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9月20日礼拝の音声ファイルです。

2020年9月20日礼拝式順

前   奏                    
招きの言葉    黙示録22章17節
さ ん び    山も海も越え
さ ん び    命の水
開会の祈り                 
主 の 祈り
教会福音讃美歌  471番 あまつましみず
聖 書 朗 読     エゼキエル書 47章1−12節
聖書の話     「伝道の場」:どこにあるのでしょう マーク・ボカネグラ牧師
教会福音讃美歌  227番 ガリラヤの風 
献   金            
報   告
とりなしの祈り    
頌栄(教会福音讃美歌) 272番 みつにましてひとつの神
祝   祷                      
後   奏 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

2020年9月20日 礼拝(修養会①)           マーク・ボカネグラ
エゼキエル47:1-12 – 伝道の「場」:どこにあるのでしょう?
私は釣りをしたことはありませんが、素人でもわかりますが、釣りは非常に複雑です。何時に釣りへ行くか、どこから、そして、どこに釣り糸を投げ込むか、どういう釣り竿またはどういう餌を使うか、様々な要素があります。しかし、長年釣りをしている友達が言っていたのは、釣りで一番大事なのは「釣り場」だそうです。釣り竿や餌やテクニックなども重要ですが、そもそも、魚がいない場所へ釣りに行ったら、そのような要素は全く関係ないと思います。要するに、釣りは、「場」を選ぶことから全てが始まるという印象を受けました。

伝道に関しても全く同じことが言えると思います。宣教師、牧師、クリスチャンの間で、伝道についていろいろと議論します。「餌」が一番重要だ!」という牧師もいますし、「釣り竿と釣り針が一番重要だ!」という牧師もいますし、「釣り糸を投げ込むテクニック」そして「リールを巻くテクニック」が一番重要だ!」という牧師もいます。しかし、私は最近、私達が伝道の「場」についてあまり議論していないことに気が付きました。それはなぜでしょうか?

イエス様は弟子たちにこう言われました。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」そして、私はこんな風に捉えます。「なるほど!私たちは漁師で、この世界は私たちの海なのだ!どこでも釣りができるんだ!」と私は素直に思いました。しかし、この世界はすべてが「海」で、どこでも「魚」を釣れるとは聖書のどこにも書いてありません。要するに、もし「この世界のすべてが海だ!」と勝手に勘違いしたとすれば、水も、魚もない砂漠または森のど真ん中で釣りをするかもしれません。馬鹿げた話かもしれませんが、漁師としてかなり深刻な問題になりますよね?

では、水が流れていて、魚がいるところはどこにあるでしょうか?伝道の「場」はどこにあるでしょうか?簡単に言うと、伝道の「場」は教会です!私の実践神学の先生、ジュリウス・キム先生は様々な伝道の手段を確認した上で、このように結論付けました。「改革主義神学の観点から見ると、全ての現代の伝道方法には欠かせない部分が抜けています。それは『教会』の存在です。」たとえば、私は以前、仕事場で祈祷会を開いて、社内で伝道しようと思っていました。もちろん、それはいいことかもしれませんが、私が社内で伝道しようと考えたとき、教会から離れていてもできる働きだと無意識に思ってしまいました。しかし、考えてみてください。カルヴァン、そして、多くの改革主義神学者たちは「もし神様が私たちの御父であるなら、教会は私たちの母だ」とよく言います。もしそうなら、母である教会なしでクリスチャンは生まれることはできないのです。言い換えると、もしイエス様を自分の主、自分の王様として信じるというなら、イエス様の王国である教会に加えられると言うことなのです。そうであれば、教会なしではイエス様の民にはなれないということなのです。

