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3月 29日 受難日礼拝    ルカの福音書 23章44〜49節 わが霊をみ手に

序文)主イエス・キリスト様が死の瞬間のことばをルカは書き留めました。十字架の上で、その苦しみの中に、さまざまな感情を現し、その語られたことばによって、何を考え、感じておられたかを、私たちは知ることができます。

私たちの赦しを祈るおこころ、犯罪人の回心を受け入れて共にパラダイスにいると主は宣言された厳粛な救いの保証、そして「わが神。わが神。どうして、わたしをおみすてになったのですか。」との暗黒の叫び、さらには「全てが完了した」という勝利のおことばなどです。そして今や、いのちの最後の瞬間に、主イエス様は何を感じておられたかが、ここに示されています。どのようなお心で死を迎え入れられたのかが教えられています。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」私たちが主を信じる者として、自分のいのちの最後の瞬間にどのようなこころで迎えると良いかの重大な模範が示されています。

1 私たちは実際にあたって、死の瞬間に何を感じ、何を考えるでしょうか。

良く、一生涯が走馬灯のように思い起こされると言われています。自分の生涯の総決算のように、良いことも悪いことも、感じ取るのでしょうか。神様ぬきの人生を歩んできた者にとっては、それは真っ暗闇への突入でしょうか。おそれながらもうまく免れて来た裁きへの予感のようなものが襲うでしょうか。普通は長い長い死出の旅路といわれます。私の祖父は我が家で共に生活していましたが、

81才で亡くなりました。その時、お棺に遺体を収めるときに、山伏の格好をさせました。それは生前、修験者としてあちらこちらの山々を歩いたので、死後、どこに行き着くか分からないけれども、死出の旅路に向かうにふさわしいと家族が考えたからでした。

あなたは、死の瞬間に何を考え、何を感じるでしょうか。あなたの家族はどのようにあなたのことを葬るでしょうか。

主イエス様は、「わが霊を御手にゆだねる。」と祈られました。このことばは詩篇31:5[わたしのたましいを御手にゆだねます。真実の神。主よ。]を引いておられます。詩篇31:5で、詩篇の作者ダビデは、四方八方に恐怖を感じ、苦難に満ちた生活の中で、贖い出して下さい、と願い「わたしの魂を御手にゆだねます。」と叫びました。イエス様のおこころに、死の瞬間にのこっていたのは詩篇のみことばでした。神様のみことばが主を力づけ、その思いはみことばとともにありました。主は詩篇にないことばを、一言付け加えました「父よ。」です。

この「父よ。」に万感が籠っています。もはや、見捨てられたと感じた暗黒の苦しみはなく、自分を最も深く知っておられる父、弟子たちに教え諭し続けられた「愛の父」生涯をかけて人々にもたらそうとした「父」の名を、口にしながら死の瞬間を受け入れられました。

主イエス様に取って死は、どこに行くのかわからない死出の旅路ではありません。長い地上の苦難の旅路を終わり、天の父のもとに帰ってゆく家路でした。信頼しきった心で、眠りにつく夕べの祈りでありました。目覚めたときは父の家なのです。そこに父が御手をのべて帰り着くみ子を迎え入れてくださるのです。

この世ではイエス様は真の意味で家を呼べるところはなく、枕するところもなかったのでした。仮の宿りでしかなかったのです。無理解に苦しめられ、迫害を受け、弟子たちは弱く不忠実でした。しかし今や、主は永遠の自分の家に帰られるのです。

主は私たちのために死なれました。今は使命を果たし終えて、ご自分の家に帰られるのです。

ヨハネ14:1-4によれば、主は父の家に、私たちをも迎え入れて下さるのです。ですから私たちに取っても死の瞬間は、父の家に帰る家路なのです。主イエス様と同じように祈ることがゆるされているのです。

クリスチャンは死の瞬間、すばらしい慰めと助けを受けることができます。十字架の主、救い主を振り返ることができます。思い出すかもしれない罪の数々のすべてが、主イエス様の十字架の贖いにより赦されたのです。あなたも、わたしも死に際しては確実にたった一人になります。その瞬間が来ます。地上で、ご主人や奥様や、子どもたちや、人々にすがって生きて来たかもしれません。でも、たった一人になった時に、だれも、死ぬ私を助けてはくれません。助けることができないのです。一番頼れるはずの自分が死ぬのですから。たった一人で、ありのままに、はだかでいなければなりません。その時に、主イエス様がもっておられたように、同じこころで「父よ。わたしの霊を御手にゆだねます。」と子どものような素直さで信頼をもって祈りつつ死ぬことができる者は、何と幸いなことでしょう。だれでもイエスさまのみことばをうけいれ信じ従うときに、天の父は、あなたの父なのです。自分の一切をおゆだねできるお方がいるということは、何という慰めでしょう。

 

2 さて、私たちも主イエス様に見習って天の家に帰ることを願うとき、わたしたちは死の寸前まで、主があゆまれたように歩まなければなりません。主が生きられたように、生きなければなりません。私たちがどのように死ぬかは、どのように生きたかで決まるからです。神様に全幅の信頼を寄せて歩んだか。日々に自分のすべてをおゆだねして生きているか。青年の日々も、戦いの日々も、試練のときも、喜びのときも悲しみのときも、やめるときも健やかなときも、忙しいときも、静かな夜も、常に神に信頼して歩んでいるか。そうならば、死さえも、死の瞬間がきても、自分の魂を主にゆだねることができるのです。

結び)真実である創造者、救い主、導き手、完成者に自分のたましいをゆだねます。其の時に死は、父の家に帰る家路となります。

 

 

 

 

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