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2013.8.4     「希望を持って常に祈れ」 ルカの福音書18:1-8

序)神の国が成就する日、主のご再臨を待つために、弟子たちは希望を持ち続けなければなりません。すぐにでもと考えていたのが、「人の子は、まず、多くの苦しみをうけ、この時代に捨てられ無ければ成りません.」25節と主がいわれました。弟子たちが信仰生活を続けるうちに、失望、落胆に陥り、特に祈りに置いて中断してしまう危険性が多いので、其のために忠告をして下さいました。一日、一週間、一ヶ月、祈り続けるけれども確かな答えが無い。祈るのをやめてしまう。再臨を待つ姿勢は、祈りつづけることで立ち続けることができると教えられました.

 

Ⅰ いつでも祈るべきで、失望してはならない。

1 失望落胆は祈りを止めてしまうのです。バンヤンは天路歴程の中で、クリスチャンがその歩みを始めて間もなく落胆の沼に落ちこんでもがいているところを描いています。助力者が彼を助け出して言うのには、この落胆の沼は直すことができないようなところです。罪の意識にともなう糟や、汚物が絶えず流れてゆく窪地で、罪人がその堕落について目覚めた時、その心に多くの恐怖と疑惑と意気粗相させるような憂慮とがおこり、それらが皆いっしょに成って沈殿しているのです。

信仰の歩みを始めて、ままなくこの落胆の沼の危険にぶつかります。自分の内側から生じる泥沼と、外側から、この世から来る圧迫、弱い者をかすめる力、信仰の故に受けるあざけり、はずかしめ、それらによってクリスチャンはどれだけ苦難と悲哀の涙を飲む事でしょうか。この故に信仰の火は内側に細くなってゆき、忍耐と希望の限界に達することがあるのです。そのようなときに祈り続けるのをやめてしまう。

2 2−5節 このやもめの訴えに対する不正な裁判官の対応をみましょう。たとえ話しの説明。不正な裁判官は神を恐れず人を人とも思わないひとでした。それで、やもめが正当(せいとう)な理由(りゆう)に基(もと)づいて訴(うった)えをしたが、これを取り上(とり  あげ)げて拒否(きょひ)したのです。たいていのやめもなら、ここであきらめてしまうことろです。このやもめはちがいました。絶対に裁判をしてもらうまであきらめないで、通いつづけました。この裁判官は心の中で「うるさくてしかたがない」といっています。これは「わたしの眠りを打ち砕く」という意味で、こん棒のようなもので打ち叩く事をさします。それで、不正な裁判官は本来のやりかたは、賄賂をとって平気で公義を曲げるのでしたが、このやもめのために正しい裁判をやって、この女がもう来ないようにしてやろうと言いました.結局やもめの執拗な願いが通りました。

3 祈りつづけようとするとき、すぐにやめてしまうのは、第二に忍耐の欠如です。執拗さの欠如です。このやもめは、ひっきりなしに、執拗なまでに訴え続けています。人を人とも思わない裁判官が相手です。忍耐心をもって聞いてくれるまで訴えつづけました。

このたとえ話しでやもめの持っていたこころは忍耐と断固たる決意と、熱誠です。それは拒絶されてもすぐに動じたりしないことからはじまるのです。次に答えがくるまで、ときも労力も惜しまずに忍耐する決意を持って進むのです。さらに嘆願のうちに全存在を投げかける熱誠に達し、ついに神の力を握る大胆をえるのです。

もう一人の例は、エリヤの祈りです。第一列王18章 雨のため7度の祈りをしました。その前のところではザレパテのやもめのために祈りました。3度子どもの上に身をかがめあきらめなかったのです。

 

