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8月23日礼拝の音声ファイルです。

2020年8月23日礼拝式順

前   奏                    
招きの言葉   詩篇20篇 5-8節  
さ ん び    主はわが力 God Is The Strength Of My Heart
さ ん び    恐れることはない
開会の祈り                 
主 の 祈り
教会福音讃美歌  391番 主と主のことばに
聖 書 朗 読     第一サムエル記 17章44-47節   
聖書の話し    「忠実な神のしもべ」
       マーク・ボカネグラ牧師
教会福音讃美歌  122番 主イエスの死なれた
献   金            
報   告
とりなしの祈り    
頌栄(教会福音讃美歌) 272番 みつにましてひとつの神
祝   祷                      
後   奏 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

2020.8.23 Ⅰサムエル17:44-47 (17:1-18:5) 「忠実な神のしもべ」

英語では、「Power Hungry」という表現がありますが、「権力欲の強い人」という意味です。直訳すると「権力に飢えている人」という意味ですが、皆さんは「権力」に飢えていますか?「権力に飢えている人」というとどんな手でも使ってトップに立ちたい政治家、弱肉強食の世界を制覇したいビジネスマン、世界征服をしたい悪党などが思い浮かびますが、平凡な人生を送っている私たちのような人を思い浮べる人はあまりいないと思います。

しかし、私たちは自分で世界征服したくないかもしれませんが、ピッカピカに輝く権力を欲しがる心、またはびくびくしながらその権力を恐れる心を持っているかもしれません。どうしてそう言えるでしょうか。自分の心について話しているからです。私は、小さい頃から権力の源に近づけるように、またその権力に叩かれないようにと、自分の人生を生きていました。権力と影響力を取得するために、エリート教育またはエリートな履歴を求め続けていました。ハーバードやプリンストンの博士号を持っている人や、すごいことを成し遂げたこと人に会ったときはびくびくして恐れていました。そして、ネットワークを拡げるため、影響力を蓄積するため、頑張って周りの人の好意を引くために全ての面で―服装、会話、社交辞令、生き方―を自分の生活を変え、それができる人、またはカリスマ性のある人に常に憧れます。それが私の心ですが、皆さんはいかがでしょうか?

はじめに言っておきますが、私は権力の必要性を否定したくありません。権力は悪いものではありません、むしろ、すごくいいものです。お金と同じで、生き残るために、また、安定した人生を得るために、そして、神様に与えられた時間を楽しみ、有効に使うために、権力は欠かせないものだと思います。それは認めなければなりません。しかし、気を付けなければならいないのは、自分の権力欲によって、最も大切な関係を裏切ってしまうことです。皆さんはこれまでに、権力または影響力を得るため、または保つために、大切にしている人を無視したり、否定したり、傷つけてしまったり、したことがあるでしょうか?反対に、権力または影響力を持っている人に脅されて、自分が大切にしている人を置き去りにしたり、自分が大事にしたい理念を手放してしまったことがありましたか?クリスチャンであっても、ノンクリスチャンであっても、子供でも大人でも、おそらく絶対にあると思います。そのような時、自分の本心が出てくると思います。ただ権力に振り回されながら、忠実さもなく、権力目当てで、常に寝返えってしまうような者であることがわかります。私たちは神様に対して、また、大切な人達や自分の理念に対して、常に忠実でいられるでしょうか。

本日の箇所は、ダビデとゴリアテの話なのですが、これは権力と忠実さについての話です。人間が権力欲によって、最も大事な関係―神様と私達の関係―を裏切ってしまうと言うことが明らかにされています。そして、この関係を修復するために、私たちが自分の忠実さに頼るのではなく、完璧に忠実であるしもべの忠実さに寄りかかるしかないということが教えられています。非常にびっくりするような展開です。これから、この箇所を三つの質問を通して見ていきたいと思います。1)イスラエルはなぜ戦争にいるのか? 2)この箇所は誰についてのことか 3)私たちに何を教えているか です。

では、一つ目の質問。神の民はなぜ戦争の中にいるのか?
神様は神の民の忠誠を試すために戦争を起こされたのです。そして、もし神の民が神様を裏切れば、神様は敵であるペリシテ人を通して神の民を裁かれます。これは非常に重要なポイントなので、少し時間をかけて説明します。

