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2013年9月8日 「預言された受難」ルカ18:31-34

序文)主イエス様は、ご自分に犠牲と従順をもって仕える者たちが、この世で、また来たるべき世ではかりしれない祝福にあずかることを約束されました。時には迫害の中で地上的なむなしい祝福をあえて放棄するような道を進んでも、それらは必ず永遠の祝福に決算されて実を結ぶことが語られました。

この成り行きは実は、31-33節のイエス様ご自身の歩む、十字架と復活の中で、確証されることが示されます。12弟子は主ご自身の例によって、弟子たる者の道にさらに目を開かなければなりませんでした。

Ⅰ 「さあ、これからわたしたちはエルサレムに向かって行きます。」

なぜ、イエス様はエルサレムに向かって行かれるのですか?それは預言の成就のため、すなわち、人の子が異邦人に引き渡され、あざけられ、はずかしめられ、唾をはきかけられるため、さらに、鞭で打たれ、殺されるため、そして三日目によみがえるためでした。

弟子たち、とくにペテロは「ご覧ください。私たちは自分の家を捨ててしたがってきました。」といっていますが、主イエス様は、ここで、ご自分はいのちを捨てて、神の国のために働こうとしていることを語られました。エルサレムで何が起こるのか。自分の捕縛、審判、処刑が行われる。これらはすべて預言されていたことがらです。(ゼカリヤ9:9、イザヤ53:7-10,詩篇22:1,6-8,14-18,詩篇69:21)

救い主メシヤ(キリスト)の預言は、細かいところまで旧約時代にすでに語られていました。人々に示されていたのです。キリストは地上に義と平和と救いと光をもたらす者であり、同時に、キリストは地上にあって、人に捨てられ、侮られ、傷つけられ、砕かれ、虐待と不法な審判により、取り去られる者である。同時に彼は、世の終わりには雲に乗って再び来られ、神から権力と栄光を賜って、世を裁かれるために王位に就かれる。

さて、主イエス様はご自分について旧約聖書の預言が、すべて実現すると語っただけでなく、ここで、ご自分でも受難と復活を予告しておられるのです。主イエス様の受難それは時の弾みで起こったことではありませんでした。天の神様が私たちを救うために計画された救いの手順の一つであり、予告されていたことであったのです。このことは用意された救いの確かさを保証します。

Ⅱ さて、主イエス様は、ご自分がこれからどのような苦難にあうかをご存知の上で、決然とその道をエルサレムへと向かわれたのです。「さあ、これから私たちはエルサレムに向かって行きます。」との言葉の背後に主イエス様がご自分の道をさだめ変更されることなく歩みを進めておられることをくみ取ります。その決断、決意は勇気あるものでした。エルサレムへの途上、引き返そうと思えば十分な余裕があるのに、引き返しません。避けようとすれば、避けられるのに、避けません。変更なしで予定通り、進んでいかれるのです。自分にとって明らかにされている将来に対して冷静に意識的に直面することは、何と勇気のいることでしょうか。主は、わたしたちの救いのために、自分から進んで十字架への道を歩まれたのです。それはいやいやでもなく、さんざん逃げ回ったあげく、やむなくでもなく、心からだったのです。主イエス様の孤独な、しかし勇気ある決断に感謝します。わたしたちを救うための積極的なお心に感謝します。

 

Ⅲ さて、一方弟子たちは、主イエスのことばが何ひとつわからなかった。

彼らには、このことばは隠されていて、話されたことが理解できなかった。弟子たちは主イエスに対して多くの誤解をしていました。しかし、彼らはイエスがメシヤであることを確信していたのです。ですから、ガリラヤから、ここまで従ってきたのでした。今、また、彼らはイエス様が明らかに死のうとしていること、苦難を受けるということを聞きました。弟子たちの心の中でキリストの栄光の王、メシヤという姿と、あざけられ、ののしられ、つばきをかけられ、苦しんで、死ぬメシヤの姿が結びつかないで、混乱と当惑があふれたのでした。主イエスが今、語り出されたその心をおもいはかることができませんでした。彼らはイエスを愛していました。しかし、他のことは、今、すべてが暗黒であったのです。彼らはどれほど望んでも、イエスご自身から離れることはできなかったのです。主イエス様への強い愛の故に理解しえないことも、さっぱりわからないことも、受け入れざるをえませんでした。

彼らが、これらのことがわかるようになったのは、主イエス様が死からよみがえった、後だったのです。聖霊様が彼らに、主イエス様の語られた事柄を思い起こさせ理解の心を開かれた時だったのです。それまでは、彼らは預言された受難が目前で一つひとつ成就してゆくにもかかわらず、何一つわからないままに、主の逮捕、審判、十字架、死、葬りを迎えることになりました。

しかし主イエスさまへの愛は、彼らをはなさずついに「十字架なくして栄光なし」という神の大原則を悟る日を迎えたのでした。今は、何一つわからない。しかし、従いつづけました。神のなさることが悪いはずはない。すべてのことが益となり善となると信頼して、従い続けました。

これは今の教会にとっても然りとなることです。私たちの教会が歩もうとしている道は何でしょうか。どのような歩みでしょうか。恐れが生じるでしょうか。驚き、あやしみ、尻込みし、弟子たちを同じようにまだ理解が十分いっていません。しかし、教会のかしらである主イエス様は、常に、先頭にたっておられ進まれます。エルサレムへの途上、先頭を進まれたように。復活という栄光に向かっても、先頭でした。断じて、弟子たちを敵の手に渡したりなさいません。羊たちの先頭におられるのです。

 

結び)わたしたちの信仰生活に犠牲と苦難が生じても、その歩む道は、すでに偉大な羊飼いが慎重にあらためられた道であり、確かめられた保証の道です。特に細く、荒れていても、よく見れば恵みの足跡があるはずです。そして、その道は犠牲には報酬、苦難には栄光をもたらす道でもあるのです。

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