ようこそ!海浜幕張めぐみ教会へ!- Welcome to Kaihin Makuhari Grace Church!!

5月9日礼拝の音声ファイルです。
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前   奏
招きの言葉 詩篇20:1-5
さ ん び 「主のみわざ ~for all you’ve Done~」
さ ん び 「御手の中で ~In His time~」
開会の祈り
主の祈り
教会福音讃美歌 353番 「あなたこそが我が望み」
聖書朗読 ヨシュア記8章1-29節
聖書の話      「『成功』の要因」 マーク・ボカネグラ牧師
教会福音讃美歌 355番 「私の望みは」
献   金
報   告
とりなしの祈り マーク・ボカネグラ牧師
頌栄(教会福音讃美歌) 271番 「父・子・聖霊の」
祝   祷 マーク・ボカネグラ牧師
後   奏  567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

ヨシュア8:1-29 「成功」の要因   2021・5・9

「成功」したくない人はいないと思います。本日集まっている皆さんも、おそらく何かに「成功」したいと思っているのではないでしょうか。受験勉強、スポーツ、音楽に「成功」したい人。人に好かれることに「成功」したい人。恋愛に「成功」したい人。子育てや幸せな家族生活に「成功」したい人。愛に満ち溢れた結婚関係に「成功」したい人。意味のある仕事、あるいは、社会貢献に「成功」したい。幸せな人生、楽しい人生、平凡な人生、安定した人生に「成功」したい。聖くて良い、忠実なクリスチャン生活に「成功」したい。罪を犯さず、神の義を行い、神様を愛し、人を愛することに「成功」したい。「成功」を意識しない人生に「成功」したいというような、私のようなあまのじゃくな人もいるかも知れません。何かに「成功」することは悪いことでは全くありませんし、「成功」したくない人はいないと思います。そして、私たちは「成功」の要因をいつも捜し求めているのです。

皆さんも、お気づきかもしれませんが、私は説教するとき、いつも一つの罪に焦点を当てています。本日のフォーカスは「成功」の主な要因に対する誤解についてです。私たちは「成功」している人たちを見て、成功するためのいろいろな要因を提示します。「知識と語学力」、「練習と集中力」、「努力と根性」、「積極性と情熱」、「カリスマ性と人を引き寄せる魅力」、「人間力とコミュニケーション力」、「愛と謙遜さ」、「忍耐と自制」、「財力とネットワーク」など。要するに、そのようなことを磨けば、成功をもたらすことができると考えます。もちろん、そのようなことを磨いて成功する人もいます。しかし、忘れていけないことは、そのようなものをすべて持っている人でも「成功」しない人もたくさんいますし、反対に、そのようなものを全く持っていない人でも「成功」する人もたくさんいます。しかし、考えてみてください。自分たちが得た「成功」は自分たちの力でもたらしたものでしょうか?あるいは、たまたま与えられたものでしょうか?自分の短い人生を振り返って見ても、私が得た数少ない成功は「自分の努力」よりも「偶然」が主な要因ではないかなといつも思います。皆さんはいかがでしょうか?私が言いたいのは、「成功」の主な要因は自分たちがコントロールできる要因だとは言い切れないということです。しかし、「成功」したいという願いが強すぎて、「いや、頑張れば、何とかなる。努力する人は絶対に報われる」と自分に言い聞かせるようなときはありませんか?

本日の聖書箇所を通して、「成功」の要因は二つしかないということがわかります。それは「神様の御心」と「完璧な従順」です。その2つがないと、究極的には「成功」できないということです。それを学ぶために、最初に①この箇所のストーリーを見て、②学ぶことができる教理に焦点をあて、そして、最後に③自分たちにその教理を適用したいと思います。

まず、この箇所のストーリーの流れを見ていきましょう。この箇所はイスラエルのアイとの第二の戦いです。ですから、このストーリーを理解するために、この戦いの前にあった二つの戦いを思い出す必要があります。その二つの戦いとは、①「成功した」エリコとの戦いと②「失敗した」アイとの第1の戦いです。ヨシュア記にある最初の戦いはエリコとの戦いです。エリコは強力な敵でした。町の壁も高く、人も多く、軍隊も強く、エリコに勝つためには大きな犠牲をもたらす攻城戦が必要でした。しかし、戦いの準備が始まる前に、神様が「見よ、わたしはエリコとその王、勇士たちをあなたの手に渡した」(ヨシュア記6:2)と宣言されたのです。そして、神の民が戦略を練る間もない中で神様は一方的に民にこのように命令されます。「何もしないでいなさい。ただエリコの周囲を回って、角笛を吹いて、わたしがエリコの壁を崩すのを待ちなさい」と。そして、神の民は一語一句、神様の命令に従いました。七日目にはエリコの壁が崩され、神の民は何の努力もしませんでしたが、神様によって「勝利」と「成功」を一方的に与えられたのです。神様はエリコとの戦いの中で、このような命令をされました。「エリコの財産に触るな。もし自分のものにしたら、カナンと同じように、神の民を聖絶する」(参照:ヨシュア記6:18)と。しかし、残念なことに、アカンという人がエリコの財産を奪い、自分の天幕に隠してしまいました。

