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8月30日礼拝の音声ファイルです。

2020年8月30日礼拝式順

前   奏                    
招きの言葉    申命記 32章1−4節
さ ん び    山も海も越え〜I could sing of your love forever〜
さ ん び    恐れることはない
開会の祈り                 
主 の 祈り
教会福音讃美歌  184番 朝日が昇り             
聖 書 朗 読     申命記 31章1−23節
聖書の話し    「強くあれ。雄々しくあれ。」 マーク・ボカネグラ牧師
教会福音讃美歌  304番 恵みのひびきの
献   金            
報   告
とりなしの祈り    
頌栄(教会福音讃美歌) 272番 みつにましてひとつの神
祝   祷                    
後   奏 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

2020.8.30 申命記31:1-23 「強くあれ。雄々しくあれ。」 

今日からヨシュア記のシリーズを始めたいのですが、このシリーズを通して、私は神様に三つのことを祈っています。一つ目は、神様の御業と約束を通して、海浜幕張めぐみ教会を勇気づけることができるようにです。二つ目は、神様の御業と約束に基づいて、今後も私たちが忠実に、そして、情熱をもって御言葉にますます従うことができるようにです。三つ目は、私が最も願っている事で、私たちが旧約聖書を通して、イエス様の御力、麗しさ、栄光をますます明確に見えるようになることです。

しかし、ヨシュア記に対しては、多くの誤解があります。クリスチャンの中には、ヨシュア記が信仰の英雄たちの戦いの物語だと考える人もいます。ヨシュア記の中の神の民が強い信仰と勇気をもって、いろんな壁を乗り越えたので、神様が彼らを大きく祝福したのだという見方がよくあります。もう一つのよくある見方は、ヨシュア記が残酷な本であると言うことです。神様が何もしていないカナン人を虐殺した本だと考える人たちもいます。そして、ヨシュア記に対するよくある誤解は、キリスト教に対してよくある誤解と非常に似ています。あるクリスチャンたちは、自分たちはヨシュア記の神の民のように信仰が強く、この世の「カナン人」と戦っていると思い、自分たちの信仰の強さによって神様が勝利と祝福を与えてくださると思っています。もう一方で、ある人たちは、クリスチャンは非常に差別的で、人を常に裁いていると思っていて、クリスチャンはただ傲慢にクリスチャンではない人を見下していると思っています。

しかし、ヨシュア記をよく読むとびっくりすると思います。ヨシュア記の中で最も不従順だったのは「神の民」の戦士であり、最も信仰深かったのは「カナン人」または、異教の国から来た遊女でした。ヨシュア記の神様は、人種と力を理由にして虐殺する残酷な神様ではなく、人種や背景を問わず聖書の神様に信仰を告白する者を受け入れ、御自分の民を徹底的に守られる神様なのです。そして、神の民がどれほど神様を裏切って、罪を犯したとしても、ヨシュア記の神様は彼らを恵み深く受け入れてくださったのです。

シリーズを始める前に、ヨシュア記の背景をまず知る必要があります。映画の始めに、黒い画面に白の字幕で映画の背景を説明する場面がよくありますが、例えばヨシュア記が映画になったとして、この映画の最初に、この聖句一節が書かれていると想像してみてください。
「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたの神、主があなたとともにおられるのだから。」
この一節は、ヨシュア記の中で一番有名な聖句だと思います。そして、この一節をどう解釈するかによって、ヨシュア記の読み方も変わると思います。さて、画面が変わり、イスラエルの救い主、イスラエルの創始者であるモーセがシナイ山の上から、ヨシュア記の最後の言葉を語っている場面に移ります。ヨシュアが神の民を約束の地へ導くために、モーセがヨシュアにミッションを託している場面です。実は、ヨシュア記の「強くあれ。雄々しくあれ。」は申命記でモーセがヨシュアに語った最後の言葉なのです。しかし、これは具体的にどういう意味でしょうか?今日は、ヨシュア記ではなく、申命記を通して「強くあれ。雄々しくあれ。」の三つの意味を説明したいと思います。三つの意味は、
① 神様に従えるように、「強くあれ。雄々しくあれ。」
② 不従順な民を導くゆえに、「強くあれ。雄々しくあれ。」
③ 不従順な民に約束の地を与えるから、「強くあれ。雄々しくあれ。」
この三つの意味はヨシュア記の本質なので、もう少し細かく見ていきたいと思います。

