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2020年2月9日 マタイ16:13-17 「神の子の性質」その一
 序文)先週,「あなたは生ける神の子キリストです」の言葉から,「神の子」に焦点を合わせて学びました。今朝は,「神の子キリスト」がどのような性質かについて,学びましょう。
 「二性一人格」という重要な教理についてです。教会歴史的にはAD451カルケドン会議でこの主題だけが論じられて正統な告白がなされました。ウェストミンスター信仰告白
8章「仲保者キリストについて」は,このカルケドン信条に忠実な告白となっています。
第二項目から考えましょう。
 
Ⅰ 第二項 「三位一体の第二人格である神のみ子は,まことの永遠の神でいまし,み父とひとつの本質でまた同等でありながら,時満ちて自ら入間の性質を,それに属するすべての本質的固有性と共通的弱さもろとも取られ,しかも罪はなかった。彼は聖霊に力により,処女マリヤの胎に彼女の本質をとってみごもられた。そこで十全なそして異なった二つの性質すなわち神たる性質と人たる性質が,移質,合成,混合なしに,一つの人格の中に,分離できないように結合されている。この人格はもことの神またまことの人で,しかもなお,ひとりのキリスト,神と人との間の唯一の仲保者である。」
 
神の子キリストの人格についての告白がここにある。二性一人格の教理は人間の理性を超絶している。これは不可解な神秘であり,超感覚的な実在である方についての説明です。この告白は,人間の理性によってもたらされたというよりも,神のことばの権威にもとずく信仰によってなされたものです。この告白を学ぶにあたり,聖書の教えに注意をまずはらうことが大切です。あえて説明するなら以下の項目に渡ります。      

1     
イエス・キリストの人格について,聖書のうちには二重(dual)の人格性の証拠
はありません。
  イエス様は,一つの人格なのであって,二つの人格に分たれ,割かれているのではありません。聖書の中で,三位一体のことなった人格の間を区別するのに用いたように,キリストの神性と人性の間を区別するために『我』『汝』『彼』といった代名詞は決して用いられてはいない。ヨハネ17:1「父よ,時がきました。子があなたの栄光を現すために,子の栄光を現してください。」
17:4節「わたしが行うようにと,あなたが与えてくださったわざを成し遂げて,わたしは地上であなたの栄光を現しました。」
21節「父よ,あなたがわたしのうちのおられ,わたしがあなたのうちにいるように,」
(詩2:7,サムエル後書7:14,ヘブル10:5。)
さらに,イエス・キリストは,神がなさっているように御自身をさして複数形を用いることは決してしなかったのです。創世記1:26「われわれのかたちに」,3:22「見よ,人はわれわれのうちのひとりのようになり」。創世記1:1など神・エロヒームは複数形,単数の場合はエル。         
 
2 神性と人性は−つの人格内に結合したものとして聖書は提示してる。
ロマ1:3-4「神子に関するものです。神子は,肉によればダビデの子孫から生まれ,聖なる霊によれば,死者の中からの復活により,力ある神の子として公に示された方,私たちの主イエス・キリストです。」
9:5「キリストも,肉によれば彼らから出ました。キリストは万物の上にあり,とこしえにほむべき神です。」 (ピリピ2:6−11。)
また,神の第二格位である神の子の神性が,人間性に結合した。
ヨハネ1:14「ことばは人となって,私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとからこられたひとり子としての栄光である。この方は恵とまことに満ちておられた。」ロマ8:3「神はご自分の神子を,罪深い肉と同じような形で,罪のきよめのために遣わし,肉において罪を処罰されたのです。」 
(テモテ第一3:16,ヘブル1:6−9,2:14-15,ヨハネ第一1:1−3。)
 
3 一人格が独特ないい方で二性のどちらか一方の真理について語られている。
 聖書において,人性の属性が神的タイトルによって示される人格に帰せられている一方,神性の属性が人的タイトルによって示される人格に帰せられている。この一つの,しかも同じ人格との関連において,タイトルと属性の置換は二つのことなった,それぞれに特別な性質と属性をもつ人格があることを示しているのではなくて,一般的二つの性質と二つの属性を持っている一つの人格があることを証拠立てている。
 
a 人性の属性と行為が神的タイトルをもって示され人格に帰せられている聖句。
使徒20:28「神がご自分の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために,」
ローマ8:32「私たちすべてのために,ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神がどうして御子とともにすべてのものを,私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。」
コロサイ1:13−14「御父は,私たちを暗闇の力から救い出して,愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子にあって,私たちは,贖い,すなわち罪の赦しを得ているのです。」
マタイ1:23『見よ,処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。それは訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。』
 
b 神性の属性と行為が人的タイトルをもって示され人格に帰せられている聖句。
ヨハネ3:13「だれも天に上った者はいません。しかし,天から下って来た者,人の子は別です。」6:62「それなら,人の子がかつていたところに上るのを見たなら,どうなるか。」
ロマ9:5「キリストは万物の上にあり,とこしえにほむべき神です。」
黙示録5:12「屠られた子羊は,力と富と知恵と勢いと誉と栄光と賛美を受けるにふさわしい方です。」
 
Ⅱ 「二性一人格」の説明を試みて見よう。
Ⅰ 「性質」と「人格」という用語の定義。
  性(Nature),性質という語は,一つの物の全ての根本的質の総計,すなわち,それがあるべく,かくあらしめているものをさし,かつ,他の異なれる種類の全てのものと区別する特質の全部を総括したものをさす。ギリシャ語では,実体を意味する。ある力が示されるなら,そこには活動している客観的実在の存在,そのような力を顕現している実体の存在をみとめるのである。キリストにおいて,この二つの実体が性と名ずけられ「神性」すなわち創造主の性と,「人性」すなわち被造物の性があるのです。性(Nature)は,いつも「これは何か?」という質問に答えるものである。
 
