ようこそ!海浜幕張めぐみ教会へ!- Welcome to Kaihin Makuhari Grace Church!!

<式順>

前   奏
招きの言葉 ヘブル人への手紙6章16−18節
さ ん び 「イエスは王〜He is the King〜」
さ ん び 「愛する我が主よ~I Love You, Lord~」
開会の祈り
主の祈り
教会福音讃美歌 349番 「優しき主イェスよ」
聖書朗読 ヨシュア記9章1−27節
聖書の話      「罪深い信仰、正しい不従順」 マーク・ボカネグラ牧師
教会福音讃美歌 302番 「誰より深く罪に汚れた」(1−3番)
献   金
報   告
とりなしの祈り マーク・ボカネグラ牧師
頌栄(教会福音讃美歌) 271番 「父・子・聖霊の」
祝   祷 マーク・ボカネグラ牧師
後   奏  567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

ヨシュア記9:1-27 「罪深い信仰、正しい不従順」

ヨシュア記を通して、私たちは「福音」と「律法」の違いを少しずつ学んできました。律法は神様から頂いた「グッドアドバイス」で、もしそのアドバイスに従って歩めば、望んでいる祝福、勝利、あるいは、救いを獲得できます。福音はその反対です。「福音」は望んでいる祝福、あるいは、救いが一方的に与えられるというニュースを聞いて、それを受け入れ、そのニュースが事実であることを信じて歩むことです。本日の聖書箇所では、神の民の「福音理解」、そして、私たちの福音理解が試されています。

私の説教では、いつも一つの罪、または、一つの誘惑に焦点を当てています。今日の箇所のテーマは、自分より罪深いと思う相手、または、信用していた人が、予想もしなかった形であなたに罪を犯したときの、あなたの怒りや復讐したくなる誘惑についてです。皆さんはいかがでしょうか?ちょっと苦手な人、または、深く信頼していた人(家族、友人、同僚)があなたに対してかなり重い罪を犯したとき、あなたはどのように反応するでしょうか?福音と恵みによって反応しますか?それとも、律法と復讐で反応しますか?私たちの人間関係は、ある意味、私たちの福音理解を試す場でもあります。そして、本日の聖書箇所で私たちが問われているのは、イエス様は私たちを信仰のみによって赦してくださると約束してくださったのですが、私たちも信仰のみによって兄弟姉妹を赦すことをできるかということです。私たちは毎週「私たちの負い目をお赦しください。 私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。」と祈りますが、頂いた赦しの感謝の応答として、私たちは自分を深く傷つけた人を心から赦せているでしょうか?今日の箇所は、そのように私たちの福音理解の深さを試していると思います。先ほど読まれた聖書箇所の流れを見ながら、三つの適応を見ていきたいと思います。

では、まず、このお話の流れを見ていきましょう。
神の民はカナンという地に入ることができ、カナン人の町を倒すことに成功しました。これは単なる軍事的勝利ではなく、神の民が4・5百年も待ち続けた約束の成就でもあります。神様は、子供もいないアブラハムという75歳のおじいさんに、「あなたは、あなたの土地、 あなたの親族、あなたの父の家を離れて、 わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、 あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする」(創世記12:1-2)と約束されました。そして、アブラハムに奇跡的に子が与えられ、数十人の子孫が荒野に寄留し、エジプトに滞在することになり、その子孫はおびただしい数になったので、エジプトの民はアブラハムの一族を恐れ、彼らをエジプトの奴隷にしたのです。そして、アブラハムの子孫は、400年ほど奴隷としてエジプトに仕えていましたが、神様はモーセを通して、彼らをエジプトから解放され、シナイ山という場所で神様の約束どおり、彼らを神の「大いなる国民」とされ、神の民としての「名」を大いなるものとされたのです。しかし、アブラハムに与えられたもので、まだ成就されていなかったものがありました。それは約束された「地」です。私たちが読んでいるヨシュア記は、神様が神の民をどのように約束された地に導かれ、その地を彼らにどのようにお与えになったかが記録されている書物です。