17:1-3節は、映画でよく見る場面だと思います。二つの軍隊が向き合って、陣を敷(し)き、戦う準備をしています。真ん中には谷があって、ペリシテ人は向かい側の山の上に、神の民は手前の山の上に陣をしきました。この後、ダビデとゴリアテが戦うことは皆さんもご存知だと思いますが、なぜそのような戦いになったのか、皆さん覚えているでしょうか?
何百年も前に、聖書の神様、ヤハウェイは神の民をエジプト王国の奴隷制度から救い出されました。神様は様々な災いで奴隷制度の鎖をたち切り、その当時、世界最強であったエジプト軍を一瞬で全滅させたのです。それだけではなく、神様はイスラエルに乳と蜜のあふれる特別な地をお与えになったのです。
救われた民は、この恵み深い神様に忠誠を誓い、自分たちの神様、または王様として、愛し従ったのです。神様がこの約束の地をお与えになった時、民に二つのことを求められました。「あなたたちの恵み深い神様、そして良き王様として、まず私だけを拝み、私だけに従いなさい。そして、この約束の地は私の王国なので、私だけを拝まない者、私だけに従わない者を追い払いなさい。この二つのことをする者は私の忠実なしもべであり、恵みと祝福と勝利を与える。しかし、そのことをしない者は私を裏切るものだ。他の神様と姦淫し、浮気をしたということなのだ。他国に寝返ったことと同様だ。だ。もしイスラエルが私を裏切った場合、他の王国が約束の地に侵入し、あなたたちをまた奴隷にする。それが私の裁きだ!」

もちろん、神様に救われた民は、感謝をもって神様に自分たちの忠誠を誓い、喜んで神様だけを愛し従うことを約束しました。しかし、約束の地が与えられた時からわずか数十年たったあとで、その二つの約束を破ってしまいました。約束の地で神の民は、神様を拝みながら、他の偶像も拝んだのです。神の民は、神様に忠誠を誓わなかった人たちをも約束の地に受け入れたのです。神様を完全に裏切ったのです。言い換えると、神の民が主人が家にいる間に、自分の浮気相手を家に招待し、主人の前でデートするような裏切りです。または、自分の王様の王宮に王様の敵を招待し、王様の目の前で敵を手厚くもてなすことと全く同じです。
ですから、神様は約束通り神の民を裁かれたのです。神様は他国が約束の地へ侵入するのを許され、ペリシテ軍が徐々にイスラエルの首都、エルサレムに近づきます。しかし、神様は神の民に最後のチャンスを与えられました。「これは最後のチャンスだ。もし私だけに従い、勇敢で忠実な神のしもべであることを証明できなかったら、ペリシテ人を通して、あなたを裁く。あなたたちは私の民ではない。」
要するに、この戦争はただ約束の地を守ると言う戦いではなく、神の裁きであり、神の民の忠誠を試す戦争だったのです。神の民は自分たちの忠誠を証明できたのでしょうか?

二つの軍が沈黙して向き合っている中で、ペリシテ人の戦士が大声で自信満々に神の民を挑発します。「おい!何のために、おまえらは出て来て、戦う準備してんだ?おれはペリシテ人、おまえらはサウルの奴隷どもではないか。おれはおまえらにとって偶像礼拝者なんだろ?おまえらにとって敵だろ?なんでかかってこねぇの?ビビってんのか?わはは。おい!一人を選んで、おれのところによこせ。一騎打ちだ!おれと戦っておれを殺せるなら、おれたちはおまえらの奴隷になる。だが、おれが勝ってそいつを殺したら、おまえらがおれたちの奴隷になるんだ。早くしようぜ。」

もし神の民が神様に対して忠誠を証明するのであれば、ここがタイミングです。もうここしかありません。もうこのチャンスを逃すことはできません!しかし、ゴリアテの宣戦布告の後はどうなったのでしょうか。沈黙。誰一人手を上げませんでした。恥ずかしいですよね?11節には理由がはっきり書かれています。「ペリシテ人のことばを聞き、気をくじかれて非常に恐れた。」なぜでしょうか?それは、ゴリアテが権力の塊だったからです。ゴリアテは身長3メートルで、頭から足まで鎧で当時のターミネーター、ロボットのような存在でした。そして、当時の最新戦闘技術を装備していました:青銅のかぶと、55kgの青銅の胸当て、青銅のすね当てを着ていて、人を豆腐みたいに切れるほど、でっかい青銅の三日月刀を持ち、鉄の槍をミサイルみたいに投げることができたのです。そして、卑怯にも、ゴリアテは、盾持ちを彼の前に立たせて、動く壁のようにして自分を守らせていたのです。

