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2019年9月1日 マタイの福音書12章38-45節「キリストに聞こう」
序文)今朝の聖句は、二つのことを教えています。不信仰の力、不徹底な回心の危険。主は旧約聖書の歴史の正しさを証ししておられます。主はヨナの物語にふれ、ヨナが大魚の腹の中で奇跡的に保たれたことを、否定しようのない事実としておられる。ソロモンを南の女王が訪ねてきたことを、本当に生きていて、死んだ、現実の人物として語っておられる。人々が、新約聖書の著者は信じると告白しながら、旧約聖書に記録された出来事などをおとぎ話だとあざけるようなとき、私たちはこのことを思い出そう。そうした者らが忘れているのは、そのように言うことで自分が、キリストご自身をあからさまに軽蔑しているということである。旧約聖書の権威と新約聖書の権威は、ともに立つか、ともに倒れるかなのです。福音書記者を霊感してキリストについて書かせた、同じ御霊が、人々を霊感してソロモンやヨナについて書かせたのである。今日において、このことは決してどうでもいいことではない。心に刻みつけておきましょう。
 
Ⅰ 不信仰の力 
1 パリサイ人、律法学者たちは、「先生。私たちは、あなたからしるしを見せていただきたいのです。」と言った。イエスさまは、既に数々の奇跡を行っておられた。それは、イエスさまが神からの者、否、神ご自身であることを示すためでした。イエスさまが、人となって来られた目的は、旧約時代は儀式などを含めて型として示されていたさまざまのことを、新約時代において成就させ、贖いのわざを完成させるためでした。そのために、特にモーセに始まる時代以降、奇跡によって構築された旧約時代の宗教モデルを打ち壊すことが求められた。それを行うに際して、イエスさまが、いわば、神からのものであることを保証する信任状を提示することが必要でした。その目的のために提供する奇跡としては、すでに十分、彼らの目の前で行われてきました。それなのに、パリサイ人たちは、さらなる奇跡を求めました。「先生」 などと敬称を使っていますが、彼らの腹は決して受け入れようとしない不信仰であり、信任状としては、既に十分であったにもかかわらず、もっと奇跡を求めるのは侮辱を与える意図であったと言えるのです。  
 
2 この横柄な要求に対してイエス様は、その時代を「悪い、姦淫の時代」と言って突き放されました。「悪い」は原義で「壊れている」です。神の義が壊れている時代だと言っておられるのです。この言葉は、パリサイ人や律法学者だけでなく、ユダヤ人社会全体に向けられたものです。この意味で、現在の世界全体に対しても向けられています。現在は、科学技術は発展し、一部ではあるがより豊かになり、国家力は強化されているが、道義的な人心の堕落は悪化の一途です。群衆の多くの者たちも、指導者に倣い、イエスの奇跡を信じないばかりか、ののしり、屈辱を与えました。実に悪い時代であり、彼らはまむしの末たち、サタンの子孫たちでした。「姦淫の時代」はユダヤ的な思想では、天の神に対する不誠実な態度を指します。正統な天の父とではなく、サタンと密通する姦淫の母の子たちであると断じられました。彼らは、捕囚以前の偶像礼拝(バアル神)の罪は免れたが、捕囚から帰還後は、背信やあらゆる不正の罪を犯しました。これは、霊的姦淫でした。
 
