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本日の礼拝音声です。

2020年5月3日 10:45-12:00 聖晩餐式礼拝 式順

前 奏
神の招きと賛美  
司会者:主イエス・キリストの恵みがあなたがたすべてとともにありますように。
会 衆:主の恵みがありますように。
司会者:さあ、主に向かって喜び歌おう。われらの救いの岩に向かって、喜び叫ぼう。
会 衆:感謝の歌をもって,御前に進み行き,賛美の歌をもって,主に喜び叫ぼう。
一同:主は大いなる神であり、すべての神々にまさって、大いなる王である。

教会福音讃美歌  1番 聖なる 聖なる 聖なるかな
開会の祈り                       

罪の告白の招き  イザヤ書55章6-7節          
罪の告白の祈り                            
会 衆:あわれみ深い神よ。私たちはあなたに対して罪を犯したことを告白します。思いと言葉と行いにおいて、禁じられたことを行い、すべきことを怠りました。私たちは心と知性と力を尽くしてあなたを愛しませんでした。自分自身のように隣人を愛することもできませんでした。あわれみのゆえに、これまでの私たちをお赦しください。今ある私たちを造り変え、私たちのこれからの歩みを導いてください。そうすれば、あなたのみ心を喜び、あなたの道を歩むことができます。あなたの聖なる御名の栄光が現われますように。アーメン。

個人的な告白 ( 黙祷のうちに )

赦しの確証  
司会者:  詩篇32篇1-2節
会 衆:  アーメン 

平和のあいさつ                            
司会者:神はキリストによって私たちを赦してくださいましたから、私たちも互いに赦しの恵みを分かち合いましょう。私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平和があなた方の上にありますように。
会 衆:主の平和が、あなたとともにありますように。 

教会福音讃美歌  229番 キリスト 教会の主よ    

みことばの宣教
聖 書 朗 読   マタイの福音書17章1−8節
聖書の話  「変貌した栄光の主イエス」  廣橋嘉信牧師
教会福音讃美歌  158番 小羊をばほめたたえよ

聖晩餐式                   
[制定のことば]
牧 師:私たちの主イエス・キリストが聖晩餐を定めた制定のみことばを聞きましょう。 コリント人への手紙 第一11章23-29節
[式 辞]
[祈 り]
[分 餐] 
[一同で祈る]
私たちの贖い主イエス・キリストの父なる神よ。私たちは、主の聖晩餐にあずかることができた恵みを心から感謝いたします。この主との親しい交わりにおいて与えられた祝福によって、神の子、光の子らしく歩む誓いに生き、各々の十字架を負いつつ御国で祝うその日まで、この聖礼典を重んじ、守らせてくださいますように。私たちの贖い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

献 金                                          
教会福音讃美歌  272番 みつにまして ひとつの神
祝 祷                       
後 奏      567番 アーメン・アーメン・アーメン

2020年5月3日 マタイの福音書17章1-8節 「変貌した栄光の主イエス 」
序文)使徒ヨハネは,福音書の中で「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」(ヨハネ1:14)と書き記しました。それは,主イエス様が栄光に輝く姿に変わったのを目撃したからでした。主の姿が変わったのは,神のひとり子としての栄光を証明するためでした。それと同時に天の父が,これからかかろうとしていた御子の十字架の犠牲への励ましをなさったのであり,御子の決断を支える出来事でもありました。

