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6月6日礼拝の音声ファイルです。
↓↓

<式順>

前 奏
神の招き
司会者 主イエス・キリストの恵みがあなたがたすべてとともにありますように。
会衆 主の恵みがありますように。
司会者 さあ、主に向かって喜び歌おう。われらの救いの岩に向かって、喜び叫ぼう。
会衆 感謝の歌をもって、御前に進み行き、賛美の歌をもって、主に喜び叫ぼう。
一同 主は大いなる神であり、すべての神々にまさって、大いなる王である。
教会福音讃美歌  11番 「つきぬ喜びを注がれる主よ」
開会の祈り

罪の告白の招き  イザヤ書55章6-7節
罪の告白の祈り
会衆 あわれみ深い神よ。私たちはあなたに対して罪を犯したことを告白します。思いと言葉と行いにおいて、禁じられたことを行い、すべきことを怠りました。私たちは心と知性と力を尽くしてあなたを愛しませんでした。自分自身のように隣人を愛することもできませんでした。あわれみのゆえに、これまでの私たちをお赦しください。今ある私たちを造り変え、私たちのこれからの歩みを導いてください。そうすれば、あなたのみ心を喜び、あなたの道を歩むことができます。あなたの聖なる御名の栄光が現われますように。
アーメン。
個人的な告白 ( 黙祷のうちに )
赦しの確証   詩篇32篇1-2節
会衆 アーメン。

平和のあいさつ
司会者 神はキリストによって私たちを赦してくださいましたから、私たちも互いに赦しの恵みを分かち合いましょう。私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平和があなた方の上にありますように。
会衆 主の平和が、あなたとともにありますように。
教会福音讃美歌 164番 「神のいきよ」

みことばの宣教
聖書朗読 マタイの福音書 25章1−13節
聖書の話     「賢い用意をし、目を覚ましていよう」 廣橋嘉信牧師

教会福音讃美歌 67番 「『起きよ』と叫ぶ声」

聖晩餐式
[制定のことば] コリント人への手紙第一11章23−29節
[式 辞][祈 り][分 餐] 配餐者 大場長老 那須長老
一同 私たちの贖い主イエス・キリストの父なる神よ。私たちは、主の聖晩餐にあずかることができた恵みを心から感謝いたします。この主との親しい交わりにおいて与えられた祝福によって、神の子、光の子らしく歩む誓いに生き、各々の十字架を負いつつ御国で祝うその日まで、この聖礼典を重んじ、守らせてくださいますように。
私たちの贖い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
献 金
報 告
教会福音讃美歌 272番 「みつにまして ひとつの神」
祝 祷                        廣橋嘉信牧師
後 奏      567番 「アーメン・アーメン・アーメン」

2021.5.16 マタイの福音書25章1−13節「賢い用意をし、目を覚ましていよう」

招きの言葉 ペテロ第二の手紙3章8-9節

序文)主イエス様が終末預言について、次々と話されて、終わりにたとえをもって、再臨に備えて生きるようにと忠告を下さいました。「そこで」と一節にあるので、続く二つのたとえ話が、24章終末預言の続きであるとわかります。「その日、その時をあなたがたは知らないのですから」と結語されたので、その前に書かれている事柄はクリスチャンたちに対する、日頃の準備を教えられたと考えます。花婿を迎えに出る「十人の娘」の賢い用意をした五人と、用意を怠った五人の愚かな娘の話です。婚礼の祝宴に入れてもらえたか、締め出されたか、です。天の御国に入れてもらえるか、締め出されるかという結論を見ると、一人一人の信仰者の日常の態度が重要だとわかります。賢いか、愚かかです。

Ⅰ 花婿を出迎える、十人の娘

イエス時代のユダヤの結婚式について詳しいことがわかっているわけでないので、推察でこの喩え話の文脈を理解しましょう。通常、結婚式を迎える花婿はまず、花嫁の(両親の)家に行きます。そこで花嫁料(日本で結納金)などについて最終的な話し合いをします。それが成立すると、花婿は花嫁を連れて花婿の家に戻り、花婿の友人たちを招きます。その後、花婿は花嫁の友人たちが待つ花嫁の家に行きます。花嫁の友人たちは玄関に花婿を迎えに出ます。次に花婿は花嫁の友人たちを連れて、花婿の家に戻ります。そこで、花婿の友人たちと、花嫁の友人たちが、花婿の家に入って盛大な祝宴を開きます。

