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2019.4.7 マタイ10:34-42 「自分の十字架を負う」 
序文)12使徒の任命から始まり、派遣にあたっての訓戒の色々を締めくくるにあたり、主イエス様は、三つの真理を宣言された。それは最初の伝道者たちへの励ましも含んでいました。
 
Ⅰ  まず第一に、主は、ご自分の福音は、その赴くところに平和と一致をもたらすものではないことを忘れないよう命じておられる。当時も今も「平和の君」キリストの福音は絶対平和をもたらすと期待されていた。ところが主は、福音がもたらすのは「争いと分裂」であると言われた。福音を伝えると、結果がそうなると言われた。平和への幻想を打ち砕かれ、さらに「剣」をもたらすために来たと正反対のことを言われた。歴史的に、それが絶えず現実のこととなっているのを見ている。私たちに驚く権利はない。私たちは、福音が家族を対立させ、最も親しい者たちの仲も裂くのを不思議に思うべきではない。多くの場合、福音は確実に分裂をもたらす。その最大の理由は、人が心底から腐敗しているためである。一人の人が信じ、もう一人の人が未信者のままでいる限り、また、一人の人が罪を打ち捨てたいと願い、変わりたいと願い、もう一人が自分の罪を決して捨てないと決心をしている限り、福音宣教の結果は分裂以外の何物をももたらすはずがない。責めるべきはキリストの福音ではなく、人の罪深い心である。
 
これらはみな深遠な真理であるが、常に忘れられ、見過ごしにされている。多くの人は、キリストの教会内の「一致」や「和合」や「平和」を漠然と語る。あたかもそれらが私たちの常に期待すべきことであるかのように。すべてを犠牲にしても守らなくてはならないものであるかのように。このような人々は、私たちの主のことばを思い出した方がよい。疑いもなく、一致も和合も大きな祝福に違いない。私たちは一致と和合を求め、そのため祈り、それを得るためには、真理と良心を別にして、すべてを投げ打たなくてはならない。しかし、千年王国が来る前にキリストの教会が大いに一致と平和を享受できるなどと考えるのは、あだな夢である。
主イエスが歩まれた先々に、この剣は投げ込まれます。不義と不敬虔、不潔は正され、きよめられ、裁かれました。この福音のみことばの炎が一挙に燃え上がるために、主はご自身のバプテスマを目前にしておられるのです。それは「十字架上の死」です。なぜならヨハネのバプテスマならば、公生涯の始めに、既にお受けになっているからです。ですから「十字架の死」が成し遂げられるまでは、「どんなに苦しむことでしょう。」といわれたのです。十字架上の苦難を受けられるまでにも、どんなにか苦しい思いをされたことでしょうか。
 
  主イエスご自身が地上でなすべき使命に生きようと歩み続けられた時、家庭においても、彼のまわりにおいても平和ではなく、分争がおこりました。イエス様の家族とは、母マリア、兄弟ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダそれに姉妹たち(マタイ13:55.56)でした。この家族は、イエス様を、気が狂ったという風聞を聞いて、連れ戻そうとして働いているところにやって来たことがありました。「イエスの身内の者たちが聞いて、イエスを連れ戻しに来た。気が狂ったのだと言う人たちがいたからである。」(マルコ3:21)。またマリアとヨセフの間に生まれた兄弟たちはイエスを信じないであざけったりした事があったのです。「イエスの兄弟たちはイエスに向かって言った。あなたの弟子たちもあなたがしているわざを見ることができるように、ここを去ってユダヤに行きなさい。自分から公の場所に出たいと思いながら、隠れたところで事を行う者はありません。あなたがこれらの事を行うなら、自分を世に現しなさい。兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。」(ヨハネ7:3-5)。
 この肉による兄弟たちが、まことの意味でイエスを知り、信じるに至ったのは、イエス様の十字架の死後でした。復活の身体を持って復活された後でした。主は復活後にヤコブに現れました。このとき彼らは初めて霊における兄弟となったのでした。
 イエス様の苦しみを察する事ができるでしょうか。イエスの行かれた先々でも、この世との対立が生じました。当時の宗教上の指導者たちは、主イエスをつけ狙いました。パリサイ人、律法学者、祭司たちは、ついには十字架にイエスをつける事で対立の頂点を示しました。
 救い主の存在自体が、罪の世に火を投げ込み、苦難と分裂を引き起こしました。
 
Ⅱ 分争の後に
 主イエス様の家族はその後どのようになりましたか。十字架と復活の後に、主イエスを信じる者となりました。主の兄弟ヤコブは、初代教会の指導者として大きな働きを担いました。初代教会で名前の知られたヤコブ、すなわちエルサレム教会の最も著名であった主の兄弟ヤコブと考えられます。彼は主が十字架にかかるとき、まだ主を信じていなかったのです。しかし、主の昇天の後にエルサレムの祈りの群の中にすでにいます。「この人たちは、婦人たちやイエスの母マリア、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心をあわせ、祈りに専念していた。」(使徒の働き1:14)また「イエスの兄弟たち」もいました。復活の主イエスに出会って後、彼らはイエスが狂人ではなく、まことに救い主であると信じ受け入れたのです。そして主の弟子たちの仲間に加わったことがわかります。
 
