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2019年9月22日マタイの福音書 13章1-9節「種は良い地に落ち」
序文)マタイは13章に入り、主イエス様が語られた「天の御国」に関する七つのたとえ話を書きました。今朝は一番目のたとえで「種蒔きのたとえ」です。次主日はその解き明かしについて話します。
Ⅰ 1節に、「その日」 とあるが、英語欽定訳聖書では、The same dayである。即ち、12 章の始め、安息日、朝早く祈祷会か何かをされて、主日礼拝のために会堂へ行く途中、弟子達がお腹をすかし、麦畑で穂を積んで食べて、パリサイ人に非難され、安息日の意義を説かれたところから始まっている。そして悪霊につかれた全盲聾唖の人を癒され、それを悪霊によって癒したと責められ、聖霊に逆らうことばを口にする者は決して赦されないとの説教をされる。その大説教が終わる頃、パリサイ人たちは、しるしを見せろと言う。それに対して、ヨナのしるし以外には与えられないと語られ、異邦人のニネベの人々やシバの女王に裁かれるだろうと話される。さらに、汚れた霊が出てゆくと、7倍の悪霊が帰ってきて、さらに悪化すること、そこまで遠くから聞いていたイエスさまの家の者が説教を止めさせようとする。イエスさまは、止めるどころか、真の兄弟とは誰かと改めて語られるのである。
  そして、漸く説教が終わって、礼拝堂を出られたのですが、今度は、湖のほとりで、大群衆に対して、舟の上から説教を始められたのです。このように、イエスさまの一日の働きは、朝早くから夜遅くまで、大変な重労働でした。このことも、キリストの弟子、福音を宣べ伝える者の働きが、かくあるべきことを示しておられるのです。「朝にあなたの種を蒔け。夕方にもあなたの手を休めてはいけない。」(伝道の書11:6)とある通りです。夕べの説教を良く聞くことは、朝の説教を追いやるどころか、むしろそれをつなぎとめ、確かな場所に釘で固定することになります。
キリストは朝、敵からの反対にさらされ、あら探しをされ、家族に邪魔され妨害されたけれども、それでもみわざを続けられました。しかし、1日の後半に失望を味わわれた様子はありません。神に仕えるときに出会う困難を、勇気と熱意を持って切り抜ける人々には、その困難も、恐らくは心配するほど繰り返し起こることはないでしょう。負けずに抵抗すれば、困難は勝利のうちに消えうせるのです。
  会堂には、パリサイ人がいて、キリストの話をきいていたが、湖のほとりで説教されたときは、いなかった。パリサイ人は、そんな場所は、自分たちにはふさわしくないと思ったのでしょう。だから、かえって、主イエスは妨害に会わずに説教できたのですが、時には宗教的「威儀」のないところに、宗教の「力」が働くのです。「貧しい者たちに福音が伝えられています」(マタイ11:5)のです。
 
Ⅱ キリストの集会所は、湖のほとりでした。ご自身が住まわれる家を持たれませんでした。また説教なさるためのご自身の礼拝堂も持たれませんでした。このことによって、礼拝の外的環境に、むやみに威厳のあるものを欲しがらず、神が私たちにお計りになられた便宜を最大限生かすのが良いことだと教えてくださっているのです。
 キリストの説教壇は1艘の小舟でした。どんな場所でも神の遣わされた説教者の存在が威厳をもたらし、それを聖別するのです。キリストを説く者は、たとえ説教する場所がみすぼらしい不便な所でも、恥じ入ることはありません。
 キリストは、「多くのことを、たとえで話して聞かされた。」のです。たとえを使って話すということは、ユダヤ教の律法学者やアラビヤ人、その他の東方の賢人達も好んで使ったのですが、キリストもこれを大いに利用されました。神はずっと「預言者たちによってたとえを示した」(ホセア12:10)のですが、ほとんど効果がなかったのです。今、御子によってたとえを示されるのです。「わたしはあなたがたに、地上のことを話しましたが、あなたがたは信じません。それなら、天上のことを話して、どうして信じるでしょうか。」(ヨハネ3:12)と言われていますが、地上のことの方が、もちろん分かりやすいのです。従って、天上のことを分からせるために、地上でのたとえでもって説明されたのです。イエス・キリストと私たちクリスチャンとの関係をぶどうの木と枝との関係で示すなどその代表例です。
 イエスさまが、種まきの話をされた時、弟子達は、「何故、彼らにたとえでお話になるのですか」 (10節)と聞いている。恐らく弟子たちは、その時、イエスさまが語られた「たとえ」の意味することを知っていて、群集に、それをたとえで話された理由を聞いている。先ず、自分だけの理解ではなく、他の人びとが正しく理解しているかどうかに関心を払うべきことを教えている。
 