主イエス様のたとえは次の通りです。「そこで、天の御国は、それぞれともしびを持って花婿を迎えに出る、十人の娘にたとえることができます。そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を持って来ていなかった。賢い娘たちは自分のともしびと一緒に、入れ物に油を入れて持っていた。」(1−4節)

花婿を出迎える十人のうち、「五人は愚かで」と先に書いてあるので、このたとえは、「愚か」に焦点を合わせています。愚かの理由は、「ともしびは持っていたが、予備の油を持ってきていなかった」。「賢い」は、ともしびも予備の油も用意していた。

「愚か」という原語(ムーポイ)は、人間的な知恵(ソフィア)が不足していることを指す言葉ではない。また理性的判断力や洞察力を問題にする聡明さ(スネシス)を指す言葉でもない。神が啓示された真理を無視し、自己中心的に生きる姿を表す言葉です。日常的に習慣として「愚か」であった。

信仰の目を持って、神様のみことばを真理として受けてとめ、生活する姿は、「賢い」と主は言われた。私たちも、再臨の主を迎えるために、賢い日常生活を進める必要が絶対にあります。

Ⅱ 予備の油がない

「花婿が来るのが遅くなったので、娘たちはみな眠くなり寝入ってしまった。ところが夜中になって、『さあ、花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。そこで娘たちはみな起きて、自分のともしびを整えた。愚かな娘たちは賢い娘たちに言った。『私たちのともしびが消えそうなので、あなたがたの油を分けてください。』しかし、賢い娘たちは答えた。『いいえ、分けてあげるにはとても足りません。それより、店に行って自分の分を買ってください。』そこで娘たちが買いに行くと、その間に花婿が来た。用意ができていた娘たちは彼と一緒に婚礼の祝宴に入り、戸が閉じられた。」(5−10節)

予想よりも遅く花婿が到着した。夜中である。「愚かな娘たち」のともしびと油は、「消えそうに」なっていた。花婿が来るのが遅すぎた。それで、賢い娘たちに「油を分けて」ほしいと言った。賢い娘たちは、予備の油をちゃんと用意していたが、分けてあげるほどは持っていなかった。自分の分は持っていた。愚かな娘たちに、賢い娘たちは「店に行って買いなさい」と言った。

多くの信徒たちが主イエス様の再臨は遅い。まだまだだと思っています。主が言われてからもう2000年以上たっているのにまだ来られない。再臨が遅い。遅れていると思われる理由が聖書に書いてあります。「主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです」(ペテロの手紙 第二 3:9)。主の愛とあわれみによるのです。悔い改めて福音を信じる者の数が満ちるのを待ち望んでおられるのです。信じた者が主の忍耐を軽んじてはいけません。

「ともしび」、「油」は何を指しているのでしょうか。花嫁の友人として花婿を迎えに出る資格です。他の一般的な、結婚式に関係していない女性たちと区別する目印でした。一般的な人々とクリスチャンたちを区別する目印は何でしょうか。信仰告白をしている。洗礼を受けている。聖晩餐式に与っている。礼拝に出席している。聖書を読み、祈りをし、主に仕え、従っている、などなどは、目に見える事柄です。これらは「ともしび」でしょう。

それに比べて「油」は何でしょう。それは「ともしび」を照らす源になる「油」です。それはクリスチャン生活のいのちを支える「聖霊」様です。クリスチャンは「聖霊を宿す宮」です。生活の原理ともなっています。この聖霊に支えられている内面を優先順位第一として、重視して日々を生きていくことです。日々に聖霊に導かれて生きていくことの重要さを教えられています。聖霊は、他の人から分け与えられるのではありません。一人一人信じる者に、神様が下さるのです。主を迎える準備は、一人ひとりでしておかなければなりません。この点は、個人主義です。一緒に礼拝を守り、奉仕をし、セルグループの交わりをし、証を分かち合っていても、再臨の日には、信じる者が一人一人迎え入れられるのです。