なぜ神の民は神様を裏切ったかがこの場面に示されていると思います。民は、神様との関係を大事にするよりも、権力欲に支配されていたのです。要するに、イスラエルは権力を求めていながらも(わ!ゴリアテのような力が欲しい)、同時に権力を恐れいていたのです(ゴリアテの力に絶対殺される!)。神の民が偶像礼拝をした理由も、異国の人を約束の地から追い払わなかった理由もこれです。異国の軍事力、経済力、政治力、文明に憧れ、「そのようになりたい!」と思って、その様々な力を獲得するために異国と同じように偶像礼拝をし、できるだけ彼らの価値観と文化を吸収しようとしたのです。たとえ神様が世界最強の軍隊、経済、文明であるエジプトを一枚の紙のように一瞬で破壊できたとしても、神の民は目の前にあるピッカピカのゴリアテの鎧、そして、この世の力にしか目がいかなったのです。もし皆さんが王様だったら、このような愚かで臆病で、不誠実なしもべを自分の王国に置くでしょうか?

しかし、私たちも似たような時がないでしょうか?大事な人と何か約束をしてるのに、権力を獲得するため、または権力につぶされないように、簡単にその約束を破ってしまうような時です。権力を獲得するため、または権力につぶされないように自分を守ろうとして、大事な人を守らなかったと言うような事がないでしょうか。反対に、そのようにされたときがあるでしょうか?もしあったなら、その時、どんな気持ちになりましたか?私だったらこう考えます。「なるほど。いつも私のことが大事だと言っているけど、私よりもあの人が大事なんだね。口だけね。もういいよこの関係。」人間関係の中でも、権力と向き合う時、人に対する忠誠心が本当に薄っぺらいものだとすぐにわかります。

神様に対する忠誠心も似ていると思います。「神様信じます!神様ありがとう!神様が私の救い主」と口で言っても、私たちは、この世の権力に脅かされると、すぐ神様を裏切ってしまいます。臆病者です。ですから、神様は臆病な裏切者にこういう権利はあると思います。「あなたの神として、あなたの王として、私は何年も忠実にあなたを祝福し、あなたを大事にしたが、あなたはこの世の権力を見て、すぐに私を裏切った。もうあなたは大事にする価値がない。お別れだ。」もし私たちがそのような人間だとしたら、私たちは神様の御国に入れると思いますか?そう聞くと、すぐに、こう思うかもしれません。「なるほど。じゃあ、神様にもっと自分の忠誠を示し、忠実に従うことが必要なんだね。よし、頑張ろう!」と。この箇所では、もちろんその事も教えていますが、よく見ると、それがメインポイントではないのです。

では、メインポイントを理解するために、次の質問に入りましょう。この箇所は誰についての話でしょうか?私たちについてでしょうか?
この箇所は、私たちの忠実さについてではなく、私たちの忠実さのなさを主張しているのです。だからこそ、この箇所は、私たちが他の人の忠実さにより頼む必要があると 教えているのです。これは、キリスト教の信仰の本質を指しています。

皆さんも、この箇所の登場人物は、大体把握していると思います:ダビデ、サウル王、ゴリアテと神の民。しかし、どの人物が私たちを表しているのでしょうか?私たちはダビデでしょうか?サウル王でしょうか?ゴリアテでしょうか?もちろん、すべて可能性としてあるのですが、この箇所に登場する「神の民」はこれを読んでいる私たちを表していると考えるのは自然なことです。よくこの箇所を読むとき、「主人公のダビデは私だ!」と思いがちですが、神様のストーリーでは私たちは主人公ではありません。私たちは主人公を見る「神の民」であり、「神の民」の代表が主人公です。

さて、この当時、軍の間の一騎打ちの戦いは稀ではありませんでした。そして、王様が自分の配下にいる戦士を送るのが常でした。その戦士は、国を代表する戦士になるのです。しかし、12-16節を見ると、私たちを表す「神の民」はどう応答したのでしょうか?何千人もの兵たちがいましたが、ゴリアテの宣戦布告に誰も応えませんでした。どれほど神の民が臆病で頑固だったのか、本当に驚きます。ゴリアテは40日間続けて、神の民の前に立ち、彼らの神と王を冒涜し、宣戦布告したのですが、神の民は40日間ただゴリアテを見つめていただけでした。40回中40回、神の民は神様に忠実に従って戦うよりも、ゴリアテと戦わないことを選んだのです。要するに、神の民は40日連続神様の御前で神様を裏切り続けたのです。これがサムエル記の言いたいことでもあり、列王記、歴代誌、旧約の全てが強調したい点だと思います。
私達は、神様にチャンスを40回与えられても、何百回、何千回、何百万回与えられても、私たちはこの世のゴリアテと戦うよりも、神様を裏切ることを選びます。