Ⅱ 主イエス様の答え 40節
 さて「しるしを!」と迫られた時、イエス様は二つの答えをなさいました。
1 「ヨナのしるしのほかには何もしるしは与えられません。」(40節)しるしは証拠と理解してよいのです。イエス様を神の子救い主と信じるための目に見える証拠です。それも、ルカの福音書によれば、人々の求めは、「天からのしるし」でした。イエス様はヨナのしるしがあると答えられました。ヨナは紀元前8世紀に北イスラエル王国にあらわれた預言者です。旧約聖書のヨナ書に彼の体験がつぶさに載せられています。当時、北イスラエルを脅かしていたアッシリアの首都ニネベに行って、悔い改めを説き、神の裁きが近づいていると宣教するようにと、ヨナは命令を神から受けました。彼はイスラエルの敵国ニネベが滅びることこそ望んでいたので、救うことなどとんでもないと、ニネベに行かずに反対の方向のタルシシに行く船に乗り込んで、神の御前から逃亡したのでした。神は船旅の途中で、大嵐をヨナの乗った船に見舞い、大いに船は揺さぶられ沈むばかりになったのです。ヨナは船底で自分のために神が怒っておられると悟りました。少しの劇的経緯ののちに、彼は船から海の中に投げ込まれました。その時、海の嵐は静まり、ヨナは神の備えられた巨大魚に飲み込まれました。三日三晩魚の腹の中にいたのです。三日目に神が魚に命じて、彼を吐き出させました。そこはニネベに近い陸地でした。ヨナはニネベにゆき「40日したらニネベは滅びる」と町中を説いて回りました。その結果、ニネベの人々は王様を始めとして悔い改めて心を入れ替えたのでした。神は裁きを思いとどまられました。
 三日三晩海に沈んで死んだはずのヨナが、不思議にも生き返ってきて、海中から出て来た。そして、ヨナがニネベに伝道したので、人々は彼のことを神からの人だと信じて悔い改めたのでした。
 同じように、人の子・イエスも、この時代に対して「しるし」となるからです。イエス様が十字架の上で死に、三日目によみがえるとき、本当の神の子救い主としての力を発揮するのです。三日三晩イエスは地の中に死んで葬られたのに、三日目に死人の中からよみがえって来られるという証拠が、この時代に対する最大の証拠・しるしなのです。人々はこのイエス・キリストの復活によって信じなければなりません。
 
 イエス・キリストが救い主である事を示すしるしは、三日三晩死んでいたが、復活した事実にあるのです。ところが、時代は、しるしを示されても、あれを見せろ、これを見せろよ、次々と要求してくるのみで、一向に信じようとしないのです。人間の不信仰の根深さがあります。人々はセンセーショナルものを愛するが、神を愛し、信じようとはしないのです。
 
2 さて、イエス様の第二の答えは、40—42節です。「人の子も三日三晩地の中にいる」。
イエス様にしるしを見せろと迫った人々は、実は、まだイエス様の復活が起こっていない時代の人々でした。それで主イエスは「人の子も三日三晩地の中にいる」と言われました。しるしはヨナのこと以外に、まだ起こっていないこととして語られたのです。では、彼を信じられないのは、無理もないことでしょうか?実は彼らは復活を知らなくても、イエスを信じることができたし、信じなければなりません。
 ニネベの人々はどうだったでしょうか。異邦人でした。彼らが敵国イスラエルの預言者の言葉を聞いて悔い改めました。自分たちが信じてもいない神の遣わした者を迎え入れ、そのことばを聞いて信じ、生き方を改めたのです。その内容は「ニネベは40日たったら滅びる」という耳障りの良くない内容でした。彼らに取ってはおどしのことばだったのです。なのに、ニネベの人々は受け入れました。さて、人々よ、目の前にいるイエス様はヨナよりもまさった者です。
  南(シバ)の女王の例を考えてみましょう。イスラエルから見てシバは南にある国でした。女王がソロモンの知恵を聞くために地の果てからはるばるエルサレムにやって来ました。(列王第一9-10章)。ソロモンが豊かな知恵と武力により、紅海の付け根にあるエジオンゲベルに大貿易港をもうけて、インドとの貿易を始めました。そのために、アラビア半島の南端にあったシバの国は、今まで貿易の中継地となっていたのが、だめになり、大損害を被るようになりました。それで、シバの女王は、うわさによると知恵深い名君と聞いているソロモンに直談判をするために、はるばるエルサレムまでやって来たのでした。彼女は異邦人でした。商売敵でした。しかし、ソロモンのうわさを聴き、その知恵を聞くために旅をして来たのでした。主は言われました。「見なさい。ここにソロモンよりまさった者がいるのです。」
 どの点でまさっておられるのでしょうか?
 すなわち、彼らイスラエルは選民であって、ニネベの人々や、南の女王のように神を知らない異邦人ではなかったのです。神の救い主の約束を知っていたのです。この神を信じる人々だったのです。しかもメッセージを伝えたイエス様は、敵国人でも商売敵でもないのです。彼と同じイスラエル人です。さらにイエス様の宣教はおどしや威嚇ではなく、様々な奇跡による証明付きの救いの喜びのみわざの福音でした。おまけに、イエス様に聞くためにはるばる旅をしてこなくてもよいのです。目の前に神から遣わされてきて、立っておられるのです。その教えと働きはうわさとしてではなく、明瞭に彼らの耳にとどき、目の前で数々の奇跡まで既になさったのです。
 