また、愚かな者は、終末の前兆を見ても、自分の信仰に足りないものがないかの自己吟味をしていなかった。求め始めるのが遅すぎた。昼の間に求めておくべきだった。マタイ24:33「同じように、これらのことをすべて見たら、あなたがたは人の子が戸口まで近づいていることを知りなさい。」「戸口までに近づいている」とわかれば、準備をする。間に合わないことがないように、店が開いているうちに油を買いに行くことができる。「みことば」と「祈り」は、恵みの外的手段です。礼典である洗礼はすでに受けている。聖晩餐式はどうでしょうか。陪餐するのを怠っていないでしょうか。信仰の油である聖霊を満たしていただくことは、再臨の時では遅いのです。日々に満たされている必要があるのです。

Ⅲ 御霊にみたされていよう

1 エペソ人への手紙5章18-21節「また、ぶどう酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。むしろ、御霊に満たされなさい。詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい。いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって、父である神に感謝しなさい。キリストを恐れて、互いに従い合いなさい。」

ここにはすべてのクリスチャンに向けられた、二つの命令があります。「酒によってはいけません」と「聖霊に満たされなさい」です。

アルコールの支配下に自分を置かないようにしなさい。そうしないと「放蕩」がある。「放蕩」と翻訳されていることばは文字どおりには「救いようがない」という意味です。自分自身を制御できない状態を表しているのです。その人にとって抑制が利かなくなり、ついには自分が自分でなくなって不合理な放縦をもたらし、酔った人を動物に変えてしまうのです。

これに対して聖霊に満たされるとき、人は自分を制御できなくなるということは起こりません。私たちの内に住まわれる聖霊の支配のもとに完全に服し、私たちが神のしもべ、イエスのしもべであることを認めるようになります。しかも神が私たちを創造し救いに入れてくださり、キリストに似る者としての自分自身であるように、自分を取り戻すのです。例えば、何事であれ悪習間に染まり、また、舌を制することができない自分が、「自制」の実りを結ぶようになるのです。他の人との関係においてキリストのご性質にあずかる者として振る舞う者にと変えられていくのです。

「聖霊に満たされる」とは受け身であります。「聖霊をして、あなたを満たさせなさい」です。満たされるために条件があるのです。それは聖霊が満ちてくださろうとしていることに、自分を明け渡して、お任せして、「どうぞ満ちてください」と祈ることが必要なのです。

2 満たされる方法

聖霊があなたの内に満ちることを阻害しているものを取り除くこと。エペソ4章30-32節によると、聖霊を悲しませている罪を認め、自分の側の不信仰、不従順を謙虚に悔い改め、清めていただくこと。聖霊が悲しんでおられる兆候は、祈りを止めてしまっていること、神と人々への愛が失われていること、無力な祈り、みことばへの無関心、誘惑にすぐに乗せられて負けること、不信と不従順と疑惑と猜疑心に取り巻かれていること、敗北感、罪責感、ねたみ、破壊的な批判、思い煩いに取り囲まれている、欲求不満、無感動な日々などです。

次に、聖霊に満たされることを求めること。自分の必要に気がついて、渇き求めること。どうぞ私に満ちてくださいと祈ること。助け主の助けを必要としている自分であると謙虚に求めること。

その上で、神に自分をゆだねること。全身全霊をゆだねること。ゆだねるとは、自分の生活のすべての領域に、聖霊の支配権を認め、力をいただくということ。

満たされる最後のステップは、満たされたと信じること。自分が聖霊の満たしを信じることは祈りによって表明できるのです。信じることは祈りによって確証されるのです。祈りは、まさに乾いている者が、水を飲むのと同じ働きを、信じる者にもたらすのです。

聖霊に満たされると、日常生活の中にごく当たり前の礼拝と交わりと互いの関係において、キリストのご性質が私たちをとおしてあらわされるのです。それは何か異常な超自然の出来事でなく、霊的性質と活動が祝福され、信仰のいのちの躍動と、清めの前進と、力に溢れることによって、これらを土台として救われた幸いの思いが満ち溢れるのです。

