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2019年8月18日 マタイ12章31-37節「聖霊に逆らう罪?」
序文)主イエス様の力の源は、神の子として、全能から来ている。しかしパリサイ人たちはそれが悪霊から来ると冒涜した。それについて、イエス様は「聖霊に逆らうことを言う者は赦されない」と答えられた。この意味について多くの学者が論じてきたが、誰も十分に、完全に解き明かしたことがない。この罪が、こういうものではないということを聖書から示すことは難しくないが、ではどういうものかを明確に示すことは難しい。
 
Ⅰ 人は、聖霊に逆らう罪以外は、どんな罪も冒涜も赦されることを確認しておこう。
 
1 イザヤ1:18に「たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとえ、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」とあります。
  罪の悔い改めとイエス・キリストの十字架の贖いへの信仰によって、如何なる罪も真っ白な状態の無罪とされる。これは、キリストの福音の真髄の部分である。「御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。もし、私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」 (1ヨハネ1:7,9)とある通りである。パウロも、「私は以前には、神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないときに知らないでしたことだったので、あわれみを受けました。」 (1テモテ1:13)と言っている。
イエス様が十字架に付かれて亡くなられる前、さんざんののしった者達も、信仰と悔い改めによって赦された。しかし、堕落した天使(悪魔と悪霊たち)は、決して赦されないことに注目する必要がある。人の罪は、どれほど悪辣なものでも赦されるのだが、唯一つ例外がある。それが、聖霊を冒涜する罪である。もともと、福音は、赦免行為であり、人の子に逆らうどんな罪も冒涜も赦されることが強調される中で語られているので、この赦されないという例外は、最小限に、ごく狭い意味に解釈されることになる。
2 この罪を犯してしまったのではないかと思う者には、犯していないというしるしが十分現れている。そう思う者は、信仰にあるという状態が現れていると見られるからです。
キリストが地上におられた時、彼を冒涜し、大酒飲みとか、詐欺師、冒涜者とか、その他同様の呼び方で呼んだ人々に関して言えば、彼の姿がみすぼらしかったり、彼に対する国民の偏見があったりしたからだ、といった言い訳の余地もあった。イエスの地上での働きが、真実、神聖であったということは、昇天を待って、初めて立証されたことであるからだ。ヨセフの子イエスを、キリストとして認識できなかったからと言える余地がある。従って、やはりイエスは、間違いなくキリストであったと、後に理解して、悔い改める可能性がある。
 
しかし、聖霊の働きを否定し、冒涜してしまえば、このような言い逃れの余地はない。それは不信仰そのものであり、キリストへの信仰にいつの日か立ち返るであろうという希望は、まずないのである。罪の行為・言動は、罪性から来るものであり、人間イエスをキリストとして否定し、冒涜することは、キリストへの誤認であるが、聖霊の働きへの冒涜は、信仰そのものの愚弄であり、冒涜である。無神論という絶対的不信仰といえる。信仰に立ち返る可能性は皆無である。
 
3 また、第一に、使徒たちの中にある、かの聖霊の賜物は(この時代に顕著であった)神が福音を堅固なものにするため利用しようと考えられた最後の証しであり、他の方法が優先したときもなお、取って置かれたものだからである。
第二に、これは最も強力な証拠であり、奇跡そのものより説得力を持つものであったからである。(ここで言う聖霊の賜物は、使徒たちが、福音そのものを語っているそのことに直結している、或いは、それゆえに起こっている艱難からの開放に関連するもの。)奇跡そのものとしては、モーセやエリヤの行った奇跡の方が、壮大であるが、ペテロたちが、今までの彼らからは考えられない、驚くほどの変貌を見せ、知恵と大胆さをもって福音を語っているのは、まさに上記の聖霊の働きであるが、これを悪霊の力によっていると言えば、聖霊を汚す罪となるであろう。
第三に、従って聖霊の働きを冒涜する人々が、キリストを信じるようになることは、万が一にもあるはずがない。パリサイ人が奇跡について示した態度と同じことだが、霊の賜物をサタンとの共謀の成果だとする人々を、どうして説得することができよう。これは一兵たりとも追い出すことのできないほどの不信仰の強力な砦であり、従って悔い改めは罪人の目から隠されていて、赦されることなどないのである。
 
