。彼は、この仮説を証明するために、様々な実験を行いました。基盤になったのはこういう実験でした。二つのグループがありました。一つのグループに20問の数学の質問が渡され、制限時間内にその質問に答えます。制限時間が来たら、試験管に渡し、採点されます。正解したら1問につき$1もらえるという実験でした。つまり、全部正解したら、$20もらえるのです。しかし、もう一つのグループは同じ質問で、1問につき$1もらえることまでは同じでしたが、自分で採点してから、答案用紙をシュレッダーにかけて、試験官には、結果だけを報告をして、その報酬をもらいました。つまり、二つ目のグループの実験では、自分以外には誰にもわからないので「ずる」できるというシステムなのです。

そして、その実験から、2つの面白い発見がありました。一つは、この実験をどの国のどんな文化で行っても、また、何度行っても、結果は同じだったということでした。それぞれのグループの平均点を比べると、多くの人たちがちょっとだけ「ずる」したということが分かりました。つまり、「20問正解!」と堂々と嘘をつくような「悪い人」はいなくて、「いい人」が自分のスコアに「ちょっと」だけ上乗せしたという人が大半でした。

もう一つの発見は、誰が何を盗んだかということが絶対にわからないシステムであっても、人は大金を奪わずに、「ちょっと」した「ずる」しかしないということが分かったのです。つまり、人が「ずる」をするとき、一番儲かる方法や、捕まえられるリスクなどについてあまり考えないということです。アリエーリ先生はこのように結論付けました。「私たちは、捕まえられるリスクによって『ずる』をする度合いを決めません。私たちは、自分の道徳感によって、『ずる』をする度合を決めるのです。つまり、私たちは『誠実で常識のある人』という自分のイメージを壊さない程度にしか『ずる』しないのです。」アリエーリ先生は、このような冗談を引用していました。「もし私が40匹の魚を釣ったら、私はみんなに50匹釣れたと言うでしょう。しかし、それ以上釣れたとは、絶対に言いません。なぜなら、それは嘘になりますし、嘘は罪だからです!」と。

私がはっきり言えることは、統計的に考えると、人の「ずる」は、小さくても、皆がしているということです。しかも、私たちは「誠実な自分像」を壊さない程度に「ずる」しているので、「自分はずるしない人」だと思いこんでいる可能性が高いということです。この本を読んで、私は自分の曲がった心に気づかされました。しかし、聖書は私たちの小さな「ずる」についてどう解釈しているでしょうか?「どんなに小さくても、永久刑罰に価しない罪はない。」と信仰基準(参照:WCF15.4)が聖書の罪論をまとめています。しかし、クリスチャンの多くは、自分の「小さな」罪を軽んじてしまうことがよくあります。

本日の箇所を通して、「一つの罪」がどのような結果をもたらすのかが分かります。一つの罪によって、神様がどれほど怒られるのかが理解できます。そして、神様の御怒りを収める手段は一つしかありません。それは罪人を裁くことです。この話を通して、私たちはなぜイエス様という救い主が必要なのかがすぐに分かります。この箇所から、三点を分かち合いたいと思います。

①一つの罪によって、神様の燃える御怒りが引き起こされること、

②一つの罪によって、全てが破壊されること、

③一つの処罰によって、御怒りが収まること、です。

1-9節を見ますと、一つの罪によって、神様の燃える御怒りが引き起こされることがわかります。

まず、この箇所の背景を思い出しましょう。神の民は、神様と共に、エジプト帝国を倒し、40年間かけて荒野を歩み、ヨルダン川を割って渡り、エリコの城壁を倒し、カナンの地へ入り始めました。すべてが絶好調で、思った以上に安易に約束の地を獲得することができたことが少しずつ明らかになっています。本日の箇所の前の一節がこの様子を現しています。

ヨシュア 6:27  がヨシュアとともにおられたので、彼のうわさはこの地にあまねく広まった。

しかし、神の民の興奮の中、筆者が神の民に知られていない事実が読者たちに分かち合われます。

ヨシュア 7:1  しかし、イスラエルの子らは聖絶の物のことで主の信頼を裏切った。ユダ部族のゼラフの子ザブディの子であるカルミの子アカンが、聖絶の物の一部を取った。それで、の怒りがイスラエルの子らに向かって燃え上がった。

