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2019年 7月14日「安息日の主」マタイの福音書 12章1-14節
 
序文)ある安息日の出来事です。主イエスと弟子たちは麦畑の中を通っておられました。彼らは空腹でした。歩きながら麦の穂を摘んで手で揉みながら食べていました。申命記23:25に「あなたが隣人の麦畑に入る時、手でその穂を摘んで食べて良い。しかしあなたの隣人の麦畑に鎌を入れてはならない。」と決められています。弟子たちは毎日忙しく福音の為に働いていました。安息日の食事の用意をし忘れていたのか、食事の費用がなかったのか、空腹を満たすために貧しい食事をやむなく麦畑でしたのでした。パリサイ人たちは、他の日ならばやってもよいことだったが、その日が安息日だったために、イエスを難詰する絶好のチャンスを握ったのでした。「ごらんなさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。」と言いがかりをつけたのでした。
 
Ⅰ イエス様の答え
 イエス様は彼らに答えました。ダビデの先例を引き合いに出しました。第1サムエル21:3〜6「臨在のパン」は、神殿内の机に並べてイスラエルの12部族の勤労の実としてささげたものです。これは安息日ごとに新しいパンと取り替えました。お下がりは神殿内で祭司だけが食べることのできた聖なる物でした。それをひもじかったダビデとその家来たちが食べたのは、神の律法を破ったことになります。彼らは食べ物がなく、飢えていのちの危険にさらされていたのです。ダビデの行為は正当で良いことと勧めているわけではないにしても、このような例外をパリサイ人たちも認めていました。ですから、主イエスの弟子たちの行為が厳しくとがめられねばならないとは、どういうことなのか。
 “宮で奉仕している祭司たちは、安息日にも仕事をして、合法とされるのだから、宮よりも大いなる者はなおさら、合法とすることができるではないのか。わたしは宮よりも大いなる者です。” 
 
 パリサイ人たちが弟子たちのこの行為をとがめたのは、彼らが「イエス」の弟子たちだというので特に問題にしたのでした。イエス様に言いがかりをつけるためだったのです。
 主は、そのような彼らに「人の子は安息日の主です。」と断言なさったのです。弟子たちの行為は、安息日の主の前でなされた。しかも、その行為は許されている。主こそ安息日を人のために定められた方です。コロサイ2:16〜17「だからあなたがたは食物と飲み物とについて、あるいは、祭りや新月や安息日などについて、誰にも批評されてはならない。これらは来るべきものの影であってその本体はキリストにある。」実に、この主イエス・キリストこそ、安息日と律法が長い間指差し続け、待ちわび続けたお方である。安息日の規定を守るか否かの問題は、このお方の来臨によって、キリストにあって安息日をどのように歩むかという、所にと移された。
 今日、私たちは、新約聖書の安息日である主の日を守っています。キリストの復活なさった週の初めの日を礼拝するために用いています。わたしたちは、どのような心で、この日を守っているかが、主によって問われているのです。
 
Ⅱ  安息日(主の日)について
モーセの十戒の第四戒「安息日を覚えてこれを聖とせよ。6日の間働いて、あなたのすべての業をせよ。」この戒めは旧約聖書時代の人々と同じ意味で守ることはなく、新約聖書時代のキリストの心で守るのです。第四戒は当時儀式律法として、ヨベルの年や、過越の祭り、贖罪日などとともに、安息日律法として守られました。しかし、今や、安息日の主イエスが来られてからは、儀式としての安息日からは解放されたのです。しかし主が来られたことは、本来の意味で、第四戒が与えられた目的を問うことになったのです。第四戒が与えられた目的は、カルバンによれば、三つあるのです。
•第一は、霊的な安息のため。
•第二は、教会の規律のため、
•第三は、人に仕えている人々の慰めでした。
 この中心には、神礼拝を通して人のいのちを救うことと善を行うことが据えられているのです。
 
1 神は、イスラエルの民に、第七日の休みというかたちで霊的な安息を象徴しようとされました。霊的な安息とは、私たちの内に、神が働かれて、神のもとに憩いを得ることでした。これは,主イエスの福音が信じる者にもたらす福音の奥義でした。信じる者の内に主イエスは住みたまい、聖霊が働かれて、神のみわざがその人に行われることです。
この救い主キリストによって、私たちのうちに始められた霊的な永遠の安息のために、実にキリスト者は、日ごとに自分に死んで、キリストのいのちに満たされることをもって全生涯を歩むのです。一週の一日だけでよいというのとは違うのです。
 
