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201712月24日クリスマス礼拝 説教 マークボカネグラ宣教師

ガラテヤ 人への手紙 4:1−7

序論

私は、中高生のとき、フィリピンの首都、マニラで育ちました。クリスチャン人口約92%のフィリピンにとって、クリスマスは大イベントでした。9月中旬ぐらいから、店の中はもうクリスマスキャロルが流れていて、10月から11月の頭ぐらいにはもう家の外はクリススライトやクリスマス風の飾りがあって、12月中友達、同僚、家族とのクリスマスパーティーの連続で、12月24日と25日は2300万人の大都市が完全に止まってしまいます。そして、このクリスマスの雰囲気は1月中旬ぐらいまで続いて、2月の頭ぐらいにやっとクリスマスの飾りが片付けられるのです。祭りやパーティーが好きなフィリピン人にとって、クリスマスは最高の時期です。

 

毎週教会に通っていた中高生の私はクリスマスストーリ―をよく知っていました。簡単にまとめると、クリスマスストーリーは、私たちの罪の罰を代わりに受けるために、神様の御子が天から下られる話なのです。処女であったマリアを通して、神様の御子が奇跡的に生まれ、社会の一番下まで下られ、人間となられたのです。

しかし、クリスマスの贖いの意味も知っていた私でしたが、なぜイエス様が天からこの世に下ったことがそんなに大イベントになるのか、なぜ僕と関係するのかは全然理解していませんでした。

皆さんもこのような疑問を持っていらっしゃるかどうかわかりませんが。例えば、「私たちを愛しているから、神様が天から下って十字架で死んだと言われても、他人にいきなりに路上で話かけられて「あなたのことを愛しているからあなたのために死ぬ」と言って、いきなり崖から飛びおりて死ぬような人みたいに聞こえる。」とか

「もし私たちの代わりに神様の御怒りを受けたのなら、何で33年間も待つ必要があるのかな。生まれた瞬間御怒りを受けても変わらないじゃん。」または、「極論を言うと、イエス様の話って『桃太郎』の話に似てない?奇跡のような生まれ方をして、最終的に、いろんな弟子を集め、私たちの心の中の「鬼」を倒す方。クリスマスの話はいい話かもしれないけど、なんで私と関係があるのか、そして、なんで僕たちがそこまで喜ぶ必要があるのかがわからない大学生1年生の時まで、私はこのような疑問を持っていました。

 

この前のバイリンガル礼拝で話したのですが映画のクライマックスまたはエンディングだけを何回も何回も見ても、面白いわけはないですよね。場面の意味は分からないし、どうしてこの場面が映画のクライマックスなのかと疑問に思うしかありません。クリスマストーリーは新約聖書の最初のはなしでもありますが、最終巻の第一章みたいなものです。

 

本来、旧約聖書の流れを知って、味わうべき話なのですが、今日の箇所を通して、旧約をまとめ、クリスマスの意味を掘り下げていきたいと思います。教会は初めてという方、また、イエスキリストをまだ受けれ入れていらっしゃらない方もおられるかもしれませんので、もしもっとお知りになりたいなら、ぜひここの教会の牧師、廣橋先生に声をかけてください。

 

では、三つのことを見ていきたい思っています。①クリスマスの前の話はどういう話だったのか。②クリスマスは何で歴史のクライマックスなのか。③クリスマスのあとはどういう話なのか。

 

そして、その三つのポイントを見た上で、イエスキリストがあなたの代わりに完璧な人生を果たされたことがわかります。その理由は、私たちのために永遠のいのちを獲得されるためだったのです。だからこそ、私たちはイエス・キリストにより頼んで、イエス・キリストと共に神様のこどもになるのです。(繰り返し)

 

  1. クリスマスの前の話

 

さて、一つ目のポイントは、クリスマスの前の話です。

これは説教の一番重要なポイントなので、ちょっと時間をかけて、ゆっくりご説明します。この説教の半分ぐらい占めているので、ご了承ください。1-3節をもう一度お読みします。。

ところが、相続人というものは、全財産の持ち主なのに、子どものうちは、奴隷と少しも違わず、 2 父の定めた日までは、後見人や管理者の下(もと)にあります。 3 私たちもそれと同じで、まだ小さかった時には、この世の幼稚な教えの下に奴隷となっていました。