「人格」という語は理性を付与している完全な実体を示す。したがってそれ自身の行為に責任を負う主体である。人格は性質の根本的必須な部分ではないが,いわばそれが向っている終点なのである。一人格は何かを付加された性質,すなわち,個性(Individuality)である。人格はその当人に固有な不変のものである。
  人格(Person)は,いつも「これは誰か?」という質問に答えるものである。イエス・キリストの人格は,三位一体の第二格位L0GOS,神の御子のご人格であって,このL0GOSは人格化されなかった人間性・それ自身によっては存在しなかった人間性を執ったのである。
 
2 教会の述べうる主張。

⑴  
 仲保者・不変のLogos−ロゴスにおいて一人格のみいます。
 ロゴスはキリストの人格のために基礎を提供する。ロゴスは自身に固有の神たる性を持ちたもうが受肉において人性をも己が「性」となしたもうた。
 
 ⑵そのようなものとしてキリストの人間性は人間の人格を構成しなかった。キリストの人間性は無人格である。三位一体の第二格位が,もう一人の人と結合されたのではなく,無人格的な普通の人性とであった。
 
 ⑶ イエスの人性は無人格的であるが,非人格的ではない。この人性はそれ自身にて独立の実体を持たないのである。人性はロゴスの人格において,その人格的実在を持つのである。ここで考えねばならぬことは,「それ自身の人格を持たない性」というようなものが有るのかどうかである。ロゴスが単に人間的身体だけでなく理性的霊魂をも完全に備えたとすると結局は−人の人間を執り入れたのであり,そこには当然一つの人間的人格も含まれなくてはならぬのではないか。この難問を切り抜けるために二つの点を考える必要がある。
 
⑷ 人間性における個々の人格というものは,実は正確には人格と呼べないものではないか。もしも,我々人間一人一人が正確な意味で一人格を所有しているとしたら,この人格と人類と呼ばれる人間一般との関係はどうなるのか。神は「三位一体」でありたもうが,人間は夫婦でも「二位一体」とまではいけない。まして幾千億の人間が一つの人類と考えられる場合,個人は結局全体の部分というほどの意味しかもたぬのである。
  
本来,聖書的な意味での正確な用語として人格は「分割されぬ霊」である。『父・子・聖霊』の三位は,かくて人格的三,でありつつ唯一の神でありたもう。ロゴスの人格はかかる意味で神性の部分を意味せず神性の全体である。ところが,我々人間について考えると事情ははるかに違ったものである。個人は人間の完全な全体ではなく,常にその−部分を内容としている。イエス・キリストにおいて,我々は初めて真の人間そのものに全的に出会うのである。普通,人格といっているものは,この人間全体の一部分の意味を帯びているということである。このような意味でイエス・キリストの執りたもうた人性は決して人格というべきものでないわけである。それは何かその人性が普通の人性よりも欠けた不完全な人性であったがためではなく,却って反対に,それが全体的な完全な人性であったのである。
  
 ⑸ 自然の誕生による人間は,その自己意識においてアダムの子孫として誰でも有罪性を帯び「わたしは罪びと」との意識がある。それでイエスがそのような意味での人間であるなら,イエスは有罪となり無罪性が成立しなくなる。だから,イエスにおいて神の前に立つ人格的意識としては,父と子の三位一体関係における神的人格として以外になく,仲保者として,いけにえとして,自ら進んで人間に代って立ちたもう,律法の呪のもとなる意識はメシヤ的職務上の従属意識である。無人格性は人間の自己意識がイエスに帰せられないという意味においてとられるべきではない。メシヤー救主として地上を歩まれたとき,イエスの自己意識は罪を外にして全てのことを試みられたのである。
 
 ⑹ イエス・キリストの人間性を不完全,不完備なものとは考えない。
  イエスの人性は,その性質に属すべき何か本質的な質を欠いているのでない。また,それは神の子の人格における人格的実体,個人性をもつのである。カルケドン信条のとうり「人性によれば我等と同質なる,罪の外は全ての点において我等の如き」方と信じる。
 キリストの人性を考えるとき,彼は人として私達と等しいかたでなくては救い主としての意義が成り立たないし,また私達のような罪人であっては,この職務を成し遂げられないことに気がつく。
 
結び)イエス・キリスト様の性質についての学びは,まだ続きます。次主日は,主が生まれながらに罪なくして生まれられたということを理解しましょう。
 
カルケドン信条
われわれはみな、教父たちに従って、心を一つにして、次のように考え、宣言する。
われわれの主イエス・キリストは唯一・同一の子である。同じかたが神性において完全であり、この同じかたが人間性においても完全である。
同じかたが真の神であり、同時に理性的霊魂と肉体とからなる真の人間である。
同じかたが神性において父と同一本質のものであるとともに、人間性においてわれわれと同一本質のものである。「罪のほかはすべてにおいてわれわれと同じである」[2]
神性においては、この世の前に父から生まれたが、この同じかたが、人間性においては終わりの時代に、われわれのため、われわれの救いのために、神の母[3]、処女マリアから生まれた。
彼は、唯一・同一のキリスト、主、ひとり子として、二つの本性において混ぜ合わされることなく、変化することなく、分割されることなく、引き離されることなく知られるかたである。
子の結合によって二つの本性の差異が取り去られるのではなく、むしろ各々の本性の特質は保持され、唯一の位格[4]、唯一の自立存在[5]に共存している。
彼は二つの位格に分けられたり、分割されたりはせず、唯一・同一のひとり子、神、ことば、イエス・キリストである。