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2019年9月8日マタイの福音書12章46-50節 「父のみこころを行う者」
序文)イエスさまは、何かを話しておられて、時にその本題と関係ない脇道のことで、重要な教えをされることがある。主イエス様がその真の弟子たちに対して抱かれる暖かい情愛のことです。天の御父のみこころを行なう者すべてのことを、主がどう語っておられるか注目しましょう。
 
Ⅰ 46節 イエスの家族の妨害
46節は、イエスがまだ群衆に話しておられる最中に、イエスの母と兄弟たちが何か話そうとしたことが語られている。説教中にいわば妨害したのである。兄弟たちとは、ヤコブなのかユダなのか誰か分からないが、まだイエスを信じていない兄弟たちであった。おそらく、兄弟たちは、イエスがまたパリサイ人を怒らせるようなことになったり、面倒なことに巻き込まれないよう注意し、無理にでも彼の説教を止めさせようとしたと考えられます。
 すぐ前の節は、「そこで、出かけて行って、自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て、みな入り込んでそこに住みつくのです。そうなると、その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります。邪悪なこの時代もまた、そういうことになるのです。」と非常に刺激的な言葉を語られたので、兄弟たちは、たまらなくなり止めに入ったことが、容易に想像される。それは、あたかも、イエスより知恵があり、保護者ぶった態度であった。
 彼らは、イエスさまが大切な福音を語っておられる時に、中に入って聞こうとはせず外にいて、この世の常識的判断で話を止めさせようとした。聖書の記録によっても、しばしば知識や恩恵の働き・手段に最も近くにいる人が、その福音の話を無視する態度に出る。(ヨブの妻、ロトの妻、アブラハムのハガル、宣教師や牧師の子供たち問題。)馴れすぎて簡単に接近できることは、侮りを生みやすい。私たちは、いつでもできるとなると、今日という日には、「そのこと」を無視しがちである。私たちが、確信を持てる時は、今日、今であって、明日は私たちの手の中にあるのではない。「教会に近ければ、それだけ神から遠くなる」というありふれたことわざは、あまりに真実を突き過ぎている。しかし、それがその通りであることは残念なことです。
 悪魔は、敵を使って福音を語る伝道者の妨害が功を奏さないとき、親類や親しき友を理不尽に訪問させ、介入させ、話の腰を折ろうとする。家族や友人に対するこの世的な配慮が、主に対する奉仕への障害となる場合が多々ある。ペテロのマタイ16章22節の言葉がその本質を語っている。「するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。『主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。』しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。23節『下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。』」ペテロの言葉がイエスさまの気を挫こうとしたように、この時の母と兄弟の言葉は、イエスさまの気を挫こうとしたのであった。母マリヤも人であり、罪人であった。かつて、エルサレムからの帰り道で、イエスさまとはぐれ、探し回った時、主キリストは母マリヤにこう言われた。「どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存知なかったのですか」 と。そして「母はこのことばを心に留めておいた」と記されている(ルカ2:49)。しかし、マリヤはこの時に、あの時のイエスさまのことばを思い出していたら、彼がご自分の父の務めをなさっている時にこのような邪魔をすることはなかったであろう。留意すべきは、耳にした時には、たくさんの真理が積み上がっていると思える場合でも、いざそれを実行せねばならない時に、跡形もなく、姿を消してしまっているということがよくあるものなのですね。
 
申命記6:4-9 「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。私が今日あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家に座っているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。これをあなたの家の門柱と門に書き記しなさい。」
 
Ⅱ  キリストはこの邪魔にどのように対処されたかが、48-50節にある。
1 「わたしの母とは誰ですか」 とは、一見、非常に冷淡な言葉のように感じられる。イエスさまは、どれほど母マリヤを愛しておられたかは福音書全体から明らかである。従って、宗教を口実に親族への尊敬や礼節を欠いていいということではなくて、より大きな務めがなされるために、より小さなものは控えていなければならないということです。第二の善が、第一の善を妨害し易いという教えに該当することです。親族に対する心遣いが、神に仕え「善を行なう」機会を増やすことと競争になる時、このような場合にレビが言ったように、私たちは「我々の父に、『私は、彼らを顧みない』」 と言わなければならない。(申命記33:9)(申命記13:5-10) 
私たちは、最も身近な親族を救い主キリスト以上に愛してはならず(ルカ14:26)、神に対する私たちの義務が優先権を持たねばならない。私たちも、私たちを喜ばせるより、むしろ神を喜ばせる方を優先する友がいるとき、感情を害したり、そのことの理由で、批判したり、悪人扱いしてはならない。そうではなく、神の栄光や他人の善を求めるのに熱心なあまり、自分が無視されたと容易に分かる時は、喜んでそのことを許し、友人が、その務めを十分に果たすよう協力的でなければならない。たとえ、それが自分にとって不都合であってもである。
 