Ⅱ 6-8節 主の教え

1 もしやもめが不正な裁判官に執拗に訴えることによって裁判をしてもらったのならば、まして、慈愛に富む天の父は、クリスチャンのために正しい裁きをしてくださらないはずはないでしょう。神はご自身の民、み子のいのちで買い取り、花嫁として受け入れてくださった一人一人のために報いをしてくださらないことがあるだろうか。神の民は神の民であると言うだけで、この世において困難と苦しみにあいます。そして祈りは叫びと成って天にのぼります。声なき声と成ってささげられます。そして神は救い出してくださいます。いつまでも神がさばきをしないで、放り投げておかれる事はありません。必ず、神の時が来て決着をつけてくださいます。第二テサロニケ1:4-10

神が、一見してさばきをつけるのを遅らせておられるように思えると時があります。神は不正な裁判官のように拒否しておられるのではありません。神が、祈りが捧げられている時に、即決でさばかれないときがあります。それははっきりとしたみこころがあるときです。神はご自分の民に対して忍耐しておられるのです。それは民を愛しておられるからです。いのりの民が「今のときの軽い艱難は、私たちの内に働いてはかりしれない重い永遠の栄光をもたらすからです。」(第二コリント4:17)ということを体験してほしいのです。また、神は直ちにさばかないことによって、罪人が「一人でも滅びる事を望まず、すべての人が悔い改めに進む事を望んでおられるのです。」(第二ペテロ3:9)

神の裁きは「速やかに」と主のおことばにあります。その日、語られてから2000年が過ぎました。多くの人々は、このことばに当惑しています。わたしたちにとって長い遅延とおもいますが、主にとってすみやかなのです。神様の目からは救い出す事は一瞬もおくれてはいない。人の目にはおくれているようですが、かえってその間に祝福が増加えられました.私たちがイエス様を信じる前に再臨があったならば、私たちは永遠の滅びにはいっているのです。

2 さてここで主は一つの心配をしておられます。8節「人の子がきたとき、果たして地上に信仰がみられるでしょうか。」これは問いかけです。主が来られる日、主を待ち望んでいる、期待しているか。何時来られるかわからないが、待っている。祈っている。そのような信仰が、私たちの内にあるかと問いかけておられるのです。

 

Ⅲ  私たちの応答

1  私たちは、主のこの問いかけに答えてゆかなければなりません。

私たちは、なぜ祈りをやめてしまうのでしょうか。一度や二度祈っただけでやめてしまいます。常に祈りなさいと言われている神様のみこころに従っているといえません。自分の判断ですぐにやめてしまうのです。或るいみで、それは霊的な怠慢です。最後まで努力しつづけるということをやめるのです。困難にぶつかるとすぐに嫌になってなげだすのです。その求めを続ける事が明らかに神のみこころに反するとわかるまでやめない。何でも、簡単にほうりだすというのは、その人の品性が成人の域に達していないので、未熟なのです。これは人生の他の分野でも完成させずにやめるという悪い習慣を身につけてしまうのです。

また、霊的に高慢なのです。不断の祈りを求められている事に、何か神の専制的なものを少なくとも感じ取ってしまうのです。何か不可解であるようにおもうのです。神はあまりにも早く、また容易に受け取る事により、わたしたちの害と成る事柄は、あえて与えようとなさらない。しかし謙遜になって求め続ける時に、わたしたちの側に主が与えて下さる備えが完了するのです。神は私たちの願望がどれほどであるかを、ためしておられるのです。この神様の側のなさり用を承服しなければなりません。

2 祈り続ける秘訣は 主は生きておられるので、祈りを聞いておられると信じる。主イエス様は死んだ存在ではなく、復活して生きておられる。わたしをあがなう者は生きておられるのです。かれは私たちのために、絶えずとりなしをしようと天の御座におられる。ヘブル7:24-25

さらにわたしはそのみ前に立って、祈っているのです。神の臨在意識を養い育てることにより、あらゆる失望落胆恐れから引き上げられる。

8節 神は正しいさばきをなさるかたです。主こそ私たちの力です。正しく裁くかたです。自分のちからに頼ってなんとかしようとしないで、神の正しくさばくことにゆだねましょう。

 

結び)祈りを決して中止しないようにしましょう。とりなしの聖霊が私たちのうちに助けを増し加えてくださいますように。

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