1つ目の意味は神様に従える「強くあれ。雄々しくあれ。」ということです。

よくクリスチャンが「強くあれ。雄々しくあれ。」を引用するとき、「神様は私と共にいてくださるから、強く、雄々しく頑張ろう」と思うのは自然だと思います。それは悪いことではありませんし、いいことだと思います。しかし、大事なのは、何のために神様により頼んで、頑張るのかです。

私は、何かを「成功」させるために、または何かを「獲得する」ために、御言葉に従い、神様の力により頼みながら、強く、雄々しく頑張ろうとする傾向があります。もちろん、その考え方には一理ありますが、申命記31:1-13を細かく見ると、何かを「成功させる」ために、または何かを「獲得する」ために「強くあれ。雄々しくあれ。」と言う意味ではないことは明らかです。3-6節でモーセはこのようにヨシュアに語ります。
3 あなたの神、主ご自身があなたに先立って渡って行き、この方があなたの前からこれらの国々を根絶(ねだ)やしにされ、あなたはこれらを占領する。ヨシュアが、主が告げられたように、あなたに先立って渡るのだ。 4 主は、主が根絶やしにした、アモリ人の王シホンとオグおよび彼らの国に対して行(おこな)ったように、彼らに対しても行われる。 5 主は彼らをあなたがたに渡される。あなたがたは、私が命じたすべての命令どおり、彼らに行わなければならない。 6 強くあれ。雄々しくあれ。
モーセの視点からみると、誰が戦っているのでしょうか?誰がみんなに先立って、目標を達成するため、勝利を獲得するために強く雄々しく戦っているのでしょうか?明らかに神様ですね。ですから、「成功と勝利を獲得するために強く雄々しく戦え!」とは、すこしズレた解釈だと言えます。ここにはっきりと「勝利と成功は確実です」。と書いてあります。だから、あなたたちは、神様が命じたすべての命令どおりに行うためだけに、「強くあれ、雄々しくあれ」と神様はおっしゃるのです。

しかも、申命記31:12-13には、神の民に約束の地を与える目的、そして、民を成功させ、勝利を与える目的もはっきりと書かれています。それは神の民が神様の全ての教えを学び、従うようになるためです。
12 民を、男も女も子どもも集めなさい。あなたの町囲みの中にいる寄留者も。彼らがこれを聞いて学び、あなたがたの神、主を恐れ、このみおしえのすべてのことばを守り行うようにするためである。 13 これを知らない、彼らの子どもたちもこれを聞き、あなたがたがヨルダン川を渡って所有しようとしている地で、彼らが生きるかぎり、あなたがたの神、主を恐れることを学ばなければならない。
つまり、「強くあれ。雄々しくあれ。」には二つの見方があると思います。一方は、勝つため、または自分が目標を達成するために、自分が強く雄々しく神様により頼むことです。もう一方は、神様にますます従うために、強く雄々しく神様により頼むことです。神様の御言葉を、ただ成功、勝利、目標を得るための手段にするのか、それとも御言葉を知り、従うことを最終的なゴールにするのかが私たちに問われます。微妙な違いかもしれませんが、私達の信仰の本質を問われるような質問です。

皆さんはいかがでしょうか?クリスチャンとして、神様のために、強く、雄々しく、勇気と情熱をもって、いろいろ犠牲を払いながら、仕えておられると思いますが、私たちの最終的なゴールは何でしょうか?もちろん、私たちは様々な事を、すべて神様の栄光のためにしていると思いますが、その最終的なゴールは神様の御言葉を深く、徹底的に知り、その御言葉に従うことでしょうか?それとも、何かを成功させたり、達成させたりすることでしょうか?

