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2013年9月22日 「開眼」ルカ18:35-43  詩へん106:1

序文)エリコの町にある盲目の人が住んでいました。彼の名前はマルコの福音書によれば バルテマイであったと記されています.福音書が書かれた当時、教会の間で、名前を読むと、ああ、あの人とよく知られていたクリスチャンだったのです。その人への神の憐れみ、めぐみがどのようにして与えられたかが、ここに記されています。

バルテマイは、生まれながら目に生涯があって、見ないのでした。自分のいのちをつなぐために道ばたで物乞いに明け暮れていたのです。一日一日がいのちがけでした。先の聖句にあった金持ちの青年役人ともちがい、イエス様の弟子たちともちがった、劣悪な生活環境の中に懸命に生きていました。

しかし、この人の信仰と行動は、金持ちや弟子たちとも違っていました。彼らをはるかにしのぐものでありました。彼のからだの目は見えませんでしたが、心の目は開いていました。青年や弟子たちに分からなかった事がわかっていました。

人々は盲目の人の生活ぶりをみて同情したでしょうが、信仰の世界では、同情されるべきは人々の側にありました。なぜならば、この目の見えないバルテマイは、主イエス様の憐れみと力ある働きを直接自分で受け取ることができたのです。主イエス様に従うものとなって信仰の人となり、初代キリスト教会でよいあかし人として、その名前を知られる人になったからです。

では、そのきっかけは、何だったのでしょうか。起こった事件が36節から記されています。彼がイエスに出会って信じ、恵みをいただいた、その秘訣は何でしょうか。

Ⅰ 36-41節 彼の信仰のすばらしさ!

秘訣の第一は、彼は見ることができなかったが、聞いただけで信じた。

イエス様は彼に向かっていわれました。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを直したのです。」(42節)バルテマイに対するイエス様のおことばが、はっきりと彼の霊の目が開いていた事を証明しています。

彼は群衆が通って行くのを耳にしたのです。ナザレのイエスが通られるのだと知らされると、彼は叫びます。「ダビデの子イエス様。私をあわれんでください。」

ナザレのイエスが通られると聞いただけで、「ダビデの子イエス様」と叫んでいるのです。イエス様についての、この叫びは他の人々ができなかった認識です。

パリサイ人、律法学者、国の指導者アンアス、カヤパたちが、全然見ることができなかった事を彼は心で見ていました。イエスの弟子となったナタナエルは、イエスさまから真実な人だと言われた人物でした。彼が、ピリポからイエスについて紹介されたときに、「ナザレから何の良き者が出るだろうか。」といったのです。

ナザレのイエスはナザレのイエスでしかない。と言う考えが十字架のイエスを産み出したといえるほどに、当時の人々は正しい理解を最後まですることができなかったのです。

ところが、この生まれつき目の見えないバルテマイは「ダビデの子イエス」と叫んだのです。預言者たちが預言したダビデの王座に座る方メシヤと叫んだのです。人々がとんでもないことを言うと、黙らせようとしましたが、彼はますます叫びました。彼は取り巻きの人々のようにイエスの力あるわざを一度も見た事がありませんでした。主イエスが一言のみことばで死んだ人をよみがえらせた事を見たわけではありませんでした。イエス様が手でさわってツアラアト(ライビョウ)を直されたり、自分と同じような目の見えない人をさわって直されたところを目撃したのではありません。

しかし彼は道ばたに座っていることで、通る人々の声高なうわさばなしを聞いてきたのです。交通の要所エリコを通過する旅人たちの話し声で、そのような素晴らしい方がいることを知っていました。そして密かにその方こそ、来るべきメシヤであると思っていました。自分がお会いするチャンスがあれば、きっと直してくださるにちがいないと信じていました。今、ついに、そのチャンスがきたのです。ナザレのイエスがお通りになる。どの辺を歩いておられるのかは見えない。わからない。しかしありったけの声を出して、叫びました。聞いていただけるだろう。しかし信じてさけびました。私たちは現在イエス様を目にみることはできない。しかし聖書の中にそのみわざも、力も、教えも、いのちも全部記録されている。この事の故に、信じることができる。

 

Ⅱ 第二の秘訣は、彼の求めの執拗さと反応のすばやさ。

1 群衆は彼を黙らせようとしました。妨害しました。制止し、邪魔者扱いしました。たしなめたのでした。物乞いをしている、お前の出る幕ではないと。しかし彼はますます叫びたてました。大声は人の注意をうながすための普通の大声です。叫び立ては、感情をむき出しにして本能的な叫び、絶叫に近いのです。バルテマイにとって主イエスに出会う事は、あこがれとか感傷的なことではなくて、何が何でも会わなければならない堅い、決意、必死の願いだったのです。心の底からの強烈な願望は決して失望に終わる事がない。他のものが、何といおうが、自分はこの方に救ってもらわなければならない。

