ようこそ!海浜幕張めぐみ教会へ!- Welcome to Kaihin Makuhari Grace Church!!

7月18日礼拝のYoutube動画へのリンクです。
公開は1週間限定とさせていただきます。(7月24日土まで)

<礼拝式順>

前   奏
招きの言葉 ヨハネの福音書 12章1−3節
さ ん び 「死を打ち破り」
さ ん び 「あがめます主の御名〜I Sing Praises to Your Name」
開会の祈り
主の祈り
教会福音讃美歌 447番 「ナルドの壺」
聖書朗読 マタイの福音書 26章1−13節
聖書の話      「主に香油を注ぎ」 廣橋嘉信牧師
教会福音讃美歌 451番 「子どものささげる」
献   金
報   告
とりなしの祈り 廣橋嘉信牧師
頌栄 (教会福音讃美歌) 271番 「父・子・聖霊の」
祝   祷 廣橋嘉信牧師
後   奏  567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

「主に香油を注ぎ」マタイの福音書 26:1〜13

序)マタイ26章から、主イエス・キリスト様の受難の記事に入ります。その冒頭が「あなたがたも知っているとおり、二日たつと過越の祭りになります。そして、人の子は十字架につけられるために引き渡されます」(2節)というご自身による十字架上の死についての預言です。死の時期・死の形・死に至る経過を一言で預言されました。
「そのころ」預言が行われているころです。イエスを逮捕し、殺す相談をしている一団がいました。同時に一方では、イエスの葬りの準備をして高価な香油を彼の頭に注いでいるマリアの出来事が起こりました。
祭司長たちや民の長老たちはカヤパという大祭司の邸宅に集まり、イエスをだまして捕らえ、殺そうと相談した。彼らは、「祭りの間はやめておこう。民の間に騒ぎが起こるといけない」と話していた。(3−5節)
 今朝の説教の焦点をマリアの香油注ぎに合わせて進めます。

 Ⅰ 主イエス・キリストがベタニヤで ツアラアトの病人シモンの家にいました。そこには、ラザロ、マルタ、マリアの三兄弟姉妹もいました。主イエス・キリストの弟子たちも皆いました。マルタが食事を整えて心配りをしてもてなしていました。その中でマリアは何かが欠けていると感じました。
 彼女は高価な香油を主イエス・キリスト様の頭に注ぎかけました。ヨハネの福音書にそう書いてあります。大変高価で300デナリ以上すると言われています。今の一年分の給料に相当するのです。1デナリが一日の労働賃金だったからです。
 マリアはこれによって、飲み食いの場に神的な香りを満たしました。主イエス・キリスト様は、このことを今まさに十字架にかかろうとしている自分への葬りの用意であると受け取られました。 
 ところが、この有様を見ていた弟子たちが非難しました。「何のために、こんな無駄なことをするのか。この香油なら高く売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」(8-9節)マリアの行為はそばで見ていた人々には、大変な浪費と写ったのでした。「無駄なこと」とは、必要以上を与えることです。あまりにも小さなものに、あまりにも多くを与えることです。弟子たちは、主イエス・キリストに対するマリアの奉仕を「こんな無駄」、もったいないというのです。この出来事の後でイスカリオテのユダは主イエス・キリストを銀貨30枚で敵方に売り渡しました。
 「何のために、こんな無駄なことをするのか。」この意見は世間の代表的な意見で、クリスチャンに向けて信心もほどほどに、そんなに入れ込んではいけない。クリスチャンになって、人生を無駄に過ごしてはいけない。クリスチャンでなければ出世するのに。日曜日ごとに集まるなんて時間の浪費である。クリスマスとイースターと特別な時だけ行けばよいのだ。献金を収入の十分の一や、それ以上もするのも全く無駄だ。そのような献金を毎月するのなら、社会福祉にでも寄付したらいいのに。
 何事であれ、主イエス・キリストのために熱心に奉仕することは無駄であるという考えです。しかし、もし私たちの主が、それに値するお方であるなら、世間が何と言おうが問題ではないのです。
 第一に、神様はあまりにも罪深い人生を送っている私たちのために、愛するひとり子主イエス・キリストを下さって、十字架の上で身代わりのいのちをささげてくださったのです。
 無駄というならこれほどの無駄が他にあるでしょうか。自分のいのちを、罪深く自分勝手な道にさまよっている者のために注ぎ込む、これほどの無駄はない。マリアは愛する主イエス・キリストの頭に一年分以上の価値ある香油を注ぎました。神様は敵対し、罪にさまよっている私たちのために最愛の御子をささげてくださったのです。
 この主の愛に応えようとしている私たちにとって、主にためにおささげするすべての心遣い、働き、ささげ物が無駄というようなことは一つもありません。
主は言われました。「なぜこの人を困らせるのですか。わたしに良いことをしてくれました。」(10節)真に主イエス様の愛を知る者は、主に対して良くしすぎるということは全くありません。常に足りないぐらいです。いや、程遠いのです。
 世間は、最小の労力で最大の効果をと考えます。しかし、マリアのしたことに、最大の労力で最小の結果しか、見ませんでした。教会の働きの多くに同様の面があると多くの人々は考えます。一人の兄弟、一人の姉妹が信仰に基づき、主イエス・キリストの使命を果たそうと働きます。「もっと他に用いられる方法がないか」「もっと有効な方法があるのではないか」「どうもあの人がやっていることは無駄ではないか」と言うのです。
 確かに教会の働きと言えども、そのような忠実で効率のよい働きが要求される場合が多いのです。何の目標も立てずに、成り行き任せはよくないのです。しかしここで問題にしているのは、そういうことではありません。もっと深いところに問題の所在があるのです。
 弟子たちにとって、彼らが理解している方法で、十分に用いられなければ気が済まないのです。こういう観点から、教会の働きに関心を抱き、牧師や、長老や、執事や、兄弟姉妹の働きに関心をもって、効果的にしていないとか、時間や、献金を浪費しているとか言うことが多いのです。