4 旧約時代において、「故意に罪を犯す者」を贖ういけにえは何もなかった。民数記15:30 「この国に生まれた者でも、寄留者でも、故意に違反する者は、
主を冒涜する者であり、その人は自分の民の間から断ち切られる。主のことば
を侮り、その命令を破ったのであるから、必ず断ち切られ、その咎を負う。」
ヘブル10:29 「契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、いかに重い処罰に値するかがわかるでしょう。」
恵みの御霊を侮る者に対してはどんな赦しもないのです。契約の血を真っ向から反対する罪を救う手立てはなにもない。即ち、われわれの罪性ゆえ、欲望に負けて犯す罪と神の律法を真っ向から否定し、神を否定して犯す罪とは違うのである。原罪の罪と原罪による堕落の結果としての罪の違いとも言える。
 
日本キリスト改革派教会の「聖霊について」の告白文で「福音を提供する働きは、特に聖霊に委ねられている。聖霊は福音への道を準備し、その説得力を福音に伴わせ、またその使信を人間の理性と良心に対して説き勧められるのである。したがって、あわれみ深く提供される福音をこばむ者は、聖霊にさからう罪を犯すことになる。」と正しく告白されています。
 
Ⅱ「木を良いとし、その実も良いとするか、木が悪とし、その実も悪いとするか、どちらかです。木の良し悪しはその実によってわかります。」(33節)とあります。
心は「根」であり、ことばは「実」です。もし木に性質が良ければ、それに応じた実がなる。恵みが心の支配原理であるところでは、ことばは恵みをもたらす。それに反して、どんな者でも欲が心を支配していると、それが噴出する。人の言葉は、話している言葉で、どこの国の者かを分からせる。同様に、ことばによって、「彼の霊がどのようなものか」もわかる。うわべだけで言葉を取り繕おうとしても、心が変えられていないなら、不可能である。「心に満ちていることを口が話すのです」。
 
「まむしの子孫たち。おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えますか。」(34節)とは、創世記3:15で、神が蛇に言われたこと、「私は、敵意を、おまえと女との間に、おまえの子孫と女の子孫との間に置く。」即ち、女の子孫とは、キリストであり、蛇(サタン)の子孫とは、堕落し、生まれ変わる以前のすべての人間である。生まれながらの人間は皆、悪しき者であり、堕落した者だから、まむしに噛まれたりしても、不思議がってはいけないと伝えられたのである。ヨハネ8:44「あなたがたは、悪魔である父から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと思っています。」
 
Ⅲ 35節、心は「倉」であり、ことばはその倉から取り出されるものである。「心に良い倉」がある人は「良い人」の性格をしていて、必要に応じて、そこから「良いもの」を取り出す。恵み、慰め、練られた品性、良い知識、良い愛情、良い決断、これらが「心の良い倉」である。そこに隠されている神のことば、そこに書かれている神の律法、そこに居住し、支配している神の真理が、そこの宝物である。この上ない宝物を、良い家主の倉庫のように、安全に秘密厳守で守り通しているが、良き機会が来れば、いつでも使用に供することができるようになっている。神の栄光と他の人々とを教え導くために、いつでも良いことを話したり、行ったりしている。
箴言10章 「11 正しい人の口はいのちの泉。悪しき者の口は不法を隠す。13 悟りのある者の唇には知恵があり、良識のない者の背中にはむちがある。14 知恵のある者は知識を蓄える。愚か者の口には滅びが迫る。20 正しい人の舌はえり抜きの銀。悪しき者の心は無価値に等しい。」
 こういうことが、「良いものを取り出す」ことである。「良い倉」を持たない人、即ち、良い実をつける良い木でない人の中には、かなりの財産を持つようなふりをする人もいる。そのような人はすぐに破産することになる。「行いのない信仰は死んだものです」とある通り。また、知恵と知識の「良い倉」を持っていても、他の部分と関係しあっていない人がいる。そこから「取り出していない」人である。才能はあっても、それをどう使ったらいいのかわかっていない。完全なキリスト者は、「あなたはいつくしみ深く、良くしてくださるお方です。」(詩篇119:68)という神の御姿を宿している者である。
 「心に悪い倉」があり、そこから「悪いものを取り出す」のが、「悪い人」の特徴である。心に巣食い、勢力を振るう、欲望や堕落が悪い倉で、そこから罪人は悪い言葉や行いを取り出し、神を汚し、他人を傷つける。創世記6:5,12「主は、地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾くのをご覧になった。」「神が地をご覧になると、見よ、それは堕落していた。すべての肉なるものが、地上で自分の道を乱していたからである。」
 