2 40節イエスは彼を連れてくるようにといわれました。バルテマイはただ一度しかないチャンスを生かしました。なぜならんば、イエスはエリコを通ってエルサレムに向かっておられるからです。十字架がイエス様を待っているのでした。

バルテマイがイエス様に会う機会は、この日、この時だけだったのです。求めを具体的に彼は表し、叶えていただいたのでした。どの人の人生にも、このように一度のチャンスしかないというようなことがあります。わたしたちは時々、イエス様への心の高まりを覚えることがあります。その時に直接信仰の行動に移さないと、次のチャンスが無いと言うことが起こります。救いへの求めは執拗に、熱心に真剣にが、たいせつです。マルコの福音書では、彼はイエス様のところに「上着を脱ぎ捨てて、すぐに立ち上がってイエスのところに来た。」とあります。

イエス様の「連れて来なさい」という声をきいいて、その方向に向かって

ゆきました。

 

Ⅲ 第三の秘訣

1 41節「私に何をしてほしいのか。」とイエスに問われた時に、すぐに自分の願いを具体的に言うことができた。「主よ。目が見えるようになることです。」彼は自分が求めている事をよく理解していました。生まれつき見えないから、それは求めてもしかたがない、とは考えませんでした。ダビデの子イエスならできると信じたのです。自分の人生の一番本質的な必要について求めました。

他の福音書では、この記事の前に、弟子たちと母親が、右大臣、左大臣にしてほしいと願い出た事が記されています。それに対してイエス様は「あなたがたは自分が何を求めている、わかっていない。」といわれました。

あなたは今朝、主イエス様に何をもとめますか。主イエス様へのあこがれや、感傷的,抽象的なものでないでしょうか。求めは、具体的で、具体的で明白でしょうか。的確でしょうか。何とはなしに、ばくぜんとでしょうか。

人間は、ある意味で、ずるいところがあって、自分の求めがはっきりと聞かれてしまうと困る事がある。やりたくない事、成りたくない事、できればそっとしておいてほしいこと、自分自身を省みて正しくしようと祈る時に、できれば当分はそのまま知らぬ顔でいたいと思っていることもあります。そのような人の祈りは、イエス様にかかると「何を求めているのかさっぱりわからない」ことになります。

しかしバルテマイのように強い確信を持っていれば、かならず何かが引き起こされる。主イエスの喜なれる結果が具体的に毎日の歩みにおこるでしょう。

かれは「目にみえる事をもとめました。」この願いは、生きて行く上での、自分の欠け目を満たしてほしいという願いですが、本当は「わたしをあわれんでください」という叫びなのです。

バルテマイは目が見えなかったから、目を開けてほしいと願ったと、単純に考えてよいでしょうか?彼の周りに居た人々は、彼に何をしたでしょうか。彼をメシヤから引き離そうとしました.益どころか害を加えました.彼が単純に目を開けてもらいたかっただけならば、その後でイエス様に従ってゆき、初代教会で、その名前が知られるほどのクリスチャンとは、ならなかったでしょう。

バルテマイはイエス様により肉の目を開いてもらった。其の目の視野で、イエスに従うと言う霊的な事を実行しました。

2 「あわれんでください。」という求めは、見えるようになって良かったというだけではなく、従ってゆくという事に実を結びました。私たちの具体的な求めが、あわれみによってと、祈られてゆくとき、その結果与えられた救いは、利己的な歩みの為にもちいられるのではなく、主に従い行く、主に仕えてゆくこのできる生活へと転じるためでした。

見える事が、主にしたがうことにつながる。イエスのすばらしさがみえているから。あわれみの豊かさ、救う力のつよさ、深い愛と恵みが、霊の目で見えていれば、自然にイエス様の後についてゆきたくなる。

教会を誠に動かしておられる、助けぬし聖霊様がみえれば、私たちはもっと祈るようになる。具体的にとりなすようになる。

自分は見えると思っている事で、かえってバルテマイに加えたような妨げを、信仰生活でしたいないかを自戒しましょう。また見えると思って、これが教会かとたかおくくって軽んじ、そのかしらである主イエス様に対して、不信仰をあらわしていないか?

結び)主のあわれみは、このようにしてもとめたバルテマイにはたらきました。私たちも、また、彼の信仰に習って救い主、導き手、完成者イエスを仰げ、求めを具体的にして、霊の目がさらに開くようにと祈って、従いつづけましょう。

 

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