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2019年8月11日 「主の味方は誰か」マタイの福音書12章22-30節
序文)主イエス様は、天の御父から見て「わたしのしもべ」であり「わたしの愛する者」であると、その本性をイザヤ書のメシヤ預言から説明したマタイは、今朝の箇所で本来の議論に戻ります。それは主イエス様の奇跡の力の源は何かを巡るパリサイ人たちの悪意に対して正当に答えているのです。私たちは、この答えに対して、どのような反応をするのか態度を決めなければなりません。
 
Ⅰ  イエスの癒しの力はどこから来たのか。群衆の反応。
1 今朝の出来事は15〜16節の続きです。イエスが多くの病人を癒された。「そのとき」です。悪霊につかれて、目も見えず、口もきけない人が連れてこられた。イエスは彼を癒されて、彼はものを言い、目も見えるようになった。見ていた人々が驚愕した。すると人々は「もしかすると、この人がダビデの子なのではないだろうか。」と言った。この疑問文は、はじめの原語メーテ(μητι)で、否定疑問文です。それは答えが否定になるような問いかけです。彼らの答えは「まさかそうではあるまい。」です。
 ダビデの腰から生まれる子孫として、メシヤが来られるという預言は知っているので、この方はやがて来られるはずであったメシヤか、まさか、と言ったのである。自分たちイスラエル人を救う救世主が目の前におられるというのに、まるで他人事、評論家のような言い方でした。天地創造の神、すべてを滅ぼし、新しい天地を造る全知全能の神、聖なる、義なる、愛に溢れた神が目の前におられ、驚愕すべき奇跡の癒しをしておられるのに、「この人は、ダビデの子なのだろうか。」「まさか」とまるで傍観者のように見ていたという事実です。群集は、肉的に、表面的に、常識的に、この世的に関心を寄せているだけなので、その枠を超えるような話や、みわざ になると途端に興味を失い、ついてゆけなくなるのです。
 
 十字架を前にしたイエス様とピラトの真理問答のときと同じ反応です。「真理とは何ですか」とピラトが聞いたら、イエス様は「わたしが真理です」と答えられたのです。ところがピラトはそれを深く追求することなく聞き流して、別の行動に移り、フーッと群衆のところに出て行ったと、聖書に書いてあります。ここの群衆たちも、まさかと反応しながら、本当の意味でそれ以上に求めることをしないのです。このような主イエスに対する態度は、現代のクリスチャンに向けての警告となります。
 
2 何故、キリストのことば、即ち、「真実の福音のことば」が理解できないかということについて、主イエスは、ヨハネ8:37、43、44で、次のように説明しておられる。
「わたしは、あなたがたが、アブラハムの子孫であることを知っています。しかし、あなたがたは、わたしを殺そうとしています。わたしのことばが、あなたがたのうちに入っていないからです
」(8:37節)。 そして、なぜ入らないかというと、聞き従うことができないからだと言われます。「あなたがたは、なぜわたしの話していることがわからないのですか。それは、わたしのことばに聞き従うことができないからです」(43節)。そして、なぜ聞き従うことができないかと言えば、父である悪魔の欲望を成し遂げたいと思っているからだ。「あなたがたは、悪魔である父から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと思っています。悪魔は初めから人殺しで、真理に立っていません。彼のうちには真理がないからです。悪魔は偽りを言うとき、自分の本性から話します。なぜなら彼は偽り者、また偽りの父だからです」(44節)と言われます。
生まれながらの人間は、サタンの子であるから、生まれながらの古い人間がしたいと欲することを行おうとすることは、結局、サタンの欲望に従うこととなる。クリスチャンにも、キリストの霊を注がれ、新しく生まれ変わった新しい人と、肉の人、即ち古い人とが共存している。肉の人、古い人の声に聞き従っているなら、キリストのことばに聞き従うことができなくなるのです。
なぜなら「肉が望むことは御霊に逆らい、御霊が望むことは肉に逆らうからです。この二つは互いに対立しているので、あなたがたは、願っていることができなくなります」(ガラテヤ5:17) とある通りです。要するに、聖化がまだ至っていない、生まれながらの部分が、地上の生活のことに意識の大半を寄せられており、みことばが語られた時、多少の興味を示し、時には喜びさえ感じても、その興味はすぐに消滅してしまい、みことばが心に入らないのです。いい問題意識を持っても、すぐに消えてしまうので、結局何も追及できないし、理解することもない。
悪霊につかれた、目が見えなく、口がきけない人を癒されたのは、「悪魔のわざを打ち破るために、神の子が現れました。」(1ヨハネ3:8)が、最終的に成就することの予兆であり、またイエスが神からのお方であることを知らせるためでもあったのです。
 
