ようこそ!海浜幕張めぐみ教会へ!- Welcome to Kaihin Makuhari Grace Church!!

5月30日の礼拝はAPAホテル48階「ノア」にて開催されました。
5月30礼拝の音声ファイルです。

10:45分~

前   奏
招きの言葉 コリント人への手紙第一6章10−11節
さ ん び 「聞け我らの賛美〜Hear Our Praises」
さ ん び 「主のみわざ〜For All You’ve Done」
開会の祈り
主の祈り
教会福音讃美歌 189 「主よなが道われに示し」
聖書朗読 テトスへの手紙1章10節〜2章1節
聖書の話      「教会の健全②信仰生活の敵と神様の助け 」 百瀬ジョザイア伝道師
教会福音讃美歌 230 「確かなもとい ただ主に置き」
献   金
報   告
とりなしの祈り    マーク・ボカネグラ牧師
頌栄(教会福音讃美歌) 271番 「父・子・聖霊の」
祝   祷      マーク・ボカネグラ牧師

         「アーメン」
後   奏  

テトスへの手紙1章10節〜2章1節「教会の健全②信仰生活の敵と神様の助け」 百瀬伝道師

初めに
 重大な目標があると想像してみてください。受験、就職活動、健康の改善、聖書通読など、色々なゴールが想像できると思います。それを達成するために、計画を立てると思いますが、もし目標を達成できなかった時、その原因は何だと思いますか。たいていの場合、周りの人か自分に何か問題があった可能性が高いと思います。周りの人からの邪魔、自分の怠けや恐れなど、色々考えられるかもしれません。目標達成はなかなか難しいことです。
 宣教師(使徒)のパウロが後輩のテトスへ書いた手紙の続きを見ています。今回の話は、「教会の健康(健全)」の続きとして、テトスの派遣先のクレタ島でなぜ長老という教会の指導者を急ぎで立てないといけないか、理由を説明しています。この箇所から、クリスチャンの二つの問題、霊的成長の「敵」を知ります。そして同時に、教会の一人一人が健全に信仰生活を送っていける方法をも学べます。よい方向へ変わりたいと願う私たちは、日々の生活の中で出会う妨げと、それに対して神様が用意された救いと助けの道を学びましょう。
 私たちは医者には正直な診断を望むと思います。パウロは私たちの信仰生活を脅かす問題をはっきりと指摘しますが、同時に希望をもって、回復と成長の道をも提示してくれています。ですから、二つの脅威(敵)を見てから、私たちの霊的健全さと成長を支える二つの原理を見たいと思います。