2 旧約時代、安息日に人々は会堂に集まりました。律法の学びや儀式を行うために、また、神のみわざを瞑想して敬虔へと訓練されるためでした。今日でも、主の日の集まりは、神への敬虔の成長のために、聖書を学び、共に祈り、聖礼典にあずかり、神を礼拝することが求められています。「使徒の働き」のクリスチャンたちは、週に一度だけはなく、「毎日、心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。主は毎日救われる人々を加えて一つにしてくださった。」(使徒の働き2:46-47)。
このように可能ならば、毎日でも集まって敬虔への訓練を受けることができる。でも実際には、神は人の弱さを覚え、週の中に一日を定め、主の日を選んで、すべての信徒を招かれるのです。教会が主の日を重んじて、それぞれを招くのは,実にこの理由なのです。
 
3 第三に「仕え人の慰め」について、安息日はしもべや他の人の支配にある人々に休息を与え、肉体的安息を与えて慰めるためにありました。神はすべての労働者に休息を与えるために雇用主や支配者にこの日を命じました。
 
Ⅲ  6〜14節 「人の子は安息日の主です。」
 1 主イエスは安息日に対して権威を持っておられる。安息日律法を正しく解釈する権威を持っている。パリサイ人の律法主義は、理解が間違っているとお示しになった。
「わたしが喜びとするのは真実の愛、いけにえではない。」は、ホセア書6:6からの引用ですが、マタイ9:13でも語られていました。そこでは、わたしは、病人を救うために来たのだと言われたのですが、霊的救いと同時に、ここでは肉体へのあわれみが言われています。キリストが安息日の主であられるので、主がお喜びになるように真実の愛を行うことが求められています。神を引き合いに出して律法の儀礼を守るようにと要求する律法学者たちに対して、そうではなく神が恵み深い方で、あわれみ深い方であることを安息日律法の深いところで考えるべきと主イエスは言われたのです。
 
2 9節には、「イエスはそこを去って、彼らの会堂へ入られた。」とあります。麦畑を通られたのは、会堂へ行く途中であった。多分、祈りの会か伝道のためかで、弟子たちは朝食をとる間がなかったのでしょう。サタンは、このようにパリサイ人を通して難癖をつけて礼拝を妨害してくる。キリストと弟子たちは、このような妨害にもかかわらず礼拝堂へ入られたのです。多くの障害を乗り越えて、万難を排して礼拝を守るべきことが示されている。
 イエスが癒された片手のなえた男(字義:枯れた)は、「自分の手で働くことを名誉としなさい。」(1テサロニケ4:11)と語られているようには、「自分の手で働いて」生計を立てることができなかった。初代教会教父であり、ウルガタ訳聖書(ラテン語訳聖書)の訳者であるヒエロニムスが伝える所では、ナザレ派、エピオン派(初代のユダヤ人キリスト信者の一派)に使われていたヘブライ語の「マタイ福音書」に、この片手のなえた男の話が出てくる。彼は、レンガ職人であって、キリストに次のように訴えたと記されている。「わたしは、レンガ職人であって、わたしの労働によって生計を立ててまいりました。おお、イエス様、お願いです。私の手の働きを元に戻して下さい。パンを乞うようなことになりたくないのです。」この哀れな男が、会堂にいたのである。注意すべきは、世の中のために何もできないような人も、自分の魂のためにできるだけのことはしなければならないのである。絶望的な状態でも、礼拝に参列していた事実が語られている。
 
3パリサイ人は、この哀れな状態の男をイエスを訴える目的で利用して、安息日に人を癒すことは正しいかどうか聞いた。イエスは、彼らが自分の財産は大切にすることを知っておられるゆえ、安息日に羊が穴に落ちたら救い出すであろうと言われた。人間は羊よりはるかに値打ちがあるのではないかと、反論できない論陣を張られた。巧みに悪意ある質問をかわされたが、このことは、1コリント9:9-11でパウロが確認している。「モーセの律法には、『脱穀している牛に、口籠(くつこ)をはめてはならない。』と書いてあります。はたして神は、牛のことを気にかけておられるのでしょうか。それとも、もっぱら私たちのために、こう言っておられるのでしょうか。むろん、私たちのためにこう書いてあるのです。なぜなら、耕す者が望みを持って耕し、脱穀する者が分配を受ける望みを持って仕事をするのは、当然だからです。」  
 