この箇所は、キリスト教の初代教会のリーダーまたはイエス様の代表であったパウロという人が書いてます。そして、このパウロがある教会にキリスト教について説明している手紙の中で、クリスマスの意味を説明しています。今読んだところに、クリスマスの前に、私たちがどういう状態だったのかが幾つかの比喩またはたとえを通して、説明されています。ここでは三つの例えを用いて重ねて、説明しています。

 

一つ目の例えは、私たちを当時の子供たちと比較しています。1-2節では、当時こどもたちがよく通る道を描いています。一世紀の文化では、子供、特に長男が、お父さんの全財産または大半の財産を引き継いでいました。しかし、引き継ぐまでは、こどもを訓練するため、こどもを「後見人」(こうけいにん)や「管理者」に預けるのです。このような「後見人」や「管理者」は厳しくそのこどもに必要なことを教え、修行させるのです。そして、この時期はそういうこどもたちにとっては本当につらいときでもあり、「奴隷」のように扱われ、こどもの功績によって評価されます。もし良い結果をもたらしたら、報酬があたえられ、もし悪い結果を出したら、罰が与えられるのです。それによって、世界の価値観が理解でき、鍛えられ、親から引き継ぐ財産を知恵をもって活用できるようになるのです。

 

要するに、現代の親たちがこどもを学校にあずけることと同様だと思います。学校では必要な知識を得ることができますが、主に社会で成功する基本理念を身に付かせるところでもあります。「もし頑張っていい成績を出せば、報われる。もし頑張らないでいい成績を出せなかったら、損する。」ということを学校で学びます。そして、その理念は、会社、一般の人間関係、日本社会、世界の中で通用することでもあります。

 

、この例えの中では、誰が「こども」でしょうか?誰が「管理者」でしょうか?そこで、パウロは二つ目の例えに切り替えて、一つ目の例えと重ねるのです。パウロはクリスマスの前のイスラエルを想像していたのです。

 

3節では「私たちもそれと同じで」と書いてありますが、この箇所の文脈と手紙の流れをみると、「私たち」はイスラエル人を指しています。では、イスラエル人とはどういう民だったのでしょうか。

 

クリスマスの前は、イスラエル人は神様に選ばれた民でした。神様の恵みによって、エジプトの奴隷制度から救い出され、永遠の王国を約束されました。そして、この王国に属するものは、永遠の安らぎと満ち溢れる喜びと平安を授(さず)かりました。だからこそ、神様はイスラエル国を「長子」または「こども」と呼んでいたのです。イスラエルは、長子のように、神様の永遠の王国を引き継ぐ者だったからです。それゆえに、パウロはここでイスラエルの民のことを神の「こども」と呼ぶのです。

 

(そして、イスラエル人の中から、一人の人によってこの永遠の王国を建て上げることを神様は約束されていたのです。その方は、よく「メシヤ」と呼ばれ、その名前には「油注がれた者」という意味がありました。イスラエルの王様が王権を引き継ぐときに、油に注がれる儀式が行われたゆえに、この永遠の王国を建てる「王様」は「メシヤ」と呼ばれていたのです。)

 

しかし、このメシヤが来られる前に、神様はイスラエル人に、モーセという預言者を通して、「律法」を与えました。この律法は「子供」としてのイスラエルの後見人であり、管理者でした。

 

この律法は神様の御心とイスラエル人がどのように生きるべきかが書いてあり、もし完璧に律法を果たすことができたなら、神様に祝福され、もし完璧に律法を果たすことができなかったなら、神様に呪われるというものでした。パウロはガラテヤ3:10と12で二つの旧約の箇所を引用して、このように律法をまとめています。

3:10 「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。」

3:12「律法を行う者はこの律法によって生きる」のです。

神様の律法には様々なことが書いてありますが、本質は非常にシンプルな掟でした。パウロはこのように律法をまとめます。

14 律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という一語をもって全うされるのです。

どの文化にでも、どの民にでも、どの時代、どの年齢層にでも受け入れられる律法だと思います。21世紀に住む日本人にも受け入れられる律法だと思いませんか?