Ⅱ イエスの癒しの力はどこから来たのか。パリサイ人たちの反応。
 目が見えなく、口がきけない人を公衆の面前で癒したという奇跡は、何人も否定しようがありませんでした。パリサイ人たちは、神の律法の知識に富んでいることを売り物にし、大衆よりも神に近い者として自認し、人々からの名声とその権益の上に安住を得ている者でした。従って、この自分たちの権益を崩壊させるようなイエス様の言動が、神からのものであると認めることは、決定的な自殺行為としか思えなかった。従って、キリストが神からのお方であると証明するようなことがますます増し加わって来て、多くの大衆が、この人はダビデの子、即ちメシヤではないかとの言葉が広がるにつれ、パリサイ人たちの焦燥感とキリストへの嫉妬・憎悪は、極限へと近づいて来たのです。
そのような状況の中で、今回のようなキリストの行われた奇跡は否定しようもなく、キリストのみことばの力によって悪霊が追い出されたことは、太陽のように明白であった。また尋常ならざる、超自然的なことであることも、彼らは否定できなかった。そうである以上、これは神からのものであると認めることは、自己の崩壊以外の何物でもない。従って、イエスの癒しの力はどこから来たのか。「この人は、ただ悪霊どものかしらベルゼブルの力で、悪霊どもを追い出しているだけだ。」と言わざるを得ないのです。単に、突発的にそういう風に見紛った発言ではなく、全く構造的な根深いものでした。ご自分のお命を捧げて、私たちに救いをもたらし、サタンを踏み砕くために地上に人となって来られたキリストが、悪霊の頭目と手を組むなどということはあるわけがなく、この発言は、最大の冒涜でした。人々がキリストを崇めれば崇めるほど彼らはますます嫉妬・憎悪を強めていった。
Ⅲ イエスの癒しの力はどこから来たのか。イエス様の答え
1「イエスは彼らの思いを知って言われた」(25 節)とある。ということは、さすがの彼らもこういうことは大声で言えることではなかった。そんなことを言っても、人が納得するとは思えなかった。ただ、彼らの良心に対する罪の自覚を消すために、そういう考え方で整理し、自分を納得させたのでしょう。しかし、キリストはどんな時にも、人の心の思いを知っておられるのです。「遠くから私の思いを読み取られます」(詩篇139:2)お方です。
 
ここで、キリストは、「どんな国でも、分裂して争えば内荒れすたれる」(25節)という真理を語られました。このことは教会にも当てはまる真理であることを忘れてはならない。従って、人一倍ずる賢いサタンが、自分たちを滅ぼすために来られた主イエス・キリストと組んで、自分の王国を自ら滅ぼすようなことをするわけがない。
「不信者と、つり合わぬくびきをともにしてはいけません。正義と不法とに、何の関わりがあるでしょう。光と闇に何の交わりがあるでしょう。キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者が何を共有しているのでしょう。」(第二コリント6:14-15)。キリストは、姑息な手段は使われません。サタンがどれほど結束して、立ち向かって来ても、十字架にお付になって、気高い方法で、堂々とサタンを滅ぼされるのです。
 
