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130630_001 2  第二礼拝音声

 

130630_00 1  第一礼拝音声

 

2013年6月30日 ルカ17:1-10 「役に立たないしもべです」(謙譲語)

序文)「イエスは弟子たちにこう言われた。」と書き出されています。これまで、パリサイ人たちのあざけりに答えられてきましたが、今や、弟子たちに教えられたのです。内容は、イエス様がご覧になっている教会に起こって来る「つまづき」という現実課題とその解決法について、弟子たちの反応と主の答えです。古くて新しい課題です。私たちの背後にある神に背くサタンの悪賢い罠が、至る所にもうけられていて、知らないうちに罠にかかっているのです。その実態を主イエス様は知っておられて

弟子たちに警告しておられるのです。

Ⅰ つまずきが起こるのは避けられない。1節−2節

1 イエス様は、イエス様に従って歩むクリスチャンたちの現実をよくご存知です。イエス様は夢見るものではなく、身のまわりに起こっている現実を踏まえて、さまざまな教えを与えておられます。信仰生活をつづけて行く道中で、つまずきが起こるのは避けられない。何時の時代にも生起する課題です。

ではつまずきと何でしょうか。これは原語ではスキャンダルという英語の語源になったことばでスキャンダロンです。動物を捕るため、罠につけてある引き金となる板や棒やほそい紐などで、それが足にかかるとパターンと罠が落ちて獲物が捕獲される仕掛けです。救いの道を歩いて行く者の前に罠を伏せておくと、その足がこのつまずかせる物に引っかかり、倒れて、救いの目標に向かって進む事を妨げるのです。「ここは教会だから四海波静かで、いさかいやつまずき等は絶対に起こらない。いや、起こったら教会ではない、」等という論議ではないのです。動物を捕まえる罠は、先ず隠されているので分からない事がひつようです。私たちは分からないうちに罠にかかってしますのです。次に、罠にかかるようにえさを置いておびき寄せるのです。

2 神の子とされた私たちのたましいをくつがえそうとしている敵であるサタンは、まず私たちに分からないように罠をもうけます。そしてえさでおびきよせます。

とうぜんですが、わたしはサタンですと言って、私たちのまえにでてきたりはしないのです。最高の環境に置かれていたアダムは、蛇をもちいたサタンの罠につかまりました。えさは、禁じられた木の実は、あなたを神のようにする、善悪を知るようになる。エバがそれで木の実をみると「食べるに良く、目に麗しく、賢くするという木はいかにも好ましかった。」サタンは光の天使に偽装するとも言われています。神のみことばによって善と悪を見分けるように訓練がひつようです。それも悪魔は蛇を用いて神の言葉に疑いを持ちかけて、「必ず死ぬ」と言われたことばを「決して死にませんと」最後に正反対の事を言ってくつがえしました。

つまずきは、この世に教会がある限りは、私たちでも必ず起こるのです。この課題に勝利をするには、先ず罠のままにとどまっているなら問題はありません。しかし私たちがえさに食い付いて拾い上げるなら致命的になります。しかも、つまずきを使い続けて心の中でふくらませ、養い続けるなら、仲間のクリスチャンたちをつまずかせることとなります。

つまずいた人は、傷つき、いかり、憤り、嫉妬し、復讐心をもち、争い、苦々しさをもち、憎しみ、ねたみをおぼえます。御霊の実の正反対をむすびます。それがサタンのねがっていることです。そのために、攻撃と痛みと、分派と分裂と人間関係を破壊します。裏切りが起こり、信仰のバックスライド(後退)が起こります.罠にかかっている事に気づかない人たちは、自分が人によってもたらされた悪のために、否定的な気分になり、神経がつまずきに集中している状態であると気づかないで、ますます自分自身にだけ焦点を合わせてしますので。いわばイエス様から目を完全に離しているのです。これこそサタンの思うつぼなのです。