 

しかし、私の親しいイエス様を信じていない友達に「「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」は抽象的すぎる。具体的な例は何ですか?」と聞かれました。私も本当にそう思いました。(廣橋先生はこの教会でマタイ伝を説教し続けていらっしゃるとお聞きしました。今現在、マタイ5章の山上の説教の真っ最中だそうなので、そこから、具体的な律法の説明を引用したいと思います。)

 

5:21   昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 22 しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。

 

5:27   『姦淫してはならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 28 しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。 29 もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。

 

38   『目には目で、歯には歯で』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 39 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。 40 あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。

 

43   『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。 45 それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。 46 自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。 47 また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。 48 だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。

 

皆さんは、この律法が果たせるでしょうか?この箇所を先ほどお話した私の親しい友達と一緒に読んだとき、彼はこう言いました。「私には絶対にこれはできませんが、これは素晴らしい律法であることを認めます。」私もそう思います。私にはこのように隣人を愛せませんが、もし自分の妻、子供たち、友達、同僚、上司、私に敵対する人、隣人が私をこのように愛してくれるなら、絶対に私はうれしいと思います。皆さんもそうお考えになると思います

 

神様はこの「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。」そして、「律法を行う者はこの律法によって生きる」とイスラエルに命じたのです。要するに、律法に従うものは祝福され、律法に従わないものは呪われるということです。

 

しかし、律法の目的は私たち救うという目的ではありません。律法の目的は私たちの罪の深さを見せるためなのです。ガラテヤ3:19-24にはそうはっきりと書かれています。

19 では、律法とは何でしょうか。それは約束をお受けになった、この子孫が来られるときまで、違反を示すためにつけ加えられたもので、御使いたちを通して仲介者の手で定められたのです。 20 仲介者は一方だけに属するものではありません。しかし約束を賜る神は唯一者です。

 

21 とすると、律法は神の約束に反するのでしょうか。絶対にそんなことはありません。もしも、与えられた律法がいのちを与えることのできるものであったなら、義は確かに律法によるものだったでしょう。 22 しかし聖書は、逆に、すべての人を罪の下に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人々に与えられるためです。 23   信仰が現れる以前には、私たちは律法の監督の下に置かれ、閉じ込められていましたが、それは、やがて示される信仰が得られるためでした。 24 こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです

要するに、律法がイスラエル人の「管理者」であり「養育係」であり「監督者」だったのです。そして、律法は二つのことをイスラエル人に教えました。1つは、神様の祝福または神様の遺産を得るためには「義」または律法を果たす必要があるということ、もう1つは、「私たちはその「義」をもっておらず、「メシヤ」であるイエス・キリストの「義」により頼む必要があるということです。つまり、長子であるイスラエル人たちでも、神様の遺産を引き継ぐ権利は持っていなかったということを、教えています。

 

ここで、パウロは三つ目の例えを紹介します。ガラテヤ3:3節では、イスラエルが律法の奴隷になったことは、「この世の幼稚な教えの下」の奴隷になったことと比較しています。ギリシャ語では「幼稚な教え」という意味は、くだらない、低俗な教えではなく、「基礎」または「基本」の教えという意味です。

 

イスラエルの律法が教えていたことはイスラエル人以外の人たちにもわかるものだと、パウロは言っているのです。日本人でもフィリピン人でも、良いことを行えば、神様に祝福されることを知っています。そして、日本人もフィリピン人も、自分たちには神様が求める「義」をもっていないことも認めています。だからこそ、パウロはこのように言うのです。ローマ2:14-16をお読みいたします。

 

Rom. 2:14 律法を持たない異邦人(または日本人)が、生まれつきのままで律法の命じる行いをする場合は、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。 15 彼らはこのようにして、律法の命じる行いが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。−− 16 私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことをさばかれる日に、行われるのです。

 

要するに、日本人でもフィリピン人でも、聖書を信じていてもいなくても、私たちが個人的にもっている良心、倫理観、律法は、イスラエルの律法のように、こどもの養育係のように、私たちを責めるのです。「怒鳴る事がよくないということは知っているけど、怒鳴ってしまう」「行いでも、目や心でも、姦淫してはならないことはしっているけど、それをしてしまう」「隣人を自分自身のように愛するべきだということはしっているけれど、それができない」「与えられた恵を一生涯かけて有効的に活用するべきだということは知っているけど、人生を振り返ると後悔しか残らない。」「神様をもっと敬うべきだけど、全然できてない」私たちの心の中の律法は「できない人」だと自分自身を責めて、神様の最後の裁きを、ある意味で予告しているのです。

 

イスラエル人でも、日本人でも、フィリピン人でも、私たちは律法の下に産まれて、律法のくびきとムチによって、私たちの罪を指摘し、責め、私たちを奴隷にするのです。律法を通して、自分たちの「できなさ」が明らかになり、私たちは絶望と悲しみに溺れてしまうのです。私たちは神様の遺産、永遠の喜び、天国、祝福を得るものにふさわしくないということがわかるのです。キリストを受け入れていても、キリストを受け入れていなくても、私たちはそのことに気づいているでしょうか?