 彼らの中で、ヤコブは傑出した人物で使徒の働き(12:17、15:13、21:18)に出てくる初代教会の指導者でした。彼はエルサレム教会の柱と考えられ、有名なエルサレム会議でペテロとヨハネと共に出席して、その議長を務めています。このような変化の秘密が、復活の主が「ヤコブにあらわれた」のだと考えます。主イエス・キリストはその復活のからだを示し、また神性をも示し、信じないでいた彼を完全に信仰に導いたのだと考えられます。そして主の他の兄弟姉妹達も信じるに至ったと考えられます。
 ユダは「ユダの手紙」を書きました。彼らは11弟子たちの中のヤコブ、ユダとは別人であることを示すためにイエスの兄弟と断りがついているのです。マリアの家族にとって長男イエスが救い主であると信じることは大変な困難を伴いました。考えられない事柄でしょう。たとえ誕生の時の不思議を、ヨセフとマリアが説明を家族にしたとしてもです。しかし、主はご自分の家族のためにも十字架の救いを成し遂げ復活のいのちにあずからせられたのです。
 
Ⅲ  「自分の十字架を負うこと」
  私たちの主は、真のキリスト者はこの世にあっては困難を覚悟しなくてはならないと教えておられる。私たちは、牧師であろうと平信徒であろうと、教える立場にあろうと教えられる立場にあろうと、ほぼ何の差別もない。私たちは「十字架」を負わなくてはならない。私たちは、キリストのためには、いのちを失うことさえ良しとしなくてはならない。人の機嫌を損ねることも甘んじて受け入れ、困難に耐え、多くの点で自分自身を喜ばせることを拒否しなくてはならない。さもなければ、決して天国に行き着くことはできない。世と悪魔と私たち自身の心が今と変わらない限り、これらのことも変わらぬ真理であり続けるに違いない。
 この教訓を自分自身で覚えておき、他人にも銘記させる人は、これが非常に有益であることを知るでしょう。誇大な期待ほど信仰生活に害を与えるものは他にほとんどない。人々は、期待する権利もないような世的楽しみを、キリストに仕えながらもある程度楽しむことを求めている。そして自分の求めたものが得られないからといって、幻滅のあまり信仰を捨てる誘惑にかられるのである。キリスト教は最後には栄冠を差し出すものではあるが、その途中では十字架をももたらすことを完全に理解している者は幸いである。
 
最後に、私たちの主は、ご自分の教えのため労する者たちになされた奉仕は、どれほど小さなものも神の目にとまっており、報われるということを述べて、私たちを元気づけておられる。「わたしの弟子だというので」、ほんの「水一杯」を信者に与えた者は「決して報いに漏れることは」ないのである。
この約束には非常に美しいものがある。これは、この偉大な主人が絶えずご自分のため労する者らに目を注ぎ、彼らの益をはかろうとしておられることを教えている。もしかすると彼らは、誰の目にもつかず、誰からも顧みられることなく働いているように思えるかもしれない。説教者、宣教師、教会学校教師たちの働きは、国王や議会や軍隊や政治家たちの活動にくらべると、取るに足らぬ無意味なものに思われるかもしれない。しかし、彼らは神の目には無意味ではない。神は、誰がご自分のしもべらに反対し、誰が助けるか注意しておられる。神は、パウロに対するルデヤのように、誰がご自分のしもべに親切にするか、ヨハネを妨害したデオテレペスのように、誰がご自分のしもべを妨害するかに注目しておられる(使徒16:14、Ⅲヨハ9)。神のしもべたちが神の収穫のために労する間、その日ごとの経験はすべて記録されている。すべてが神の大いなる記憶の書に書きとめられ、最後の審判の日にすべてが明るみに出される。あの献酌官長は、以前の職務に戻ったとき、ヨセフのことを忘れてしまった。しかし主イエスはご自分の民をひとりも決してお忘れにはならない。主は復活の朝、そんなおことばをいただくなどとは夢にも思っていなかった多くの人々に言われるであろう。「あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ……てくれた」(マタイ25:35)。
 
Ⅰ列王記17:10 「彼(エリヤ)はツァレファテへ出て行った。その町の門に着くと、ちょうどそこに、たきぎを拾い集めているひとりのやもめがいた。そこで、彼は彼女に声をかけて言った。『水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませてください。』 彼女が取りに行こうとすると、彼は彼女を呼んで言った。『一口のパンも持って来てください。』 彼女は答えた。『あなたの神、主は生きておられます。私は焼いたパンを持っておりません。ただ、かめの中に一握りの粉と、つぼにほんの少しの油があるだけです。ご覧のとおり、二、三本のたきぎを集め、帰って行って、私と私の息子のためにそれを調理し、それを食べて、死のうとしているのです。』エリヤは彼女に言った。『恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。しかし、まず、私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。それから後に、あなたとあなたの子どものために作りなさい。イスラエルの神、主が、こう仰せられるからです。『主が地の上に雨を降らせる日までは、そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない。』彼女は行って、エリヤのことばのとおりにした。彼女と彼、および彼女の家族も、長い間それを食べた。エリヤを通して言われた主のことばのとおり、かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかった。」
私たちには、このやもめに与えられた約束どころではない、とてつもなく大きな、素晴らしい約束が与えられていること忘れてはならない。
 
結び) 終わりに、私たちは自問してみよう。自分は、この世におけるキリストのみわざとキリスト教の伸展をどのような光で見ているだろうか。私たちは、それを助けているだろうか、妨害しているだろうか。私たちは、主の「預言者」や「義人」たちを、何らかの仕方で支援しているだろうか。主の「小さい者ら」を助けているだろうか。私たちは、主の働き人らを妨げているだろうか。励ましを与えているだろうか。これは重大な問いである。機会があればいつでも彼らに「水一杯」を与える者は、良いことを賢く行なっているのである。そして主のぶどう園で自ら積極的に働く者は、なお良いことを行なっているのである。願わくは私たちが、自分が生まれ出たときよりも良くなった世界を後に残すことを求めて努力するように。これがキリストの心を自分のものとするということである。これが、この素晴らしい章に含まれた数々の教訓の価値を見いだすことである。