ようこそ!海浜幕張めぐみ教会へ!- Welcome to Kaihin Makuhari Grace Church!!

<礼拝式順>

前   奏
招きの言葉 コリント人への手紙第一 15章24-27節前半
さ ん び 「死を打ち破り」
さ ん び 「あがめます主の御名~I sing praises to your name~」
開会の祈り
主の祈り
教会福音讃美歌 199番 「捕らわれの民」
聖書朗読 ヨシュア記 10章15-23節
聖書の話      「神様は逆転王」 マーク・ボカネグラ牧師
教会福音讃美歌 430番 「夕闇の迫るとき」 1-4番
献   金
報   告
とりなしの祈り マーク・ボカネグラ牧師
頌栄 (教会福音讃美歌) 271番 「父・子・聖霊の」
祝   祷 マーク・ボカネグラ牧師
後   奏  567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

逆転勝ちするときは非常に感動しますね。一度そのような逆転劇を体験したら、その後の人生において忘れられないほど強い希望が持てると思います。日本では、それほどラグビーは人気ではないかもしれませんが、2015年のラグビーワールドカップの日本代表の逆転勝ちを覚えている方もいらっしゃるかもしれません。当時、日本代表がワールドカップに出場した試合数は24回。そして、24試合中21敗(ぱい)2引き分け、勝ったのはたった1試合だけでした。そしてそれは、ラグビーの世界王者、南アフリカとの試合でした。試合前の日本は、80試合中1勝利という勝率でした。スポーツの世界では、そんな勝率はほぼ絶望的な状態です。しかし、日本代表は最後の最後まで「勝てる」と信じ続け、サプライズの逆転勝ちを得て、ラグビーの歴史を変えました。それ以来、ラグビーの日本代表チームはどれほど絶望的な立場に置かれても、恐れないと思います。

1950年代に、少し残酷ですが、「希望の力」を表す実験がアメリカで行われました。野生のノルウェードブネズミは泳ぐことができるネズミですが、その野生のネズミを逃げられないようなバケツに入れて、ネズミが泳ぐのをあきらめて溺れるまで泳がせるという実験でした。そして、ネズミが溺れるまでの平均時間は約15分ぐらいだったということです。しかし、この野生ドブネズミが溺れる前に、何回か助けて休ませ、またバケツに戻して泳がせ、また溺れる前に助けて休ませるということを何回か経験させると、ドブネズミは何分ぐらい泳げたと思いますか?30分ではありません。1時間でもありません。5時間でもありません。すごいことに、何回も助けられたたドブネズミは約40-60時間も溺れるまで泳ぎ続けたという結果が出たそうです。これはある意味、「希望の力」なのです。

遠藤周作の『沈黙』を読むと、日本はすべてのものー特にキリスト教に対する信仰ーを腐らせていく沼であるという印象を与えます。皆さんはクリスチャンとして歩むとき、ドブネズミのように、日本という「信仰の沼」で溺れないように必死で泳いでいるという感覚がありますか?曖昧で見えない様々な形で信仰が試され、攻撃され、圧制(あっせい)されることによって、徐々に弱まり疲れてしまうと感じていませんか?もう諦めたいと思うときはありませんか?学校で、友人関係で、部活やサークルで、クリスチャンとして歩む難しさ。子育てする中で、社会や周りの人から 親子に対して押し寄せる期待やプレッシャーを感じる中で、どのように自分の信仰と子供の信仰を守っていけばいいかという悩み。弱肉強食の会社や商売の世界の中で、どのようにクリスチャンとして歩みながら、自分の生活を確保すればよいのか。孤独に溺れているかもしれません。忙しさに溺れているかもしれません。人の目のプレッシャーに溺れているかもしれません。あるいは、自分の弱さ、罪に溺れているかもしれません。自分の信仰を保ち続ける気力がなくなってしまっているかもしれません。何もうまくいかないときに、あのバケツの中で泳いでるドブネズミのように必死に泳ぎ続けている自分がいて、クリスチャンとしてみことばにあって歩み続ける意味がわからなくなっていくときがないでしょうか?

