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2019.5.5 マタイ11:1-6 「あなたこそ、来るべき方」
 
序文)人は信仰生活の上で多くのつまずきを経験します。入信の時に、キリストの十字架は「ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかしユダヤ人であってもギリシャ人であっても召されたものにとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。」(第一コリント1:23、24)と、使徒パウロが指摘している通りです。そして信仰生活が始まってからも、つまずきが起こります。大部分は主イエス・キリストへのつまずきというよりも、主を見上げないで、自分自身や、自分の周りに居るクリスチャンを見ることにより引き起こされているのです。
しかし、時として主イエスのみをひたすら見上げて従っている時でさえもつまずく危険性があります。
 
どちらであってもつまずきは自分の描いている期待がはずれて、期待以下の場合に起こります。また、期待以上に立派すぎて起こる場合もあるのです。そして二つ共に根本的には自己が中心であって、すべてが自分の思う通りに動くはずだと思い込むことから起こります。そこには自己中心という現代的な罪の深みがあるのです。 
 
このような私たちを救い出すために、神がお働きくださっているという、神中心の摂理的はからいを受け入れる時に、罪とそれがもたらすつまずきからの解放が与えられます。人は、主イエス・キリストご自身にさえもつまずくということは、よくよく考えてみるべきことでしょう。主イエスさまは、6節で「わたしにつまずかない者は幸いです。」と言われたのですから。
 
Ⅰ バプテスマのヨハネの質問
バプテスマのヨハネは弟子達を通して主イエス様に質問しました。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、別の方を待つべきでしょうか?」(3節)
 
 バプテスマのヨハネは、イスラエルの人々が長い間待ち望んできたメシア、すなわちキリスト「おいでになるはずの方」を証しして、指し示すという、たった一つの使命のために生まれてきた人物だったのです。バプテスマのヨハネは自分の生涯を「イエスはキリスト」という証言のためにだけ用い尽くしました。もしイエスが「おいでになるはずの方」でないならば、彼の一生涯は偽証のために費やされたことになります。その人生は無きに等しいものとなり、生まれる前から神がお与えになった使命は果たされなかったことになります。
 
 ルカの福音書によると(ルカ3:18〜20)、バプテスマのヨハネは領主ヘロデ・アンテパスの悪行を非難したためにヘロデと不義の悪妻ヘロデアの怒りに触れて、牢獄に監禁されていたのです。この牢獄はユダヤの古代史家ヨセファスによると、死海の中央部にあるマケルスという砦にあり、そこは死海の海面から1200メートルもそびえる山の頂で、天然の大砦になっていました。ヘロデ大王がこれ以前の王の建てたものを補強して、城壁をめぐらし中に町を建てたのでした。王宮の別館を建てたのです。その子であるヘロデ・アンテパスは、ここを利用していました。バプテスマのヨハネは30才の頃、この獄中に囚われの身になっていました。アンテパスはバプテスマのヨハネを「正しい聖なる人と知って彼を恐れ、保護を加えていました。またアンテパスはバプテスマのヨハネの教えを聞くとき、非常に当惑しながらも喜んで耳を傾けていました。」(マルコ6:20) 妻ヘロデアのバプテスマのヨハネに対する憎しみ、恨みが原因で、獄中に捕らえましたが、ヨハネの弟子達が出入りして連絡するのを大目に見ていました。それで、バプテスマのヨハネは獄中でも、自分がかつて指差して「罪を取り除く神の子羊」といったイエス・キリストの働きをつぶさに追いかけて弟子達に報告させていたのです。
 
彼は今、イエスがキリストであるという神の啓示を疑っている訳ではないのです。しかし、次々と伝え聞く報告は、彼が理解していたメシアの活動を少し違うのではないか?と思ったのでしょう。バプテスマのヨハネは「マタイ3:10〜12」にしめされるメシア、木の根元に斧をふりおろす裁き主、箕を手にもって麦とからを分け、からを火で焼き滅ぼす方、「世の罪を取り除く神の子羊」として紹介していました。ですから、裁き主であり改革者としてのキリストを、ヨハネが期待していたらどうなるでしょう。先駆者の自分が獄中に繋がれている。ヘロデ・アンテパスの悪の権力行使を打ち砕いて救いの手を伸べて下さるはずだ。でもそうしてくださらない。イエスは憐れみのわざと福音伝道ばかりに熱中していて、ヘロデを裁くために近づかれるどころか、あえて近づかないようにしておられる。どういうことなのか?
 もし本当に私を愛してくださっているのなら、どうして主はこの苦境から、私を助け出してくださらないのか。慰めのことばぐらい弟子を通して送ってくださっても良いのに。私はたしかにあの方のくつのひもを解く値打ちもない。しかし一声ぐらいかけて下さってもよいのに。
 
 バプテスマのヨハネの本心を知ることはできません。推測するしかありません。私たちがバプテスマのヨハネの立場だと、どのように思うでしょうか?バプテスマのヨハネが本当に主イエスにつまずいたのかどうかは、実は議論の分かれるところです。しかし私たちがバプテスマのヨハネと同様の状態にあれば、この程度の質問ではすまないでしょうね。質問すらしないで、キリストを離れ、群れを離れ、自分の期待通りでないと騒ぎ立て、何も関係のない人々も巻き込んで、つまずきを広げ、まき散らすのではないでしょうか。
 
Ⅱ 主キリストに従いながら、キリストにつまずくことがある。
 主キリストに従うことにより、神のメッセージに立っている。狭い門から入り、狭い道を歩んでいる。しかし、それは、広い門から入り、広い道を歩み、世の流れに沿って歩みを続けている人々から見ると、嫌われる。怒りを受けることすらある。好まれないのである。一応狭い門から入り、狭い道をゆくことは命に至ると主イエス様がおっしゃったことを理解しているつもりである。でもこんなに狭いとは、まるでヨハネと同じ牢獄ではないかと感じる時もある。だから従いながら、キリストにつまずくことがある。
 