大成功のエリコの戦いの後に、アイとの第一の戦いがありました。アイとの戦いはエリコとの戦いとは正反対でした。アイは小さな町でした。守りも弱く、人も少なく、軍隊も比較的に少人数だったので、「これは犠牲も少なくて済む、私たちの圧勝だ!」と神の民は思いました。そして、アイとの戦いの準備も、エリコの戦いとは正反対でした。神様からの勝利の約束もなく、軍事戦略や命令も、神様からもヨシュアからも全くありませんでした。アイとの戦いは神の民の偵察力と知恵によって考えた戦略でした。それは、非常に効果的で、知恵のある軍事戦略でしたが、神様の戦略ではありませんでした。そして、その戦いは大失敗に終わりました。小さなアイの軍隊が、エリコを倒した神の民を簡単に破ったのです。

それはなぜでしょうか?神の民の失敗の要因は軍事戦略の問題ではなく、神様が彼らに対して怒られたことであったことがすぐに判明されたのです。アカンが禁断のエリコの財産を奪ったので、神様がご自分のみことばどおりに民を裁かれ、敗北をお与えになりました。ですから、神の民は自分たちの不従順に気づき、神さまのご命令に従い、アカンとアカンの家族そして禁断のエリコの財産を燃やし、それによって、神様の御怒りが収められたのです。そして、不従順がもたらした敗北と失敗を民が思い出すために、それらを焼き尽くした場所の上に、石くれの大きな山を積み上げました。

そして、神様の御怒りが収められたあと、本日の聖書箇所、ヨシュア8章が始まります。大成功したエリコの戦いと同じように、神様は民がまだ戦闘準備を始める前に「恐れてはならない。おののいてはならない。戦う民をすべて率(ひき)い、立ってアイに攻め上れ」(1節)と民に命令されます。そして、「見よ、わたしはアイの王と、その民、その町、その地をあなたの手に与えた」(1節)と宣言されます。そして、皮肉なことに、エリコの戦いの時と違って、アイの戦いでは、民は戦利品をもらうことができました。もしアカンが自制できていたら、神様に裁かれずにアイの戦いで戦利品をもらうことができたのです。

エリコの戦いは、神様の指示を待たずに戦略を練ったアイの第一の戦いと違って、神様が軍事戦略を発表され、ヨシュアは神様の戦略に従って戦闘準備をしたのです。 その戦略は、神の軍隊を二手に分けることでした。町の裏手に隠れている5,000人の伏兵(ふくへい)と、町の真正面から攻撃する25,000人の軍隊。そして、25,000人の軍隊が真正面から攻撃して、イスラエルの民が逃げるふりをすることが戦略でした。さらに、ヨシュアの期待は、アイの軍が『この前と同じように、われわれの前を逃げて行く!イスラエルの軍を全滅させるチャンスだ!』と思い、アイの全軍を町からおびき出すことでした。そして、町からおびき出した後で、5,000人の伏兵がアイを裏から占領し、町を燃やし、アイの軍を混乱させ、二つの軍で挟み撃ちをすることが目的だったのです。

そして、次の日に神の民は神様とヨシュアの軍事戦略に一語一句従いました。5,000人の伏兵はアイの裏手へ行き、ヨシュアは25,000人の軍の先頭に立ち、アイを真正面から攻撃したのです。そして、「ヨシュアと全イスラエルは彼らの前で打たれるふりをし、荒野への道を逃げた。」アイの王は、ヨシュアの期待どおりに、罠にはまりました。16節「アイにいた兵はみな彼らの後を追うために呼び集められ、ヨシュアを追撃し、町から誘い出された。」しかし、予想しなかった展開がありました。ヨシュアとイスラエルの軍は、アイとベテルという二つのカナンの町の間に陣を引いたのです。しかも、ベテルは、アイと同じように、神の民の敵でした。そして、イスラエル軍が荒野へ逃げたとき、アイだけではなく、ベテルも「神の民を全滅するチャンスだ!」と考え、追撃に加わり、「アイとベテルには誰一人いなかった」のです。つまり、ヨシュアの罠は、都合よく、一石二鳥の罠になりました。