神様の御怒りは異常な怒りだと思う人がいるかもしれませんが、「イスラエルの子らは…主の信頼を裏切った」という表現には非常に重い意味が含まれているのです。契約に記された義務を果たさないで、契約を破り、相手を裏切るという意味だったのですが、具体的に言いますと、この表現は「姦淫」を描写するときにもよく使われました。結婚の契約は結婚相手だけとの交わりを約束しますが、姦淫は結婚の契約を破り、他人との交わりをもって、結婚相手を深く裏切ることです。それだけではなく、日本語の訳には反映されていませんが、原語では「主の信頼を深く裏切った」と強調されています。つまり、イスラエルの罪は、小さな罪ではなく、とんでもない、深い裏切りであったことがわかります。

そして、神様が怒られた理由は「ユダ部族のゼラフの子ザブディの子であるカルミの子アカンが、聖絶の物の一部を取った」からだと書いてあります。ヨシュア6:18では、イスラエルの民がエリコを襲撃する前に、神様はこう命令されていました。

ヨシュア 6:18  あなたがたは聖絶の物には手を出すな。あなたがた自身が聖絶されないようにするため、すなわち、聖絶の物の一部を取ってイスラエルの宿営を聖絶の物とし、これにわざわいをもたらさないようにするためである。

はっきり言われていたことを、民は完全に無視したのです。ですから、神様が契約通りにイスラエルを罰せられることはなおさらのことでした。しかし、なぜ神様はエリコの「財産」を聖絶されたのでしょうか?それは、神の民が誘惑に陥らないためでした。「エリコの民のように、金持ちになりたい、力持ちになりたい、美しくなりたい、輝かしくなりたい。だから、エリコと同じことをやりたい」と思わせないためだったのです。つまり、「エリコ」という浮気相手に誘惑されないように、エリコの輝かしい「財産」を燃やしたのです。イスラエルの民が「エリコ」の財産を欲するということは、「エリコ」という浮気相手を欲するということなのです。つまり、神様から見ると、「欲する」ということは、「姦淫の種」となるということなのです。神の民は神様の御怒りに全く気づきませんでした。自分たちの罪に気づかないままで、アイという町との戦いに挑みます。そして、彼らのアイとの戦い方を見ると、エリコとの戦い方と比べて、自信過剰で独立自尊、自分の態度を反省するよりも神様を責めるという態度がよくわかります。

エリコの戦いでは、イスラエルはいつも神様からの命令を待って行動していたのに、アイでは、神様に確認もせずに行動しました。アイはエリコのように守備の堅い城壁や恐れるべき軍事力もなかったので、神の民は自信過剰になってアイに攻めに行きました。エリコとの戦いでは、イスラエルは効率を考えずに、将軍である神様に従い、一つの民として行動し、、7日間かけてエリコを13周も回りました。しかし、アイでは、相手の軍事力や攻撃しやすい地形を計って、、神様の命令を待たずに、軍隊を分けて、独立自尊な態度で3,000人の兵隊を送りました。しかし、たったの一節分で、イスラエル軍は破られました。

ヨシュア 7:4  そこで民のうち、およそ三千人がそこに上って行ったが、彼らはアイの人々の前から逃げた。

そして、その後、イスラエルのリーダーたちは、衣を引き裂き、主の箱の前で夕方まで地にひれ伏し、自分たちの頭にちりをかぶって、神様に嘆きました。しかし、その嘆き方を見ると、彼らは悔い改めるよりも、神様を責めています。「ああ、神、よ。あなたはどうして、この民にヨルダン川をあえて渡らせ、私たちをアモリ人の手に渡して滅ぼそうとされるのですか。私たちは、ヨルダンの川向こうに居残ることで満足していたのです」と(ヨシュア7:7)。この訴えは、荒野時代の神様に対するイスラエルの訴えと非常によく似ています(参照: 出エ14:11, 15:24, 16:2-3)。奴隷制度から救い出し、一方的に約束の地を与えてくださる神様により頼むよりも、何もない荒野で生活したい、とヨシュアはヨルダン川を渡ったことを深く後悔しているのです。とんでもない、本当に無礼な訴えだと言えます。

皮肉なことに、イスラエルがアイに負けた理由は、神様が約束を破られたからではなく、神の民が約束を破ったからなのです。

ヨシュア 7:10  主はヨシュアに告げられた。「立て。なぜ、あなたはひれ伏しているのか。7:11  イスラエルは罪ある者となった。彼らはわたしが命じたわたしの契約を破った。」