 Ⅱ 主イエス・キリストの答え
 「なぜこの人を困らせるのですか。わたしに良いことをしてくれました。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいます。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではありません。この人はこの香油をわたしのからだに注いで、わたしを埋葬する備えをしてくれたのです。」(10-12節)
主イエス様の答えは、マリアのことを弁護されて、喜んでおられる。「わたしに良いことをしてくれた」。主は、私たちの奉仕やささげ物を一律に機械的に評価なされずに、その場、その時の動きや事情を汲んで、最も良い意味で正しく受け入れてくださるのです。レプタ二枚をささげ物とした貧しいやもめの献金に最高の価値を認められたのです。その同じ精神でささげられた愛の300デナリ以上の価値ある香油を、また喜んで受け入れてくださいました。数量ではなくて、そのささげた心、態度です。主に向かっている心の状態、キリストへの愛の多少によって価値づけられています。愛に動かされたものが精一杯、いな、力以上に、主と教会に愛を注ごうとするのです。「愛の浪費」が見られるのです。
 主への愛は良いことばかりでなく、美しいこともするのです。良いことだけを見るならば食卓をにぎわし、もてなすだけでもよかったでしょう。しかし、何か欠けていると感じたマリアがその美しいことを表したのです。
 真の愛は、その得失を計算し尽くしたりはしません。その持つすべてをささげ全世界を与えても、なお、足りないと思うでしょう。
 また、愛はそれを行う機会が一回限りしかないことがあります。何かすばらしいことを主のためにするように心を動かされていながら、しないままで終わってしまうのは、人生の悲劇です。このマリアのような人が大勢いれば教会はよほど美しい世界に転じるでしょう。
 貧しい人々を助ける働きは常に実践されねばなりません。しかし今、主が十字架に向かっておられるという時にだけ、なすべきことがありました。マリアはそれをしたのです。「葬りの用意」だったのです。「この人はこの香油をわたしのからだに注いで、わたしを埋葬する備えをしてくれたのです。」マリアは葬りの用意とは知りませんでした。しかし主はご存知でした。わたしたちが知らなくて行ったことで重大な神のわざをしていることがあることを知ります。
 主は「埋葬の備え」とおしゃいました。復活の朝、主の体に香油をぬりにいった女性たちは、目的を果たすことができませんでした。肝心の主が復活されたからです。だから、たった一人マリアだけが、あらかじめ葬りの油を注いだのでした。教会の歴史にとって今でないと、主のためにできないことがあります。後ではもうチャンスがないというような奉仕もあります。
 弟子たちはマリアに向かって憤慨したのです。一人として主の十字架の近さ、目前であること、葬りの備えが必要なことを考えたものはいなかったのです。十字架の前日でさえも、主の死と葬りの用意はマリアの香油の注ぎしかなかったということを思い出して、弟子たちは大いに恥じて、このことを記事として書きました。現在、主とともにある人、主にすべてを注いだ人は祝福を受けます。多くの人々は主が再び来られ、お目にかかった時に一切を注ぐと考えています。しかし、今日、主の愛に応えて、あなたは何をなさいますか。

Ⅲ 13節「まことに、あなたがたに言います。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。」
 主のための奉仕は、主ご自身に仕えることから湧き出ます。この女のしたこと、そして、「わたし」主が喜んだことが、語り継がれる。主イエス・キリスト様が全面的に彼女を受け入れてくださったことを忘れないようにしましょう。長く記念されると語られました。主がこのように喜んでくださった。主のために良きことをしよう。美しいことをしよう。

 結び)主イエス・キリスト様の尊い十字架の血潮によって罪赦され、神の子としていただいた喜び、感謝を具体的に賛美やあかしや奉仕や伝道や献金で表します。さらに私たちは主イエス・キリスト様に買い取られた者として、もはや自分自身は神の所有となった立場の変化を覚えます。さらに日々に聖めていってくださる内容の変化を覚えて、一切の恵みを受けたものとして歩みます。それで、基本的日常生活の態度として存在の全部を神様にささげることが霊的な礼拝であることを覚えます。全部が神様の所有権にあるのですが、その中で自分の人生の歩みを任されていることを覚えます。言わば自分自身の管理者であることを思います。時間や賜物、財物をささげることは管理者としての姿勢のあらわれになります。それは神様のものは神様にお返しするという部分なのです。すべてが自分に任されていますが、元々神様に買い取られた人生という発想です。葬られた主イエス・キリスト様は一度限りです。ですから現在私たちは主イエス・キリスト様を葬る心で何かできる訳は全くありません。よみがえって生きておられる救い主として主イエス・キリスト様を、自分の人生の全部を通してあらわす、あかしし続けることこそ、今できることでしょう。それも恵みによってだけ可能なのです。

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