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2019年7月28日「優しい主のしもべ」マタイの福音書12章15-21節
序文)安息日の主は、安息日に足の悪い方を癒された。神のみこころを実現される主の態度と、規則に縛られた律法学者、パリサイ人たちとの信仰に対する態度は、もはや両者の間の不和が修復できないところまで達した。パリサイ人たちはイエス・キリストを亡き者にしようと計画した。マタイはイザヤ書のメシア預言を用いて、主イエスが「優しい主のしもべ」であることを強調し、謙遜で助けのない者を救い立たせる方であることと、神による真の権威を持っておられることを示している。
 
Ⅰ 立ち去るイエス・キリスト                                1 イエスさまは、まだご自分の時が来ていないので、そこを立去られた。パリサイ人の陰謀から身を守ることは如何様にでもお出来になったのであるが、私たちの生来の弱さ、罪なき弱さを甘受され、身を低くして、逃げて隠れるという通常の手段で難を避けられた。
これはまた、ご自身が命じられた宣教のルール、「一つの町で人々があなたがたを迫害するなら、別の町に逃げなさい。」(マタイ10:23)の範を示されたのです。後になってから、主は反対者に公然と立ち向かわれたのです。
 お逃げになる途中においても、身を隠すことはできなかったので、出会う多くの人々を癒すという良きわざを続けられた。このようにして、宣教者たる者は、望んだことができない時でもできるだけのことはしなければならないこと、引退後も教え続けるようにと範を示しておられる。世には私たちに不親切な人はいるけれど、そのために私たちが不親切であっていいわけではない。
 
2 「彼らをみな癒やし、 そして、ご自分のことを人々に知らせないようにと、彼らを戒められた」何故、癒しの奇跡のことを伏せるように言われたのだろうか。
一つは、パリサイ人を怒らせたのは、奇跡そのものよりむしろ、奇跡が公然と話題になることであった(23,24節)。それゆえキリストは良いわざを施すことは控えられないにしても、できるだけひっそりと施して、恵みを受けた人々へ反対者たちの怒りが向かうことを避け、危険はご自分に及ぶようにされたのであった。留意すべきは、賢く善良な人々は、良いことをすることを望みはしても、それがなされた時、それについて広言されるのを決して喜びはしない。なぜなら、彼らが目指していることは、神が受け入れてくださることであって、人々の喝采ではないからだ。そして、苦しい時にも、私たちは課せられた仕事の道を勇敢に進まなければならないが、そのための環境を整えるためにも、私たちに対抗する機会を狙っている人々を必要以上に刺激しないようにしなければならない。「蛇のようにさとくありなさい」である。
二つ目は、パリサイ人は、キリストの奇跡について、もう十分過ぎるほど冒涜し、侮蔑してきた。これ以上、恵みのわざを見せる必要はない。彼ら自身が、光に目を閉ざすことによって、自分で神の恩恵を捨ててしまったのである。さばきの時であった。 
三つ目は、謙遜の範を示されたということ。私たち自身が良い役に立つ人間だと吹聴したり、吹聴されたいと思ったりしないように諭されたのであった。キリストは、弟子たちに、あらゆる仕事を「人に見せるために」する人々とは反対であるように望まれたのである。
 
Ⅱ 18節-21節は、イザヤ42章1-4節からの引用です。
1 私たちの救い主は、私たちのあがないという偉大なるわざを成就するため神によって選ばれた神の僕であるということ。キリストは自らこのわざに身を投じられたのではなく、しかるべく選ばれた方なのです。そして、神の御子であり、神と並ぶお方であるにもかかわらず、その地位に固執されず、仕える者の姿を取られた(ピリピ2:6)。そして多くの苦しみを通して、従順を学ばれた(ヘブル5:8)。
 キリストのモットーは「わたしは仕える」であリ、従順である。このゆえに、神は、彼を喜ばれ愛されるのです。私たちも、キリストのうちに選ばれたのだから(エペソ1:4)、キリストは選ばれた者のかしらです。私たちのかしらなので、私たちのモットーも、従順であり、忠実であるのは当然なのです。
 
2 イエス・キリストは神の愛される方、神に愛された御子であるということです。神として、彼は無限の過去から、神のふところに横たわっておられた(ヨハネ1:18「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」)。彼は、「毎日(神の)喜び」であった。父と子の間には、ずっと以前、永遠の思いも及ばないような互いに交わす愛の交わりがあった。こうして「主は、そのみわざの初めから、私を得ておられた」(箴言8:22)。仲介者としてのキリストを、父は愛された。彼を砕いて、痛めることが主のみこころとなったとき、彼はそれを甘んじて受けた。「しかし、彼を砕いて、病を負わせることは、主のみこころであった。彼が、自分のいのちを代償のささげ物とするなら、末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。」(イザヤ53:10)。「わたしが再びいのちを得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。」(ヨハネ10:17)。そして、キリストに神の霊を注がれたように、キリストにあって選ばれたわたしたちにも霊を注がれる。
 イエス・キリストは御父がよく喜ばれる方、主の御霊が喜ばれる方であるという事実。それは想像し得る最も高い満足をあらわす。彼が、神によく喜ばれる神の愛された御子であると、天からの御声によって、神は宣言された。神がこころざされるあの不思議なみわざを、いつでもこころよく引き受ける働き人なるイエスがおられるので、神は私たちと喜びを分かち合うことがお出来になる。というのは、「神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。」(エペソ1:6)。
堕落した人間が神にあって持ち、また持つことができるすべての恵みは、神がイエス・キリストを「よく喜ばれること」が基礎であり、すべてそれに負っている。「わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはない」(ヨハネ14:6)のである。
 
