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2013年1月27日 ルカ13:31-35 「ああ、幾たび」

序文)主イエス様は町まち、村々を伝道しつつ、エルサレムに向かっておられました。今日の箇所の出来事はガリラヤかペレヤでのことで、そこはヘロデ・アンテパスの領地でした。主は、ここでエルサレムに対する真情をおもわずもらされました。

Ⅰ 31節 パリサイ人の忠告

主が狭い門から努力してはいるようにと話しておられました。そこ何人かのパリサイ人が近づいて来て、イエスに忠告をしました。「ここから出て他のところに行きなさい。ヘロデがあなたを殺そうとおもっています。」ここに登場したパリサイ人は、イエスに対して敵対していないものたちでした。一般的に福音書に登場するパリサイ人は敵対者として書かれています。しかしここの人たちはイエスに親切に忠告して、危険から身をさけるようにと勧めています。好意の溢れた忠告でした。

ところがその内容は、主イエスの反応からみると、主のお心にかなうものではありませんでした。イエス様の生涯の意味とその深いお心に理解をもたない者であることが、伺えます。主イエスを信じ従う者の心から出たことばではなく、信仰によらない一通りの行為とか親切で言われていることだったのです。ですから当事者であるイエス様にとっては、ご自分が向かうべき道、全生涯をかけて取り組んでいる使命を曲げさせてしまうような提案となったのでした。

そのために32-33節の答えをなさいました。ご自分の本心をあらわされました。ペテロが(マルコ8:31-33)イエス様ご自身の死とよみがえりをはっきりと教えられた主に向かって、いさめたときと同じ事を、主は感じておられました。その時のことばは、今の場合よりも厳しかったのでした。「下がれ、サタン。あなたは神の事を思わないで、人の事を思っている。」と叱られたのでした。

わたしたち親切心や行為からする忠告の中に、神の国の信仰のルールと道に反したことがないかどうかをいつも注意する必要あります。自分では相手を助けたつもりになっていて、しかも神の事を思わないで、人の事だけを思って、相手の信仰を曲げてしまう。主イエス様から遠ざけてしまう。罪に陥らせたりする事がある。とても親切にいい事を言ったつもりでも、イエス様の目からみると間違っている。その人の信仰の道を固め、徳を高めるために、神の事を思い真の愛の心からする忠告は、たとえ相手の耳にいたい事でも、その人を生かすに至る事を心得ておかなければなりません。

イエス様を信じ従っている者は、自分の十字架を負って天のエルサレムを目指して歩んでいます。日々に、自分の死とよみがえりを覚えて進んでいます。お互いに、単純に肉体のことだけを心配するのではなく、真の霊の深いところで信仰の命を思って励ましたり、祈り忠告しなければなりません。

Ⅱ 32-34節 イエス様の答え

主の答えはヘロデに向けられています。ヘロデ・アンテパスはイエスの存在と働きを無にしようとしていました。この領主の事をイエス様は「狐」といわれました。ユダヤ人にとって「狐」は三つの事柄の象徴でした。狡猾な動物、一番有害な動物、役に立たない人間です。領主のことを「狐」呼ばわりすることができる人は強者でなければなりません。主イエスは、王の王として神の命令により、その使命を全うするために歩んでいます。地上の王を喜ばせたり、王の前から逃げ出したりするために自分の歩みを一日でも止めたり、距離をちぢめたり、より道したりするようなことはなさらなかったのです。

33節「よく見なさい。わたしは、きょうと、あすとは、悪霊どもを追い出し、病人を直し、三日目に全うされます。だが、わたしは、きょうもあすも次の日も進んで行かなければなりません。」と語られました。ヘロデがイエス様をおそれたのは、「悪霊を追い出し」「病人を直す」メシヤ的わざを進められたからでした。主は、このわざを行って三日目に終える。三日目とは「時が満ちて」の意味であり、その日に向かって、きょうも、明日も、かわることなくみわざは進めていくのです。三日目には、十字架と死と葬りと復活がまっている。それは悪霊を追い出し、病人を直すわざの完成です。