結び)目をさましていなさい

「その後で残りの娘たちも来て、『ご主人様、ご主人様、開けてください』と言った。

しかし、主人は答えた。『まことに、あなたがたに言います。私はあなたがたを知りません。』ですから、目を覚ましていなさい。その日、その時をあなたがたは知らないのですから。」(マタイ25:11−13)

戸を閉じられてからは、開けてもらえない。披露宴の主催者である花婿の父親(ご主人)は、懸命に頼む、遅れてきた愚かな花嫁の友たちに「私はあなた方を知らない」と言った。完全に突き放した言い方です。現実の場合には入れてもらえたかもしれませんが、この話は「たとえ話」です。油を準備することの重要性を強調するたとえ話なのです。時すでに遅しです。宴会場に入ることはできません。

「ですから」たとえの結論です。「目を覚ましていなさい。」キリストの再臨に対して用意周到な準備を日々にしていなさい。それは、再臨の時を誰もしらないからです。いつおいでになっても良いように「目を覚ましていなさい。」

2021.5.16 マタイの福音書25章1−13節「賢い用意をし、目を覚ましていよう」

招きの言葉 ペテロ第二の手紙3章8-9節

序文)主イエス様が終末預言について、次々と話されて、終わりにたとえをもって、再臨に備えて生きるようにと忠告を下さいました。「そこで」と一節にあるので、続く二つのたとえ話が、24章終末預言の続きであるとわかります。「その日、その時をあなたがたは知らないのですから」と結語されたので、その前に書かれている事柄はクリスチャンたちに対する、日頃の準備を教えられたと考えます。花婿を迎えに出る「十人の娘」の賢い用意をした五人と、用意を怠った五人の愚かな娘の話です。婚礼の祝宴に入れてもらえたか、締め出されたか、です。天の御国に入れてもらえるか、締め出されるかという結論を見ると、一人一人の信仰者の日常の態度が重要だとわかります。賢いか、愚かかです。

Ⅰ 花婿を出迎える、十人の娘

イエス時代のユダヤの結婚式について詳しいことがわかっているわけでないので、推察でこの喩え話の文脈を理解しましょう。通常、結婚式を迎える花婿はまず、花嫁の(両親の)家に行きます。そこで花嫁料(日本で結納金)などについて最終的な話し合いをします。それが成立すると、花婿は花嫁を連れて花婿の家に戻り、花婿の友人たちを招きます。その後、花婿は花嫁の友人たちが待つ花嫁の家に行きます。花嫁の友人たちは玄関に花婿を迎えに出ます。次に花婿は花嫁の友人たちを連れて、花婿の家に戻ります。そこで、花婿の友人たちと、花嫁の友人たちが、花婿の家に入って盛大な祝宴を開きます。

主イエス様のたとえは次の通りです。「そこで、天の御国は、それぞれともしびを持って花婿を迎えに出る、十人の娘にたとえることができます。そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を持って来ていなかった。賢い娘たちは自分のともしびと一緒に、入れ物に油を入れて持っていた。」(1−4節)

花婿を出迎える十人のうち、「五人は愚かで」と先に書いてあるので、このたとえは、「愚か」に焦点を合わせています。愚かの理由は、「ともしびは持っていたが、予備の油を持ってきていなかった」。「賢い」は、ともしびも予備の油も用意していた。

「愚か」という原語(ムーポイ)は、人間的な知恵(ソフィア)が不足していることを指す言葉ではない。また理性的判断力や洞察力を問題にする聡明さ(スネシス)を指す言葉でもない。神が啓示された真理を無視し、自己中心的に生きる姿を表す言葉です。日常的に習慣として「愚か」であった。

信仰の目を持って、神様のみことばを真理として受けてとめ、生活する姿は、「賢い」と主は言われた。私たちも、再臨の主を迎えるために、賢い日常生活を進める必要が絶対にあります。