一、「信仰生活を弱体化させる人がいる」(10〜12、14〜16節)
最初に、教会の信仰生活を弱体化させる人がいるとパウロは書き、特にこの敵を取り上げます。教会に長老という指導者を置く必要があるとこの直前に書きました(5〜9節)。悪い影響力を増して兄弟姉妹の信仰生活の足を引っ張る人たちが教会に入り込んでいたことを指摘し、彼らがクリスチャンなのかが疑わしいと考えたパウロが、この指示を書いています。当時でも今日でも、悪い影響力を持つ者には、三つの観点から気づくことができます。
A.第一に、彼らの態度、心の状態が書いてあります。10節と16節によると、彼らは「反抗的な者、無益な話をする者、人を惑わす者」また「不従順」でした。彼らは、教会の正しい教えに反発していました。自分の利益を求めて、神様の教えではなく、自分や人に都合のよいことを言っていました。その動機は、「恥ずべき利益を得るため」だったと11節に書いてあります。その生き方は「噓つき、悪い獣、怠け者の大食漢」という12節の描写から、欲しいものを得るために手段を問わない人だったと分かります。さらに、彼らは14節で「真理に背を向けている人たち」と描写されています。
B.二つ目の特徴は、彼らの教えです。詳しいことが書かれていなくても、ある程度は推測できます。彼らの教えは恐らく、ユダヤ教の教えを利用して、自分の利益のために混ぜ合わせていたものだったでしょう。「無益」な話は多分、14節で登場する「ユダヤ人の作り話」だったでしょう。ですから、聖書の本質からそれた、つまり聖書の健全な教えを曇らせるものだったため、パウロがとても懸念していました。
さらに、14〜16節を読むと、彼らはユダヤ人の多くのように、何かの行為によって自分をきよくすることができると考えて、それを神様との個人的な、愛の関係の代わりに求めていたことが推測できます。何かをすれば「きよい」、しなければ「けがれている」と言って、自分が教えるきよい行動であなたは神様に認められると教えていたようです(マルコ7:1-8参照)。パウロは皮肉っぽく、彼らが「きよい人たち」と対照的な「汚れた不信仰な人たち」であると言います。この悪い導き手は建前を優先させて、神様の愛から離れていました。さらに、他の人も神様から離れるようにさせていました。
C.最後に、私たちは悪い教師たちを、彼らが及した結果から知ることができます。11節で「彼らは、…教えてはならないことを教え、いくつかの家庭をことごとく破壊しています」と書いてあります。どういう形で家庭を破壊していたかは書いていませんが、家庭そして教会の一致と純潔に大きな脅威となっていました。また、その者たちは、「忌まわしく、不従順で、どんな良いわざにも不適格」な者となってしまっていました。自分たちの教えや富に満足していたかもしれませんが、神様から離れ続ければ、彼ら自身が神様の刑罰を受けることになります。
D. 私たちは、テトスと彼の教会同様、注意する必要があります。私たちは皆、神様のかたち、似姿に創造されたので、お互い関係を持って、影響し合う者です。ある人が私たちに、神様は必要ではない、自分は自分の努力できよくなれる、などと誤解させてしまうかもしれません。もしかすると、私たちも、他の人に同じような悪影響を与えることがあるかもしれません。ですから、神様の教えを否定する偽りとそれを教える人々に私たちは注意するべきです。