本日覚えていただきたいのは、そのような誘惑は、日本だけではなく、どの国のどの時代でも、人間の罪があるところに存在する誘惑です。誰もその誘惑から逃げられません。しかし、同時に覚えていただきたいのは、私たちの神様は「逆転王」だということです。「逆転勝利をもたらす救い主」なのです。ですから、神様が「逆転王」であれば、私たちが絶望的な状態にいると感じていたとしても、私たち自身に絶望する理由はありません。この大事なことを覚えるために、三つのポイントを覚えていただきたいです。

まず覚えていただきたいのは、「神様が逆転王ならば、あなたを攻撃するものは追われるものになる」ということです。

今までの流れを、地図を使いながら、説明します。神の民はカナンに入った時に、自分たちの本部をギルガルにして、カナンの「正門」を表すエリコとアイという都を倒しました。しかし、40年間も寄留してきた神の民は、カナンのすべての都を倒すことができるかどうかを非常に心配していました。なぜなら、カナンの人は巨人のような恐ろしい民だったからです。ところが、奇跡的に、ギブオンという大きな都が神の民の軍に寝返ったのです。しかし、ギブオン人が神の民を騙して、強引に神の民に加わったため、ギブオンとイスラエル人の間に深い溝(みぞ)ができてしまいました。ギブオンの近くにあるエルサレムの王はこれをチャンスとして捉え、ヤルムト、ヘブロン、ラキシュとエグロンの王たちと同盟を組んで、エルサレムに巨人のような兵隊たちの大軍を招集しました。そして、神の民とギブオンの関係の溝(みぞ)を利用して、大軍を使ってギブオンを攻撃しようとしたのです。ギブオン人にとって、これは絶体絶命でした。

ギブオン人はすぐに本部のギルガルにSOSを発信します。しかし、これは南アフリカ対日本の試合よりも、絶望的な状況でした。五つの巨人の軍隊対ちゃんとした軍事訓練もしていないバッタのような、一つの元奴隷軍隊。しかも、この戦いに負けたら、軍隊が倒されるだけではなく、神の民が絶滅されることは確実です。しかし、ヨシュアと神の民の3万人の軍はひるむこともなく、夜通しで、24キロ山地の道を走り、ギブオンを守りに行きました。そして、神様が三つの奇跡によって、後もう少しで溺れて死んでしまいそうな神の民に感動の逆転勝利をお与えになったのです。

本日の箇所では、自信満々で巨人の大軍をもって神の民を攻撃した5人の王達が追われるものになり、マケダの洞穴に隠れていました(10:16)。そして、本当に面白いことに、マケダはヘブロンとラキシュの間にあって、かなりギブオンから離れていたそうです。笑えるぐらい、かなり本気で王達は逃げましたね。そして、それだけではなく、ヨシュアはすぐに彼らを見つけ出し、王たちを洞窟に閉じ込め、彼らの軍隊を激しく討ちました。そして、生き残った兵たちは自分たちの都に逃げていきました(20節)。逆転勝ちしたというだけではなく、神の民の圧勝でした。

私たちはこの話の結論を知っていますが、神の民であるギブオン人が攻撃されたとき、そして、ヨシュアが最初にSOSをもらったときは、このような結論になることを知っていたでしょうか?いいえ、とんでもないです。神の民は、ただただ必死に泳ぎ続けました。しかし、彼らは、神様が逆転王であること、そして、一瞬で攻撃者を追われるものに変えることがおできになる救い主であることを信じていました。

そして、聖書全体を見ると、神様の「救い」のパターンが「逆転勝利」であることがわかります。出エジプトはどうでしょうか?400年の奴隷制度があったのに、神様は一瞬で10の災いによって逆転勝ちを引き起こされました。それで神の民は解放されましたが、パロとエジプト軍は神の民を奇襲し、攻撃しました。しかし、神様は割れた海にエジプト軍をおびき寄せ、全滅させ、神の民に逆転勝利をお与えになったのです。ダビデとゴリアテも似ています。ペリシテ人がエルサレムを攻撃しようとした時、巨人のゴリアテが神の民に一騎打ちを求め、神の民を窮地(きゅうち)に追い込みました。しかし、神様はダビデのたった一つの石を使って、逆転勝ちを引き起こされました。