しかし、伝道の「場」は教会だと言っても、具体的には「教会」とはどこをさすのでしょうか?教会の礼拝会場またはチャペルでしょうか?もちろん、その場所だけに限られません。「教会は神の民だ!」とよく聞きますが、教会とは具体的にどこなのでしょうか?クリスチャン一人でも教会になるのでしょうか?もしクリスチャンが二人以上集まれば、それは教会になるのでしょうか?職場の食堂で二人のクリスチャンが祈り会をすれば、それは『教会』でしょうか?自分の家族みんなで聖書を開いて、讃美歌を歌って、お祈りすれば、それは『教会』でしょうか?二人のクリスチャンがネットか電話を通して、バイブルスタディーをしたら、それは『教会』でしょうか?非常にシンプルな質問ではありますが、深く考える必要があると思います。今日は「伝道の『場』はどこでしょうか」というトピックに沿って、分かち合います。そして、今日の箇所を使って、三つのことを見ていきたいと思います:①神様の伝道方法 ②それに対するよくある質問 ③神様の伝道法の成就です。

一つ目のポイントは「神様の伝道法」です。
「伝道」について話すとき、よく新約聖書だけを読んでその意味を掘り下げたりする事がありますが、新約の土台は旧約聖書であることを忘れてはいけません。例えば、先ほどの箇所、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」は、本日の箇所、エゼキエル47:1-12から引用されたと考えられます。要するに、新約の「伝道」という概念は旧約から切り離すことはできないということです。この旧約の預言は神様の伝道計画です。この預言には三つの大事な要素があります。神殿があって、神殿から川が流れ出て、その川の中に大量の魚が集まります。

この三つの要素を通して、新約の伝道計画について、比喩を用いて神様の伝道の計画を説明しています。しかし、21世紀にいる私たちにとって、すこしわかりづらいと思います。江戸時代の比喩を使って21世紀の文明について預言するのと同様だと思います。ですから、この預言を理解するために、旧約の文脈を理解する必要があります。

一つ目の要素は「神殿」です。この預言の主役は「神殿」ですが、神殿は神様が宿られる「場所」と捉えることができます。神殿は王様の王座または王宮と同様です。そして、その「王座」から神様は御自分の御言葉を語り、人々を集め、礼拝を行われます。そして、御言葉によって集まった人々を御自分の「民」として見なされます。

よくある誤解は、神様が神の民であるイスラエルを礼拝のために神殿に集められることです。もちろん、それは一理あります。しかし、旧約聖書のデータをよく読むと、実は正反対の考え方なのです。旧約聖書では、神様は神の民を神殿に呼び寄せるのではなく、御言葉のために集まった人々を御自分の「民」として見なされるのです。例えば、もし神の民であるイスラエル人が礼拝のために神殿の「集会」に加わらなかったら、「神の民」から切り離されるのです。そして、もし正式な「神の民」ではない異国人が礼拝で御言葉を聞くために神殿に集まったとすれば、性別、年齢、教育、ステータス問わずあなたは「神の民」になることができたのです。つまり、「御言葉のために集まった人々」が「神の民」だったのです。

ですから、「教会」を表す新約の言葉は「エクレシア」と言いますが、実は、それは御言葉の下で礼拝する「集会」と言う意味で、旧約から引用されているのです。(例:ヨシュア記8:35)神様が「神の民」を神殿に集めるのではなく、神殿で語られる御言葉の下に集まった「集会」または「エクレシア」が「神の民」となるのです。つまり、旧約から見ると、御言葉による礼拝が存在しないかぎり、「神の民」は存在することができないのです。

預言の二つ目の要素は、神殿から流れる「川」です。この川は、神様の霊または聖霊様です。そして、聖霊様は神様が神殿でなさったことを神殿の外でなされるのです。つまり、聖霊様は「神殿の外」で、御言葉のために集まった民を神の民として定めることができたのです。「川」は神殿の延長線上なのです。

詩篇46:4では、神殿の「川」は神様が民に与える「いのち」、「祝福」、「喜び」の源であることが描かれています。しかし、通常、部外者は神殿の「川」を利用することはできませんが、なぜかいつも閉まっている東門から「川」が流れ始めます。最初は、すこしずつ流れ出るのですが、いのちを与える川がいのちのない荒野へ流れ込み、まずは足首まで、そして、膝まで、そして最後には腰の高さまで達し、砂漠の真ん中に、普通に泳げるほどの川が流れるのです。そして、この川が、死海に流れます。皆さん、「死海」はなぜ死の海と呼ばれているかご存知ですか?全ての生き物が死ぬからです!死海は通常の塩分濃度の10倍で、魚も確認されていない海ですが、この神殿の「川」によって死海の水が良くなるのです。死の海が奇跡的にいのちの海になり、様々な生物と大勢の魚が群がるのです。9節にこの場面がまとめられています。「この川が入るところでは、すべてのものが生きる。 」