 神は、イエス・キリストのいのちをかけて、あなたを救い出してくださった。あなたのためにいのちに至る道を歩み通させようと、計り、助け手を送り、環境を定めた。そこをキリストの品性を身につけさせるための訓練の場とした。主イエスは私たちの期待、私たちの考えに沿ってではなくて、天地の主、救い主、導き手、完成者としての期待とお考えによって、私たちを導かれる。より神に近づくように、より神の力を体験するように、より神の慰めにあずかるようにしようと働きかけておられる。その上で、必要ならば直ちに天国に入れて下さることもある。
 
 私たちは、キリストに従うといつも心が晴れていると望む。しかし、心はしばしば雲と霞に覆われている。時に、10日も11日も雨と雲がつづくことがある。一ヶ月も、一年も三年も続くこともある。エリヤの場合は晴ればかりが続いて3年6ヶ月雨が降らなかった。しかし、その背後には常に何者も消し去ることができない、主の深い愛と栄光の輝きがある。
 
 キリストに従う者に霊的つまずきが、自分の中から生じる。サタンはその人の罪の心、肉の心を用いて誘惑する。他の人々の耳につまずきを注ぎ込み続ける。その結果その人はつまずく。自分の期待以下である事は、人をつまずかせる、サタンはこれをフルに用いている。しかし一方では、自分の期待以上であっても、人はつまずく。あのナザレにイエスがどうしてこのようなことができるのか?と村の人々はつまずいた。大工のせがれは、大工のせがれでしかないのに!それ以上の驚くべき働きを見せられて、人々はつまずいた。自分の期待している以上の働きをキリストが現実にしてくださっている。憐れみと恵みの業は計り知れない。裁き主としての働きはまだ終末まで取っておかれている。死人が生き返り、貧しい人々が福音を聞いている。
 
Ⅲ 主イエス様の答え
 バプテスマのヨハネにたいするイエス様の答えは「はい」とか「いいえ」というのではありませんでした。4-6節「あなたがたは行って、自分たちが見たり聞いたりしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない者たちが見え、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています。だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」このお答えは「はい」私は来るべき者です、という以上の決定的な証明でした。今、イエスがなさっていることの事実を持って答えとされました。ヨハネよ。わたしにつまずかない者は幸いです。
 
 バプテスマのヨハネは主イエスのこの言葉を聞いたとき、自分がメシアの働きとして、イザヤ53章に受難のメシアを見て「見よ。世の罪を取り除く神の子羊」と証言した、あのイザヤ書に、今、主イエスが弟子達を通して伝えさせた言葉が書かれていたこと(イザヤ61:1から)を思い出したのではないでしょうか。そして「わたしにつまずかない者は幸いです。」とのおことばを反芻したのではないでしょうか。
 
 バプテスマのヨハネが強調的に考えていた裁き主としてのメシアは、間違ってはいない。ただ、イエスがキリストとして、その働きを成し遂げる前に、キリストは憐れみと恵みの救いを十字架と復活により成し遂げる必要がありました。これもまた、重大な使命でありました。しかし世の終わりには、全世界の裁き主として、裁きの御座に座して、すべてに決着を付けられるのです。そのために主はさばきに耐えられるように人々を福音によって招き、訓練し、育て、聖められねばならないのです。キリストの、今の働きは「おいでになる方」であることを疑わせるのではなくて、この方が真実のキリストであることを証明するのでした。
 
 私たちが自分の信仰の成長がないのに気づかないで、みことばの全体を理解しようとはしないでいる。そこから導きだした思いに従って偏った期待をいだき、そのようでないと言ってキリストやその体である教会や、牧師や長老や執事や、兄弟姉妹方につまずいている。あるいは非難していることが、どれほど見当はずれであるのかを考えましょう。
 今日もなお、目が盲目であるよりも、はるかにいやしがたい霊の盲目が、福音によって、神の栄光と愛とあわれみのわざを見るようにいやされるのを信じましょう。魂の疲れで歩む力を失った足の不自由な者が、神のみことばの約束によって生きる力を取り戻しつつあるのです。ツァラアトの人以上に、神に近づくことができない汚れた罪人の私たちが、何はばかることなく恵みの御座に近づくことがゆるされて、座しているのです。イエスがキリストであり、この方こそ来るべき方である証明は、今も一人一人の中に成就していっているのです。そのようにして、主はみこころの全体を歴史の中に、教会の中に果たして行こうと働いておられるのです。それは主のみこころであって、この教会を通しても、生きて働いておられるのです。
 
結び)「つまずかない者は幸いです。」は常に神様を第一とする信仰の姿勢を確立することによってもたらされます。自分を第一にする信仰姿勢は、すべてのことでつまずきに会います。キリストにさえもつまずくのです。福音を語る教会や、それに生きるクリスチャンへの偏見を捨てて、みすぼらしさにも愛想を尽かさず、思いのほか良く働いていることへも嫉妬せず、人を日々に新しくするみことばに聞き続ける。その中心に今も生きるキリストを見つめてゆく者は幸いです。自分の幸、不幸だけを見つめつづけるなら、キリストに疑いを向けてつまずくこととなりましょう。自分のために十字架にいのちを注ぎだされた主イエスをつゆも疑ってはなりません。福音のめぐみに生き続ける事こそ幸いです。
 主イエスに向かって「あなたこそ、来るべき方」と告白して栄光を帰する者は幸いです。

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