十字架も同じではないでしょうか?パリサイ人、ローマ帝国、「罪」、「死」、サタンにとって、イエス様を十字架にかけることは、イエス様と神の民にとどめを刺す最後の一撃でした。しかし、皮肉なことに、十字架は神の敵にとどめを刺した一撃となりました。十字架も神様の逆転勝利なのです。そして、初代教会においても同じ現象が見られます。「使徒の働き」でも、教会の敵が神の民を迫害して、窮地に追い込んでも、神様はある方法ですべてをひっくり返して、驚きの逆転勝ちを引き起こされるのです。神様は攻撃者を追われるものにする救い主なのです。

ですから、神様が逆転王であられるなら、私たちが絶望を感じる状態に置かれたとしても、私たちは絶望する必要がありますか?かなり絶体絶命な状況にいたとしても、逆転勝利の救い主が私たちを救えないと思いますか?ですから、私たちは「神様が逆転王なら、私を攻撃するものが、追われるものになる」ということを覚える必要があります。

次に覚えていただきたいのは、「神様は逆転王なので、敵が私たちの首を踏みつけることを許されます。しかし、私たちが敵の首を踏みつける時も来る」ということです。

400年もの間、エジプト帝国はイスラエルの民の首を踏みつけていたのです。40年間も王国もない民として、荒野をさまよっていた神の民を、巨人のようなカナンの王国たちはちっぽけで、貧乏な民だと見下していました。そして、カナンの5人の王たちは神の民に打ち勝ち、エジプトと同じように神の民を奴隷にしたかったのです。5人の王たちはこの一撃で、神の民の首をエジプトがしたように踏みつけようとしたのです。

しかし、本日の箇所では、その立場が逆転しました。神の民は5人の王の軍隊が逃げた後に、洞窟の口を開き、五人の王たち、すなわち、エルサレムの王、ヘブロンの王、ヤルムテの王、ラキシュの王、エグロンの王を洞穴から神の民のもとに引き出したのです。そして、ヨシュアは興味深いを命令を下しました。
ヨシュア10:24 …ヨシュアはイスラエルのすべての人を呼び寄せ、自分と一緒に行った戦士の指揮官たちに言った。「近寄って、この王たちの首を踏みつけなさい。」彼らは近寄り、王たちの首を踏みつけた。
神の民の戦士たちの前で、巨人の軍隊を仕切る5人の将軍、乳と蜜で流れる富んでいるカナンの都の5人の王たちの首を、王家の血統もない奴隷の家から来て、土地もなく貧しい遊牧人であったイスラエル人の汚いサンダルで踏みつけたのです。しかも、一回だけではなく、何人かの民が5人の王たちの首を踏みつけました。そして、ヨシュアは彼らに「恐れてはならない。おののいてはならない。強くあれ。雄々しくあれ。あなたがたの戦うすべての敵に主がこのようにされる」と言いました(10:25)。そして、5人の王たちを5本の木にかけ、呪われたものとして処刑したのです(10:26)。ヨシュアはなぜこの奇妙で、残酷な儀式を行ったと思いますか?

それはヨシュアが神様がどういうお方であるか、どのような救いをお与えになられるかを忘れないように、この驚きの光景を心に刻みたかったからだと思います。

新約の時代にいる私たちは、このようなことをどのように適応すればいいでしょうか?この世では、私たちはいろんなものと戦っています。大きく言いますと、三人の強敵、3人の「悪しき王」がいます。「死」、「サタン」、そして、「罪」です。この王たちは、毎日、わたしたちの首を踏みつけようとしています。重い病気や苦しみを通して、「死」は私たちの首を踏みつけます。サタンが操る悪しき人たちによって、私たちの首を踏みつけます。そして、私たちの中に働いている罪が私たちの首を踏みつけます。皆さんは、敵の足に自分が踏みつけられていると感じることがありませんか?あるいは、敵の足が愛する者の首を踏みつけているのを見ることがありませんか?もう息もできなくて、諦めたいと思うときはありませんか?

