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2019年6月23日 「重荷を負う者我に来たれ」 マタイ11章28-30節
序文)主イエス様は、天の父を知らせようと心に定めた人々に、父を知らせてくださった。主権的な選びがここにはっきりと教えられていた。キリストに全権が任されていて、私たちが、父なる神と父と子の関係となれるかどうかは一切、キリストの裁量のもとにあることが明確に語られていた。と同時に、今朝の箇所に入ると、主はすべて、疲れた人、重荷を負っている人に、招きをしておられる。それは招きを受け入れる人の側の自由意志が問われている。その上で、キリストのもとへ来るようにと招かれている。
 
Ⅰ 招かれているのは、疲れた人、重荷を負っている人たちです。
1 疲れた人、重荷を負っている人とは、基本的には、罪を重荷と感じ、罪のもとでうめいている人です。自分を正しく立派な人間だと思っている者たちには語りかけていない。助け主である聖霊が、まず「罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせた」者です。マタイ5章1-11に、心の貧しい者、悲しむ者、義に飢え渇いている者、義のために迫害され、キリストのためにののしられ、悪口雑言を言われる者は、幸いであるとありますが、基本的にこの人たちを指しているのです。サタンの奴隷、罪の奴隷となっていることを認識している者のことである。霊的にここまでの認識がなくても、この世にあって打ちひしがれ、自らの力で脱出、開放され得ない絶望的な状況にあることを認識している者も含まれます。
彼らに、私のところに来なさい。私のくびきを負って、私から学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来るとは、まさにキリストの福音を聞き、受け入れなさい。そうすれば救われると言うことと同じです。
 
  実に多くの数えられないぐらいの人々の心が、このみことばに触れ、驚きと感謝を持って、受け入れて、尊い救いにあずかりました。信仰者の救いのあかしを読むとき、感動を持ってみことばとの出会いを知ることができます。星野富弘兄弟は、体育の授業の時に前転を誤って首から下が動かなくなってしまったのち、絶望の病床に伏していたとき、クリスチャン友人がくれた聖書を開いたときに、このみことばに出会って人生が変わった一人でした。以来、口と筆だけで花の詩画集を発行して、見る者、読む者に人生の再発見を与えています。
 
2「わたしのもとに来なさい」という招きが一つのキーである。それは、一切を捨てて、キリストのもとへ来ることを意味している。キリストを救い主として仰ぐことを意味しています。民数記21:5-9に、神が、神に逆らう民に燃えるへびを送って、多くの人を死なせた時、モーセが青銅のへびを造って、旗ざおの上に上げられたのを仰ぎ見た者は、癒され、生きたことが書かれています。ヨハネは福音書3:13-15でこの出来事を引用して、救い主イエス様が十字架の上にあげられ、死に葬られ、よみがえられたのちに、天にまでさらに上げられたことを指して「信じる者が皆、人の子にあって永遠の命を持つためです。」と説明しています。
 
 まことに「重荷を負って」疲れている罪人は、「イエス・キリストのところへ来なくては」ならない。キリストに逆らい、キリストと競って立ちはだかっているものを、すべて捨てて、キリストを自分の医師であり弁護人として迎え、自分自身をキリストのやりかた、キリスト自身の言葉づかい…に、すべて自由に任せることです。
 「来なさい」、そして 「あなたが負う重荷は私に任せなさい。」これこそが福音の呼び掛けです。ヨハネ黙示録22:17 「御霊も花嫁も言う。『来てください。』…渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。」です。福音は、キリストが提示される条件において、お受けしなければならないのです。
 
Ⅱ  「わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい」 
 私たちは、自分の主権的支配者であるキリスト・イエスのもとに来て、身を捧げなくてはならない。「わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい」とは、キリストが私たちの支配者であることを意味している。キリストが約束される「安息」とは、罪への隷従からの開放を意味するもので、神への奉仕からの開放ではない。安息とは、キリストへの務めに従うことに他ならない。
キリストは、私たちの頭にいのちの冠を用意されると同時に、私たちの首には、くびきを用意される。ただ、重要なことは、「わたしの」くびきだということである。私たちは、くびきを負って疲れている。そのくびきをはずして、「わたしの」くびきを負いなさい。そうすれば安らぎが得られる。奴隷は、「くびきの下にある」と言われる。(第一テモテ6:1) サタンのくびきからキリストのくびきへの変更である。キリストの奴隷、臣下となるのです。従って、キリストの命令に服従するのです。これは負いやすいくびきであり、この荷物は軽いのです。
 
キリストは、自らくびきを負われ、従順を学ばれた。(ヘブル5:8)私たちと共に、御霊の力でくびきを負われた。そして「弱い私たちを助けて下さる」のです。くびきと言えば苦しみを連想させる。が、動物がくびきをつける場合、それが助けとなることがあります。キリストの命令は、すべて私たちの益のためです。私たちは、このくびきを負わなければならない。
 
Ⅲ「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」
  これは生まれながらの肉の人には、重いものであるけれど、生まれ変わった人には、容易なくびきであって、軽く、心地良いくびきなのです。「すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。」(ヘブル12:11)。「私たちの一時の軽い苦難は、それとは比べものにならないほど重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです。」(第二コリント4:17)。
聖霊の助けと慰め、これらがキリストのための苦しみを「軽く」「負いやすい」ものとするのです。苦しみがあふれ、長引くとしても、慰めも溢れ、永遠に続くのです。
 
私たちは、キリストから学ばなければならない。「真理はイエスにあるのですから。その教えとは、あなたがたの以前の生活について言えば、人を欺く情欲によって腐敗していく古い人を、あなたがたが脱ぎ捨てること、またあなたがたが霊と心において新しくされ続け、真理に基づく義と聖をもって、神にかたどり造り出された、新しい人を着ることでした。」(エペソ4:21b-24)。
キリストの教え方は、「このわたしがエフライムに歩くことを教え、彼らを腕に抱いたのだ。しかし、わたしが彼らを癒したことを彼らは知らなかった。わたしは人間の綱、愛の絆で彼らを引いてきた。わたしは彼らにとって、あごの口籠を外す者のようになり、彼らの手を伸ばして食べさせてきた。」(ホセア11:3-4)
 
結び)「そうすれば魂に安らぎを得ます。」これは、エレミヤ6:16からの引用です。『主はこう仰せられる。「四つ辻に立って見渡し、昔からの通り道、幸いの道はどこにあるかを尋ね、それを歩んで、たましいに安らぎを見出せ
。」』アンダーラインの部分は、文字通り、「そうすれば、あなたの魂に安らぎを見出せ」です。魂の安らぎを得る唯一の道、確かな道は、キリストの言葉に聞き入ることです。理解力を頼りに探った末、神とイエス・キリストを知るに至る。このことの中にこそ安らぎがあることを見出すのです。
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