4 13節「それからイエスはその人に、『手を伸ばしなさい。』と言われた。彼が手を伸ばすと、手は元どおりになり、もう一方の手のように良くなった。」 こうすれば、パリサイ人が腹を立てることをキリストは予見しておられたにもかかわらず、その男を癒された。パリサイ派は、キリストの主張に反論することができなかったにしても、自分たちの偏見や敵意を押し通すことに腹を決めていた。キリストは、それにもかかわらず、みわざを続けられた。留意すべきは、人の立腹を恐れて、務めを放置したり、良いわざをする機会をないがしろにしたりしてはならないということです。
彼は、自分では、手を伸ばすことができなかったのであるが、キリストは、そうするように命じられた。私たちがひとりですることができない務めを、するように言われる神の命令があった場合に、それは不条理でも不当でもない。というのもそれは、命令とともに、みことばによって与えられる恵みの約束であるからです。箴言1:23に「わたしの叱責に立ち返れ。おまえたちにわたしの霊を注ぎ、わたしのことばを知らせよう。」と言われた。この男が、もし、手を伸ばそうとせず、従って癒されていなかったら、何の言い訳も立たなかったのではないでしょうか。同じように滅びる者は言い訳が立たない。しかし救われる者は、この男が手を伸ばして自分で治るようにしたと自慢することがないのと同じで、自分で救われたと自慢することはない。彼と同じように、キリストの御力とみ御恵みに、大いにあずかっていることだと告白する。主が与えてくださった信仰によってなしとげられるのでした。
 
 結び) 安息日の主は、教会の主であり、みからだなる教会のかしらとして、私たちが、果たすべき使命を託しておられます。主の日ごとに、そして、可能ならば毎日でも、その使命を担って栄光を神に帰し、主の救いのみわざに一人でも多くあずかり、なすべき善をなしうるように積極的に主に従ってまいりましょう。安息日に良いことをするのは正しいのです。









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2019年 7月14日「安息日の主」マタイの福音書 12章1-14節
 
序文)ある安息日の出来事です。主イエスと弟子たちは麦畑の中を通っておられました。彼らは空腹でした。歩きながら麦の穂を摘んで手で揉みながら食べていました。申命記23:25に「あなたが隣人の麦畑に入る時、手でその穂を摘んで食べて良い。しかしあなたの隣人の麦畑に鎌を入れてはならない。」と決められています。弟子たちは毎日忙しく福音の為に働いていました。安息日の食事の用意をし忘れていたのか、食事の費用がなかったのか、空腹を満たすために貧しい食事をやむなく麦畑でしたのでした。パリサイ人たちは、他の日ならばやってもよいことだったが、その日が安息日だったために、イエスを難詰する絶好のチャンスを握ったのでした。「ごらんなさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。」と言いがかりをつけたのでした。
 
Ⅰ イエス様の答え
 イエス様は彼らに答えました。ダビデの先例を引き合いに出しました。第1サムエル21:3〜6「臨在のパン」は、神殿内の机に並べてイスラエルの12部族の勤労の実としてささげたものです。これは安息日ごとに新しいパンと取り替えました。お下がりは神殿内で祭司だけが食べることのできた聖なる物でした。それをひもじかったダビデとその家来たちが食べたのは、神の律法を破ったことになります。彼らは食べ物がなく、飢えていのちの危険にさらされていたのです。ダビデの行為は正当で良いことと勧めているわけではないにしても、このような例外をパリサイ人たちも認めていました。ですから、主イエスの弟子たちの行為が厳しくとがめられねばならないとは、どういうことなのか。
 “宮で奉仕している祭司たちは、安息日にも仕事をして、合法とされるのだから、宮よりも大いなる者はなおさら、合法とすることができるではないのか。わたしは宮よりも大いなる者です。” 
 