私たちの敵が私たちを踏みつけようとするとき、イエス様は詩篇2編でこうおっしゃいます。
「なぜ  国々は騒ぎ立ち もろもろの国民(くにたみ)は空しいことを企むのか。 なぜ  地の王たちは立ち構え  君主たちは相(あい)ともに集まるのか。  主と 主に油注がれた者に対して。 「さあ 彼らのかせを打ち砕き  彼らの綱を解き捨てよう。」(詩篇2:1-3)
イエス様は私たちに対する敵に対して嘲笑(あざわら)います。そして、イエス様は私たちにこうおっしゃいます。「安心しなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とする」(参照:詩篇110)。そして、実際にそうされました。十字架は、イエス様が敗北されたところではありません。ある意味、「死」が死に飲み込まれ、「罪」の支配が破壊され、「サタン」が捕虜になった瞬間でもあります。つまり、十字架は、イエス様が私たちの敵の首を踏みつけ、敵を足台にされた瞬間でもあるのです。私たちはそれを忘れていけません。

しかし、私たちは敵が騒ぎ出すとき、また、耐えられないような試練を通るとき、すぐにこの事実を忘れてしまいます。ですから、毎週礼拝でみことばが語られるとき、クリスチャンが洗礼を受けるとき、私たちが聖餐式に授かるときなどはイエス様が私たちの敵の首を踏みつけてくださったことを思い出す機会なのです。神の民が、イスラエル人のおじさんがカナンの王の首を踏みつけるように、十字架にかけられたイエス様が私たちの敵を踏みつけられる様子はは驚きの光景でもありますし、忘れられない光景でもあります。ですから、試練を通るとき、十字架を思い出し、「神様は逆転王なので、敵が私たちの首を踏みつけることを許されます。しかし、私たちが敵の首を踏みつけるときも来る」と思い出してください。

最後に覚えていただきたいことは、「神様が逆転王ならば、神の民は逆転王の約束によって激励される」ということです。

5人の王たちの首を踏みつける儀式の後に、28-39節を読みますと、すごい勢いで神の民がカナンの都を圧倒(あっとう)したことが読みとれます。この地図(ESV Study Bible https://www.esv.org/resources/esv-global-study-bible/map-06-05/より)を見ますと、この儀式の後で、周りの六つの都に勝ったことがわかります。まずマケダを倒し、リブナ、ラキシュ、エグロン、ヘブロン、そして、デビルを勝ち取ったのです。この数節のテンポを読むと、神の民がどれほどすごい勢いで勝ち取ったのかが感じられます。

そして、考えてみてください。彼らの試練や状況が変わった訳ではありません。巨人のカナン兵の背が奇跡的に低くなったり、カナンの都の城壁が奇跡的に柔らかくなったり、カナン人が奇跡的に神の民に寝返った訳でもないのです。神の民の状況は全く変わっていませんでしたし、民はとても慎重に行動していたのに、どのように、こんなにもすごい勢いで行動できたのでしょうか?

それは、神の民がカナンの王の首を踏みつける様子を見て、神様の約束によって深く励まされたからだと思います。繰り返しになりますが、神の民は、彼らが敵の王の首を自分たちの足で踏みつけた後で、神様の約束を聞いたのです。「恐れてはならない。おののいてはならない。強くあれ。雄々しくあれ。あなたがたの戦うすべての敵に主がこのようにされる」(25節)。つまり、神様は、民に今後激しい戦いがあることを否定されませんでした。
今後、窮地に追い込まれ、敵が自分を踏みつけるようなときがあることも否定されません。この六つの都を勝ち取るために、激戦が待っていたかもしれません。しかし、神様がおっしゃっているのは、激戦であっても、絶望的な状況に置かれても、「逆転王」の神様がともにおられ、私たちが倒すのではなく、神様が敵を足台にすることを約束してくださいました。その約束のゆえに、状況と試練の激しさは変わっていませんでしたが、神の民の勢いと姿勢が変わったのです。そして、約束通り、神様は勝利をお与えになったのです。
ヨシュア10:42「これらすべての王たちと彼らの地を、ヨシュアは一度に攻め取った。イスラエルの神、主がイスラエルのために戦われたからである。」
そして、ヨシュア10章のすべてを見ますと、5人の王たちの攻撃によって、カナンの南部地方が神の民のものになったことがわかります。神様は、敵の一撃をひっくり返して、カナンの南部地方の王たちにとどめを刺したのです。