そして、それを見たヨシュアは、18節に書いてあるように自分の投げやりを伸ばし、伏兵に攻撃を指示しました。アイを守る軍隊がいなかったので、簡単にアイを占領し、ただちに町を燃やしてしまいました。アイの軍はそれを見て、困惑し、イスラエル軍の挟み撃ちによって破られました。アイの軍と町は全滅しましたし、ここにははっきり書かれていませんが、ベテルの軍も全滅したとも言えます。この戦いは「大成功」でした。そして、「イスラエルは主がヨシュアに命じられたことばのとおり、その町の家畜と分捕り物だけを自分たちの戦利品とした」のです(27節)。そして、この話の終わりには興味深いことに、アイとの第一の戦いの終わり方と全く同じように、不従順だったアカンの上に石が積み上げられたように、破られたアイの王の死体の上にも大きな石塚(いしづか)が積み上げられました。

それで、アイ近辺には、二つの石の山があるのです。アカンの死体の上には、不従順がもたらした「敗北と失敗」を記念する石の山、アイの王の死体の上には、「従順」がもたらした「勝利と成功」を記念する石の山です。これが本日の聖書箇所のストーリーの最後の場面です。

では、この聖書箇所から学べる教理は何でしょうか?いろいろありますが、二つのことに焦点を充てたいと思います。

一つは、「成功」の主な要因は、人間の一つ一つの判断と行動ではなく、「神様の御心」だということです。非常にシンプルなことですが、私たちは自分たちの判断と努力を過剰評価し、神様の御心を過小評価することがよくあります。

神様抜きで二つのアイの戦いの「成功要因」を分析してみましょう。第二のアイの戦いで勝利した「成功要因」は、イスラエルの観点から見ると何だったでしょうか?神様抜きで考えると、ヨシュアの「戦略」が「成功要因」だったとも言えるでしょう。しかし、考えてみてください。第一のアイの戦いでも、イスラエルはアイを偵察して、知恵を振り絞って戦略を立て、その戦略どおりに戦いましたが、彼らは大失敗したのです。つまり、「戦略」がイスラエルの成功要因だったとは言えません。同じように戦略を重視しましたが、第一の戦いと第二の戦いは全く違う結果をもたらしたのです。むしろ、ヨシュアの戦略で二つの町に勝利できたのは、人間的に考えれば、半分以上はまぐれだったのではないかと思います。アイ軍の観点から見ても、同じような結論になります。神様抜きで見ると、彼らの「成功要因」は「戦士の勇気」だったとも言えるかもれませんが、アイ軍は勇気をもって追撃した結果、イスラエル軍の罠にはまって、敗れたのです。つまり、「勇気」がアイ軍の成功要因だったとは言えません。むしろ、第一の戦いで勝てたのは、人間的に考えれば、ただ運がよかったのだと思います。

軍事戦略をいろいろ分析し、複雑な議論や、戦いの「成功要因」を探ることはできますが、聖書の流れを見ると、聖書が教えている「成功要因」は非常にシンプルです。イスラエルがエリコに勝てた理由は、神様がその勝利を与えられたからなのです。そして、アイに負けた理由は、神様がイスラエルを裁かれたからです。最終的に、アイに勝った理由は、神様がその勝利を与えてくださったからなのです。すべての成功やすべての失敗の要因は、「神様の御心」です。

この教えは私たちをへりくだらせます。私たちは、自分の環境、歩み、道のり、成功するための知識、意志、判断、行為などで成功を操ることができると考えがちです。しかし、現実と本当に向き合うなら、私たちがコントロールできる要素はほんの数パーセントしかないことがわかります。むしろ、自分が生まれ育った国や町、家族、生まれ持っている性格、自分がもっている財産、知識、経験と機会、他の人が私たちのために決めた判断などによって、私たちは大きく影響されているのです。そのような要因は自分たちが決めたものでしょうか?もし神様が私たちの髪の毛さえも、すべて数えられ、定めておられるのであれば、私たちの身の回りの「成功」をもたらすものは全て神様の御心によって定められていると言えます。私たちは、神様のように、自由に物事を操ることができませんし、究極の「成功」をもたらすこともできないのです。