もし、ここで間違った選択をしたら、私たちの歩みにとって致命的です。ヨシュア記の6章と7章ではその二つの見方を比べています。ヨシュア記6章では、将軍である神様の命令と戦略に、神の民は一語一句従いました。神様の戦略は剣も盾も使わずに敵の城の周りをぐるぐる、ぐるぐる7日間も周って、ラッパを吹き続けると言うものでした。普通に考えたら、非常に危険で、弱々しくて、女々しいような意味の分からない戦略です。しかし、神様はそれを用いて、エリコの壁を破壊して、神の民に勝利を与えられたのです。しかし、ヨシュア記7章では、全く違う戦い方でした。神の民は神様の命令を待たずに、勇気と信仰をもって、自発的に雄々しく、神様の栄光のために敵を攻撃したのです。普通に考えたら、非常に勇敢で、忠実な戦い方だと思います。しかし、彼らは神様の命令と御言葉に従わなかったので、神様は御自分の民を敗北させ、彼らを裁かれました。私たちはどちらのように「強く、雄々しく」神様に仕えているでしょうか?

2つ目の意味は、不従順な民を導く故に、「強くあれ。雄々しくあれ。」ということです。

神様に従うために「強くあれ。雄々しくあれ。」と聞くと、神様は民が御言葉に従うことを期待しておられると言うことが自然な結論だと思います。しかし、改めて申命記31章を読むと、神様の期待は、全く正反対だったようです。神様が全ての民に「御言葉に従いなさい!」と命令されたあとで、神様は何とおっしゃったでしょうか?
16 主はモーセに言われた。「見よ、あなたは間もなく先祖とともに眠りにつこうとしている。この民は入って行こうとしている地の異国の神々を慕い、自分たちのうちで淫行を行い、わたしを捨てて、わたしがこの民と結んだわたしの契約を破る。 17 その日、わたしの怒りはこの民に対して燃え上がり、わたしも彼らを捨て、わたしの顔を彼らから隠す。彼らが焼き尽くされ、多くのわざわいと苦難が彼らに降りかかると、その日この民は、『これらのわざわいが私たちに降りかかるのは、私たちのうちに私たちの神がおられないからではないか』と言う。
神様の宣言は、民が忠実に、強く、雄々しく神様の御言葉に従うと言うことではなく、モーセが眠りにつくとすぐに、民は神様に対して姦淫を行い、神様を捨てて、神様と結んだ契約をすぐに破るであろうと言うことでした。要するに、「金の子牛事件」がまた起こるということです。

「金の子牛事件」をご存知ではない方もおられるもしれないので、簡単にお話します。神様が神の民を救い出したとき、神様は民と結婚のような契約を結ばれました。神様は民を愛し、守ると誓われ、民は神様を愛し、従うことを誓いました。誓った後に、神様は民と共に住む家の準備をするために、民のリーダーであるモーセと共に40日間、民から離れられました。しかし、その間、民は神様が恋しなりましたが、神様の願いを全く無視して、金の子牛の像を造り、その偶像を神として礼拝したのです。神様はその行為をご自身への姦淫、または裏切りと受けとられました。民は結婚初夜に、すでに神様を裏切ったのです。ですから、神様はまた同じ事をすると知っておられました。「モーセがこの民から離れた瞬間、彼らは自分たちの霊的な愛人を自分の我が家に招き入れ、私を必ず裏切る。」と神様は予言されたのです。

みなさん、ここからどのように学んだらよいでしょうか?これは私たちへの忠告なのです。神様の教えを聞くときは、二つの態度しかありません。

ある人は神様の教えを聞いて、微笑んで安心します。ルカ18章では、ある指導者がイエス様に質問しました。「良い先生。何をしたら、私は永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」 、イエス様は彼に、「 戒めはあなたも知っているはずです。『姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない。あなたの父と母を敬え。』」とおっしゃいました。するとその人は「私は少年のころから、それらすべてを守ってきました。」と言いました。その指導者は神様の教えを聞いて、ほっとしました。それと似ていますが、神様の御言葉を聞いて、自分と他の人と比べて安心する人がいるかもしれません。ルカ18章のパリサイ人はこう言いました『神よ。私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。 12 私は週に二度断食(だんじき)し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げております。』