この預言の意味はなんでしょうか?それは、神殿の民を定める力が 神殿の外に流れ始めるという意味です。川が存在する前は、エルサレムに集まることができる人たちだけしか「神の民」になれなかったのです。しかし、この「川」のおかげで、神様の存在がイスラエルという国、エルサレムという町の真ん中だけに留まるのではなく、異国と異国人にも神の霊が流れ始めるのです。それは、イスラエル人とエルサレムに限らず、様々なところで、異国人が「神の民」になり、神様からいのちを頂くことができるという意味なのです。東門が崩され、川が流れ出る瞬間と言うのは、新約の「ペンテコステ」を表しているのです。究極の王座である天国の門が崩され、聖霊様がエルサレム、サマリア、そして、地の果てまで流れ出たという意味なのです。

しかし、気が付いたかも知れませんが、この川はいろんな所へ流れました。でも、川は「海」ではありません。川には魚が生息しない川岸があります。川が流れないところも、もちろんあります。つまり、神殿の 「神の民を定める力」は「川」に限るのです。

そして、最後に預言の三つ目の要素は、魚と漁師です。まず、覚えておくべき質問は、川は「魚が存在する場所」へ流れて行きましたか?いいえ、そもそも魚は荒野と死海に存在することはできません。つまり、「川」である聖霊様が「生物」または「魚」を無から創造されたのです。本当にびっくりするようなことです。そして、もう一つ覚えておくべき質問は、「漁師」がどのように釣りをしたのか、という事です。非常に複雑な手段で、本当に釣りにくい魚を一匹一匹捜し、一生懸命に夜通し働きながら、釣っていたでしょうか?その正反対ですよね?漁師はただ川のほとりにたち、すでに集まっている魚の上に網をおろし、ペテロが漁をした時と全く同じように、おびただしい数の魚が捕れて、網が破れそうになったと思います。

皆さんもお気づきになられたと思いますが、これが神様の新約時代の教会の伝道法なのです。本当にびっくりするような、神様の圧倒的な力と一方的な恵みを表わした計画だと思います。しかし、私たちの質問の答えにはなっていないと思います。「伝道の場」はどこなのでしょうか?川は「どこ」に流れるのでしょうか?

もし旧約の比喩と新約の教えを合体させるなら、最後のピースがパズルにピタッと気持ちよく当てはまると思います。神殿から川が流れ出る瞬間はペンテコステを表しています。そして、エペソ4章で、パウロはペンテコステとしての「川」がどこにあるのかをもう少し説明しています。聖書には、神様が召された「大使」が語る神様の御言葉を通して、天からの川である聖霊様が流れると書いてあります。そして、使徒の働きを見ると、聖霊様はいつも語られた「御言葉」に沿って流れ、エルサレム、サマリア、そして、地の果てにまで流れ、御言葉の下に集まる大勢の人たちの「集会」―エクレシア―に加わるのです。霊的に生きている人たちが「集会」に招かれるのではなく、いのちも何もない荒野または死の海のような私たちの心の内に、御言葉と共に川が流れ、無からいのちが創造されるのです。そして、その御言葉によって創造され、その御言葉の下に集まった「エクレシア」または「集会」は、イエス様の体である教会となり、「神の民」となるのです。そして、漁師たちは語られた御言葉の側に立ち、ただ網を下ろすだけなのです。こう考えると、伝道の「場」はあきらかです。それは、神様の大使である牧師が語る御言葉の下に集まる「集会」または「エクレシア」です。つまり、毎週日曜日に礼拝する集会が教会であり、そこが伝道の「場」なのです。