前回に説明しましたが、もしヨシュア記を3巻に分けるなら、1~8章が第1巻の終わりで、8章は第1巻のクライマックスになります。神の民が、神様のみわざのおかげで、ヨルダン川を奇跡的に渡ることができ、巨人のようなカナン人の二つの町ーエリコとアイーを倒し、ヨシュア記8章の終わりで、彼らはお祝いの祝宴を行います。しかし、彼らには「神様がアブラハムに約束されたことが本当に成就された!」と祝いながらも、一つの心配がありました。「最初の戦いは圧勝だったが、カナン人は強大な民だ。わたしたちは神様に従い続け、この地を引き継ぐことができるだろうか」という緊張感が祝宴のお祝いの空気の中に混ざり始めます。そして、神の民が恐れていたことが実際に形になりました。

9章1-2節を読むと、「巨人」と言われるカナンの王たちが連盟を組んで一つになり、神の民に対抗しようと戦闘準備をしていることが分かります。彼らは、イスラエルの民のエリコとアイでの勝利を聞いて、聖書の神様と神の民に白旗を振り、自分たちの命を守って彼らの配下になるより、対抗することを選んだのです。

しかし、カナンの諸国王たちがそのような計画を立てている中で、一つの部族がそれとは違うことを考えました。それはヒビ人のギブオン部族です。彼らは神の民のエリコとアイでの圧倒的勝利と、彼らの神様の圧倒的な力を聞いて、聖書の神様を恐れ、自分たちの命を救うために、9章4節に書いてあるように、「策略をめぐらし、変装をした」のです。そして、このように神の民に寝返ることを選んだのは、ギブオン人だけでした。例えるなら、日本中の人々が同じことを考えているのに対して、千葉市の住民だけが逆のことを考えるような感覚です。それは、勇気ある行為と思えるかもしれませんが、実際は勇気よりも神様に対する「恐れ」、自分たちの絶体絶命の立場から逃れる「必死さ」、から起こったことだと思います。彼らの動機はきよさ、正しさ、冷静さからではなく、「自分たちはエリコとアイのように聖絶される。あの神様に、自分たちだけではなく、自分の家族、両親や親戚、自分の友人も皆、裁かれ、殺される」というパニックに近い「神への恐れ」がモチベーションだったと思います。

そして、自分たちと愛する者の命を救うために、徹底的にリサーチをして、ある策略(さくりゃく)を考えたのです。もし私たちが申命記を十分に理解していなかったら、ギブオン人の策略は意味不明だと思います。申命記にある神様の律法では、カナンの中にある国々と、カナンの外にある国々との接し方や戦い方は全く違います。イスラエルの民がカナン以外の王国と戦うときは、「憐れみ」のある戦い方でした。まずイスラエルが「平和条約」を提案し、もし敵がそれを受け入れたら、誰も殺さずにイスラエルの配下に置きました。しかし、もし受け入れなかったら、イスラエルはその国の男性だけを殺し、女性と子供と動物たちを生かしました。ところで、「カナン」の中にいる国々と戦うときには、全く逆のアプローチをとりました。「平和条約」の提案もしませんでした。申命記20章16-17節を読むと、「息のある者を一人も生かしておいてはならない」と書いてあり、ヒビ人であるギブオン部族が神様の聖絶の対象であることがはっきりと分かります。聖書を持っていないギブオン人がどのようにそのようなマニアックな情報を手に入れたのかは全く分かりませんが、その情報を使って、カナンの「外」の王国であるかのように変装しようという策略を考えたのです。9章4-5節に書いてあるように、「古びた袋と、古びて破れて継(つ)ぎ当てをしたぶどう酒の皮袋をろばに負わせ、繕(つくろ)った古い履き物を足にはき、古びた上着を身に着け」、乾いた、ぼろぼろになった食糧も用意しました。それは自分たちのいのちを救うための緻密(ちみつ)に計画された詐欺でした。

そして、ヨシュア記9章6節で、ギブオン部族は数人の代表を神の民の本部であるギルガルへ送り、「私たちは遠い国から参りました。ですから今、私たちと盟約(めいやく)を結んでください」と提案します。しかし、敵に囲まれ、カナン人の連盟について知っている神の民はすぐに警戒します。「おそらく、あなたがたは、私たちのただ中に住んでいるのだろう。どうして私たちがあなたがたと盟約を結べるだろうか。」ギブオン人はすぐに空気を読んで、会衆を説得するのをやめて、神の民のリーダーであるヨシュアをターゲットにして、ヨシュアのハートを狙いに行きます。9章8節「彼らはヨシュアに言った。『私たちは、あなたのしもべです。』」と。しかし、ヨシュアは騙されません。「あなたがたは何者か。どこから来たのか」と答えます。そして、ここは巧妙(こうみょう)な詐欺師のように、ヨシュアが自分たちの嘘に焦点を当てないように、ここで心を込めて、自分たちの本音を伝えます。
「しもべどもは、あなたの神、主の名のゆえにとても遠い国から参りました。主のうわさ、および主がエジプトで行われたすべてのこと、主がヨルダンの川向こうのアモリ人の二人の王、ヘシュボンの王シホン、およびアシュタロテにいたバシャンの王オグになさった、すべてのことを聞いたからです。」(9:10-11)
ヨシュア記の説教シリーズを聞いている皆さんに質問ですが、この2節は、誰かの信仰告白と似ていませんか?これはヨシュア記2章のカナン人である遊女ラハブの信仰告白とほぼ同じです。ギブオン人は「信仰の英雄」のラハブと同じ信仰を持っていたということです。