Ⅲ  この質問に、キリストは、11-17節で答えておられます。
まず、たとえによって、神のことを教えられたいと望んでいる人々には、それはよりわかりやすく優しいものとなり、同時に、無視したい人々には、より難しく、よくわからないものとなるので、たとえを用いて説教したと言われました。こうして、福音は、ある人びとにとっては、「いのちから出ていのちに至る香り」に、他の人びとにとっては、「死から出て死に至らせる香り」となるのです。(2コリント2:16)一つのたとえが、雲や火の柱の場合のように、それに辱められるエジプト人たちには暗いものに、それに慰められるイスラエル人たちには明るいものになるように、二様の意味になります。同じ光がある人たちの目には方向を指し示し、ある人たちの目をくらませるのです。
  この道理は、11節に明記されています。「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されていますが、彼らには許されていません。」即ち、弟子達には知識があったが、人びとにはなかった。あなた方は既にこれらの奥義を多少は知り、このようなくだけた形で教えられる必要はない。しかし、普通の人々は何も知らず、まだほんの乳飲み子であって、まだ他のどんな方法でも教えを受け取る力はないので、このように分かりやすいたとえを用いて教えられなければならないのでした。彼らには目はあってもその使い方は知らないからです。かなりの人びとがそうなのです。 或いは、弟子たちは福音の奥義について十分に知りたいと思っていた。そこでたとえに関して、その意味を調べ、それによってさらにその奥義を深く知る道筋を与えられたのでした。しかし、世俗の聴取者たちは、聞くのが精一杯でその先を調べる努力もしないし、たとえの意味を尋ねもしないので、決してより賢い者になることはなく、その怠慢のゆえに罰せられるだけなのでした。
 天の御国に奥義があり、「確かに偉大なのはこの敬虔の奥義です。」(1テモテ3:16)とあります。キリストの受肉、贖い、執り成し、私たちの義認、キリストと一体となることによる聖化、そして確かに救いのみわざ全体の最初から最後までが「奥義」であり、これは神の啓示より他に明らかにすることはできないのですが、この時の弟子たちには、ほんの一部が明らかにされたのでした。これがすっかり明らかになるのは、主が十字架にかかられた時、幕屋の隔ての幕が裂けてからのことでした。しかし、福音の真理の神秘性は、そのあとを尋ね、それに分け入る私たちの気持ちを萎えさせるのではなく、奮い立たせてくれるのです。これらの奥義に精通することは、恵み深くもキリストの弟子達に与えられている特権です。知識は、神の第一の賜物で、抜きん出た賜物です。箴言2:6 「主が知恵を与え、御口から知識と英知が出るからだ。」それが使徒たちに与えられているのでした。何故なら彼らが常にキリストの同行者、随行者であったからです。
  私たちがキリストに近寄れば近寄るほど、交われば交わるほど、私たちは福音の奥義をより深く知るようになるでしょう。それは福音の奥義についての経験的知識のある、すべての真の信徒に与えられるのです。そして、それは間違いなく最上の知識です。ヤコブ4:8 「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪人たち。手を洗いきよめなさい。二心の者たち。心を清めなさい。」二心の者とは、二人の主人に兼ね仕えている者。マタイ6:24 「あなたがたは、神と富に仕えることはできません。」 富とは、この世の冨、世の欲が支配的となっている者。そういう者は、いつも学んでいるが、いつになっても真理を知ることの出来ない者たちです。
 心の中にある神の恵みの原理は、「主を恐れること」と「キリストへの信仰」にあって、人にすばやい理解力を与えるのです。従って、たとえの意味をすばやく人びとに理解させることになります。ですから、このような理解力に欠けていたニコデモは、イスラエルの教師でありながら、新生について、あたかも盲人が色彩について語るが如くに語ったのでした。
この「知識が与えられない人びと」人もいる。「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることは出来ない。」(ヨハネ3:27)のです。神は如何なる者にも負債を負うと言うことはありません。このことを忘れてはならないのです。神の恵みは、神ご自身のものです。与えるのも、取り上げるのも、み心のまま(ローマ11:35)なのです。その差は、神の主権に帰せられねばならないのです。
この道理は、神が賜物を分配されるときの法則によって明らかに説明されています。神は、賜物を向上させる者に与えられ、賜物を埋もれさせてしまう者からは取り上げられるのです。人が自分のお金を任せるのは、怠惰によって資産を減らす者にではなく、勤勉によってそれを増やす者に対してです。これは人間の間においても鉄則である。持てる者、恵みの選びによって真の恵みを持てる者、さらに持つだけでなく、それを活用する者には、約束があります。もっともっと多くのものを持つという約束があるのです。神の恩恵は、さらなる恩恵の証拠金なのです。まず基礎を置かれ、その上に建物を建てられる。キリストの弟子たちは,その時現在持っていた知識を活用しました。それゆえ、使徒の働き2章に記されている通り、御霊の注ぎの時には、さらに豊かな恵みを得たのです。恵みの真実を受けている者には、恵みの増加があり,彼は有り余る栄光に与る者となる。
 
結び)恵みを持たない者、いただくことを願わない者、与えられている賜物も恵みも、正しく使おうとしない者、(信仰の)根を下ろしていない者、確固たる原理、原則を持っていない者、持っていても活用しようとしない者、このような者たちへの警告がなされている。このような者たちからは、持っている物、持っているように見えている物まで取り上げられてしまうのです。その者の「葉」は萎れ、彼の「賜物」は朽ちる。彼が持っている恵みの手段を使わない者の恵みは、取り上げられる。まもなく、倒産が予想される者の手から神は、ご自分の才能(タラント、お金の単位)を引き出してしまわれるのです。
 主を怒れて知恵を得ましょう。いただいた賜物を生かして用いることで、ますます御国の恵みを増し加えていただきましょう。