Ⅱ 予備の油がない

「花婿が来るのが遅くなったので、娘たちはみな眠くなり寝入ってしまった。ところが夜中になって、『さあ、花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。そこで娘たちはみな起きて、自分のともしびを整えた。愚かな娘たちは賢い娘たちに言った。『私たちのともしびが消えそうなので、あなたがたの油を分けてください。』しかし、賢い娘たちは答えた。『いいえ、分けてあげるにはとても足りません。それより、店に行って自分の分を買ってください。』そこで娘たちが買いに行くと、その間に花婿が来た。用意ができていた娘たちは彼と一緒に婚礼の祝宴に入り、戸が閉じられた。」(5−10節)

予想よりも遅く花婿が到着した。夜中である。「愚かな娘たち」のともしびと油は、「消えそうに」なっていた。花婿が来るのが遅すぎた。それで、賢い娘たちに「油を分けて」ほしいと言った。賢い娘たちは、予備の油をちゃんと用意していたが、分けてあげるほどは持っていなかった。自分の分は持っていた。愚かな娘たちに、賢い娘たちは「店に行って買いなさい」と言った。

多くの信徒たちが主イエス様の再臨は遅い。まだまだだと思っています。主が言われてからもう2000年以上たっているのにまだ来られない。再臨が遅い。遅れていると思われる理由が聖書に書いてあります。「主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです」(ペテロの手紙 第二 3:9)。主の愛とあわれみによるのです。悔い改めて福音を信じる者の数が満ちるのを待ち望んでおられるのです。信じた者が主の忍耐を軽んじてはいけません。

「ともしび」、「油」は何を指しているのでしょうか。花嫁の友人として花婿を迎えに出る資格です。他の一般的な、結婚式に関係していない女性たちと区別する目印でした。一般的な人々とクリスチャンたちを区別する目印は何でしょうか。信仰告白をしている。洗礼を受けている。聖晩餐式に与っている。礼拝に出席している。聖書を読み、祈りをし、主に仕え、従っている、などなどは、目に見える事柄です。これらは「ともしび」でしょう。

それに比べて「油」は何でしょう。それは「ともしび」を照らす源になる「油」です。それはクリスチャン生活のいのちを支える「聖霊」様です。クリスチャンは「聖霊を宿す宮」です。生活の原理ともなっています。この聖霊に支えられている内面を優先順位第一として、重視して日々を生きていくことです。日々に聖霊に導かれて生きていくことの重要さを教えられています。聖霊は、他の人から分け与えられるのではありません。一人一人信じる者に、神様が下さるのです。主を迎える準備は、一人ひとりでしておかなければなりません。この点は、個人主義です。一緒に礼拝を守り、奉仕をし、セルグループの交わりをし、証を分かち合っていても、再臨の日には、信じる者が一人一人迎え入れられるのです。

また、愚かな者は、終末の前兆を見ても、自分の信仰に足りないものがないかの自己吟味をしていなかった。求め始めるのが遅すぎた。昼の間に求めておくべきだった。マタイ24:33「同じように、これらのことをすべて見たら、あなたがたは人の子が戸口まで近づいていることを知りなさい。」「戸口までに近づいている」とわかれば、準備をする。間に合わないことがないように、店が開いているうちに油を買いに行くことができる。「みことば」と「祈り」は、恵みの外的手段です。礼典である洗礼はすでに受けている。聖晩餐式はどうでしょうか。陪餐するのを怠っていないでしょうか。信仰の油である聖霊を満たしていただくことは、再臨の時では遅いのです。日々に満たされている必要があるのです。

Ⅲ 御霊にみたされていよう

1 エペソ人への手紙5章18-21節「また、ぶどう酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。むしろ、御霊に満たされなさい。詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい。いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって、父である神に感謝しなさい。キリストを恐れて、互いに従い合いなさい。」

ここにはすべてのクリスチャンに向けられた、二つの命令があります。「酒によってはいけません」と「聖霊に満たされなさい」です。

アルコールの支配下に自分を置かないようにしなさい。そうしないと「放蕩」がある。「放蕩」と翻訳されていることばは文字どおりには「救いようがない」という意味です。自分自身を制御できない状態を表しているのです。その人にとって抑制が利かなくなり、ついには自分が自分でなくなって不合理な放縦をもたらし、酔った人を動物に変えてしまうのです。