そして、オレオレ詐欺みたいに、相手に考える暇を与えないように、ギブオン人は話を押し通します。
9:11「私たちの長老や、私たちの国の住民はみな私たちに言いました。『旅のための食糧を手にして彼らに会いに出かけなさい。そして彼らに、「私たちは、あなたがたのしもべです。今、どうか私たちと盟約を結んでください」と言いなさい。』」
前回の説教でたとえ話として、少しお話しましたが、日本の戦国時代、江戸時代で、格の低い武士(小名)が大名に忠誠を誓うことによって、大名がその武士たちに守りと報酬を約束したように、ギブオン人は神様の代表であるヨシュアと契約を交わしたかったのです。当時、王と王の配下との間の契約を設立させるときは、食事をすることが習慣でした。ですから、ギブオン人がパンとぶどう酒をヨシュアにあげることは、自分たちがヨシュアと神の民のしもべになることを望んでいるという意志を表しています。そして、破れた革袋と古びたパンは自分たちの熱意を表していました。ヨシュアと神の民の族長たちは、ギブオン人の押し、熱い信仰、謙虚さに圧倒され、警戒してはいましたが「彼らの食糧の一部」(9:14)を受け取り、彼らの「主人」となるべくギブオン人と契約を結んだのです。その契約によって、ギブオン人はラハブのように神の民になり、神様の約束の地を引き継ぐ権利も与えられたのです。

ヨシュア記のナレーターはあまり注解することはありませんが、14節にこの致命的な一言が書かれています。「しかし、主の指示を求めなかった。」実は、軍事戦争の時、もしくは、政治的な判断で困っているとき、神の民には、神様のご意志を確かめる方法がありました。それは、大祭司の服装に「ウリムとトンミム」という二つの石が付いていて、〇か×かのくじのように、神様の指示と知恵を直接頂くという方法でした。しかし、ヨシュアと族長たちは自分たちの知恵だけに頼ってしまい、何もわからないまま、神様の敵と平和条約を交わしてしまいました。神様への裏切りに近い行為とも言えます。神の民は誰が「主人」であるかを完全に忘れてしまい、神の民をエジプトから救いだし、約束の地を与えてくださる神様の権威を軽んじてしまったのです。

そして、詐欺に成功したギブオン人は帰りましたが、その後、神の民はギブオン人が「近くの者たちで、自分たちのただ中に」住んでいるということを聞きました(9:16)。神の民はすぐにギブオンへ行き、事実の確認をしましたが、契約上、また、神の御名によって誓ったということもあって、ヨシュアと族長たちはギブオン人を討ちませんでした。しかし、9章18節には、神の民はその判断に対して「不平」を言ったと書かれています。つまり、神の民はギブオン人に復讐するために、神様のみことばを使って、ギブオン人を聖絶したかったということです。神の民の気持ちも分からなくはないと思います。「オレオレ詐欺」のように、ギブオン人は神の民のの憐れみや慈愛を利用して信頼を勝ち取り、自分たちの救いのために神の民を騙したのです。人に騙されたり、裏切られたりすることは、ばかにされ、裸にさせられたような恥ずかしく悔しいことです。ですから、神の民は「やられたらやりかえす。倍返しだ!」という勢いで、ギブオン人と交わした契約を破棄し、みことばという正論を使って、復讐としてギブオン人を皆殺しにしたかったのです。