Ⅰ 変貌を理解するための文脈
 主イエス・キリストの変貌を理解するカギは文脈を見る事です。主は弟子たちにキリストの働きは多くの苦しみの後「十字架」に死に,よみがえることだと語られた。そしてそのようなキリストに従う道は,自分の十字架を負って自分のいのちを主のために失うといった歩みであることを覚悟するようにと語られた。要するに,イエス・キリストとその弟子たちの地上生涯は苦難と犠牲によって特徴づけられる。計算に合わない歩みである。それらのことを話された後に!!である。主イエス様はそこまでしてなお従って行く者たちのために,また,ご自身の使命再確認のために祈りをしようと山に登られた。
 弟子たちを代表して,ペテロ,ヨハネ,ヤコブを連れて行かれた。三人とも,主の受難と死の告知をしっかりと頭に入れて忘れないでいた状況で,山上の変貌の主を目撃することとなった。救い主の真の姿,栄光の主であることをはっきりと見せられた。
 現代の私たちにとって,主は復活の主であり,天に栄光のうちに天に帰られたお方である。しかしこの弟子たちにとっては,それはいまだ知られざる主の姿であった。これから起ころうとしている事柄,その苦難と悲惨と十字架に直面するためには,彼らは栄光の主の姿を拝することにより,一切のつぶやき,不信を断ちきり,従い行くようにと励まされたのである。
「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。」(ピリピ2:6-9)。本来は栄光ある姿,神であられた。そして今の世で主に従い日々十字架を負って戦い抜く一人一人は,やがてこの変貌で示された偉大な威厳ある栄光の主に,自分たちの復活の時,お目にかかるのです。
 この偉大なキリストのため,王の王,主の主のため,どのような苦難にあずかっても大きすぎるということはないのです。


Ⅱ 主イエスの変貌とモーセとエリヤの会話の内容
 主イエスは祈っておられると御顔の様子が変わり,御衣は白く光輝いた。何を祈っておられたのか?主イエスの変貌とモーセとエリヤの会話の内容は,ルカの福音書9:31によれば,「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について,話していたのであった。」とある。主イエスは今やメシヤとしての使命を成し遂げるためにエルサレムに向かっていた。内容は人々の期待とは全く違っていた。十字架の上でいのちを注ぎだし成し遂げる使命である。主は祈りの中で父なる神の前に,全ての計画と意図とをおかれた。それは弟子たちでさえも認めがたいと思った十字架への道であった。主イエスにとっても,苦難ぬきの栄光の道,民衆の新しい王としての道を選びたいと思わせる戦いと誘惑を感じられた道であった。この意味で,オリーブ山の最期の祈りゲッセマネの前哨戦とも言えるのでありました。

 このとき主は本来の栄光の神の子の姿に戻られた。それは神の子としての立場で,十字架の道を進まれることを再確認し,父なる神の意志に従っていること,ご自分が誤った道を選ばなかったことを確認された。そして受難の後に味わわれる栄光を前もって味わわれた。
 またモーセとエリヤが現れ,この点について旧約の代表者として語り合った。どれほど会話が続いたか分からない。「目もかすまず,気力も衰えない内に,何の苦痛もなく世を去ったモーセの死と,イエスが忍ばれる不名誉な最大の苦痛を伴う死との間に見られる,驚くべき対照について話し合われたのでないか。また,エリヤが死を味わうことなく火の戦車に乗ってこの世から栄光の内に天に移されたことと,イエスが栄光に入れられるために十字架の悲しみの道をたどられることが話し合われたかも知れない。旧約の律法と預言者を代表する二人がこのような死,あるいは苦しみを免除される特権が与えられたのに,その律法と預言者の「終わり」「完成者」と言われた方がなぜ,それ以上の特権が与えられなかったのか。これらの点で天からの光に輝く二人の使者は,地上に疲れはてた孤独で,誰にも理解されない状況のイエスを力づけるために御父から遣わされた。」(A.B.ブルース)

 主イエスは,この会話を通して,ご自分が聖書に照らしても誤った道を歩んでおられないことを確信された。また,この出来事は,地上にいる弟子たちはイエスの十字架の苦難を正しく理解できなかったけれども,天にいる聖徒たちによって正しく理解されていたことを示しており,イエスがそのことをモーセ,エリヤとの交わりによって知ったことは,どれほどの励ましとなったことか。その偉大なわざを達成するまで,誰にも理解されない運命を主は歩んでおられたからです。神のみこころを成し遂げて行く歩みは,このようにして時として地上では,全く理解されずに終わることがあっても,天において理解されており励ましと力が加えられることはいかに多いことでしょうか。
 悔い改めの必要のない99人の正しい人よりも,悔い改めた1人の罪人に天においては大いなる喜びがあると,イエス様は言われて,パリサイ人たちの無理解に対抗されました。福音伝道の働きは天の大いなる喜びを覚えて行うものなのです。