もう一つ学べることは、「人の完璧な従順のゆえに、『成功」』をお与えになることが神様の御心である」ということです。この三つの戦い−−エリコの戦いとアイとの二つの戦い−−を見ると、神様はご自分の民がみことばどおりに従ったかどうかだけを見ておられたことがわかります。 ①エリコでは、民がみことばに従ったので「成功」した。②アカンの不従順によって、アイとの第一の戦いで「失敗」した。③民が悔い改めて、神様に従ったので、アイとの第二の戦いで最終的に「成功」した。この三つの戦いを比較すると、非常にわかりやすいパターンが見えてきます。このパターン、あるいは、因果関係はイスラエルと神様の契約の本質を現しています。

申命記28:1  「もし、あなたが、あなたの神、主の御声に確かに聞き従い、私が今日あなたに命じる主のすべての命令を守り行うなら、あなたの神、主は、地のすべての国々の上にあなたを高く上げられる。 28:2  あなたが、あなたの神、主の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨(のぞ)み、あなたについて行く。」

つまり、神様とイスラエルのシナイ山契約の本質は、「神様は人の完璧な従順のゆえに、『成功』をお与えになる」ということです。神様に対する従順が、神の民の成功を決めるのです。

しかし、神の民と私たちはいつも神様の恵みを軽んじて、「神様はどうせ私たちの不従順を見過ごしてくださって、恵みを一方的に与えてくださるから、完璧な従順じゃなくても、頑張っていれば、大丈夫」と考えがちです。私たちがいろんな罪を犯していても、神様は私たちが「頑張っている」から、私たちが「一生懸命に働いている」から、私たちが「神様を愛している」からという理由では、私たちを祝福されません。もしそのように神様の基準を考えているなら、それは神様の聖なる基準を軽んじて、神様の基準を自分の都合のいいように引き下げているだけなのです。例えば神様が「100点満点」を私に求められるのなら、「マークは10点しか取ってないけど、頑張ったらから100点あげるよ」とはおっしゃいません。神様は人の完璧な従順のゆえに、「成功」をお与えになることが御心なのです。

では、この二つの教理をどのように新約時代にいる私たちに適用できるでしょうか?

まず最初にひとつ注意しなければならないのは、「人の完璧な従順のゆえに、「成功」をお与えになることが神様の御心である」ということをそのまま自分たちに適用してはいけないということです。「なるほど。イスラエルのようにみことばに一語一句従えば、神様が私に『成功』、『繁栄』、『祝福』を与えてくださるということね。じゃあ、みことばに忠実に従います!」と言うのはよくある解釈ですが、それは聖書全体を考慮していない解釈だと思います。理由が二つあります。一つは、聖書全体からイスラエルの歴史を見ると、エリコとアイでの戦いは、イスラエルの数少ない「従順」による成功だったからです。旧約聖書の全ての出来事をみると、神様が何をされても、イスラエルはみことばをひとつも守れなかったことがわかります。そして、それゆえに神様はイスラエルを約束の地から追い出され、「祝福」をお与えにならなかったのです。ですから、もし何百年もの間、そして、何百万ものイスラエル人がみことばを守れなかったのなら、異邦人である私たちにみことばを守れるという保証はどこにあるでしょうか?

この箇所から学んだ教理をそのままを自分たちに適用することができない二つ目の理由は、イスラエルは神様との「古い契約」を交(か)わしていて、私たちは「新しい契約」を交(か)わしているということです。「古い契約」というのは、イスラエルがシナイ山で神様と結ばれた契約です。そして、その契約の本質は「あなたが従順であれば、神様はあなたを祝福する」ということですが、皮肉なことに、契約の本質と目的は違います。古いシナイ山契約の目的は、「祝福」あるいは「成功」を得るための手段を提供することではなく、自分たちの従順で「祝福」あるいは「成功」を得ることはできないということを教えることでした。

パウロは、古いシナイ山契約の目的を新約聖書の中ではっきり説明しています。この古い契約の目的は、人間に罪の意識を生じさせ(ロ―マ3:20)、すべてのものを罪の下に閉じ込めさせ(ガラテヤ3:22)、不従順な者をのろう(ガラテヤ3:10)ためでした。そして、そのようなことを通して、「自分たちの従順によってでは、祝福を得ることができないし、人間はのろわれ、失敗に値する者である」ということを教えるために神様が古いシナイ山契約を与えられたのです。ですから、その契約の下にいるヨシュアとイスラエルを見て、「なるほど!自分の従順によって『成功』が獲得できるんだ!」というふうに解釈することは、神様の御心とはの正反対のことなのです。