しかし、族長たちはこう言います。「私たちはイスラエルの神、主にかけて彼らに誓った。だから今、私たちは彼らに触れることはできない」(9:19)。ギブオン人との約束を破ることは、ギブオン人が犯した罪と全く同じ罪を犯すことでもあり、その上、「主にかけた約束」を破るということは、神様の御名を乱りにとなえることと同様のことになるのです。つまり、神の民のリーダーたちは、自分たちに犯された罪のために復讐し、そのためにまた罪を犯し、神様の御名を汚したくはありませんでした。むしろ、リーダーたちは、自分たちのミスと神様に対する罪の責任を取りたかったというふうに捉えることもできます。

そして、ヨシュアはギブオン人に「あなたがたは私たちのただ中に住んでいながら、なぜ、『私たちは、あなたがたからとても遠いところの者です』と言って私たちを欺(あざむ)いたのか。」と訴えます(9:22)。彼らの返答を聞くと、いろいろな嘘をついてきたけれども、ギブオン人の信仰告白が確かであり、神の民のしもべになりたがっていることが真実であったことが確認できます。
9:24-25「しもべどもは、はっきり知らされました。あなたの神、主がこの全土をあなたがたに与え、その地の全住民をあなたがたの前から根絶やしにするように、しもべモーセにお命じになったことを。それで私たちは、自分のいのちのことであなたがたを非常に恐れ、このようなことをしたのです。ご覧ください。今、私たちはあなたの手の中にあります。あなたのお気に召すように、お目にかなうように私たちを扱ってください。」
ヨシュアは彼らの信仰告白を受け入れ、彼らを生かし、それだけではなく「神の民」として見なし、「約束の地」を分け与えたのです。

しかし、ヨシュアは彼らに「神の民」として罰を与えました。27節に書いてあるように、「ヨシュアはその日、彼らを会衆のため、また主の祭壇のため、主が選ばれる場所で薪(たきぎ)を割る者と水を汲む者とし、今日(こんにち)に至っている。」薪(たきぎ)を割ることや水を汲むことは、激しい肉体労働でもあり、だれもしたくない仕事でもあります。それは、彼らの行った詐欺と罪に対して、妥当(だとう)なのろいでした。しかし、皮肉なことに、彼らは「主の祭壇のため」に薪を割って、水を汲むために、神様を礼拝する場所の近くにいつも住んでいました。ですから、ギブオン人は神の民の中で「低い」、「のろわれた」存在だったかもしれませんが、いつも神様の近くにおり、礼拝場であるシロやエルサレムという「神の王国の中心」に住むことができたのです。

では、本日の箇所から、私たちに適応できるのは何でしょうか?
本日覚えていただきたいのは、三つのことです。

一つ目に覚えていただきたいのは、「罪深い信仰であっても、不器用な信仰であっても、信仰は信仰だ」ということです。

まずはっきり言いたいのは、ギブオン人は罪深い詐欺師です。彼らは救われるために、このようにヨシュアと神の民をごまかす必要もありませんでしたし、ラハブのように、信仰を告白する異邦人を民として受け入れてくださったという例もあるように、神様は彼らを受け入れることがおできになります。ですから、ギブオン人の詐欺を正当化したくはありません。ギブオン人が「神の民」として受け入れられましたが、適切なな罰も与えられました。

しかし、ギブオン人のやり方が不適切であったからと言って、彼らの信仰を無視してはいけません。「主を恐れることは知識の初め」であり、「愚か者は知恵と訓戒を蔑(さげす)む」と箴言1:7に書いてありますが、ギブオン人の態度をみると、彼らの信仰が強い信仰であったことを認めなければなりません。彼らがこの詐欺を行った理由は、「自分のいのちのこと」で神様と神の民を「非常に恐れ」いたためだった、と書いてあります。要するに、ギブオン人は「生きている犬は死んだ獅子にまさる」こと(伝道者の書9:4)、「(神様)の大庭にいる一日は千日にまさり」、しもべとして「私は悪の天幕に住むよりは 私の神の家の門口に立ちたい」(詩篇84:10)ということを悟ったのです。それに、ギブオン人は、詐欺を行った罰として、神様の「知恵と訓戒をさげすんだ」というようなことがあったでしょうか?とんでもないです。「のろわれても、永遠に肉体労働をしても、神の民に見下されても、神様のしもべになりたい、神様のもとで歩みたい」と彼らは思ったのです。

