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2019.3.10 マタイ10:24-33 「恐れてはいけません。」 
序文)主は使徒たちを遣わすにあたり迫害を受けても忍耐をもって証しをするようにと、神の背後からの守りと助けがあることを教えられました。その上で、24-33節に、人を恐れないで積極的に証しを続けるようにと、告白することを求めておられるのです。
 
Ⅰ 24-26節 だから、恐れてはなりません。
第一理由:弟子は師以上のものではないから。
 キリストの弟子たちが、出かけて行く先々で、いかに酷い扱いを受けようとも、その点において「弟子は師以上のものではないから」。キリストは、この世から過酷な扱いを受けられた。世人は、イエス様をベルゼブルと呼んだ。これは「ハエの神」「悪鬼の長」の意味であり、イエス様をその輩と連携していると言ったのである。キリストをこのように虐待した人間の悪と、このように扱われてもそれを忍ばれたキリストの忍耐と、我々はどちらの方に驚嘆したらいいのか。栄光の神でありながら「ハエの神」という烙印を押され、光といのちの君でありながら死と闇の王とみなされる。そのサタンの最大の敵にして、サタンを破滅させるものであるイエス・キリストが、サタンの共謀者と目されながら、主は、「罪人たちのこのような反抗を忍ばれた」(ヘブル12:3)のである。この世でキリストが合われた虐待のことを思えば、我々もそれと同様の扱いを受けることを覚悟し、それを耐え忍ぶことを覚悟しなくてはならない。イエスを憎んだ者たちが、イエスに従う者たちも憎むことがあっても、不思議に思うことがあってはならない。まもなくキリストに似た栄光を受けることになる者が、今、キリストに似た苦難をこうむっても、別に驚くに当たらない。先ず、主が十字架を負ってくださるのだから、我々がそれを負うことは困難ではない。
 キリストのしもべと常に言っている使徒パウロは「今、私は人々に取り入ろうとしているのでしょうか。神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、人々を喜ばせようと努めているのでしょうか。もし今なお人々を喜ばせようとしているのなら、私はキリストのしもべではありません。」(ガラテヤ1:10 )と言っています。私たちはキリストの弟子であり、しもべ(原語:奴隷)ですから、師以上にはならないのです。同じような迫害を受けます。
 
Ⅱ 26-28節 なぜなら、恐れてはなりません。
第二の理由:おおわれているもので現わされないものはないから。必ず顕れるから。神は全ての事柄を公開される時が来る。隠されていることで知られずに済むものはない。悪を行なっている者にはこれは恐ろしいことです。善を行なっている者には益です。だから、福音の使者が誤解され、中傷され、非難されることは避けられない。しかしそれらは宣教の冠です。最後まで忍耐して走り続ける者は、「義の栄冠が私のために用意されているだけです」(第二テモテ4:8)。「私はすぐに来る。あなたは、自分の冠をだれにも奪われないようにしなさい」(黙示録3:11)。
  イエス・キリストの福音はその本質のゆえに、隠そうとしても隠しきれるものではない。「わたしが暗闇であなたがたに言うことを」「耳もとで聞いたことを」とは、少数の人々に密かに語られたこと、たとえで意味を隠して話されたこと、後で弟子たちに説き明かされたこと、これらの福音伝道を今度は「明るみで言いなさい」「屋上で言い広めなさい。」人前で、公然と、おおっぴらに言いなさいとの命令です。「私が福音を宣べ伝えても、私の誇りとはなりません。そうせずにはいられないのです。福音を宣べ伝えないなら、私はわざわいです」(第一コリント9:16)。このような福音を伝える義務感は、伝えることの恐怖心で証しに歯止めがかかることから解放し、恐れを取り除きます。イエス様から密かであれ、公然とであれ、教えを受けた者は、その教えを公の場で宣言しなければならない。
 
Ⅲ   28-33節 
第三の理由:まことに恐るべきお方がいるから。
1  からだとたましいを滅ぼすことのできる方を恐れなさい。からだしか殺せない者たちを恐れてはならない。肉体の死と永遠の死を対比している。永遠の死は神のさばきによって来る。肉体の死は人間がもたらす。「ゲヘナ」は、永遠の刑罰をもたらす場所を指している。
  なぜ恐れないでいいかというと、ゲヘナで滅ぼすことのできる神は、一羽の雀でさえも、そのいのちの配慮をしてくださっているから。
  父なる神と主イエス・キリストの目に、一人ひとりが価値高い者と見積もられているのです。五羽の雀は二アサリオンで売っている。雀は貧しい人の食料として二羽が一アサリオン(一日の労働賃金の16分の1)で売られていた。二アサリオンならば四羽買えるのだが、おまけが一羽ついて五羽買えた。要するにそのような見積もられ方をする雀さえも、神の前に忘れられることはない。
まして、神に愛されている信仰者然り。忘れられる事は決してない。神は主イエス様のいのちを持って買い戻されたほどに一人ひとりを値積もりされている。神の子たちを、守るために特別の摂理を働かせられる。頭の毛さえも、みな数えられている。黒髪の人で12万本ぐらいあると言われています。それだけではありません。実にキリストのためにあなたが受けたあざけりも、あなたの流した涙も、あなたの支払った犠牲も、キリストの御前にあなたが用いた時間も、みな覚えられているのです。
 神が、尊いとご覧くださっている。あなたの存在のすべては特別な摂理のみ手の中にあります。父なる神が、み子イエス様が、聖霊なる神様が、あなたとあなたの全生活を覚えておられるのです。なぜ、人を恐れ、人の顔色をうかがうのですか。
 
2 32-33節 「だれでも人々の前でわたしを認めるなら、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。」
  神を畏れ、人の前でキリストを受け入れる者は、「神の御使いたちの前でその人を認めます」(ルカ12:8)。喜び受け入れられるのです。私たちは地上の反キリストの並ぶ法廷でキリストを知らないと言いながら、天上の神と御使いの居並ぶ本物の大法廷で、主イエスに、私を知っていると言ってほしいと願ったりはできません。
 地上で神を信頼して死をかけてもキリストを告白する者に対して、天上でキリストは、あなたはわたしの者と言ってくださるのです。ステパノは地上の法廷よりもあざやかに天上の法廷を見たはずです(使徒の働き7章)。福音を恥としないで、人を恐れないで、キリストを告白する生活は、神のこの約束と守りと助けを信じ、見つめ続ける事から来るのです。このように人の前で告白する勇気は、聖霊がくださるのです。これに反して故意に信仰を捨て福音に耳を塞ぎ、信仰に立ち帰るようにとの聖霊の促しを拒む者は背教であり、聖霊を拒否して汚す者となります。
 
 結び)私たちは、神の国の完成の日に、神様の最終法廷の前に立ちます。そこで完全に受け入れられます。そのことを思えば、世のあらゆる脅しと、恐れに手向かいつつ、主イエス様のお言葉に支えられて、証しの日々を歩むことの幸いを覚えて、恐れることなく堂々と信仰の道を邁進(まいしん)しましょう。
 

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