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2019.4.21 イースター マタイ28:1-10「ガリラヤで会います」
序)主イエス様が十字架の上で死に、墓に葬られたとき、安息日が巡ってきました。「わたしが安息日の主です」、といわれていたお方が、墓の中に葬られていたのです。地上においでになって、成人し、天父の使命に費やされた3年間は、休む間もない日々だったのです。その主が使命を全うして私たちの身代わりの死を遂げられたときに、本当の休息が訪れました。人の死をよく「墓の中に休む」と表現しますが、主イエス様にとっては、まことの休息でした。
また沈黙の日でもありました。そして主イエス様の弟子達にとっては実に憂鬱な安息日でした。
希望はついえ去り、涙を流しつづけ、次は自分たちも捕まって殺されるかもしれないと、恐怖にうち沈んだ安息日でもありました。
 しかしこの安息日が終わったのです。28:1「さて、安息日が終わって週の初めの明け方」のことでした。
 
Ⅰ 日曜日の明け方に起こったこと 1〜4節
「マグダラのマリヤと、他のマリヤが、墓を見に来ました。」他のマリヤとは、ヤコブとヨセフの母親のマリヤ(27:56)です。腰の抜けた男たちをほっておいて、彼女たちは、マルコの福音書によれば、単に墓を見に来たのではなく、それ以上の動機をもって来ました。それは、葬りのときにヨセフとニコデモが、没薬、沈香とをまぜたものを百斤ほど持ってきて、イエス様の体を香料を入れた布で巻いたのでした。それでは不十分だと彼女たちは考えました。丁寧に香料を塗ろうと考えたのでした。なみなみならない愛を示そうとしたのでした。
 ところが実際には、彼女たちは自分たちが期待したことをかなえられませんでした。それは丁度そのときに大きな地震が起こったからでした。それは「主の使いが天から降りて来て、石をわきへころがして、その上に座ったからである。」マタイは、彼女たちがイエス様の復活するところを見たのではないこと、さらにイエスが復活するために墓の石を自分で取りのける必要があったと言うつもりは無かったこと、ただ、既に復活してしまったイエス様についてのニュースを天使から聞くことが必要だったことを示しています。それで石がころがされたのは、彼女たちのためであったことがわかります。イエス様が既に復活したという事実を確かめるために、彼女たちが墓の中に入るために石はころがされたのでした。
 「天使の姿は、いなずまのようで、衣は雪のように白かった」とは、旧約聖書のダニエル書7:9〜10の部分的引用です。「年を経た方が座に着かれた。その衣は雪のように白く、頭髪は混じりけのない羊の毛のよう。御座は火の炎、その車輪は燃える火で、」にあるように、それは神様であることの表現です。天使は神様の現れとそれほど変わらない現れであった。だから墓に立てられていた番兵達は、恐ろしさのあまりに、死人のようになった。
 
Ⅱ 天使のメッセージ 5〜8節
天使のメッセージは、彼女たちのために告げられた。「あなたがたは、恐れることはありません。」まず、彼女たちを安心させました。メッセージを間違いなく聞いてもらう必要がありました。大きい地震で驚いたままであっては、落ち着いて聞くことができない。また神様のようにみえる天使が現れたことも驚き恐れるような出来事だったのです。それで、まず平安な心を持つように。その上で、みことばを聞くように。
 