しかし、神様の教えに対してもう一つの態度があります。それは、私たちが深く悲しむことです。聖なる神様の教えによって、私たちが悲しみ、嘆き、そして、最終的に私たちの口をふさぐことが神様の目的なのです。

ルカ18章の指導者が「すべての戒めを守ってきた。」と言ったとき、イエス様は何とおっしゃったか覚えていますか?
22 イエスはこれを聞いて、彼に言われた。「まだ一つ、あなたに欠けていることがあります。あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」 23 彼はこれを聞いて、非常に悲しんだ。大変な金持ちだったからである。
ルカ18章のパリサイ人の話のあとで、イエス様は取税人の態度を教えて下さいました。取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神様、罪人の私をあわれんでください。』 そして、イエス様はこの取税人は救われ、パリサイ人は裁かれるとおっしゃったのです。

神様の教えの第一の目的は、私たちを励まして建て上げることではありません。私たちのエゴ、プライド、偽りの自己肯定感を砕(くだ)くことです。神様の教えは、申命記の31:26と同じように、私たちの頑固さ、自己中心さ、心の汚さを証明します。「あなたは神様と隣人を裏切った者だ!」と大声で証しする証人なのです!

皆さんは、それは意地悪だと思うかもしれません。しかし、神様の教えは、私たちの本心をうつす鏡なのです。みなさんは「はだかの王様」のお話をご存知でしょうか?私は最近、NHK版の「はだかの王様」を見たのですが、特に印象に残ったのは、家来達も、国民達も、みんなが王様がはだかであることに気づいていながら、「わあ!素晴らしい服ですね!」と王様に言い続けていました。それは人々が「賢い人に見られたい。馬鹿にされたくない。」、「変な人に見られたくない」、「みんなに叩かれたくない」と思っていたからです。しかし、ある子供が「あれ?あの王様ってはだかじゃん?」と大声で言ったのです。それは、ある意味、一番親切で、一番純粋で、真実な事でした。神様は、私たちを支配的に教えるのではなくその子供のように純粋に、はっきりと、私たちが「はだか」であるという真実を知らせて下さる唯一の存在なのです。

こんな話は聞きたくないかもしれません、そして、自分の裸の心なんて見たくないかもしれません。このような話を聞くことと、自分の醜い裸の心を鏡に映すことは簡単なことではないので、ある意味で、私達は「強く、雄々しく」なる必要があります。良くも悪くも、自分のありのままを見る勇気です。しかし、そのような勇気はどこから来るでしょうか?

そこで、三つ目の意味が重要になってきます。それは、不従順な民に約束の地を与える故に、「強くあれ。雄々しくあれ。」ということです。

本当に興味深いのは、神様はこんなに暗く、絶望的な話をした後で、ヨシュアにこう言われました。
23 それから主はヌンの子ヨシュアに命じられた。「強くあれ。雄々しくあれ。あなたはイスラエルの子らを、わたしが彼らに誓った地に導き入れるのだ。わたしが、あなたとともにいる。」
今までの流れを考えると、本当に考えられないことです。神様は結婚の関係に例えて、ヨシュアにミッションを与えました。「私の花嫁を私の王宮に連れて来なさい。彼女は私を何回も裏切ります。あなたの想像もつかない方法で私を裏切るのです。ですから、あなたは強く、雄々しく私の花嫁を私の王宮、私の下へ導きなさい。」

もしあなたがヨシュアだったら、どう思いますか?私だったら、「神様!いやです!私にはそのようなことはできません。私の王様を裏切るような花嫁を王様の王宮に連れていく訳にはいきませんし、王宮に入れる人はあなたの御言葉に従う人だけではありませんか?もしこのような女が王宮に入るとすれば、あなた様の王国とあなた様がただ恥をかく事になるのではないでしょうか?!しかも、あなたを裏切る者は処刑されるのなら、私がその花嫁を王宮に連れて行くことで、私も処刑されるかもしれません。」