これに対して聖霊に満たされるとき、人は自分を制御できなくなるということは起こりません。私たちの内に住まわれる聖霊の支配のもとに完全に服し、私たちが神のしもべ、イエスのしもべであることを認めるようになります。しかも神が私たちを創造し救いに入れてくださり、キリストに似る者としての自分自身であるように、自分を取り戻すのです。例えば、何事であれ悪習間に染まり、また、舌を制することができない自分が、「自制」の実りを結ぶようになるのです。他の人との関係においてキリストのご性質にあずかる者として振る舞う者にと変えられていくのです。

「聖霊に満たされる」とは受け身であります。「聖霊をして、あなたを満たさせなさい」です。満たされるために条件があるのです。それは聖霊が満ちてくださろうとしていることに、自分を明け渡して、お任せして、「どうぞ満ちてください」と祈ることが必要なのです。

2 満たされる方法

聖霊があなたの内に満ちることを阻害しているものを取り除くこと。エペソ4章30-32節によると、聖霊を悲しませている罪を認め、自分の側の不信仰、不従順を謙虚に悔い改め、清めていただくこと。聖霊が悲しんでおられる兆候は、祈りを止めてしまっていること、神と人々への愛が失われていること、無力な祈り、みことばへの無関心、誘惑にすぐに乗せられて負けること、不信と不従順と疑惑と猜疑心に取り巻かれていること、敗北感、罪責感、ねたみ、破壊的な批判、思い煩いに取り囲まれている、欲求不満、無感動な日々などです。

次に、聖霊に満たされることを求めること。自分の必要に気がついて、渇き求めること。どうぞ私に満ちてくださいと祈ること。助け主の助けを必要としている自分であると謙虚に求めること。

その上で、神に自分をゆだねること。全身全霊をゆだねること。ゆだねるとは、自分の生活のすべての領域に、聖霊の支配権を認め、力をいただくということ。

満たされる最後のステップは、満たされたと信じること。自分が聖霊の満たしを信じることは祈りによって表明できるのです。信じることは祈りによって確証されるのです。祈りは、まさに乾いている者が、水を飲むのと同じ働きを、信じる者にもたらすのです。

聖霊に満たされると、日常生活の中にごく当たり前の礼拝と交わりと互いの関係において、キリストのご性質が私たちをとおしてあらわされるのです。それは何か異常な超自然の出来事でなく、霊的性質と活動が祝福され、信仰のいのちの躍動と、清めの前進と、力に溢れることによって、これらを土台として救われた幸いの思いが満ち溢れるのです。

結び)目をさましていなさい

「その後で残りの娘たちも来て、『ご主人様、ご主人様、開けてください』と言った。

しかし、主人は答えた。『まことに、あなたがたに言います。私はあなたがたを知りません。』ですから、目を覚ましていなさい。その日、その時をあなたがたは知らないのですから。」(マタイ25:11−13)

戸を閉じられてからは、開けてもらえない。披露宴の主催者である花婿の父親(ご主人)は、懸命に頼む、遅れてきた愚かな花嫁の友たちに「私はあなた方を知らない」と言った。完全に突き放した言い方です。現実の場合には入れてもらえたかもしれませんが、この話は「たとえ話」です。油を準備することの重要性を強調するたとえ話なのです。時すでに遅しです。宴会場に入ることはできません。

「ですから」たとえの結論です。「目を覚ましていなさい。」キリストの再臨に対して用意周到な準備を日々にしていなさい。それは、再臨の時を誰もしらないからです。いつおいでになっても良いように「目を覚ましていなさい。」

2021.5.16 マタイの福音書25章1−13節「賢い用意をし、目を覚ましていよう」

招きの言葉 ペテロ第二の手紙3章8-9節

序文)主イエス様が終末預言について、次々と話されて、終わりにたとえをもって、再臨に備えて生きるようにと忠告を下さいました。「そこで」と一節にあるので、続く二つのたとえ話が、24章終末預言の続きであるとわかります。「その日、その時をあなたがたは知らないのですから」と結語されたので、その前に書かれている事柄はクリスチャンたちに対する、日頃の準備を教えられたと考えます。花婿を迎えに出る「十人の娘」の賢い用意をした五人と、用意を怠った五人の愚かな娘の話です。婚礼の祝宴に入れてもらえたか、締め出されたか、です。天の御国に入れてもらえるか、締め出されるかという結論を見ると、一人一人の信仰者の日常の態度が重要だとわかります。賢いか、愚かかです。