どうやってそこからぬけだすことができるでしょうか。キリストがくださった「自由」(ガラテヤ5:1)を失わないですませる事ができるでしょうか。

3 つまずきが起こるのはサタンが罠をもうけるからですが、同時に私たちが罠にかかるのは、なぜでしょうか。それは、私たち弟子たちがとても信仰的に未熟だからです。聖徒たちが全員熟練の成熟した段階を歩んでいるわけではないから、救われる前からもっている古い罪の傾向がまだ、清められていないために出て来てしまうからです。それが互いの未熟さ同士のぶつかり合いとなってしまうからです。

未熟さの一番は「自己中心」という罪の残存です。誰もが自分の事で一生懸命なのです。自分の周りの傷ついた人にまで目が届かないのです。終わりの日には「自分を愛する者」(第二テモテ3:2)になるのです。

つまずきにたいして、どのようにあなたが反応できるでしょうか。「第二テモテ2:24-26悪魔に捕らえられて思うままにされている人々でも、目覚めてそのわなを逃れる事もあるでしょう。」つまずいたと言って仲違いしている人たちは、罠におちいり、悪魔の思いを達成する虜に成ってしまっているのです。どのように警告をうけても気づかないのです。自分は正しいと思い込んでいて、そう言い続けます。

人につまずいてしまった人たちは二種類の反応をします。実際に不当な取り扱いを受けた人と、人から不当な取り扱いを受けたと信じている人です。つまずかせられたと信じてる人は、不正確な情報を基礎にして思っている事が多いのです.正確であっても、判断する段階で、歪曲されている場合があります。どちらにしても、傷ついている人たちは、理解力にかげりがあり、自分の推測と外見と間違った考え方で、いろいろのことを判断してしまうのです。

4 自己中心で、一番有効な罪を生み出すのはプライドです。人に傷つけられたと言って、自分のかわいそうさを包み隠すために、プライドの衣は、自分を包み隠します.私たちの本当の姿を見えなくしてしまいます。「わたしは傷ついてなんかいません」と言う事で自分のプライドが傷つかないように本当の心を隠してしまいます。あなたを自由にする心の変化は悔い改めによって、聖霊がもたらします。しかしプライドはそれを妨げるのです.プライドは自分が犠牲者であるといいきかせます。自分が実は人をつまずかせている等とはさらさらおもいません。自分の行動を正当化します。このように自分が他の人たちに、特に自分を傷つけた者たちにするのは当然であるというのです。神の前にこの心はかくすことができません。自分は不当な扱いと受けたのだから、赦さないのは当然である。十字架上のキリストの赦しの祈りを受けたあなたは、赦さないという気持ちを持ち続ける権利はありません。誤りに対して誤りでお返ししても、何も変化はおこらないどころか新しいつまずきを生み出します。主イエス様の十字架の贖いの犠牲は、あなたのためにも相手のためにも、注ぎだされたのです。

このために主イエスの福音は互いの罪を言い表して、互いにゆるしあうこと、また神の赦しを得る事(ヨハネ第一の手紙1:7-10)キリストの血により清めていただける事が約束されています。日々に悔い改めて、聖霊の清めをいただく事で、だんだん成長して行けるようにしてくださっているのです。課題はその手順を踏まないで、どうせ私はこのようなのですと、開き直っているのが乗り越えるべき課題です。

5 さらに、つまずきは、みことばの教えの全体像を把握していないために、偏った主張に簡単に巻き込まれてしまうからおこります。日々に聖書に親しむ事の重要性がここにあります。ウェストミンスター信仰基準を学ぶ事の重大性がここにあります。

悪魔は、いろいろの異端者を起こし、間違った教えを栄えさせ、新しい予言ができるといって、教会を神が啓示され完結しているみことばから引き離し、私に従えと言い、俗化させ、また迫害を持って熱心な信徒をつまずかせようとしているのです。  その用いている手段は、インターネットを通じて福音放送と名乗っているものや、実際に正しい福音放送がありますが、そうでない目的をもって流しているものなど、文書や、テレビ、映画等による映像や、様々な大規模なイベントなどです。内容の終わりは、ほとんど、主イエス様に深く結びつくよりも、その主唱者、主催者が高められているのです。それはカルトが用いる手法なのです。反神の権力者たちもフルに用いられています。イエスに逆らう悪魔の勢力はこの世では強いからです。見抜くには、その者たちが実際に結んでいる実によって見分けるのです。生き様が語っているのです。惑わす者たちは、羊たちが聞く必要のある事をかたらないで、彼らが聞きたいと思っている事をかたります。健全な教えを聞きたいと思っていないのです.自分の耳をくすぐるような事を聞きたいのです。テモテに対するパウロの警告は今でも有効です.テモテ第二4:3-4。