二、「私たちの特色ある罪」(12〜13節)
私たちは、教会の信仰を弱体化させる敵を見抜いて避ける力が自分にあると思っているかもしれません。しかし、もう一つの敵がいます。それは、私たち自身と私たちの悪い傾向です。人間の内側に潜む罪深さは誰にでもあり、一人一人の性格またそれぞれの文化によって特徴的な形で出てきます。これも、健全な教会形成において目標達成を困難にしてしまいます。
A.1章12と13節でこう書いてあります。
クレタ人のうちの一人、彼ら自身の預言者が言いました。「クレタ人はいつも噓つき、  悪い獣、 怠け者の大食漢。」
この証言は本当です。ですから、彼らを厳しく戒めて、その信仰を健全にし…
ここの引用は紀元前5、6百年頃に生きていたクレタ出身のエピメニデスという人のことばであったとされています。このクレタ人批判は大げさかと思ったら、そうでもなかったようです。私たちはインターネットで何かを検索すると言うとき、「ググる」という表現を使います。大手検索サイトの「グーグル」を動詞に変えて、そのことばが作られまたのですね。古代のギリシャ語で「クレタる」のような動詞が「クレタ」の島の名前から派生しました。その意味とは、「嘘をつく」でした。クレタ島の民は、海賊や泥棒を歓迎し擁護するという悪評さえありました。事実、古代のクレタ人は堕落した文化で有名でした。神様に反抗し、人を利用する、罪深い自己中心的な性質は全ての人にあると聖書が教えますが、罪深さの表現は時代と文化によって傾向や特色があります。クレタの人々の傾向として、偽りや貪欲がよく現れていたようです。
B. 先ほど見ていた悪い指導者について考えると、この描写はぴったりでしょう。ところが、パウロは13節でクレタ人に関するエピメニデスの「証言は本当です。ですから、彼らを厳しく戒めて、その信仰を健全に」なることを求めなさいと言っています。ここで「彼ら」が誰を指すかが解釈上の問題となります。「悪い教師」のことか、クレタ人全般、またクレタ人クリスチャンのことかははっきり言えません。しかし、14節の「真理に背を向けている人たち」が悪い教師であると理解すれば、13節の「彼ら」はその人たちに影響されつつあったクレタの教会のメンバー全般になるでしょう。
さらに、この手紙でパウロがクレタ人の信者のために書いた戒めをクレタ人の「悪い教師」の罪の不従順、欲張り、偽り、怠惰と比較すると、クレタ人クリスチャンも、クレタ人の悪い教師とそれほど違わなかったことに気づきます。
・1章7節で教会の指導者が「短気でなく、酒飲みでなく」あるようにとパウロは具体的に注意しました。2章2節で「自分を制し」、3節で「大酒のとりこにならず」と教えなさい、と書きます。12節で、12節で「この世の欲を捨て」ることを書きます。クレタの信者にも欲張る傾向があったということになります。
・2章3節で「神に仕えている者にふさわしくふるまい」、5節で若い妻が「自分の夫に従順であるように」、9節で奴隷が「主人に従って…口答えせず」ということが求められています(2:12参照)。クレタの信者にも反抗する傾向があったということです。
・1章7節によると長老は「乱暴でなく、不正な利を求め」ない必要があると明記されています。2章10節によると、奴隷は「盗んだりせず、いつも善良で信頼できることを示す」ように教えられる必要がありました。クレタの信者にも不正直、また横暴な傾向があったのです。
・2章5節や9節によると、クレタの教会の人がその責任を果たすことに励み、「喜ばれる者となるように」努力しなければなりませんでした。それに続く14節では、イエスに救われた人々は「良いわざに熱心」になるはずだとパウロは語ります。言い換えると、クレタの信者にも怠る傾向がありました。
つまり、クレタ人のクリスチャンたちは、彼らに影響を与えていた教師たちと大体同じ傾向を持っていて、その罪の特色は似ていました。信者は彼ら特有の文化や特性によって、こうした罪の傾向を持っていました。
C. 私たちも、自分の心地よい文化や性格の傾向に罪があると気付かされるかもしれません。私たちは多くの面ですばらしい、日本という国の中にいます。日本の文化はこの半世紀ほど、多くの人に「礼儀正しく、潔く、勤勉で清潔」という印象を与え、称賛されてきました。しかし、この「表」の「裏」に良くない傾向も、社会、そしてさらに私たちの心に潜んでいます。私たちは被害者として、または、加害者として(同時に両方かもしれません)、これを経験したことがあるでしょう。神様を無視して生き、神様の教えを無視して集団の価値観を尊ぶ結果として、いじめ、同調圧力などがさらに鬱、引きこもり、不祥事、過労、自殺などなどの問題で現れます。
アメリカ国籍の私も日本で育ちましたので、人の目を恐れて言うべきことを言わなかったり、助けるべき人を見て見ぬ振りしたり、失敗を恐れて責任を取らなかったりしたことが幾度もあったと反省します。皆様はいかがでしょうか。意識もしないところで私たちは、習慣的に人と神様に対して罪を犯していることはないでしょうか。良い方向へ変わりたいと思っても、遠藤周作言うところの、キリスト教を腐らせる「沼地」で、信仰生活がなかなか進まないということはないでしょうか。