1「十字架につけられたイエスを捜しているのは分かっています。ここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられたのです。」
 重大なメッセージでした。単純なメッセージでした。最も本質的なメッセージでした。それは「イエスはよみがえられた」というのです。墓の中を改めてごらん、と天使は言いました。イエスの遺体はなかったのです。いつ、どのようにして、証拠は、理由は、などと、くどくどと説明はしないのです。「イエスはよみがえった」この真理だけで十分である。単純、明快なのです。それほどに圧倒的な事実だったのです。イエスはご自身で死に打ち勝ち、よみがえられました。それは人間性の死に対する圧倒的勝利を示します。この事実が、信じる者たちにもたらした結果は驚くべきことです。死に葬られた贖い主の、死に対する決定的な勝利は、人の人生は死だけで終わるのではないこと、体のよみがえりがあるという事実です。さらに、復活の事実は弟子たちと信じる者たちの内に信仰を呼び起こしました。また、人が新しく生まれ変わることができることを示しました。さらに、現在の世界は新しい世界に変わることができ、その新世界創造の土台と主のからだの復活はなりました。
2 「あなた方より先にガリラヤに行かれた。そこで会うことができる。弟子たちに知らせよ」復活のイエスは散らされた弟子たち羊を、ガリラヤに導き返すことについて、十字架にかかる前の晩、晩餐の席上で預言しておられたのでした。「そのとき、イエスは弟子たちに言われた。あなたがたはみな、今夜、わたしにつまずきます。『わたしは羊飼いを打つ、すると、羊の群れは散らされる』と書いてあるからです。しかしわたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤに行きます。」(マタイ26:31~32)
ガリラヤはイエスの福音宣教によって暗闇に住む者たちに光が輝いた異邦人の地でした。そこに再び復活の主イエスの大いなる光が輝くのです。ガリラヤで救い主は、霊的な選びの民を集め直すのです。救い主の御国を立て直しはじめられるのです。復活を通じて、主は復活の主を信じてバプテスマを受ける新しい神の民をもつに至りました。
彼女たちは、恐ろしくはあったが、大喜びで、急いで墓を離れ、弟子たちに知らせに走っていった。恐れと喜びが混じり合った感情、それは相当混乱していたと想像できます。それでも使命を伝えられた者は、それを果たすためにじっととどまっていてはならない。直ちに行動に移った。それは喜びの知らせを伝える光栄ある使命だからです。
 
Ⅲ 復活の主 彼女たちに出会う 9〜10節
マグダラのマリヤともうひとりのマリヤは、最初に復活の主に会いました。おそらくは相当混乱していたであろう彼女たちが、使命をさらにはっきりとさせるための出来事は、主が直接に出会ってくださったことで明確になりました。
 主は彼女たちに「おはよう」と言われた。「カイレテ」(ギリシャ語)これは普通の挨拶、英語で「ハロー」というのと同じです。天使の恐ろしい現れ方に対して、恐怖を覚えた彼女たちに、日常的に普通に主は現れて声をかけられました。どんなにか喜び、安心を覚えたことでしょうか。「彼女たちは近寄ってその足を抱き、イエスを拝した。」
喜びと敬虔な尊敬の心の現れとして、御足を抱いた。身体的な接触は、イエスの復活が体の復活であった事を言外に示している。多くの不信仰者が、イエスの復活の肉体的であった事を否定していますが、ここははっきりと「御足を抱いた」と記している。
 イエス様は、その時「恐れることはありません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えます。」(10節)と言われた。これは天使の言葉と同じであるというよりは、最後の晩餐の席上の言葉を確認するとともに、ガリラヤに「行くように」言いなさいと明白な進言があります。天使は「ガリラヤでお会いできる」といっただけで、弟子たちが信じなければ、行かないし、会えない。イエス様ははっきりと「行くように」と命じられた。主は弟子たちのことを「わたしの兄弟たち」と呼ばれた。天使と違うところである。
 
 ところで、あなたのガリラヤはどこでしょうか。最初に主に出会ったところはどこでしょうか。信仰を持って従いはじめたところはどこでしょう。そして今はどこにいるのでしょうか。弟子たちと同じような落胆、恐れ、いろいろの失望の生活に舞い戻っていないでしょうか。今その渦中にいるかもしれません。しかし、よみがえられた主は、ガリラヤで会いましょうと言われました、弟子たちの再献身、再出発を願われました。それは復活の大いなるいのちに溢れて、再スタートをきらせるためでした。
 今週からの信仰の歩みのために、ガリラヤでこの復活の主のリアリティーに触れて再出発しましょう。聖霊様のお助けを祈ります。
 
結び)
かくしてマタイの福音書は、空の墓と、主イエス様の体の復活と、弟子たちの信仰の再興と、再使命のために、ガリラヤを再出発の地と定めて、そこで会うと言われた記事を記しました。それは、主イエス様の成し遂げられた救いのみわざを、世界に伝えさせようとされる豊かな愛のお心を反映しています。
信じる私たちにとっては、主のからだの復活は、墓が人生の終点ではないこと、永遠のいのちへの全人の復活があることの決定的な保証となっていることを示しています。
私はそのように信じています。あなたはいかがでしょうか?

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