3 あらゆる点で、彼がその仕事を引き受ける資格が十分おありである。「知恵とはかりごとの霊」(イザヤ11:2)として「わたしは彼の上に、わたしの霊を授く」(イザヤ42:1)とある。神はどんな職務に召された者をも、必ずそれに適合し、ふさわしくしてくださる。そして、それによって、出エジプト記4:12のモーセと同じように、彼らがそれに召されたことが明らかとなる。キリストは神として、力と栄光を御父と等しくされた。仲介者として、御父から力と栄光を受け取られた。つまり彼に(私たちを)引き受ける資格を授けるために、「わたしは彼の上に、わたしの霊を授く」と言われた。これが、ヘブル1:9に「それゆえ、神よ。あなたの神は、喜びの油で、あなたに油を注がれた。あなたに並ぶだれよりも多く。」とあるその喜びの油であった。彼はその霊を無限に受け取られた。(ヨハネ3:34「神がお遣わしになった方は、神のことばを話される。神が御霊を無限に与えられるからである。」)。
 留意すべきは、神が選ばれた者なら誰でも(クリスチャン)、また神が心から喜ばれる者には誰であろうと、確かに神は「彼らの上に、彼の霊を授く」ことになる。
「子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。」(ローマ8:17-18)。
「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。」(エペソ1:17-19)。
 
Ⅲ 19-21節
1 キリストは、引き続き引き受けられた仕事を続行なさるが、その態度は、厳しくも、いかめしくもなかった。静かに平和な方法で使命を全うする。福音の宣教は、喧噪と争奪とは無縁の世界で行われる。
 
2 20節に「彼はいたんだ葦を折ることもなく」とある。ある者はこれを、不法な人に耐える彼の態度と理解する。彼には、パリサイ人たちを、いたんだ葦のように簡単に折ることも、またくすぶる灯心を消すのと同じくらい早く消すことも可能であった。しかし、そうはなさらずにさばきの日を待たれる。
 また、むしろ、弱い者を支えて下さる時の、御力や御恵みと理解できると言う者もいる。概して、彼の福音の計画は、弱さはあっても、誠実が第一とされるような救いの方法を確立することである。キリストに従う態度が従順な人々、恐れている人々、ひどくおののいている人々、といった人々について、彼らは「傷んだ葦」や「くすぶる灯心」のようなものだ、と言われるのである。信仰生活の浅い初心者たちは、「いたんだ葦」のように弱く、その弱さは「くすぶる灯心」のように気に障るものである。小さないのちはあっても、いたんだ葦のいのちのようなもの。少しの熱はあっても、くすぶる灯心の熱と同じである。キリストの弟子達は、その頃はまだ弱く、キリストの家族に入れられる者でも、多くは弱かった。彼らの徳や善は「いたんだ葦」のようであり、彼らの堕落や悪は「くすぶる灯心」のようで、まるで消しても消え切れずにくすぶっているろうそくの芯のようだ、と言っている。 
 
3 イエスは彼らを落胆させることはなさらない。ましてや拒否や拒絶はなさらない。折られたり、踏みつけられたりせずに、支えられ、杉や生い茂るヤシの木のように強くなる。ともされたばかりのろうそくの灯火は、くすぶるばかりで燃え上がりはしないが、吹き消されることもなく、段々と大きくなる。「小さなことのある日」は「貴重なことのある日」である。それゆえに、彼はそれを蔑まれず、「偉大な事のある日」になさる。(ゼカリヤ4:10)
留意すべきは、我らが主イエスは、真の恵みがあれば、そこに、たとええ弱さが見られる人でも、まことに優しく扱われる(イザヤ40:11、ヘブル5:2)。私たちが、ちりであるというだけでなく、生きた体であるということも、キリストは覚えていてくださる。
 
結び)「さばきを勝利に導くまで」は、彼が異邦人に述べられたさばきは、勝利のさばきであり、恩恵は、堕落に勝ち、ついに栄光の中で完成に至るのである。彼のさばきの時は、勝利の時であるからだ。福音を伝えられるべき異邦人、私たちは、救い主イエス・キリストに望みをかけているのです。

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