 

Ⅱ この現実を覚えた上で「つまずきを起こさせる者は、忌まわしいものです。」とその責任を警告されました。今日では、人を用います。つまずかせる人を立てるのです。その者は忌まわしいのです。「そんな者は石臼を首に結わえ付けられて、海に投げ込まれたほうがましです。」

1 どのように「まし」なのかというと、その人が生き延びて、次々とつまずきを信徒や未信者の前にまき散らして、その罪のために、彼が受ける刑罰の重さを考えると、海に沈められた方が、さばきは少ないから、というのです。それほど、人をつまずかせる罪はおそろしいのです。つまずいた人はその罠のために信仰のいのちを失うからです。

2 だから3節「気をつけなさい、もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。そして悔い改めれば、赦しなさい。」悪魔の罠に自分が陥らないように気をつけなさい。また悪魔に乗ぜられて知らず知らずのうちに手先となって働かないように気をつけなさい。そのために基本的に兄弟姉妹がお互いを「小さな者」として、軽んじたり、見下げたりする思いから解き放たれなければなりません。パリサイ人たちはイエスを信じる弟子たちを、あざけり、見下げ、冷笑し、へ理屈の議論を吹きかけ、誘惑し、憎み、苦しめ、迫害することによってつまずかせました。神は、小さい者、単純に主イエスを信じしたがう者、まだ弱い信仰にしか達していない者に、期待の目を注いでおられます。主は彼のためにも死んでくださったのです。これほどの値打ちを覚えてお互いを重んじるところに、悪魔は乗じることはできない。自分は霊的に成熟しているとのうぬぼれは悪魔の乗じる隙をつくります。人をつまずかせる事は大いなる罪です。

3 もし、兄弟が罪を犯した場合 3節

つまずかせる罪について語られた主は、次に罪を犯した兄弟の取り扱いについて教えられた。その場合、戒めて悔い改めれば赦しなさい。兄弟が罪を犯した場合、その兄弟への神の心をもって、愛をもってつつみなさい。パリサイ人のように軽蔑し、嘲笑し、さばくならば、本人はそれによって望みを失い、その嘲笑によってつまずいてしまうでしょう。そのようにならないために、なすべきことは、その人のところに先ず行って彼を戒めることです。罪は放任したり、是認するべきではなく愛をもって戒めることが必要です。ガラテヤ6:1「兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心で、その人を正してあげなさい。また自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい」。御霊の実の一つである「柔和」な心で、ということが肝要です。他の人たちにいろいろと吹聴する前に、自分で行って戒めなさい、と言われています。

教会の指導者として立てられた長老たちはもちろんのこと、兄弟姉妹一人一人が、この戒め合う義務を負っているのです。また、そのようにできる力を聖霊様が与えてくださっているのです。パウロが「わたしの兄弟たちよ。あなた方自身が善意にあふれ、すべての知恵に満たされ、また、互いに訓戒し合うことができることを、この私は確信しています。」(ローマ15:14)と言っている通りです。

その結果、兄弟が悔い改めたなら、赦しなさい。あなた個人に対しておかされた罪であるなら、誰にも言わないで、あなただけで彼を戒めなさい。事件を彼とあなたと神様の間で処理しなさい。一日に七度あなたに罪を犯しても、七度真実に悔い改めると言って帰ってくるなら、その都度、赦しなさい。どこまでも赦しなさい。それによって兄弟を得るのです。悔い改めた者の赦しを拒否して恨みを持ち続けて、つまずきを起こさせてはなりません。

