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ヘブル11:1-2

「見えるものは見えないものから」

序)「信仰によって、私たちはこの世界が神のことばによって造られた事を悟り、したがって見えるものが目に見えるものから出来たのではないことを悟るのです。」私たちクリスチャンは、信仰によって世界が創造されたことを第一番目に信じます。世界が創造されたことは目撃者がいません。特定の人物の名前を挙げることが出来ません。そこでヘブル人への手紙の著者は目に見えない事柄で、すでに成し遂げられた事の確信として創造の出来事を語ります。見えるものが目に見えるものからできたのではないこと、すなわち見えないものから創造されたとを信じるのです。神の存在も、神のことばも目に見えない。しかし存在しておられる神が「光りあれ」といわれた。このことばも見えない。それによって「光」ができた。見えるものが造られた。無からの創造を神は成し遂げられた。創造の神を信じることによって、神が今私たち信じるもののうちに成し遂げておられる救いのみ業の完成を信じることが出来る。人生の様々な局面を創造の神信仰によって切り抜けることが出来るのです。その実例はヘブル11章全体に記録されているのです。

 

Ⅰ あなたはどのような前提をもっていますか?

1 さて、このようにお話し出来るのは、聖書の前提を受け入れているからです。人は誰でも、生まれてから自分が住み触れてきた世界から、さまざまな物の見方や考え方に接して、この世界についての自分なりのイメージを作り上げています。そのイメージは人の中で固定化し、根本的前提となって、その人の考え方や物の見方を深いところで規定しています。自分では意識することはないのですが、自分の中にある根本的前提に合うことがらはすぐに理解し受け入れることができます。それが正しいかどうかに関係なくです。

さまざまな立場を考えることができますが、根本的な課題として、

まず、お尋ねしますが、神はいると信じていますか、あるいわいないとおもいますか?私たちクリスチャンは、先にお話ししましたように、信仰によって見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟っているのです。ようするに見える世界は見えないものからできた。その背後に神がいると。

2 つぎにこの世界を越える存在があると思いますか、この世界はそれ自体で完全であると考えますか。神はいないと考える人は世界はそれ自体で完結していると普通考えます。また、神がいると考える人の中でも、人間が作った神すなわち偶像を信じている方は、神もまた世界の一部分であると考えます。私たちはこの世界は神のことばで造られたと信じていますので、当然世界を越える存在として創造者である神を信じているのです。

3 三番目に、この世界は突き詰めると物質だけという立場で、すべての物事は物質であり、物質で説明付けられるといいます。そうでない立場は、霊的な存在があると考えます。見えるものは目に見えないものからできたと私たちは考えます。心も霊も存在するとの立場をとります。

 

Ⅱ このような立場は証明することができない。

私たちはある立場を無意識的に取りますが、証明によったり、反証によってそうしているのではありません。生まれてから自分で触れた考え方や、ものの見方、都合の良いものだけを受け入れてきた結果の立場なのです。親とか自分が住んでいる社会の広い意味での証言を基にしています。私たちクリスチャンは、神のことばである聖書の証言を受け入れて、それまで形成されてきた根本的前提を変えられたのです。

 

よく「神の存在は科学的に証明できないから、神はいない」といわれます。しかしこの主張は「あらゆるものの存在は科学的に証明できる」ということを暗黙の内に前提としているのです。ですからこの主張が成り立つためにはその暗黙の前提が証明されていなければなりません。もちろんそのような証明は誰もできないのです。

神がいるかどうかを科学的に証明できるかどうかを考えるにあたっては、二つのことを考えなければなりません。一つは「神をどのようなお方と考えるか?」もう一つは「科学の限界」です。

 

Ⅲ 神はどのようなお方か?