 

II. 歴史上のクライマックス

 

しかし、どん底にいるイスラエルとこの世界にクリスマスが出現するのです。二つ目のポイントは、クリスマスの救いです。

 

ガラテヤ4:4-5をあらためてお読みいたします。

Gal. 4:4 しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。 5 これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。

 

イエス・キリストはなぜ人間として産まれたのでしょうか?それは、律法の下に生まれる者になるためです。実は、「律法の下(もと)にある者となさいました」はギリシャ語では、「律法の下(もと)に生まれた」と訳すことができます。イエス様は、律法のくびきを私たちの代わりに背負われ、完璧に律法を全うして、私たちの必要な「義」を取得してくださり、その「義」を私たちに与えて下さったのです。その結果、律法によっては神の子としての身分を受けるにふさわしくない者が、その身分を受けるようになったのです。

 

学生のみなさん、一流の学校に入るために、何が必要だと思いますか?悪いことをしていないことだけでは、いい学校に入れませんよね。行きたい学校のレベルに満たす点数が必要ですよね。悪いことをしていなくても、その点数がなければ、入れませんよね?そして、その点数を満たさずに、入ったら卑怯ですよね。

 

天国、神様の御国、も同じことが言えます。大して悪いことをしてなくても、天国に入るためには、それに応じた「義」の点数が必要です。そして、イエス様の血によって罪が許されているとしても、その上に、私たちは完璧な「義」がなければ、天国に入れません。

 

天国に入るのに必要な応じた「義」の点数とは、先ほど説明したように、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」というものなのです。その点数を取って達成したら、神の「子」になって、神様の王国に属することができるのです。

 

では、どうやってその「義」を持てばいいでしょうか?それがクリスマス前の最大の課題でした。そして、私たちの最大の課題でもあります。

 

そこで、イエス様が出現します。

 

神様は神様の完璧で罪のない、御自分の息子、イエス様をこの世に送られたのです。そして、イエス様は生まれた瞬間から、十字架で死ぬまで、私たちの代わりに、律法という「義」のテストを受けられて、その「義」の点数を私たちにお与えになりました。そして、それによって、私たちは天国へ入れるのです。

 

聖書を読むと、イエス様が徹底的に人を愛してくださったことがわかります。あなたの代わりに、イエス様は誰かを怒鳴りませんでした。あなたの代わりに、イエス様は姦淫しませんでした。あなたがどれほど罪深くても、どれほど傲慢であっても、どれほど彼を拒否しても、イエス様は、あなたの代わりに、人を自分自身のように愛されたのです。その愛の究極の証拠が十字架なのです。パウロはローマ5:6-8で、このように説明しています。

私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。 7 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。 8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

皆さん、みなさんは罪深い隣人のために、神様の御怒りと地獄を受けることができますか?イエス様のように律法を全うできる方はいません。もうすでに「神の子」としての身分がありながら、イエス様は私たちのレベルまでへりくだり、私たちのために必要な「義」、必要な「良い行い」を行って、私たちに「神の子の身分」を与えてくださったのです。そして、それによって、私たちは律法の訴え、律法の罰と呪いから救われ、奴隷ではなく、「神の子」となることができるのです。

 

これがクリスマスの意味なのです。イエス様はあなたができないことを果たすために こられ、あなたをふさわしい神の子とし、永遠の王国へ導いてくださるのです。神の子ではない私たちが、養子になれる理由は、実際の神の子のイエス様の犠牲のおかげです。お兄ちゃんであるイエス様にただ 頼るのみなのです。

 

そこで、私たちに問われるのは、自分の「義」により頼んで天国へ入りたいか、イエス様の「義」により頼んで天国へ入りたいかという質問です。そして、クリスチャンにとっては、私たちは自分の義ではなく、イエス様の「義」により頼み続けているかを確認する必要があります

 

最後に、三つ目のポイントは、クリスマスの後の話です。

 

ガラテヤ4:6-7をまたお読みいたします。

4:6 そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。 7 ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。

 

もしクリスマスの良い知らせを聞いて、「イエス様の義により頼みたい」、「神様の子になりたい」ということを感じるならば、それはイエス・キリストがあなたの心に働いておられるということです。そして、イエス・キリストにより頼む決心をするならば、あなたはその瞬間に「奴隷ではなく、子となるのです。子ならば、神による相続人になるなのです」。その瞬間、あなたはクリスチャンになるのです。

 

しかし、「奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人なのです」とは具体的にどういうことでしょうか。