神の民が神様に対して怒る理由は全くありません。神の民は、神様を裏切って、神様を怒らせたことにも全く気付かずに、神様に対して不平を訴えているのです。本当に興味深いことに、ヨシュアとイスラエルは、一つの罪がどれほどの害を与えることができるかを理解していました。エデンの園でアダムが犯した一つの罪によって、全人類が滅んだこと。祭司が幕屋で一つの罪、または、ミスを犯してしまったら、裁かれること。そして、荒野でイスラエルが犯した一つの罪によって、荒野時代のイスラエルの第一世代が皆、荒野で滅んだこと。そのような事実があったと理解していても、イスラエルは自分の歩みを振り返って反省することもせず、神様を訴えました。

私たちはどうでしょうか?神の民のように、自分と、人間の力を過大評価し、自分の罪や神様のお気持ちを過小評価すること、または、軽んじることはないでしょうか?自分の周りに色々な問題が起こっている理由を、周りの環境、他人、神様のせいにして、自分自身については全く疑わないというときはありませんか?しかし、私たちが忘れていけないことは、「どんなに小さくても永久刑罰に価しない罪はない」ということです。

そして、次に、7:10-21節を読むと、一つの罪によって、すべてが破壊されることがわかります。

私は10節の神様の反応がすごく興味深いといつも思います。神様はイスラエルの嘆きの祈りを止められたのです。神様は彼らの涙よりも、彼らの悔い改めを求められたのです。なぜなら、彼らが神様との契約を破ったからです。

それでは、彼らの契約とはどのような契約だったのでしょうか?具体的に言いますと、これはシナイ山で結ばれた契約で、その契約の実態は申命記そのものなのです。そして、この契約の本質をまとめると、こうなります。

申命記 27:26  「このみおしえのことばを守ろうとせず、これを実行しない者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。28:1  もし、あなたが、あなたの神、主の御声に確かに聞き従い、私が今日あなたに命じる主のすべての命令を守り行うなら、あなたの神、主は、地のすべての国々の上にあなたを高く上げられる。 28:2  あなたが、あなたの神、主の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたについて行く。

そして、神様は、もし民が神様の掟を守らなかったら「敵の前で敗走させる」(参照:申命記28:15, 25)と具体的に約束されました。それにも関わらず、イスラエルが、神様に背いて敵であるアイの前で敗走し、泣いて驚いているのを神様がご覧になった時、「あなた方がこの契約に対して「アーメン」と誓ったのに、あなた方はなぜ驚いて、泣いているのか?」と思われるのは、当然だと思います。

しかし、本当に驚くべき事実はヨシュア記7章12節に書いてあります。

「彼らが聖絶の者となったからである。あなたがたの中から、その聖絶の物を滅ぼし尽くしてしまわないなら、わたしはもはやあなたがたとともにはいない。」

もし悔い改めないなら、神様は選ばれた民イスラエル人をカナン人のように裁くとおっしゃいました。つまり、神様はこうおっしゃるのです。「あなた方が、カナン人の財産、カナン人の文化と力、カナン人の生き方、カナン人の偶像、カナン人の同じ「罪」を欲しがるなら、私はあなた方をカナン人のように扱う。エリコを聖絶したように、あなた方を聖絶する。」もし神様がそのように裁かれるのなら、それは神様が異常に厳しいからではなく、民自身が約束した契約を破るからなのです。神様が民を裁かれたのなら、むしろ、それは誠実で正しい行為だと言えます。

しかし、イスラエル人が悔い改める責任があるのにもかかわらず、神様は恵みをもって、そして、具体的に誰が、「聖絶の物」を取ったかを指摘されます。14-18節を見ると、神様はくじによって、罪を犯した者を指摘されました。まずユダ族が取られ、次に、ゼラフの氏族がとられ、ザブディの家族がとられ、最後にアカンのくじが取られました。そして、ヨシュアはアカンを訴え、アカンはすぐに悔い改めました。