1 旧ソ連の宇宙飛行士が人工衛星の飛行から帰ってきて「そこには神はいなかった」といいました。これによって神がいないことが証明されたのでしょうか。ある意味では証明されました。それはこの宇宙飛行士が考えるような神はいなかったのです。すなわちロケットで飛んで行くことができる所にいて、目で見ることができる形を持っている神という方です。そのような神はいなかったのです。しかしそのような方が果たして神なのかという問題が残ります。

「新興宗教でよく不治の病が治ったから、神はいる」といいます。それによって神がいることが証明されたのでしょうか、はっきりとしていることは不思議なことが起こったという事なのです。日本人は特に不思議なことを起したのは神であるとしているのです。しかし本当に神なのでしょうか。聖書には悪魔も光りの天使を装うといっています。神でない存在も不思議をすることがあります。

人々が考えている神を、その考えに従って「いる」と証明し、「いない」と証明したといっても本当の所分かりません。混乱が増すばかりです。

 

2 クリスチャンの立場は、根本的に世界を越えた存在がいるし、世界を創造した神がいるという立場です。「初めに神は天と地を創造した。」聖書の証言に従ってそう信じているのです。しかしこの立場はユダヤ教徒もイスラム教徒も同じです。ではそれらとどこが違うのでしょうか。それは根本的な前提の中にある具体的内容が違うのです。二つの前提があります。「聖書は誤りのない神のことばである」ということと、「聖書の神は三位一体である」ということです。これらは誤りのない聖書の証言を基にして受け入れているのです。聖書の中で神はご自分を啓示してくださっているのです。

3 では聖書によってあかしされている神は、科学的に証明できるか。これには科学の限界がかかわってきます。科学に限界があることは一般に認められています。しかしその限界がどのような限界であるかはあまり理解されていません。

科学の限界は科学の方法の上での制約にもとづきます。科学はなによりもまず、実験などを通して観察されたことを取り扱います。この観察は様々な器械を用いるとしても、最後には人間の感覚によってなされます。観察によってえられたことに、一定の規則性が見いだされるとき、それが法則として定式化されます。

科学においては、観察されたことと、そこに見いだされる規則性が数値で表されるということが大切です。これによって、観察されたことや、そこにある規則性が、ことばだけによる説明の曖昧さを免れて、ある確かさを持って表わされ、伝えられるようになります。

自然界において見られる多くの規則性(法則)を体系的に説明するものが、科学の理論です。この理論にもとづいて、新しいことが観察されることが、それまでの理論の枠に入らないとき、その理論そのものが見直されます。

以上が、ごく大ざっぱではありますが科学の方法の特徴です。

ここから二つの点で科学の限界が考えられます。

第一に、科学は観察されたことを集めて、それを法則化し、さらに多くの法則を集めて理論化します。この場合、それが人間による観察である以上あらゆる事象を観察し尽くしたとはいえません。科学理論は、常に新しい観察の事実によって修正・改変をせまられるものです。言い換えれば科学理論には必ず「これまでのところ」という但し書きがついているのです。

私たちの信仰は、神のことばの(権威ある)証言に基づくもので、このような但し書きがついていません。信仰を、但し書きのついている科学理論と結びつけることは危険です。そこでは但し書きのついているはずの科学理論が、信仰の名によって絶対化されかねません。そしてその理論が新しく観察された事実によって崩されてしまうと、信仰もともに倒れてしまうことになります。

第二に科学は実験などによる観察から出発し、その結果を数値で表し、数学的確かさに基づいて理論化します。それで科学は、初めから観察できることしか取り扱いません。感覚によって捕らえられず、観察できないことは取り扱わないのです。そしてとても大切なことですが、それは科学に固有な方法によっています。科学はそれ自身の方法の上での制約から観察できないことを取り扱うことはありません。

さて一方聖書によってあかしされている神は、人間の感覚によって捕らえることは出来ません。実験などを通して観察し、数量化できる方ではありません。ですから、科学はその性質からして、聖書によってあかしされている神のことを、直接的に取り扱うことはありません。それは科学の方法の上での制約によっているのです。

本来、神のことを取り扱わないものである科学が、神の存在を証明したり反証したりすることはありません。「神がいるなら科学的に証明して見よ」という要求は、科学にとって無理な要求なのです。

では科学と神は無関係なものなのでしょうか。決してそのようなことはありません。これについては次の機会にお話を続けましょう。

 

結び)よくよく考えて、聖書に自分を啓示してくださっている、真の神様を信じるものとなりましょう。

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