当時の習慣では、もし誰も戦わなかったら、最終的に一番強い戦士は王様であり、王様が神の民の代わりに戦うのが前提でした。神の民の王様は、神様が選ばれたしもべであり、神の民の代わりに神様の忠実なしもべとして戦うのです。ですから、もし神の民が忠実に神様のために戦うことができなかったら、自分たちの代表である王様の忠実さにより頼むしかなかったのです。

これがキリスト教の信仰の本質なのです。自分たちでは従順で、忠実で、勇敢なしもべにはなれないので、自分たちの代わりである代表の従順、忠実さ、勇気により頼むのです。言い換えると、キリスト教の信仰とは私たちが神様のためにどのように戦うかと言うことではないのです。キリスト教の信仰とは王様が私たちの代わりに戦ってくださることを見てより頼むことなのです。これがキリスト教と他の哲学や宗教との違いです。他の宗教は、あなたが神様のためにゴリアテを倒しなさいと言いますが、キリスト教は、神様が送ってくださった王様がゴリアテを倒すのを見ていなさいと言います。クリスチャンの皆さん、いかがでしょうか?皆さんの信仰の姿勢はどうですか?自分が主人公であり、自分が「戦う」という姿勢ですか?それとも、自分たちの「王様」が主人公で、王様があなたの代わりに戦われる姿を ただ「見て」より頼むという姿勢でしょうか?

この考え方に対して、疑問を持つ人がおられるかもしれません。「え?戦わない?努力しない?ただ見る?もし自分で戦わないのならどうやって自分の身を守るんだ?どうやって自分の家族、友達を守るんだ?すべての権力を手放して、人に頼るなんてそれってばかばかしくない?」本当にその通りだと思います。

ですから、最後の質問は重要だと思います。私たちにどういうことを教えているのか?
キリスト教はただ権力を手放す、と言うことではありません。実は、その反対なのです。どのように一番強い「王様」または「代表」を選ぶかと言うのがキリスト教なのです。そして、この箇所は、この世の力で戦う「王様」ではなく、神様が求める忠実さと従順さが最強の武器であることを教えています。

サムエル記の流れの中では、神の民は二人の候補者から「王様」を選ぶ段階でした。その候補者とは、サウル王とダビデでした。サウル王とダビデは全く違う戦い方をしていましたから、私たちはどちらの戦い方が強いか見極める必要があります。

まず、サウル王の戦い方を見ましょう。彼の戦い方は、自分が戦う力を得たときだけ神様に従ったというやり方です。もちろん、サウル王にも神様に仕えたい、民に仕えたいという心、良い動機はあったと思います。しかし、動機が良くても、一つの変わらない事実がありました。サウル王は、40日の間、1回もゴリアテと戦いませんでした。油注がれた王様、神の民の代表、神様のしもべであるのに、神様の命令を40日間続けて無視したことには変わりません。それはなぜでしょうか?

サウル王がダビデを止めようとしたときに、サウル王の考え方が明らかになります。ダビデは明らかに何の力も持っていません。ですから、サウル王はこのように止めます。33節にこう書いてあります。「おまえは、あのペリシテ人のところへ行って、あれと戦うことはできない。おまえはまだ若いし、あれは若いときから戦士だったのだから。」サウル王が何を欲しがっていたかが明らかになります。彼は、ゴリアテが持っているような戦いの経験、教育、訓練、肉体が欲しかったのです。サウル王はそのような力がなかったので、ダビデをも止めようとしたのです。サウル王はこのように自分を納得させていたと思います。「私は神様からゴリアテと戦う命令を頂いたが、私は力、知恵、そして、いろんな面で欠けている。だから、今すぐ従わない。力を十分持つまで待つ。」と考えたと思います。それは、謙遜に聞こえますし、戦略的な判断のように聞こえるかもしれませんが、サウル王は自分の権力欲によって神様の命令を拒んだのです。