 パリサイ人たちが弟子たちのこの行為をとがめたのは、彼らが「イエス」の弟子たちだというので特に問題にしたのでした。イエス様に言いがかりをつけるためだったのです。
 主は、そのような彼らに「人の子は安息日の主です。」と断言なさったのです。弟子たちの行為は、安息日の主の前でなされた。しかも、その行為は許されている。主こそ安息日を人のために定められた方です。コロサイ2:16〜17「だからあなたがたは食物と飲み物とについて、あるいは、祭りや新月や安息日などについて、誰にも批評されてはならない。これらは来るべきものの影であってその本体はキリストにある。」実に、この主イエス・キリストこそ、安息日と律法が長い間指差し続け、待ちわび続けたお方である。安息日の規定を守るか否かの問題は、このお方の来臨によって、キリストにあって安息日をどのように歩むかという、所にと移された。
 今日、私たちは、新約聖書の安息日である主の日を守っています。キリストの復活なさった週の初めの日を礼拝するために用いています。わたしたちは、どのような心で、この日を守っているかが、主によって問われているのです。
 
Ⅱ  安息日(主の日)について
モーセの十戒の第四戒「安息日を覚えてこれを聖とせよ。6日の間働いて、あなたのすべての業をせよ。」この戒めは旧約聖書時代の人々と同じ意味で守ることはなく、新約聖書時代のキリストの心で守るのです。第四戒は当時儀式律法として、ヨベルの年や、過越の祭り、贖罪日などとともに、安息日律法として守られました。しかし、今や、安息日の主イエスが来られてからは、儀式としての安息日からは解放されたのです。しかし主が来られたことは、本来の意味で、第四戒が与えられた目的を問うことになったのです。第四戒が与えられた目的は、カルバンによれば、三つあるのです。
•第一は、霊的な安息のため。
•第二は、教会の規律のため、
•第三は、人に仕えている人々の慰めでした。
 この中心には、神礼拝を通して人のいのちを救うことと善を行うことが据えられているのです。
 
1 神は、イスラエルの民に、第七日の休みというかたちで霊的な安息を象徴しようとされました。霊的な安息とは、私たちの内に、神が働かれて、神のもとに憩いを得ることでした。これは,主イエスの福音が信じる者にもたらす福音の奥義でした。信じる者の内に主イエスは住みたまい、聖霊が働かれて、神のみわざがその人に行われることです。
この救い主キリストによって、私たちのうちに始められた霊的な永遠の安息のために、実にキリスト者は、日ごとに自分に死んで、キリストのいのちに満たされることをもって全生涯を歩むのです。一週の一日だけでよいというのとは違うのです。
 
2 旧約時代、安息日に人々は会堂に集まりました。律法の学びや儀式を行うために、また、神のみわざを瞑想して敬虔へと訓練されるためでした。今日でも、主の日の集まりは、神への敬虔の成長のために、聖書を学び、共に祈り、聖礼典にあずかり、神を礼拝することが求められています。「使徒の働き」のクリスチャンたちは、週に一度だけはなく、「毎日、心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。主は毎日救われる人々を加えて一つにしてくださった。」(使徒の働き2:46-47)。
このように可能ならば、毎日でも集まって敬虔への訓練を受けることができる。でも実際には、神は人の弱さを覚え、週の中に一日を定め、主の日を選んで、すべての信徒を招かれるのです。教会が主の日を重んじて、それぞれを招くのは,実にこの理由なのです。
 
3 第三に「仕え人の慰め」について、安息日はしもべや他の人の支配にある人々に休息を与え、肉体的安息を与えて慰めるためにありました。神はすべての労働者に休息を与えるために雇用主や支配者にこの日を命じました。
 
Ⅲ  6〜14節 「人の子は安息日の主です。」
 1 主イエスは安息日に対して権威を持っておられる。安息日律法を正しく解釈する権威を持っている。パリサイ人の律法主義は、理解が間違っているとお示しになった。
「わたしが喜びとするのは真実の愛、いけにえではない。」は、ホセア書6:6からの引用ですが、マタイ9:13でも語られていました。そこでは、わたしは、病人を救うために来たのだと言われたのですが、霊的救いと同時に、ここでは肉体へのあわれみが言われています。キリストが安息日の主であられるので、主がお喜びになるように真実の愛を行うことが求められています。神を引き合いに出して律法の儀礼を守るようにと要求する律法学者たちに対して、そうではなく神が恵み深い方で、あわれみ深い方であることを安息日律法の深いところで考えるべきと主イエスは言われたのです。
 