罪の束縛と死の恐怖から、十字架と復活は信じる者を解放します。だから、わたしは、きょうもあすも、進んで行きます。この地にとどまることはありません。それはヘロデに脅されて殺されそうになったからではありません。そうではなくて、神の与えた働きを全うするためであります。わたしはエルサレムに行ってそこで死ぬのです。このガリラヤでヘロデによって殺されるのではありません。預言者が死ぬのはエルサレムで、です。わたしはそれ故に、死をおそれてヘロデの領地から去るのではなく、死にむかってエルサレムに前進するのです。

エルサレム、そこは本来ユダヤ人にとって、神信仰の中心地です。「律法はシオンからでる。エホバのことばはエルサレムから出る。」(イザヤ2:3)と言われた聖なる地です。ところが歴史的にはエルサレムは神のことばを語り伝えた預言者たちが殺された地でした。「預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者」このことより、ユダヤ人たちは神が恵みと愛をこめて招いたにもかかわらず、拒否し、昔と同じように、今も拒絶することを示しています。

神の愛の招きはイエス様を含め、今も、イエス様によって遣わされた伝道者によっておこなわれています。しかし、この愛を受け入れるものは救われますが、拒否するものは滅びます。神の愛の招きの手を振り払う事で、神から放任され、罪を積み重ね続ける事になります。

「ああ、エルサレム、エルサレム」という悲痛な叫びは、単純にエルサレムが幾度もくりかえされたイエス様の訪問と伝道に答えなかった事への嘆きだけではなくて、実にそのことがもたらす恐ろしい結果をご存知であるが故の嘆きでもありました。「34節」。

主イエスの愛と恵みの込められたお心が注がれているにも関わらず、その招き、その警告、その忠告に、背いてゆく。離れて行く。」好まない。そのような罪人への嘆きが、この「ああ」に籠っています。

Ⅲ 35節 神の愛の招きをこばむことの結末

度重なる命がけの救いのみ手を拒み、愛の招きを拒むことは、その忘恩への計り知れない結果を刈り取ることになります。「見なさい。あなた方の家は荒れ果てたままに残される。わたしはあなた方にいいます。」「あなた方の家」とはエルサレムの神殿のことです。神は、イスラエル民族を選び、民のうちに住みこまれた時から、そのしるしとして、神殿を設け、そこを「わたしの家」「わが名をもって呼ばれる家」といわれていました。ところが、いま、そこは「わたしの家」と言われないで「あなたがたの家」といわれています。

そこは荒れ果てたままに残される。見捨てられたままになる。では、神はもう民と共にすまわれないでしょうか。共に住む選びの民を消し去られるのでしょうか。いいえ!!

イエス様は預言されました。エルサレムの神殿をくずしても、三日のうちにたてなおすと。それは復活の預言で、イエスのみからだこそ、文字通り、神が人と共に住みこまれた神の宮であったのでした。そして復活の主を信じる群れ、キリスト教会もキリストのからだであって、そこは、神の宮、キリストのすまわれる家です。あのエルサレムの神殿は見捨てられ荒れ果てたままに残されても、キリスト教会とクリスチャンにおいて、それは存続します。それはイエス・キリストを信じる信仰によって作られる聖霊の宮なのです。エルサレムの民にとって、「主の名によって来られる方に祝福あれ。」というときまで、キリストに会うことはできません。エルサレムの住民は、シュロの日曜日巡礼者たちがこの歌をうたったのに「この方はいったいどなただろう」といって冷淡に迎えました。民の指導者たちは、いよいよこのお方を殺すために策動しつづけました。

主イエス様の涙の招きも、最終的に、このような態度で迎え、ついに、エルサレムは悪の量目を満たしてしまいました。今日、エルサレムの神殿は廃墟のままです。その上にはイスラムの会堂が建っています。神の愛の招きを拒む事は、自らの罪の量目を満たして荒廃し、滅びにつながるのです。

 

結び)信仰、これは何かをすることではありません。わたしに来なさいと招かれる、救い主の招きにおうじて素直にくることです。

感謝をもって、聞き従うことです。神の遣わされた使者の宣教を受け入れるならば、私たちは皆、神の家族なのです。

 

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