私たちはギブオン人のように詐欺を行わないと思ったとしても、ギブオン人のすごい信仰が見えますか?彼らは、私たち以上に罪を犯したかもしれませんが、私たち以上に神様を恐れ、そして、自分と愛する者たちのいのちのために、私たち以上に大きなリスクを負って、神様の民となるために、私たち以上に全てを犠牲にしたのです。「罪深い信仰であっても、不器用な信仰であっても、信仰は信仰です」。

二つ目に覚えていただきたいことは、「神様は、私たちの罪によって、ご自分の約束を無効にされない」ということです。

ガラテヤ3章15節には、「人間の契約でも、いったん結ばれたら、だれもそれを無効にしたり、それにつけ加えたりはしません」とあります。神様の約束も全く同じです。神様はこう約束されます。
「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。…ユダヤ人とギリシア人の区別はありません。同じ主がすべての人の主であり、神様を呼び求めるすべての人に豊かに恵みを与えるからです」と(ローマ10:9-12)。ですから、ギブオン人の不器用さを見ても、ギブオン人の罪深さを見ても、神様は、勝手にご自分の約束を無効にされません。神様は誠実な方です。ですから、安心してください。あなたの罪深さ、あなたの弱さ、あなたの不器用さを見ても、神様はご自分の約束を破られることはありません。ぜひイエス様を主と告白し、自分の罪を見ないで、神様の誠実さに頼り、自分の救いを確信してください。神様は、私たちの罪によって、ご自分の約束を無効にはされません。

三つ目に覚えていただきたいのは、「自分の怒りで神様の救いの約束を無効にしないように、罪深い兄弟姉妹を赦しましょう」ということです。

ギブオン人のように、もしある兄弟か姉妹が自分の信頼を裏切るとき、私たちが驚いたり、失望したり、悲しんだり、傷ついたりするのは当然です。しかし、私たちにとって、大きな誘惑となるのは、神様が赦されたことを、私たちが赦さないということです。

私たちがクリスチャンになるとき、私たちはキリストにある兄弟姉妹信仰のみによって、赦すことを約束します。私たちは毎週、「主の祈り」を祈ることによって神様に約束しているのです。なぜなら、2つ目の適用で説明したように、神様が私たちの信仰のみを見て赦してくださったので、私たちも相手の信仰のみをみて赦すことを決心しています。

しかし、私たちはそのように約束しても、兄弟姉妹の罪の重さ、相手の不器用さ、相手の悔い改めの薄さを見て、「いや。相手はとんでもない罪人だから、私が人を赦すという約束は無効になる」と思って相手を赦さなかったり、相手を口先では赦しても、心の中に苦みと怒りを抱え続けるという誘惑があります。イスラエル人はそのような誘惑に陥りました。神の民、イスラエル人は口先では赦しましたが、神様のみことばを使って、何百年間もその罪を根に持って、復讐心を燃やし続けていたのです。そして、およそ200年後のサウル王の時代に、イスラエル人はギブオン人を虐殺したのです。そして、神様はどうされたと思いますか?神様は罰として、イスラエル人に3年間も飢饉を与えられたのです。つまり、神様がギブオン人に約束された赦しと救いを、神の民は自分の「怒り」と「気持ち」の都合で無効にしたのです。

私たちはどうでしょうか?口で兄弟姉妹を赦しながらも、心の中で相手に対して怒りと苦みをもったことはありませんか?誰にでもあると思います。しかし、ここで私たちの福音に対する理解の深さが試されます。神様は、私たちをどのように赦されましたか?神様は私たちを簡単に赦された訳ではありません。なぜなら、ある意味、私たちの罪の一番の被害者は神様ですし、神様は私たちの罪に対して一番怒っておられるお方だからです。神様の赦しは、ご自分の御子を十字架にかけられたほどに犠牲的で完璧な赦しでした。神様は、私たちの悔い改めの深さ、私たちの謙虚さ、私たちの純粋さをご覧になって、私たちを赦されたと思いますか?とんでもないです。私たちがイエス様を信じる信仰だけをご覧になって、怒りも憎しみも苦みも持たれず、約束通りに私たちを完璧に赦してくださったのです。コロサイ3:13には、神様から頂いた赦しの故に私たちが成すべきことが書かれています。「互いに忍耐し合い、だれかがほかの人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」まず、神様から頂いた赦しを思い出して、怒りで神様の約束を無効にしないように、罪深い兄弟姉妹を赦しましょう。そして、赦し難(がた)い人々や出来事に対して、私たちの「信仰のみ」によって赦すという姿勢を通して、神様から頂いた「赦し」を証ししていきましょう。

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