しかし、ダビデの戦い方は全く違います。彼の手法は、「自分に力があっても、なくても、神様に従う」なのです。大変面白いのは、ダビデがゴリアテの宣戦布告を聞いたときに、何のためらいもなく、すぐに宣戦布告を受け入れ、戦う準備に入ったということです。そして、26節を読むと、ダビデは、「なぜこのような偶像礼拝者がこの聖なる約束の地で40日間も神様を冒涜しているのか?聖なる聖なる聖なる、全知全能の神様にその剣を振りながら歯をむいて、あなたは何者だと思っているのか?」と思って戦いに挑んだのです。ダビデは誠に忠実な神のしもべでした。このダビデのような応答を、神様は神の民とサウル王に求めておられたのです。

そして、サウル王がダビデを止めようとしたとき、37節でダビデはこう答えました。「獅子や熊の爪からしもべを救い出してくださった主は、このペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます。」要するに、彼は自分の今までの成功を振り返って、今までの戦いに勝利できたのが、自分の力とは全く関係がなく、神様と共にいたかどうかだけであっったことを、知っていたからです。つまり、不従順の中で世界最強の鎧と剣を装備して戦うよりも、完全に神様に従いながらたった五つの石と石投げを装備したほうが何億倍も強いということなのです。

もちろん、この世はゴリアテのように「おれは犬か。杖を持って向かって来るとは本当バカバカしい。」と笑うかもしれません。しかし、皆さんもご存知の通り、ゴリアテの40日間の挑発はたったの3秒で終わりました。48節に及ぶ長い話がが、たった1節で全てが止まってしまったのです。神様によるたった一つの石ころによって、この世の史上最強の力の塊が一瞬で倒されたのです。そして、ダビデの忠実さと従順さによって、不忠実で不従順な神の民に一方的に勝利が与えられたのです。不従順な神の民が勝つ方法は、ただ彼らの「王様」の従順さと忠実さにより頼むしかなかったのです。

しかし、ダビデの話はそこで終わっていません。ダビデは将来の究極の王であり、究極の神のしもべであるお方を予告していたのです。その方はイエス様です。
神様は私たちに神の民と同じような裁きを与えられます。「あなたたちは私からいろいろな恵み、祝福、喜びを受けているのに、私を日々裏切っている。だから、私は異国の侵入者ではなく、「死」という敵を通してあなたたちを裁く。」と神様は言われます。「死」はゴリアテの何倍以上もの破壊力があります、私達が何を成し遂げても、何を獲得しても、どれほどの喜びがあっても、私たちは死を圧倒することもできず、死によって破壊されるのです。

しかし、イエス様はダビデのように何のためらいもなく、十字架で「死」と一騎打ちをされたのです。イエス様は剣や槍もなく、また、石投げと5つの石さえもありませんでしたが、ダビデと同じように、神様に対する忠実さと従順のみで戦いに挑んだのです。また、当時の神の民は、サタンや当時の偶像礼拝者のローマ兵達と同じように「おまえ、本当に神の子かよ?本当に神様かよ?」と馬鹿にしたのです。しかし、皆さんもご存知のように、イエス様は三日後に死から蘇り、死と罪、そしてサタンの首をゴリアテのように切り、全世界に神様の勝利を宣べ伝えたのです!

この現実の中で、私たちには二つの道が与えられています。一つは、イエス様の力により頼むのではなく、自分の力で戦うことです。これはサウル王が選んだ道です。ダビデが圧倒的勝利者で最も忠実な王様候補であったにもかかわらず、サウル王はしもべにこのように聞きました。55節、「アブネル、あの若者はだれの息子か。」つまり、「ダビデは私の権力、私の王座を奪い取ることができるのか?」ということを聞いたのです。信仰の反対は不信仰ではありません。プライドです。自分で努力して戦うことができるプライドは信仰の真反対のものなのです。

もう一つの道はサウル王の長男ヨナタンが選んだ道です。ヨナタンはもちろんサウル王の王座の後継者でした。しかし、18:4-5を見ると、彼は何をしたのでしょうか?ヨナタンは自分の権力を投げ捨て、ダビデを王様として認め、ダビデにより頼んだのです。これが信仰の本質なのです。天国へ入るために、神様は「イエスのように戦いなさい」とは、おっしゃっていません。それは、サウル王が選んだ道なのです。神様が求めておられるのは、イエス様を王様として認め、イエス様の背後で イエス様が私たちのために戦ってくださるのをただ見てより頼むことなのです。全ての栄光がイエス様に帰される様に、お祈りしましょう。

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