ヨシュア 7:20  アカンはヨシュアに答えた。「確かに、私はイスラエルの神、主に対して罪を犯しました。私は次のようなことをしました。7:21  私は分捕り物の中に、シンアルの美しい外套一着と、銀二百シェケルと、重さ五十シェケルの金の延べ棒一本があるのを見て欲しくなり、それらを取りました。それらは今、私の天幕の中の地面の下に隠してあり、銀もそこにあります。」

これはかなりの大金です。そして、これはたった一つの罪ではありません。神様からご覧になれば、どんな罪でも同じですが、アカンの犯した一つの罪によって、アカンはその他の様々な罪を犯したのです。11節を見ると、アカンの一つの罪によって、イスラエルは神様との契約を破り(第1戒)、霊的に姦淫をし(第7戒)、神様の聖別したものに乱りに触ってしまい(第3戒)、物を盗み(第8戒)、嘘をつき(第9戒)、物を欲しがった(第10戒)のです。一つの行為を通して、少なくとも6戒を破りました。アカンの重罪によって、自分の家族、氏族、部族、国が、神様の御怒りの対象になり、破壊される存在になってしまったのです。一つの罪によって、すべてが破壊されることが分かります。

しかし、今日のメッセージは「アカンのような重罪を犯さないように注意しなさい」ではありません。大切なポイントは、私たちはみな「アカン」と同じだということです。「アカン」のように自分の天幕の下にいろいろな罪を隠しているということなのです。どうしてそう言えるでしょうか。アカンはもちろん重罪を犯したとはっきり言えますが、他の民はどうでしょう。彼らは天幕の下に何も隠しているものはなかったと思いますか?

ヨシュア記の最後を読むと、びっくりする事実が明らかになります。約束の地に住み始め、ヨシュアがなくなる前に、ヨシュアは民にこう命令します。

ヨシュア  24:14  「今、あなたがたは主を恐れ、誠実と真実をもって主に仕え、あなたがたの先祖たちが、あの大河の向こうやエジプトで仕えた神々を取り除き、に仕えなさい。」

とても興味深い命令だと思いませんか?カナンの地の偶像ではなく、イスラエル人が50年前に住んでいた頃のエジプトの神々、そして、450年前のアブラハム時代の時の神々の偶像を取り除きなさいと命令しているのです。神様が散々偶像崇拝を禁じられ、偶像崇拝する者を「聖絶」すると数えきれないほど、警告されてこられたので、「まさか。神の民はアブラハム時代、エジプト時代の偶像を何十年も、何百年も持ち運んだなんてことはないですよね。そんな馬鹿げたことはしないはずですよね」と普通は考えると思います。そして、ヨシュアの命令の後でイスラエル人が「はい、主に仕えます!」と応答したのを読むと、読者は一瞬ほっとします。しかし、驚くべきことは、ヨシュアの反応です。

ヨシュア 24:23  「今、あなたがたの中にある異国の神々を取り除き、イスラエルの神、主に心を傾けなさい。」

つまり、堂々と「はい、偶像を取り除きます!」と誓うイスラエル人に対して、ヨシュアは、「あなたたちの天幕の下に、イスラエルの中に、アブラハム時代から、エジプト時代から持ち運んでいる偶像を平気で持ち歩いているのに、なぜあなたたちは偶像を取り除かないのだ!」と注意するのです。つまり、イスラエル人は「偶像崇拝はだめ」と信じているのに、自分たちの天幕の下に代々から引き継がれたアブラハム時代とエジプト時代からの偶像を隠していたのです。自分たちの「ちょっとした偶像」、あるいは、「ちょっとしたずる」を神様が見過ごされるのではないかと考えていたのかもしれません。なぜなら、神様は何百年も偶像を忍耐してくださっているからです。ですから、このような環境で育ってきたアカンは、「まあ、自分は聖絶されたものを取ったかもしれないけれど、みんなだって普通に偶像を自分の天幕の下に置いているから、大丈夫なんじゃない?」と思っていたかもしれません。だから、アカンはすぐに自分の罪を告白しなかったのかもしれません。

私たちはどうでしょうか?自分の「天幕の下に」隠している「聖絶の物」、「偶像」、あるいは、「罪」はないでしょうか?神様は「ちょっとしたずる」を見過ごされると思って、自分は「いい人間」だと思い込んで、アカンのように自分の罪を軽んじて、悔い改めずに歩んでいませんか?アカンは特別に悪い人ではありません。アカンの姿勢は、ふつうの「良い」クリスチャンの頑なさを現していると思います。アカンを通して、神様は神の民に「一つの罪を軽んじるな!一つの罪によって、すべてが破壊される!」と私たちに警告されているのです。