 

もしクリスチャンになれば、サタンはさらに私たちを律法を使って訴えてきます。。サタンはこう言うかもしれません。「あなたはいつも「私は救われている」と言っていますが、そもそもあなたを救った神様の「律法」を知っていますか。十戒を覚えていますか。知らなかったら、クリスチャンになる権利はないでしょう。そして、救われているのに、あなたは全てを尽くして神様と隣人を愛していますか?意図的に自分の罪を見て、悔い改めをして、神様と人を愛することって、クリスチャンとしての常識でしょう?それ、本当にしてるの?全然そう見えないよ。あなた、本当にクリスチャンなの?ただの偽善者じゃないの?そして、あなた、知ってるよね。偽善者は地獄へ行くこと。あなた勝手に「救われている」と思っているのじゃない?」

 

私たちはサタンにこのように責められたら、どのように答えますか?「いや、そこまで私は悪くありません。私よりもあの人を見てください。」と答えますか?「そうですよね。私は罪人ですね。裁かれますね。ちょっと待ってて!もっと頑張るから、もう少し後で来て!!」と答えますか?そのように答えたらサタンは絶対に喜ぶでしょう。。自分の罪を認めないクリスチャン、イエス様に戻らないクリスチャンが大好きなのです。

 

しかし、宗教改革を起こしたマルティン・ルターは、このように答えます。

 

もしサタンに、「あなたは裁かれます」と言われたら、このようにサタンに宣言しなさい。「いいえ、私は私の罪のために死んでくださったイエス・キリストの下へ走ります。サタンよ、「裁かれる罪人」として私を訴えるのは、自分の喉をかき切るような行為ですよ。あなたは天におられるお父様の私に対する恵み深さを 私に 思い起こさせているだけです。神様は、本当に、そのひとり子をお与えになったほどに、この世を愛されました。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためなのです。 サタンよ、あなたは自分の訴えによって、私を想像以上に慰めているだけですよ。」と答えなさい。

 

この答え方の違いが「奴隷」と「神の子」の違いです。律法の「奴隷」は自分の「義」または自分の「行い」へ走る者です。「神の子」はこの世に下られたイエス・キリストの「義」または「良い行い」により頼んで、天におられるお父様のふところへ走る者です。確信の源が「自分」ではなく、律法の下に生まれたキリスト、律法を全うし、私たちに天の永遠のいのちをお与えになった「イエス・キリスト」です。

 

奴隷であった「神の子」であるわたしたちはそれを忘れてしまうことがあります。私はいつもそれを忘れてしまいます。「私はこういう学歴があるから、大丈夫。」「私はこのように実績をもたらしたから、大丈夫。」「私は夫婦として、家族として幸せに過ごしているから、大丈夫」「私はお金と影響力があるから、または引退後の貯金ためているから、大丈夫」「私はこれだけ聖書のことを知っている、これだけ神様のためにやっている、これだけ神様のために熱心に動いているから、大丈夫。」

 

でも「大丈夫」じゃないんですよね。私はいろんな人たちにひどいことをしました。そして、私たちの良い行いも中途半端で、神様の尊い律法にはかなわないのです。義の神様が私たちを簡単にお許しになると思いますか?私たちが色んな人にひどいことを犯したこと、神様は見過ごされると思いますか?私たちは死んだあとに、神様の御前に立つのです。そして、その時、キリストの「義」なしではわたしは絶対に裁かれます

 

しかし、イエス様がこの世に下られたとき、御自身が律法を全うされて、私たち失格者の最悪の「結果」である罪、を引き取って、イエス様の完璧な「義」を私たちに与えて下さったのです

 

そして、イエス様は、こう私たちを安心させてくださいます。「私は、あなたの多くの罪のためにあなたの代わりに、あなたの裁きを受けます。そして、それによって、罪人のあなたは死ぬのです。そして、あなたは、私の代わりに、、天国へ入り、天の蓄えられている遺産を受けなさい。そして、それによって、あなたは私の「義」によって生きるのです。それをおぼえ、安心しなさい。あなたは、奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人なのです。」

 

今年のクリスマス、あなたの代わりに、律法の下にお生まれくださったイエス・キリストを覚えてください。イエスキリストがあなたの代わりに完璧な人生を送ってくださった理由は、私たちのために永遠のいのちを獲得されるためなのです。だからこそ、私たちはイエス・キリストにより頼んで、イエス・キリストと共に神様のこどもになるのです。

 

感謝して、お祈りしましょう。

 

 

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