 

Ⅲ 使徒たちの反応と主の答え 5節−10節

1 主からの教えを聞いて弟子たちは、これは無理だとおもいました。それで「私たちの信仰を増してください。」と答えました。信仰は主イエス様が増してくださる恵みの賜物であると彼らは理解していました。だれでも、この教えを聞く時に、到底自分のような者の信仰では、とても実行はむつかしいと感じるでしょう。それに対して主は答えました。6-10節

主が教えられたのは、信仰が多いとか少ないとか、大きいとか小さいとかの問題ではないと言う事でした。からし種ほどの信仰でよい。本物ならば、信仰が生きてあれば良い。純粋に神を信頼する心であれば、不可能と思われる大奇跡でもなしうる。信仰の質を問われた。

生きた信仰、本物の信仰とは、自分にたのまず、神の能力と恵みによりたのむことです。自分の信仰をさえ頼みとしない。自分の信仰がもう少し大きかったらできるのに、という考えは、自分に頼っている。神様を全く頼るのではない。自分の信仰の大きさと比例して神様が働いてくださる。自分の信仰が小さいので人をそのように赦す事ができないなどと考えている。また逆に、私はたくさん学んでいるから、私は長く祈っているから、私は早くから祈っているから、私はイエスさまのようにしているから、と自分を頼みとしている限りは、イエス様はスポイルされています。聖霊がみ言葉により導かれるのに、み言葉を軽んじて、自分の感覚を最優先しているのです。自分がどう思うかを第一とした、主観的信仰は悪魔が一番載せやすいのです。

主イエス様は答えます。そうではないよ。信仰があれば、それによって神は全面的に働かれる。自分は無価値である。神はあなたを通して働かれる。赦すことができるように働かれる。またそのように神に頼っている者を悪魔は乗じる事はできない。

「信仰を増し加えてください。」と祈るのではなく、「信じ続けさせて下さい」と祈るので良い。からし種ほどでよい。信じる心が生きているかぎり、神はあなたを通して働かれる。赦せる心をたまわるのです。

2 このことをさらにはっきりと教えるために主は7-10節を話されました。

しもべと主人の関係

しもべは全存在を主人に負っている。その力も、働きも主人に負っている。イエス・キリストのしもべとして、私たちは召し出されました。主から受けた使命と責任をもって、その働きをするのが当然です。ところがもし、わたしたちが、自分たちがいなければ神の国は成らないかのように思い、自分たちのはたらきによって神の国が、一層前進するのだと考えるならば、それは主人に対する自分自身と地位とを誤解しているのです。神はそのような高ぶりをもつしもべにたいしては、その奉仕を必要としたまわないのです。そればかりか、怒りをもって外の暗やみに追い出されるのです。

しもべはいいつけられたことをしたからといって、主人に恩をきせることはできないのです。主人の存在よりも自分が偉くなることもないのです。神は、私たちの属する一切をご自分のものであると主張され、私たちの身も、働きも、全面的に支配しておられるのです。ですから私たちの一切は主からでているのです。

たとえ私たちが人をつまずかせず、愛を持って赦すことができ、大きな事を成し遂げたとしても、それは誇るようなことではないのです。もしろ、神様がこのようになさったのだと謙遜になり、私は役に立たないしもべです、と事実、神様のお働きの一切を告白するほかないのです。

神様の前に信仰生活を送るのに、自分の力をたのみにしたり、あるいわ、自分の信仰の小ささを嘆くよりも、自分の全存在の力も歩みもすべていのちの主に負っている事を認めて謙遜になる。全ては神からと受け取る。このことが実は生きた力ある信仰なのです。

結び)みことばの全体像をよく学び、理解し、信じ、成熟してまいりましょう。人をつまずかせない心遣いも、戒め赦す知恵と愛も、すべては主イエス様から愛されて恵みを受け取る事からできるようになるのです。役に立たないしもべです、という自覚は、その信仰をとおして、神が、あなたを有益なしもべ、神の大使としてお用いになるための基本姿勢であるからです。

 

 

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