Ⅳ36,37節 その日、主の大いなる日に、舌の罪についての言い開きに関しての裁きは、どれほど厳しいことであるか知らねばならない。むなしい、むだな、無礼な話は神にとって不快なもので、どんな良い目的にも役に立たず、教え導く言葉としても、とうていふさわしいものではない。それはむなしい、つまらない心の産物である。これらの「むだなことば」は、禁じられている。「愚かな話や、下品な冗談」と同じである。(エペソ5:4)これが「ことば数が多く」(箴言10:19)「無益なことば」(ヨブ15:3)につきものの、あのそむきの罪である。
私たちは、このむだなことばについて手短に説明しなければならない。それらは、その日に、私たちに不利な証拠として持ち出されて、私たちが役に立たないしもべであり、理性や言葉の働きを、才能の一部として委ねられているにもかかわらず、改善するに至っていないことを証明することとなる。もし、私たちがむだなことばを悔いずにいて、それらに対する私たちの言い開きが、キリストの血と帳尻が合わなければ、我々は滅び去ることとならざるを得ない。現代のクリスチャンも行いの上での罪に比し、ことばの上での罪に対して、比較的無頓着ではなかろうか。
留意すべきは、私たちの言説が、神の恵みにあふれているか、いないかで、さばきの日に私たちの有利な証拠となるか、不利な証拠になるかが、決するのである。信仰には熱心であるようであったが、ことばを慎まなかった人々は、自分の心を欺いているのであって、空しい宗教でしかなかったことに、その時気づくことになる。(ヤコブ1:26)
 
 この箇所を読むとき私たちは、過ぎた過去を思い起こしてへりくだりましょう。私たちはみな、何と多くのつまらぬ、愚かで、むだで、軽薄浮薄な、罪深い、有害なことを語ってきたことか! 私たちの何と多くの言葉が、風に舞い散るあざみの種の冠毛のごとく、決して死に絶えることのない害毒を他の人々の心に蒔き散らされてきたことか! 古の聖徒の言葉を借りれば、何としばしば私たちは、友人に会うとき、「後になって、しなければよかったと思うしかないような会話」をしてきたことか!ソロモンは言う。「死と生は舌に支配される」(箴18:21)。
 
結び)言葉に関するこの箇所を読むとき私たちは、いまだ来ないこれからの日々を思って警戒しようではないか。神の恵みにより、私たちは自分の舌について今以上に注意深くなり、舌の用い方において今以上に厳格になることを決意しよう。自分の「ことばが、いつも親切で」あるように、私たちは日々祈ろう(コロ4:6)。毎朝私たちはダビデとともに言おう。「私は自分の道に気をつけよう。私が舌で罪を犯さないために」。彼とともに、強い人に向かって力を叫び求めよう。「私の口に見張りを置き、私の唇の戸を守ってください」(詩39:1、141:3、)。ヤコブはいみじくも言う。「もし、ことばで過ちを犯さない人がいたら、その人は、からだ全体も制御できる完全な人です」(ヤコ3:2)。
「聖霊に逆らう罪」は、逆らう心から出てくる、聖霊の救いへの招きと説得に、口も合わせて逆らうことでしょう。導きと招きに感謝を込めて「心で信じ口にて告白する」ことで主イエス様に喜んでいただきましょう。