2 9節には、「イエスはそこを去って、彼らの会堂へ入られた。」とあります。麦畑を通られたのは、会堂へ行く途中であった。多分、祈りの会か伝道のためかで、弟子たちは朝食をとる間がなかったのでしょう。サタンは、このようにパリサイ人を通して難癖をつけて礼拝を妨害してくる。キリストと弟子たちは、このような妨害にもかかわらず礼拝堂へ入られたのです。多くの障害を乗り越えて、万難を排して礼拝を守るべきことが示されている。
 イエスが癒された片手のなえた男(字義:枯れた)は、「自分の手で働くことを名誉としなさい。」(1テサロニケ4:11)と語られているようには、「自分の手で働いて」生計を立てることができなかった。初代教会教父であり、ウルガタ訳聖書(ラテン語訳聖書)の訳者であるヒエロニムスが伝える所では、ナザレ派、エピオン派(初代のユダヤ人キリスト信者の一派)に使われていたヘブライ語の「マタイ福音書」に、この片手のなえた男の話が出てくる。彼は、レンガ職人であって、キリストに次のように訴えたと記されている。「わたしは、レンガ職人であって、わたしの労働によって生計を立ててまいりました。おお、イエス様、お願いです。私の手の働きを元に戻して下さい。パンを乞うようなことになりたくないのです。」この哀れな男が、会堂にいたのである。注意すべきは、世の中のために何もできないような人も、自分の魂のためにできるだけのことはしなければならないのである。絶望的な状態でも、礼拝に参列していた事実が語られている。
 
3パリサイ人は、この哀れな状態の男をイエスを訴える目的で利用して、安息日に人を癒すことは正しいかどうか聞いた。イエスは、彼らが自分の財産は大切にすることを知っておられるゆえ、安息日に羊が穴に落ちたら救い出すであろうと言われた。人間は羊よりはるかに値打ちがあるのではないかと、反論できない論陣を張られた。巧みに悪意ある質問をかわされたが、このことは、1コリント9:9-11でパウロが確認している。「モーセの律法には、『脱穀している牛に、口籠(くつこ)をはめてはならない。』と書いてあります。はたして神は、牛のことを気にかけておられるのでしょうか。それとも、もっぱら私たちのために、こう言っておられるのでしょうか。むろん、私たちのためにこう書いてあるのです。なぜなら、耕す者が望みを持って耕し、脱穀する者が分配を受ける望みを持って仕事をするのは、当然だからです。」  
 
4 13節「それからイエスはその人に、『手を伸ばしなさい。』と言われた。彼が手を伸ばすと、手は元どおりになり、もう一方の手のように良くなった。」 こうすれば、パリサイ人が腹を立てることをキリストは予見しておられたにもかかわらず、その男を癒された。パリサイ派は、キリストの主張に反論することができなかったにしても、自分たちの偏見や敵意を押し通すことに腹を決めていた。キリストは、それにもかかわらず、みわざを続けられた。留意すべきは、人の立腹を恐れて、務めを放置したり、良いわざをする機会をないがしろにしたりしてはならないということです。
彼は、自分では、手を伸ばすことができなかったのであるが、キリストは、そうするように命じられた。私たちがひとりですることができない務めを、するように言われる神の命令があった場合に、それは不条理でも不当でもない。というのもそれは、命令とともに、みことばによって与えられる恵みの約束であるからです。箴言1:23に「わたしの叱責に立ち返れ。おまえたちにわたしの霊を注ぎ、わたしのことばを知らせよう。」と言われた。この男が、もし、手を伸ばそうとせず、従って癒されていなかったら、何の言い訳も立たなかったのではないでしょうか。同じように滅びる者は言い訳が立たない。しかし救われる者は、この男が手を伸ばして自分で治るようにしたと自慢することがないのと同じで、自分で救われたと自慢することはない。彼と同じように、キリストの御力とみ御恵みに、大いにあずかっていることだと告白する。主が与えてくださった信仰によってなしとげられるのでした。
 
 結び) 安息日の主は、教会の主であり、みからだなる教会のかしらとして、私たちが、果たすべき使命を託しておられます。主の日ごとに、そして、可能ならば毎日でも、その使命を担って栄光を神に帰し、主の救いのみわざに一人でも多くあずかり、なすべき善をなしうるように積極的に主に従ってまいりましょう。安息日に良いことをするのは正しいのです。

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