最後に、7:22-26を見ると、一つの処罰によって、神様の燃える御怒りが収まることがわかります。全イスラエル人はすぐにアカンを処刑する準備をします。アカンだけではなく、アカンの家族、アカンの所有物の全てが集められ、ヨシュアはこのようにアカンを裁きます。

7:25「なぜ、おまえは私たちにわざわいをもたらしたのか。主は今日、おまえにわざわいをもたらされる。」

一番大切なポイントは、一人の 一つの罪によって、自分にも、自分の家族にも、自分の民にもわざわいをもたらすことになってしまうと言うことです。アダムのように、あなた一人の罪によって、自分自身の救いを失うだけではなく、自分の家族、自分の友達、自分の教会の救いと天国への道をも、失わせてしまうことになるのです。

そして、忘れていけないことは、アカンが単純に「ごめんなさい」と言って、盗んだものを返したとしても、神様の御怒りは収められないということです。愛し、信頼していた人があなたを深く裏切ったとしたら、全が元通りになると思いますか?同じように、私たちの罪に対して、自分たちの「悔い改め」によるだけでは神様の御怒りを収め、自分を救うことはできません。神様の御怒りを収める方法は一つしかないのです。それは処罰を受けることです。

25 全イスラエルは彼を石で打ち殺し、彼の所有物を火で焼き、それらに石を投げつけた。26 人々はアカンの上に石くれの大きな山を積み上げた。今日もそのままである。主は燃える怒りを収められた。それで、その場所の名はアコルの谷と呼ばれた。今日もそうである。

アカンの話はどのように自分の罪を克服するかではなく、自分の罪に対してどのように神様の燃える怒りを収めていただくか、すなわち、いかに神様の「わざわい」から逃れるかなのです。ですから、アカンが処刑された場所は、「わざわい」の谷と名付けられたのです。そして、皮肉なことに、罪人が「神のわざわい」を受けたことによって、イスラエルの人々が救われたのです。

しかし、アカンの話はヨシュア記全体に、また、旧約全体に大きな疑問を問いかけます。もしアカンが処刑されるべき存在なのであれば、アカンと同じように「天幕の下」に罪、偶像、「聖絶の物」を隠している私たちが神様の御怒りから逃れられるでしょうか?いいえ、とんでもないです。アカンの罪と同じように、私たちのちょっとした「ずる」は永久処罰に値する罪なのです。しかし、神様の燃える怒りから逃れる唯一の手段は、どなたかが、あなたの身代わりとなって、あなたへの神様の処罰を受けることです。

アカンの出来事の約1,500年後に、アカンと同じ部族のユダ族、アカンと同じゼラフ人の氏族から来たイエス様(参照:マタイ1:3)が、「わざわいの谷」ではなく、「ゴルゴタの丘」という場所で、「神様のわざわい」を受けられました。しかし、ご自分が犯した一つの罪のためではなく、神の民の様々な罪、数々の偶像、幾万キロの「聖絶の物」のために、十字架の上であなたと私の永遠の処罰を受けられたのです。神様は、罪を知らないイエス様を私たちのために罪とされ、ご自分の御怒りの対象にされました。「もしイエス様があなたの代わりに、そして、あなたの家族の代わりに死なれるなら、あなたとあなたの家族に対する神様の御怒りは完全に収まります。」そして、神の民がアカンを石で処刑したように、神の民がイエス様を十字架で処刑したように、イエス様が私たちの「アカン」として処刑され、私たちに対する燃える御怒りが収められるのです。さらに、イエス様の処刑によって、神様と私たちは和解させられるのです。パウロは次のように説明しています。

ローマ 5:7  正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。5:8  しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。5:9  ですから、今、キリストの血によって義と認められた私たちが、この方によって神の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです。5:10  敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させていただいたのなら、和解させていただいた私たちが、御子のいのちによって救われるのは、なおいっそう確かなことです。5:11  それだけではなく、私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を喜んでいます。キリストによって、今や、私たちは和解させていただいたのです。

私たちの一つ一つの罪によってイエス様が処刑されたことを悲しみながら、イエス様が私たちを神様の御怒りから救い出してくださったことを感謝しましょう。

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