Ⅰ 花婿を出迎える、十人の娘

イエス時代のユダヤの結婚式について詳しいことがわかっているわけでないので、推察でこの喩え話の文脈を理解しましょう。通常、結婚式を迎える花婿はまず、花嫁の(両親の)家に行きます。そこで花嫁料(日本で結納金)などについて最終的な話し合いをします。それが成立すると、花婿は花嫁を連れて花婿の家に戻り、花婿の友人たちを招きます。その後、花婿は花嫁の友人たちが待つ花嫁の家に行きます。花嫁の友人たちは玄関に花婿を迎えに出ます。次に花婿は花嫁の友人たちを連れて、花婿の家に戻ります。そこで、花婿の友人たちと、花嫁の友人たちが、花婿の家に入って盛大な祝宴を開きます。

主イエス様のたとえは次の通りです。「そこで、天の御国は、それぞれともしびを持って花婿を迎えに出る、十人の娘にたとえることができます。そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を持って来ていなかった。賢い娘たちは自分のともしびと一緒に、入れ物に油を入れて持っていた。」(1−4節)

花婿を出迎える十人のうち、「五人は愚かで」と先に書いてあるので、このたとえは、「愚か」に焦点を合わせています。愚かの理由は、「ともしびは持っていたが、予備の油を持ってきていなかった」。「賢い」は、ともしびも予備の油も用意していた。

「愚か」という原語(ムーポイ)は、人間的な知恵(ソフィア)が不足していることを指す言葉ではない。また理性的判断力や洞察力を問題にする聡明さ(スネシス)を指す言葉でもない。神が啓示された真理を無視し、自己中心的に生きる姿を表す言葉です。日常的に習慣として「愚か」であった。

信仰の目を持って、神様のみことばを真理として受けてとめ、生活する姿は、「賢い」と主は言われた。私たちも、再臨の主を迎えるために、賢い日常生活を進める必要が絶対にあります。

Ⅱ 予備の油がない

「花婿が来るのが遅くなったので、娘たちはみな眠くなり寝入ってしまった。ところが夜中になって、『さあ、花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。そこで娘たちはみな起きて、自分のともしびを整えた。愚かな娘たちは賢い娘たちに言った。『私たちのともしびが消えそうなので、あなたがたの油を分けてください。』しかし、賢い娘たちは答えた。『いいえ、分けてあげるにはとても足りません。それより、店に行って自分の分を買ってください。』そこで娘たちが買いに行くと、その間に花婿が来た。用意ができていた娘たちは彼と一緒に婚礼の祝宴に入り、戸が閉じられた。」(5−10節)

予想よりも遅く花婿が到着した。夜中である。「愚かな娘たち」のともしびと油は、「消えそうに」なっていた。花婿が来るのが遅すぎた。それで、賢い娘たちに「油を分けて」ほしいと言った。賢い娘たちは、予備の油をちゃんと用意していたが、分けてあげるほどは持っていなかった。自分の分は持っていた。愚かな娘たちに、賢い娘たちは「店に行って買いなさい」と言った。

多くの信徒たちが主イエス様の再臨は遅い。まだまだだと思っています。主が言われてからもう2000年以上たっているのにまだ来られない。再臨が遅い。遅れていると思われる理由が聖書に書いてあります。「主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです」(ペテロの手紙 第二 3:9)。主の愛とあわれみによるのです。悔い改めて福音を信じる者の数が満ちるのを待ち望んでおられるのです。信じた者が主の忍耐を軽んじてはいけません。

「ともしび」、「油」は何を指しているのでしょうか。花嫁の友人として花婿を迎えに出る資格です。他の一般的な、結婚式に関係していない女性たちと区別する目印でした。一般的な人々とクリスチャンたちを区別する目印は何でしょうか。信仰告白をしている。洗礼を受けている。聖晩餐式に与っている。礼拝に出席している。聖書を読み、祈りをし、主に仕え、従っている、などなどは、目に見える事柄です。これらは「ともしび」でしょう。