新約時代にいる私たちも、同じような立場にいます。イエス様が十字架にかかったから、イエス様が蘇ったから、私たちが説教を毎週聞いているから、聖礼典を受けているから、毎日祈っているから、そのような理由で私たちの状況と試練が変わる訳ではありません。また、そのような理由でサタン、死、罪の恐ろしい攻撃が止まる訳でもありません。むしろ、悪い者が放つ火矢(ひや)、死がもたらす苦しみ、罪との残酷な戦いはさらに激しくなると思います。ですから、敵の攻撃によって、私達が絶望、孤独、息苦しさ、疲れを感じることはなおさらのことです。しかし、信仰を保つために、クリスチャンとして歩むために、必死になっている事柄に対して驚いてはいけません。なぜなら、やけくそになっている敵も必死ですから!

それでは、このような激しい試練の中にいるとき、私達が勢いとバイタリティーをもって突き進む力があるとしたら、それはどこからくるのでしょうか?それは「逆転の希望」です。普通15分であきらめてしまうようなドブネズミが「逆転の希望」によって40-60時間ストレートで泳げたように、私たちも「逆転の希望」を思い出す必要があります。わたしたちの「希望」は抽象的で不安定な希望ではありません。私たちの「逆転の希望」とは、状況が変わることではなく、逆転勝ちの「救い主の約束」のことです。私たちの「逆転の希望」は何でしょうか?それはイエス様がまた来られるときです。「終わりの日」なのです。
それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、王国を父である神に渡されます。 すべての敵をその足の下に置くまで、キリストは王として治めることになっているからです。 最後の敵として滅ぼされるのは、死です。 「神は万物をその方の足の下に従わせた」のです。(1コリント15:24-27a)
皆さんはこの「終わりの日」が明日にでも来るかもしれないということを信じていますか?私たちが、どんなに絶望的で苦しく、孤独な、暗い状況に置かれていても、「終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに」(1コリント15:52)すべてが逆転する日が来ることを、リアリティーをもって、待ち望んでいるでしょうか?これがクリスチャンとして歩む力の源です。「逆転の希望」なのです。

ですから、苦しんでいる教会のために祈るとき、パウロは「どうか状況を変えてください」とは祈りませんでした。私たちが「逆転の希望」、そして、「逆転の救い主」をはっきり見ることができるようにと、パウロは必死でお祈りするのです。
あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、 また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。
この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、 すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。 また、神はすべてのものをキリストの足の下に従わせ、キリストを、すべてのものの上に立つかしらとして教会に与えられました。 教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。 (エペソ1:18–23)
ですから、パウロと同じように、私は皆さんのために祈りたいです。日本という「信仰の沼」の中歩んでいる皆さん。サタン、死、罪という巨人と毎日向き合っている皆さん。プレッシャー、いろんな責任、忙しさ、罪悪感、悲しみ、苦しみ、孤独、自分の弱さに溺れている皆さん。イエス様は、苦しんでいる教会、大患難を通っている教会、つまり、私たちにこのような約束をしてくださっています。
「恐れることはない。わたしは初めであり、終わりであり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、世々限りなく生きている。また、死とよみの鍵を持っている。」(黙示録1:17後半-18)
神様の約束をいただいた者として、「逆転の救い主」を待ち望みましょう。忍耐だけではなく、希望と喜びをもって、お互いに支え励まし合いながら、「逆転のとき」まで泳ぎ続けて行きましょう。お祈りします。