3 さて、しるしを見せろと言っている人々は、目の前におられるイエス様はヨナよりも、ソロモンよりも勝っているお方ですと認めるべきでした。
 次に人々はどうしたのでしょうか。彼らにシバの女王のような求める心があったらば、すぐにもイエス様を信じたでしょう。ニネベの民のように自分たちの非を悟り、素直に悔い改め、神への恐れの心があったなら、イエスの御声を喜んで信じ受け入れたでしょう。
 異邦人でも、ただの宣教のことば、それも40日したら滅びるとか、風のうわさに聞いた事柄で十分だったのでした。まして神の選民はしるしなしでも復活の証拠なしでも、旧約のヨナの例だけでも十分であり、イエスから直接に聞いただけでも十分であるはずです。なのに、彼らは信じなかったのです。罪に定められるのは当然です。 
 「ニネベの人々が、さばきのときに、今の時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。」 とは、ニネベの人たちは、ヨナの通り一遍の簡単な伝道を受けただけで悔い改めた。一方、当時のユダヤの人々は、キリストご自身から至れり尽くせりの福音伝道を受けたにも拘わらず、大多数の人々は悔い改めなかった。それゆえ、神の民とされたユダヤ人が、異邦人、異教徒の代表のような存在であったニネベの人たちに裁かれる羽目に陥ると言われたのである。
キリストの復活は、ニネベの人たちに対する預言者ヨナのしるしと同じであるということは既に述べた通り。しかし、ヨナが乗り気もなく伝えたみことばが、ニネベの人たちにもたらしたほどの見事な効果は、主の真実なことばに対するユダヤ人には見られなかった。ユダヤ人は、不信仰に凝り固まっていて、キリストの十字架と復活の福音伝道によって、その破滅をますます早めることとなった。キリストは、つまずきの岩となったのです。ローマ9:33「見よ。わたしは、シオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。彼に信頼する者は、失望させられることがない。」
 
Ⅲ 不徹底な回心の危険 43-45節
 キリスト教会にも、こうした律法学者やパリサイ人らとまるきり同じ状態の者がたくさんいる。彼らは自分にへつらって、もう少し証拠がありさえすれば、自分もすっぱりキリスト者になるのだが、などと言う。もう少し別な議論によって、理性的に知的に満足するならば、ただちにすべてをキリストのために投げ捨て、十字架を負い、キリストについて行こう、などと夢想している。しかしそれまではただ待っているというのである。何という見えない目でしょうか。彼らには、自分のまわりに証拠の山があることがわからない。実のところ、彼らは確信したくないのです。
 私たちがみな不信仰の霊に対して警戒するように。この悪は、この世で増大しつつあるからです。幼子のような単純な信仰に欠けること、これが今の時代と社会の全階層で増え広がりつつある特徴です。教会や社会の中で、もし指導的な人々の「みことば」の説明に目を止めるなら、彼らから信仰がきれいさっぱり欠落していることに驚きます。神が聖書の中で告げておられることすべてを信じようとしない人は、必然的に、道徳的、信仰的な問題において、どっちつかずの、煮え切らない態度をとるに決まっている。「もし、あなたがたが信じなければ、長く立つことはできない」(イザ7:9)。
 