しかし、神様はこう答えられました。「安心しなさい。私が言ったこと、もう忘れたのか。わたしが彼らに誓った地へ導くのだ。もちろん、彼らにはこの地を受け継ぐ権利はない。また、私の愛も私の守りも受ける権利は全くない。だが、私は彼らが不従順にもかかわらず、私は彼らにこの地を与える。そう約束したのだから。「従順」とは別の方法で、彼らはこの地を引き継ぐのだ。ヨシュアよ、強くあれ、雄々しくあれ。」

神の民が約束の地を受け継ぐ事ができる根拠は、神の民の「従順」ではありません。それは、自分の内にあるものではなく、自分の外にある神様の約束なのです。ですから、たとえ自分の内に何もなくても、強く、雄々しく、神様の約束により頼みなさいとおっしゃるのです。そして、私達が天国に入ることができると言う根拠についても全く同じことが言えます。

これが信仰の本質なのです。つまり、天国へ入る道は二つありますが、私たちは一つの道しか通ることができません。「従順による強さと勇気」か、「信仰による強さと勇気」という二つの道です。全く反対の生き方だと思います。

「従順による強さ」とは、こういうことです。あなたは忠実に、正しく、従順に、まっすぐに生きることができたから、確信して強く、雄々しく天国の祝福を期待しなさい。必要な条件を、あなたは満たすことができるから安心しなさいという考え方です。これはこの世の価値観でもあります。もしあなたが賢明に、正しく、一生懸命に生きたら、あなたは社会の上層部に上がることができ、勝ち組に入ることができるのです。自分の強さ、自分の勇気の源は自分の力で神様が求められる事や社会が求めることを成し遂げたと言うことなのです。

しかし、「信仰による強さ」は全く反対です。神様または社会から求められることを、一切成し遂げられなくても、神様が約束されたので、天国の祝福を期待するということです。この世の考え方で言うと、全く勉強もしない不良として生き、常識も知らず、仕事もできず、自分の家庭を壊す浮気者が「俺は絶対勝ち組に入る!」というような信念です。「俺は何かを受け継ぐ権利は全くないし、俺は悪の塊だと心の底から思っているけど、神様が約束してくれたから、俺は絶対に天国入る!」という信仰です。この世から見れば、考えられない発想です。

自分たちの足りなさと神様の強力な約束が衝突するとき、どっちが圧倒的な勝利者になるのでしょうか?ヨシュア記を見ると、どのような時であっても、神様の約束はいつも勝利するのです。ですから、罪深い私たちに神様はこう語られます。「神様の約束があなたの頑固さ、自己中心さ、汚い心に勝ることができるということを、強く、雄々しく信じなさい。」

最後に、みなさんは、「え、条件を満たしていない人がどのように天国に入れるの?何か筋が通ってないぞ!」という疑問を持つかもしれません。それは次回のメッセージで、もう少し具体的に話しますが、最終的な神様の約束の内容はこうです。「あなたがたが天国に入るための条件を全て満たすことができる私のしもべを送る。あなたがたができない代わりに、このしもべは、神のおしえを忠実に、完璧に、喜びをもって一語一句従う。そして、このしもべはどんなに馬鹿にされても、どんなに弱々しく見えても、どんなに恥をかかされても、栄光、名誉、成功を全て手放し、神様の御言葉を学び全ての事を従うために命を捧げる。そのしもべの名前はイエス・キリストだ。イエス・キリストは完璧に従順だった故に、天国へ昇る権利を獲得したのだ。そして、その権利を、彼を信じる者だけに分かち合うのだ。」それが神様の約束です。

ですから、神様は私たちに問われます。あなたは本当の意味で「強く、雄々しく」なれるのか?自分には天国に入る権利がないということを認める事ができるか?そして、自分は神の教えに及ばない故に、天国に入る唯一の方法は、神様の約束により頼むしかないと言うことを認めることができるか?自分の「従順」ではなく、完璧な神様のしもべであるイエス・キリストの「従順」によらなければ天国に入れないことを認められるか?その三つのことを認めることが、私達にとっての本当の強さと雄々しさなのです。私たちが獲得したいと思う「成功」を手放して、神様の教えにますます従えるように、神様の約束により頼みましょう。お祈りします。

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