2 キリストは肉の親族関係よりも、霊的な意味でつながりのある弟子たちの方を選び取られた。親族の意図にもかかわらず、説教を止められることはなかった。「天におられるわたしの父のみこころを行なう者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」キリストの弟子たちとは、父のみこころを行う者たちである。みこころを聞き、知り、話すだけでなく「それを行う」 者であった。ヨハネ7:17 「だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。」
「父のみこころ」と言われるのは、キリスト自身、父のみこころを行われるお方だからである。ヨハネ6:38「わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。」キリストの弟子たちは、彼に従うためにすべてを棄ててキリストとその教えを信じたのであり、血のつながりによるどんな近親の者よりも、キリストにとって親愛なる者であった。弟子たちも自分たちの親族よりもキリストをとった。マタイ4:22「彼らはすぐに舟も父も残してイエスに従った」。勿論、弟子たちだけでなく、すべての従順な信者は、イエス・キリストの親しい近親者であり、家族である。
ルツにとって、ボアズはキリストの型である。ルツ記3:10-13 「すると、ボアズは言った。『娘さん。主があなたを祝福されるように。あなたのあとからの真実は、先の真実にまさっています。あなたは貧しい者でも、富む者でも、若い男たちのあとを追わなかったからです。さあ、娘さん。恐れてはいけません。あなたの望むことはみな、してあげましょう。この町の人々はみな、あなたがしっかりした女であることを知っているからです。ところで、確かに私は買い戻しの権利のある親類です。しかし、私よりももっと近い買い戻しの権利のある親類がおります。今晩はここで過ごしなさい。朝になって、もしその人があなたに親類の役目を果たすなら、けっこうです。その人に親類の役目を果たさせなさい。しかし、もしその人があなたに親類の役目を果たすことを喜ばないなら、私があなたを買い戻します。主は生きておられる。とにかく、朝までお休みなさい。』」イエス・キリストは、私たちを買い戻してくださった。ご自分のいのちを犠牲にして、天地を造られた全知全能の神、キリストのいのちという値段を払って買い戻してくださった。
 
Ⅲ  まことの弟子たちに対する主イエスの情愛
主は、そうした人々のことを「わたしの兄弟、姉妹、また母なのです」と言われる。これは何と恵み深いことばであろう!私たちの親しき主がその肉における親族に対して持っておられた愛情の深さを、誰がはかり知れよう。それはきよい、無私の愛でした。それは、ゆるぐことない、人知を越えた愛であったに相違ない。しかし、ここで私たちが見るのは、主への信仰を持つ人々は、みな主の親族と見なされているということである。主は彼らを家族の一員として、骨の骨、肉の肉として愛し、思いやってくださっている。
 ここには、真のキリスト者たちをその信仰ゆえに嘲り、迫害する者らすべてに対する厳粛な警告がある。彼らは自分が何をしているかわかっていない。彼らは王の王の近親を迫害しているのである。最後の日に彼らは、すべてをさばくお方が「わたしの兄弟、姉妹、また母」とみなす人々を嘲っていたことに気づくのです。
 
結び)ここには、すべての信者に対する豊かな励ましがある。私たちは、自分たちで気づいているよりも、はるかに主の目にとっては尊い存在なのです。私たちの信仰はひ弱で、悔い改めは薄く、力は小さいかもしれない。この世においては貧しく、困窮しているかもしれない。しかし、この章の最後の節「だれでも」という言葉は燦然と輝いており、私たちを勇気づけてくれています。信じる者は「だれでも」キリストの近親です。この世においても永遠においても、この偉大な長兄は信者に必要なものを備えてくださり、彼らが決して捨てられることのないようにしてくださる。エジプトにいたヨセフは親族すべてのために莫大な食料をたくわえていた。主イエスもまたご自分の親族が必要とするものを豊かに備えていてくださるのです。