2「あなたがたの子らが、追い出しているのは、誰によってですか」(27節)と聞かれた。実は、ユダヤの人たちの中には、アブラハムやイサクやヤコブの神の名を唱えて祈ることで、悪霊どもを追い出した人々がいたのである。使徒行伝19:13には、イエスの名で悪霊を追い出している人たちのことが書かれています。「ところが、ユダヤ人の巡回祈祷師のうちの何人かが、悪霊につかれている人たち向かって、ためしに主イエスの名を唱え、『パウロの宣べ伝えているイエスによって、おまえたちに命じる。』と言ってみた。」従って、こういうことは、かなり一般的であったのです。にもかかわらず、キリストが行われた時は、パリサイ人たちは、悪霊によって追い出していると言った。他の者が神の霊によって追い出した場合は認めて、キリストの場合は、そうでないというのは、キリストへの特別の憎悪、偏見以外の何物でもなかった。だから、最後の大いなる裁きの時には、彼らのこの矛盾が決定的な証拠となると言われたのです。即ち、「あなたがたの子らが、あなたがたをさばく者となるのです。」(27節)と、自分で自分を有罪宣告しているようなものだと言われたのです。
 
「まず強い者を縛り上げるのでなければ、強い者の家に入って家財を奪い取ることがどうしてできるでしょうか。縛り上げたなら、その家を略奪できます。」(29節)。暗やみに腰を下ろし、悪意を抱く世界は、サタンが所有し、彼の支配下にある。すべて神にそむいたままの魂もサタンの支配下にある。強い人、サタンに支配されている家である。
キリストの福音の計画は、悪霊の家を奪い取ることであった。暗やみから光に、罪から聖なる者へ、この世からより神の支配の世界へ、「サタンの支配から神に立ち返らせ」(使徒行伝26:18)、そして、魂の属性を変えること、それがキリストの福音の計画である。この計画に則って、みことばによって汚れた霊を追い出された時、強い人を縛ってしまわれた。こうして、キリストは悪霊の手から「王笏」(覇権の意)を奪い取るために、先ず「剣」を奪い取ったのである。キリストの教義は私たちに彼の奇跡の解釈の仕方を教えます。キリストが、人々の体からいとも簡単に悪霊を追い出したところをお見せになって、すべての信じる人々を力づけ、サタンが人々の魂に押し入り、どのような権力をふるおうとも、キリストが恵みによって打ち壊してくださる、という希望を抱かせてくださった。国家が「偶像礼拝から生ける神に仕える」ように変えられ(1テサロニケ1:9)、もっと罪深い者がきよめられ、義とされ、ついに聖者の最上のものになったとすれば、その時、キリストは悪霊の家を略奪したのであり、さらに一層その略奪を進められることになるのである。
 
3 「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしとともに集めない者は散らしているのです。」(30節)。ここで示唆されていることは、この聖なる戦いは、キリストが悪霊とその国を相手に果敢にも遂行されたもので、中立を許すようなものではなかったということです。キリストの弟子たちの間で互いにわずかな違いが生じる場合、「あなた方に反対しない者は、あなた方の味方です」(ルカ9:50)と考えることによって、争い事を少なくし、平和を求めるようにと教えられた。しかし、キリストと悪霊との争いにおいては、平和が求められることは一切なく、また、このことに対する無頓着さゆえに、何かどうでもいい解釈を生むということにもならない。心からキリスト教を「求めて」いない者は、実際キリストに逆らう者として数えられることとなる。神の大義に同調しない者は敵と見なされる。争いが真の神とバアル神との間である時、両者の間で迷うことはない。(1列18:21)キリストとベリアルの間には如何なる調整もあり得ない。完全に、誠実に、揺らぐことなく、キリストの側につかねばならない。
 
キリストが世に遣わされたのは、御父が彼にお与えになった人々を集めるためでした。従って、彼と共にいる人々が、彼と共に人々を集めることを期待し、要求される。彼らが自らキリストのもとに集まるだけでなく、その他の人々も彼のところへ集まるように、それぞれの立場でできる限りのことをすることが求められる。キリストの王国の推進者として来て、そのように行動しない人は、それを妨害する人と見なされ、処理されることになる。キリストと共に集めないなら、散らす者なのだと。害を与えないというだけでは、十分ではない。善を行わねばならない。このように、キリストとサタンの間には、大きな亀裂があり、パリサイ人がささやいたような二者の間の盟約などあるわけがないのである。
 
結び)私たちの答えは?群衆のように、福音の真理を深く追求することなく、付和雷同しますか。パリサイ人たちのように、真っ向から神に逆らい真理の御霊を冒涜しますか。イエス様の答えのように、神からの力を信じて、御国のために主とともに集めるものとなりますか。いかがでしょう。