Ⅲ 弟子たちは,その時
 栄光の主が,人間の救いのためにかくも祈り真剣に取り組んでおられたのに,弟子たちはその時,眠くてたまらなかったのでした。眠る精神によって多くの幸いを見過ごしてしまいます。ペテロ,ヤコブ,ヨハネをなぜ,主がわざわざ伴われたのか,その意図を汲むなら,栄光の主の姿とモーセ,エリヤの会話を聞き逃すことはなかったでしょう。彼らは,ここと全く同じ失敗を後のゲッセマネでも犯しました。目覚めていたならば,再び同じ失態を演じることはなかった。私たちも心しなければなりません。聖書の明白なメッセージよりも,自分の考えに拘泥し,真理への偏見により精神を眠らせて,神の富を知らないまに排除してしまうことになる。無気力がその人の知性を眠らせ,神の生き生きとした働きとみことばの深みについて知らぬままで終わらせるでしょう。
 安易な道を常に選ぶことにより,十字架に従うという考えは,戸の外に留められたままで,それを越えるということのないまま眠り込んでしまうでしょう。そのようにして大切な祝福の多くを受け取りもせず,感じることもないまま歩み続ける,目覚めたとき何が起こるでしょうか。 
 ペテロはマタイ17:4「主よ。私たちがここにいることは,すばらしいことです。よろしければ,私がここに幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ,モーセのために一つ,エリヤのために一つ。」 実のところ,ペテロは言うべきことがわからなかったのである。彼らは恐怖に打たれたのであった。ペテロは自分が言っていることは分かっていた。しかし変貌の主の姿を見ていながら救い主の働きを理解できないでいた。
 第一に,ペテロは,主イエス・キリストとモーセ,エリヤを同列において幕屋を一つずつ作ると言っています。主イエスのメシヤとしての独自性を誤解しています。
 第二に,彼は,この栄光の中,天国のような所にずっと踏みとどまっていたいと考えた。栄光の山に留まって,受難の地上に降りて行かなくてよいように。
 第三に,栄光の主を幕屋の中に入れようとした。イエスの栄光を誤解した。

 救い主とは,かくまで独自なお方,受難のお方,さらに栄光のお方であることをペテロは誤解したまま,思わず本心を口走った。
 このようなペテロの思いは,天からの御父の声によって訂正された。「彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲が彼らをおおった。すると見よ、雲の中から『これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け』という声がした。」(17:5)。主イエスの言われることを聞きなさい。キリストの苦難,弟子たちの負うべき十字架,その一言,一句が天の神より是認され,聞き従うようにと命じられました。主イエスの言われたことは全て真理であり,神のみむねにかなっておられることを,この御声は確認された。
 弟子たちが不承不承に受け入れたことに対して,つぶやくことをやめ,信仰をもって従順に聞きなさい,という天の神の叱責とも言えることばでありました。

 イエスの言われたことを私たちは聞かなければならない。人間の肉的な,この世的な怠惰な精神から出てくるあらゆる身勝手な提案や,自分の目的だけで私利私欲を求めるように誘うサタンの試みに耳を傾けるのを止めよ。主イエスの言われることを聞くように。
 自分勝手な幕屋を作って,そこに主イエスを押し込めたりしないように。苦難の後に天の永遠の住居を備えてあるのだから。ヨハネ14:1-3「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ,またわたしを信じなさい。わたしの父の家には,住む所がたくさんあります。そうでなかったら,あなたがたのために場所を用意しに行く,と言ったでしょうか。わたしが行ってあなたがたの場所を用意したら,また来て,あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに,あなたがたもいるようにするためです。」
 
結び)早く目覚めなければならない。自分のまわりに,神が日々に繰り広げておられる偉大な救いのみわざを受け入れ,その働きを担わせていただいている栄光に気づき,主イエスのご命令に聞き従い,栄光の主のご再臨を待ち望んで,今日も,従う者となるように。ゴールはキリストに似るものとなる,です。

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