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2020.1.5    聖書 マタイの福音書 15章1~20節 マルコ7:1−23
          聖書の話し 「心を洗え」 
 序)皆さんの中で食事の前に宗教上の理由で手を洗う人がいますか。だいたい子供たちに手を洗うようにしつけしますが、それは衛生上の理由です。今日はその問題です。パリサイ人と律法学者たちとが、エルサレムから派遣されてイエス・キリストの教えや行動をチェックするために来ました。彼らは,イエス様を弾圧して何とかして訴える口実を見つけるために来たのです。彼らが持ちだした批判の一つは、イエス様の弟子たちが、食事の前に手を洗わないというのでした。これはユダヤ教の儀式違反だというのです。それは言い伝えを守らないこと、手を洗わないことの二重の批判でした。
 イエス様の答えは二つありました。今朝は、並行聖句マルコの福音書を中心に考えましょう。
Ⅰ 第一番目の答え マルコ7:6-13節
 ⑴ 答えの中心は「あなたがたは、神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っている」(8節)。「あなたがたは、自分たちが受け継いだ言い伝えによって、神のことばを空文にしています。そして、これと同じようなことを、たくさんしているのです」(13節)。
 これは人間の言い伝えよりも、神さまのみことばの権威こそ第一とすべきであるという事です。パリサイ人たちは「昔の人たちの言い伝えに従って」(5節)という基準でイエス様たちを批判しました。彼らから見るとイエス様たちの生活態度は言い伝えに反している。反ユダヤ教的であるというのです。
 キリスト教会が各時代と社会の具体的な生活について信者を指導するために細かい規則や慣例を設けることは自然だし、有益なことがあります。しかし、教会の規則は神さまのみことばから、正統に引き出されたものでなければなりませんし、聖書と同等のまた、それ以上の権威を主張してはなりません。パリサイ人も、このことは認めていて、「聖書の律法は何の確証も保証も入らないが、学者の規定は必ず聖書の是認を要し伝統的規則も聖書と矛盾してはならない」と主張していました。しかし、それが時とともに聖書より実質的拘束力をもつようになり、聖書と矛盾するようになって来たのです。
  その例は「供え物です」(マルコ7:10-13節)コルバンにありました。神の戒めは「あなたの父と母を敬え」また「父または母をののしる者は、必ず死に定められる」でした。神の十戒の第五戒にはっきりと記されています(出エジプト20:12.21:17)。ところが彼らの言い伝えによると父または母に向かってあなたに差し上げるこのもの(お金でも、何でも)はコルバン供え物です、と誓えば、その備えられた物は、父母が用いることが出来ないのです。親は自分に与えられるはずの物がコルバンと言われただけで、それを絶対に使えないのです。子供たちは子の誓いを乱用して金銭を神にささげたのだから、それ以外の目的に用いる事は神を汚すことになると、見せかけて何の援助も親に与えようとしない者たちがいたのです。これはみことばの命令に対する言い逃れとして用いられ、自分たちは敬虔に神に供え物としたのだから親を助けてあげられないと言ったのです。人々は、何時でも知らないうちに、神が聖書の中で明白に示された命令をうまくよけて通るために頭を使い言い伝えを作り、その規則にそむかないかぎりは心の中で父母を敬わなくても問題はないとしたのです。聖書を否定している訳ではない。軽視しているわけではない。ただ補足するだけだとされた言い伝えも、結局聖書そのものの権威を否定して、人間の案出した戒めが中心となって来るのです。 
 ⑵ 何故、そのようになってしまうのか。
 マルコ7:6-8節。民の礼拝が「口」と「口びる」による礼拝で「心」は神から遠く離れている。形だけは盛大に、そして細かな所まで徹底して従うが、「心」は手を洗うほどには、洗われていない。自分たちの宗教は愛して守るが、その中心である神さまは愛さない。言葉では正確なのだが、行いでは別問題となっている。
 次に人のいましめを教えとして教えた。人が言うからそれに従った。教え込まれたからやめた。自分で自分を御言葉によって照らして聖書のここにこうあるからと自覚的に信仰生活を送ろうとしない。形の上で礼拝するが神さまへの服従心も、神さまの言葉を求める飢え乾きもない。無にしてしまうのです。
 聖書のメッセージを自分のものとして喜び、味わうことが偽善的形式主義から脱出する大切な道なのです。
 
 
 Ⅱ 第二番目の回答 マルコ7:14-23節
 手を洗う事への回答です。ユダヤ教徒たちが手をあらうのは普通の衛生上の理由からではない。きよめ、けがれの関係からです。ユダヤ人は神の選びの民として異邦人の汚れに染まらないように、あらゆる面で注意を与えられていました。パリサイ人は、街のにぎやかな所に出てそこで異邦人と接触したかもしれないので、汚れが手についているかもしれない。手から食品に、食品から体内に汚れが入るかも知れない。それで食前に手を洗った。
 イエス様は群衆に「外側から人にはいって、人を汚すことのできる物は何もありません。人から出て来るものが、人を汚すものなのです」(7:15節)、と真理をあかされました。そして弟子たちの問いかけに対して17-23節の答えをされました。 口から入れば腹を通して外に出る。人そのものを汚したりしない。腹が食べ物で俗化しても心の問題にならない。口から入った食物が人間の心を汚したりしない。また、清めたりもしない。問題は心にある。心から具体的な悪い思いが沸き上がり外に出てくる。「内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、 姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、 これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです」(7:21-23節)。心の中が汚れている者がいくら手を洗っても清らかになるわけではない。その人が、心の汚れた人であるからこそ、口からその悪しき思いが出てくる。パリサイ人たちは、こうして手を洗うが、自分たちの心が汚れている事をイエス様に対する批判をすることで現してしまったのです。選びの民あるはずのパリサイ人は救い主イエス・キリストさまを受け入れないばかりか、イエス様の驚くべき神の子としての働きさえも喜ばないし、受け入れない。神様の働きを異邦人なみに認めようとしない。いくら手を清めてもだめなのです。
 
汚い水が出てくるからといって、水道の蛇口をいくら取り替えて見たところで、何にもならない。給水源を根本的に綺麗にしなければどうしようもない。外側の清さを保つために細かな神経を使うぐらいなら、むしろ内部をまずきよめていただくために主イエス・キリスト様によって心を洗っていただく必要があるのです。「コロサイ2:16-23」
 
結び)主イエス・キリスト様だけが、私たちの心をきよめる事が出来るのです。
「あなたがたは、真理に従うことに
よって、たましいを清め」(第一ペテロ1:22)。
「真理によって彼らを聖別してください。あなたのみことばは真理です」(ヨハネ17:17)。
「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」(ヨハネ第一の手紙1:9)。