 これらの節で私たちがくむべき実際的教訓は、部分的で不徹底な回心には、すさまじく大きな危険があるということです。
 汚れた霊が一度離れてから戻って行った人について、私たちの主がどれほど恐るべき姿を描き出しているか注目すべきです。このことばは何と恐ろしいことか。「出て来た自分の家に帰ろう」! この描写は何と真に迫っていることか。「家は空いていて、掃除してきちんとかたづいていました」! そしてその結末は何と戦慄すべきものか。「出かけて行って、自分よりも悪いほかの霊を7つ連れて来て、みな入り込んでそこに住み着くのです。そうなると、その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります」! この描写は、悲痛な深い意味に満ちている。
 この描写に見られるのが、主が来臨された時代のユダヤ人の教会と民族の歴史であることは疑いを入れない。確かに彼らは、最初は神の特別の民となるためにエジプトから召されたにもかかわらず、偶像礼拝の傾向から完全に抜け出したことは一度もなかったように見える。確かに彼らは、後になってバビロン捕囚から贖い出されはしたが、その恵みへの感謝を神に十分報いたことは決してなかったように見える。確かに彼らは、バプテスマのヨハネの説教によって覚醒されはしたが、その悔い改めは表面的なものだったとしか思えない。私たちの主が語られたとき、民族としての彼らは、かつてないほど、かたくなで、ねじ曲がった民になっていた。下劣な偶像礼拝のかわりに、死んだような形式主義が幅をきかせていた。「最初のものよりも悪い7つのほかの霊」が彼らを我が物にしていた。彼らの最後の状態は、急速に最初の状態よりも悪化しつつあった。残すところわずか40年で、彼らの不義は頂点に達した。狂気にかられた彼らはローマとの戦争に突入し、ユダヤはまさに混乱の都バベルそのものと化した。エルサレムは陥落し、神殿は破壊され、ユダヤ人は地上のすべての国に散らされた。AD 72年。
 
 さらにこの描写に見られるのが、キリスト教会全体の歴史であることも、ほぼ間違いないであろう。プロテスタント宗教改革のとき教会は蘇生したが、その特権を正しく用いた者、あるいは「完全を目ざして進んだ」者はいただろうか。あまりにもしばしば、表面的な改革だけで満足してしまった。そして今、多くのところで、「汚れた霊が自分の家に帰って」きて、教会がかつて見たこともない不信仰とにせ教理を噴出させようとしている徴候が見受けられる。一方では不信仰、もう一方では形式的な迷信が跋扈(ばっこ)する中で、何らかの恐るべき反キリストが出現するお膳立ては完全に整ったように見える。信仰を告白するキリスト教会の「後の状態」が、「初めよりもさらに悪くなる」恐れは十二分にあると言えます。
 多くの個々人の魂の遍歴で、その生涯の一時期、感情的にキリスト教の影響を強く受けるように見える。彼らは自分の生き方を改める。多くの悪習をなげうち、多くの善行に励むようになる。しかし彼らはそこで立ちどまってしまい、それ以上のことをしない。そしてしだいにキリスト教から全く離れてしまう。悪い霊が彼らの心に戻ってきて、それが「空いていて、掃除してきちんとかたづいている」のを見いだしたのである。いまや彼らは、それ以前のどんな時よりも最悪の状態になる。良心は無感覚になっており、宗教的感情は枯渇したようになる。彼らは、神から良くない思いに引き渡された者のようになる。彼らを「悔い改めに立ち返らせることはできない」といえよう。一度はキリスト教にふれて、強い宗教的確信を経験しながら、再び罪と世に舞い戻った者ほど絶望的に邪悪な状態になる者はない。
 
 永遠のいのちを大切と思うなら、私たちはこれらの教訓が心に深く刻みつけられるように祈ろうではないか。中途半端な生活改善だけで満足してしまい、神に対して完全に全幅の信頼を寄せることもなくし、聖霊の内住により、罪のからだを完全に殺して行くこと(聖化)も期待しないままでいるようなこともしないようにしよう。心から罪を追い出そうと努力するのは悪くないが、それと同時に、罪にかわって神の恵みを溢れるばかり受け取るように注意しよう。前の借家人、つまり悪魔を追い払うだけでなく、聖霊が私たちの内に満ちようと住んでくださっていることを確かにしよう。
 
 結び)「聖霊に満たされなさい。」