それに比べて「油」は何でしょう。それは「ともしび」を照らす源になる「油」です。それはクリスチャン生活のいのちを支える「聖霊」様です。クリスチャンは「聖霊を宿す宮」です。生活の原理ともなっています。この聖霊に支えられている内面を優先順位第一として、重視して日々を生きていくことです。日々に聖霊に導かれて生きていくことの重要さを教えられています。聖霊は、他の人から分け与えられるのではありません。一人一人信じる者に、神様が下さるのです。主を迎える準備は、一人ひとりでしておかなければなりません。この点は、個人主義です。一緒に礼拝を守り、奉仕をし、セルグループの交わりをし、証を分かち合っていても、再臨の日には、信じる者が一人一人迎え入れられるのです。

また、愚かな者は、終末の前兆を見ても、自分の信仰に足りないものがないかの自己吟味をしていなかった。求め始めるのが遅すぎた。昼の間に求めておくべきだった。マタイ24:33「同じように、これらのことをすべて見たら、あなたがたは人の子が戸口まで近づいていることを知りなさい。」「戸口までに近づいている」とわかれば、準備をする。間に合わないことがないように、店が開いているうちに油を買いに行くことができる。「みことば」と「祈り」は、恵みの外的手段です。礼典である洗礼はすでに受けている。聖晩餐式はどうでしょうか。陪餐するのを怠っていないでしょうか。信仰の油である聖霊を満たしていただくことは、再臨の時では遅いのです。日々に満たされている必要があるのです。

Ⅲ 御霊にみたされていよう

1 エペソ人への手紙5章18-21節「また、ぶどう酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。むしろ、御霊に満たされなさい。詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい。いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって、父である神に感謝しなさい。キリストを恐れて、互いに従い合いなさい。」

ここにはすべてのクリスチャンに向けられた、二つの命令があります。「酒によってはいけません」と「聖霊に満たされなさい」です。

アルコールの支配下に自分を置かないようにしなさい。そうしないと「放蕩」がある。「放蕩」と翻訳されていることばは文字どおりには「救いようがない」という意味です。自分自身を制御できない状態を表しているのです。その人にとって抑制が利かなくなり、ついには自分が自分でなくなって不合理な放縦をもたらし、酔った人を動物に変えてしまうのです。

これに対して聖霊に満たされるとき、人は自分を制御できなくなるということは起こりません。私たちの内に住まわれる聖霊の支配のもとに完全に服し、私たちが神のしもべ、イエスのしもべであることを認めるようになります。しかも神が私たちを創造し救いに入れてくださり、キリストに似る者としての自分自身であるように、自分を取り戻すのです。例えば、何事であれ悪習間に染まり、また、舌を制することができない自分が、「自制」の実りを結ぶようになるのです。他の人との関係においてキリストのご性質にあずかる者として振る舞う者にと変えられていくのです。

「聖霊に満たされる」とは受け身であります。「聖霊をして、あなたを満たさせなさい」です。満たされるために条件があるのです。それは聖霊が満ちてくださろうとしていることに、自分を明け渡して、お任せして、「どうぞ満ちてください」と祈ることが必要なのです。

2 満たされる方法

聖霊があなたの内に満ちることを阻害しているものを取り除くこと。エペソ4章30-32節によると、聖霊を悲しませている罪を認め、自分の側の不信仰、不従順を謙虚に悔い改め、清めていただくこと。聖霊が悲しんでおられる兆候は、祈りを止めてしまっていること、神と人々への愛が失われていること、無力な祈り、みことばへの無関心、誘惑にすぐに乗せられて負けること、不信と不従順と疑惑と猜疑心に取り巻かれていること、敗北感、罪責感、ねたみ、破壊的な批判、思い煩いに取り囲まれている、欲求不満、無感動な日々などです。

次に、聖霊に満たされることを求めること。自分の必要に気がついて、渇き求めること。どうぞ私に満ちてくださいと祈ること。助け主の助けを必要としている自分であると謙虚に求めること。

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