しかし、そう聞くと様々な疑問が浮かんできます。今からよくある疑問に答えていきたいと思います。いろんな質問があると思いますが、質疑応答の時間に質問してもいいのですが、二つの質問にまとめられるのではないかと思います。

一つ目は、「日曜日に礼拝する集会の重要さはよく理解できますが、私自身は日曜礼拝の説教を聞いて、クリスチャンになった訳ではありません。ですから、自分の経験と「日曜礼拝は伝道の場」であるという結論を、どのように結びつけたら良いのでしょうか?」という質問です。

まず認めなければならないのは、クリスチャンになることはプロセスだと思います。私はこのように考えます。大人の皆さんに聞きますが、皆さんはいつ「大人」として成熟できましたか?非常に難しい質問だと思います。しかし、ある意味、非常に簡単な質問でもあります。皆さんの成熟度に関わらず、皆さんが正式に20歳になった時から、皆さんは政府から「大人」として見なされます。

同じように、私たちはいつ「クリスチャン」になったのでしょうか?真剣に考えると、非常に難しい質問です。心の中で「イエス様は私の救い主です!」と思った時でしょうか?口で「イエス様は私の救い主です!」と告白した時でしょうか?本当の意味で「イエス様の救い」を理解した時でしょうか?自分のクリスチャンへの道を思い返して、自分の霊的成熟度と聖書の理解度を考えると、すごく曖昧で難しい質問です。しかも、皆さんは多様な経験があり、一人一人違う答えが出ると思います。しかし、ある意味、非常に簡単な答えでもありますし、みんな同じ答えを持っているとも言えます。私たちが会衆の前で、信仰告白した日がクリスチャンになった日です。その時の私たちの成熟度にかかわらず、その日から、私たちはキリストの体の一部として見なされるのです。つまり、私たちが「クリスチャンになること」は、日曜に集まる「教会」に正式に加わることです。教会と伝道を引き離すことはできません。違う視点で言い換えると、もし日曜に集まる「教会」が天国の大使館であれば、教会が私たちに市民権を発行しなければ、私たちは正式に天国人になれないのです。そういうわけで、教会は伝道の「場」なのです。

二つ目は、「御言葉を通して、聖霊様が働かれるのはよく理解できますが、なぜ日曜礼拝の説教に限る必要があるのですか?一人でも、小グループでも、教会学校やネットのYouTubeでも御言葉について学べますし、そのような場所では聖霊様は働かれないのでしょうか?」という質問です。

もちろん、そのようなところでも聖霊様は働かれますし、使徒の働きを見ると聖霊様はいろんなところ、いろんな場面、いろんな人を通して働かれています。しかし、聖霊様のお働きがすべて同様であるとは言えません。一番わかりやすい例えは、病院に入院して受けられる医療ケアだと思います。病院に入院するとき、患者さんをケアする人は、何人もいます。お医者さん、看護師さん、医療技術士さん、薬剤師さん、栄養士さん、ご家族などです。すべての人が患者さんをケアしますが、全て同様ではありません。

全く同じではないですが、聖霊様の働きは病院の働きと似ているところがあります。私たちは教会の中でいろんな形で御言葉という「霊的な医療ケア」を受けることができます。牧師さん、長老さん、執事さん、セルグループのメンバーたち、教会学校の先生たち、キリストにある兄弟姉妹、ご家族。もちろん誰でも伝道している未信者にいろんな形で御言葉を送ることができます。ネットを通して、本を通して御言葉を伝えたり、クリスチャンの友達や牧師に紹介して御言葉を聞かせたり、1回か2回近場の教会へ連れて行ったりすることはできます。しかし、はっきりと聖書に書かれているのは、聖霊様は召された大使たち(牧師と長老)に神様の羊をケアする権威を与えられたのです。つまり、もし教会が神様の病院なら、牧師と長老たちは院長であるイエス様の下で働くお医者さんたちと言えます。そして、執事たち、小グループのメンバーたち、教会学校の先生たち、キリストにある兄弟姉妹、ご家族という人たちから病院の看護師さんとして日々「御言葉」という「霊的医療ケア」を受けているかもしれませんが、最終的な医療ケアの計画と責任をとるのは牧師と長老たちなのです。