もしそうであれば、「人の完璧な従順のゆえに、「成功」をお与えになることが神様の御心なのです。」ということをどのように私達は適用すればいいでしょうか?二つの適用があります。

一つは、「あなたが成功する要因は、自分の中にはありません。成功する要因は、自分の外にあるイエスキリストの従順のみにあるのです。」(参照:ガラテヤ3:21-26)

よくある誤解は、「人の完璧な従順のゆえに、『成功』をお与えになることが神様の御心である」ということが古い契約の本質であり、新しい契約には適応できないと思われるていることです。つまり、新しい契約では神様が無条件に「成功」を与えてくださるという誤解です。しかし、神様の御心は変わっておられません。新しい契約の中でも、完璧な従順のゆえに、「成功」をお与えになるのです。

「成功」の要因は変わっていないのですが、古い契約と新しい契約の違いは、「完璧な従順」がどこから来るのかという点です。古い契約では自分の従順のゆえに「成功」を獲得することでしたが、新しい契約では「イエス様」の従順のゆえに「成功」を獲得することなのです。新しい契約では、自分の従順さや、忠実さに信頼するのではなく、イエス様の従順と忠実さによって神様の「成功」を頂くことを信じることです。つまり、私たちが「成功」する要因は、自分の中にはありません。イエス様にしかないのです。そのことを覚えて、自分の従順ではなく、イエス様の従順と行いのみにより頼んでいるでしょうか?

本日の箇所では、ヨシュアが神様の軍事命令に一語一句従い、一語一句行ったことによって、イスラエルに勝利が与えられ、安息の約束の地という「成功」が与えられました。ヨシュアのように、イエス様は神様のみことばに一語一句従い、一語一句行うことによって、私たちのために「祝福」を獲得してくださいました。しかし、イエス様はヨシュアと違って、一時的な、この世の「成功」あるいは「約束の地」を獲得してくださったのではなく、天にある永遠の約束の地を獲得してくださったのです。要するに、イエス様は私たちの究極のヨシュアなのです。

もう一つの適用は、「もしイエス様を信じているなら、神様の御心によって、あなたは絶対に成功する者として、感謝をもって神様に従いなさい」ということです。

この説教の中で、「成功」という言葉について、はっきり定義して来ませんでしたが、皆さんにとって「成功」とは何でしょうか?私たちはよく一時的な「成功」を考えますが、「死」と神様の「永遠のさばき」を前提にして「成功」を考えなければなりません。

この世で、何十年も頂点に立ったとしても、その後に死んで、全てをなくし、自分が建て上げたものが次世代に壊され、最終的に神様の永遠のさばきを受けることは「成功」と言えるでしょうか?この世で幸せな生活を送るために、そして、自分の家族に幸せな人生を与えるために、自分自身を捧げて、いくらかの幸せを経験したとしても、苦しい死を経験し、自分と自分の家族が永遠のさばきを受けるとしたら、それは「成功」と言えるでしょうか?イエス様はこうおっしゃいます。「 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の益があるでしょうか。」(ルカ9:25)

しかし、もしイエス様の完璧な従順により頼むなら、神様の変わらない、絶対的な御心によって、天の「永遠のいのち」と幸せが与えられるのです。そして、考えてみてください。もしこの世で自分が、あるいは、自分の愛する人が、数十年も苦しく失敗だらけの不幸で、みじめな人生を送ったとしても、死んだ後に、イエス様の従順のゆえに、神様から天の「永遠のいのち」を与えられるなら、それは「空しい人生」と言えるでしょうか?自分の愛する人にこの世の最高の幸せを与えることができなくても、みことばを分かち合って、彼らが天の「永遠のいのち」を得ることができたら、それは「空しい人生」とは言えないのではないでしょうか?

私たちがイエス様により頼むことによって、必ず「成功」を頂くことができるのなら、私たちはこの世の「失敗」、この世の「苦しみ」を恐れる必要はありません。エリコの戦いと第二のアイとの戦いでは、まず神様が「勝利」あるいは「成功」を宣言されました。神の民は、その応答として感謝をもって、神様に従いました。私たちも同じ立場にいます。神様はイエス様の従順のゆえに、天の「勝利」と「成功」を与えてくださることを「福音」を通して宣言されます。ですから、私たちはこの世の「失敗」、この世の「苦しみ」を恐れずに、イエス様にあってすでに勝利し「成功」を与えられた者として、感謝をもって神様に従いましょう。

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