三、「健全ときよさの道を備えてくださった神様」(1:12〜14、2:1)
 では、外の悪い影響と内にある罪が教会の私たちに働きかけて、信仰の歩みを弱体化させ、様々な悲しい結果へもたらすのならば、パウロは何に希望を持ってテトスに手紙を書いているのでしょうか。二つのヒントがこの箇所にあります。
 A. まず、この箇所の直前と真ん中と終わりに来る「健全」ということばがヒントを指します。パウロは1章9節で教会の指導者が「健全な教え」を擁護するように、そして2章1節でテトス自身が「健全な教えにふさわしいことを語りなさい」と指示します。これによって、クレタ人(場合によってはその悪い教師たちさえ)の「信仰〈が〉健全に」なるようにとパウロが期待します。
 健全な教えとは、聖書全体に忠実な教え、「教えにかなった信頼すべきみことば」(テトス1:9)です。聖書の学びそして特に説教で聞くことばです。単純であると同時に、深い解決の道です。その真理のことばが正しく心に影響すると、私たちは健全な、神様中心の希望あふれた生き方に進むことができます(1:1参照)。イエス・キリストへの信仰のみによって人は神様に受け入れられて義と認められるのですが、その信仰には、変えられた生き方が伴うと聖書が約束しています。私たちは神様のことばが私たちを変える力があると期待していますか。
B. また、「きよい」生活をも神様が可能にしてくださっています。すでにお話したように、「不信仰な人たち」はこの点において悪い教師でした。彼らは何かをすればきよくなることができると主張していたユダヤ人の文化の影響を受けていたでしょう。しかし、パウロはこの手紙の2章14節で本当のきよさの始まりを説明します。
キリストは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心な選びの民をご自分のものとしてきよめるため、私たちのためにご自分を献げられたのです。
+この箇所と新約聖書がはっきりと教えるきよさと信仰生活の秘訣は、これです。子なる神であり、完全なきよい心と行い、ことばをまっとうされたイエス・キリストが十字架につき、それぞれの罪の傾向に従ったあらゆるバリエーションで反抗を表現する私たちの不法の刑罰を受ける身代わりとして、天の父なる神様に「ご自分を献げられた」のです。さらに、復活されたイエス様が送ってくださった聖霊なる神様が、人に信仰を下さり、心をきよめ、健全な道に歩ませてくださいます(テトス3:5-6参照)。神様はこのように、健全な教えをもって、私たちを変えてくださいます。1章15節の「汚れた不信仰な人」は私たち皆を含みましたが、神様が私たちのような者を「きよい人」へと変えてくださいます。救いの瞬間、義認のときだけでなく、それ以降の聖化の過程においても、神様が私たちを健全なみことばをもって、イエス様によってきよめてくださるのです。
 C.私たちは神様のみことばが私たちを変える力があると期待していますか。期待できます!私の場合、性格が日本文化の(振り返れば、家庭の環境にもあった)几帳面や丁寧な、完璧主義的な部分とやはり、よく重なり合っているというか影響されていると思います。高慢になったり、人の目を恐れたりするように、神様に自分を認めさせないといけないと恐れる傾向が自分の中に根付いていた(いる)と思います。良い成果や見た目をここまで大切にするのは偶像だ、自分を神様かのように扱うことだと、友人や牧師、信仰の先輩が気づかせてくれました。自分に罪を示してくださり、私が本当にイエス様のきよさだけに頼れる(拠り所である)と気づかせてくださいます。感謝なことに、日本の几帳面な文化を大切にすると同時に、それを至上の価値とするのことから解放され始めています。これは、健全な教えと神様の働きによります。主に感謝するしかありません。

結び
 私たちの信仰の歩みを混乱させる人がいて、私たちの心も罪に惹かれる傾向を持っています。しかし、これらに対して、神様が教会の一人一人に健全さ、そしてきよさの道を備えてくださっています。それが、健全な教え、聖書の福音とその結果です。神様の力によって、私たちはパウロのように、「はい、私は今でも罪ある者です。しかし、イエス様が私の身代わりとして私の罪を贖ってくださったことを信じ、神様が私を変えてくださることに期待しています」と言うことができます。
 教会の健全な信仰と歩みを脅かす外と内の敵に対して私たちには何もできなくても、神様ご自身が、みことばと主イエス様のきよめの働きによって、救ってくださり、日々の信仰生活を続ける力と助けを備えてくださいます。期待しましょう。

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