もし「罪」というものが深刻な「ガン」よりも危険な病気であると認識しているなら、自分で治療するよりも、毎週通える教会の牧師さん、つまり、入院できる病院のお医者さんから「霊的ケア」を受けることが一番いいと思いませんか?もちろん、お医者さん一人でケアする意味ではありませんが、「教会」という病院に入院し、「牧師と長老」の下で看護師さんである信徒たちから「医療ケア」を受けることはもっと安心だと思います。

しかし、そう聞いても納得しない人がいるかもしれません。ですから、最後に、神様がどのようにこの預言を成就されたかについて話したいと思います。イエス様はこのエゼキエル47章を考慮しながら、ルカ5章でこのように伝道について説明されています。
Luke 5:1 さて、群衆が神のことばを聞こうとしてイエスに押し迫って来たとき、イエスはゲネサレ湖の岸辺に立って、 2 岸辺に小舟が二艘あるのをご覧になった。漁師たちは舟から降りて網を洗っていた。 3 イエスはそのうちの一つ、シモンの舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして腰を下ろし、舟から群衆を教え始められた。 4 話が終わるとシモンに言われた。「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。」 5 すると、シモンが答えた。「先生。私たちは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした。でも、おことばですので、網を下ろしてみましょう。」 6 そして、そのとおりにすると、おびただしい数の魚が入り、網が破れそうになった。
皆さん、お気づきになったかもしれませんが、これはエゼキエルの預言の成就です!イエス様が船におられなかったとき、シモンが網を下ろしても、魚は一匹も取れませんでした。つまり、御言葉である聖霊様の川が流れていないところに釣りに行ったと例えることができます。しかし、イエス様が船から神の言葉を語られた時は、群衆がイエス様の教えを聞くために集まったように、多くの魚が船の周りに集まったのです。そして、シモンが網を下ろすとおびただしい数の魚が取れたのです。「聖霊様が流れる川」とはイエス様が語られた神の言葉のことなのです。毎週日曜日に語られる御言葉はイエス様の教えです。つまり、日曜日で語られる説教の御言葉は神殿から流れ出る川なのです!その川にしか魚は集まれません。イエス様の御言葉を語っていないところには川は流れませんし、魚は来られません。私たちはイエス様の御言葉に対してどのような期待を持っているでしょうか?自分が魚をとる為に夜通し働くことの方が効果的だと思いますか?私たちはそもそも、イエス様の御言葉なしでは何も起こらないと理解しているでしょうか。

さて、神様の伝道方法の最終地点は何でしょうか?一人で聖書を読むことでしょうか?小グループで聖書の学びをすることでしょうか?牧師の面白い話を毎週聞くことでしょうか?いいえ、そうではありません。私たちが天国の「集会」、天国の「エクレシア」、天国の「教会」に加わり、イエス様御自身から御言葉を聞くことです。最後に黙示録が描く「集会」エクレシアについての箇所をお読みします。
Rev 21:2 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。 3 私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。
「見よ、神の幕屋が人々とともにある。
神は人々とともに住み、人々は神の民となる。
神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。
4 神は彼らの目から
涙をことごとくぬぐい取ってくださる。
もはや死はなく、
悲しみも、叫び声も、苦しみもない。
以前のものが過ぎ去ったからである。」
Rev. 22:1 御使いはまた、水晶のように輝く、いのちの水の川を私に見せた。川は神と子羊の御座から出て、 2 都の大通りの中央を流れていた。こちら側にも、あちら側にも、十二の実をならせるいのちの木があって、毎月一つの実を結んでいた。その木の葉は諸国の民を癒やした。 3 もはや、のろわれるものは何もない。神と子羊の御座が都の中にあり、神のしもべたちは神に仕え、 4 御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の御名が記されている。
日曜日の礼拝は、王様であるイエス様を仰ぎ見る天国の集会の前味です。この集会にますます多くの人が加わることができるように、イエス様の伝道計画に期待しつつ、お祈りしましょう。

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