ようこそ!海浜幕張めぐみ教会へ!- Welcome to Kaihin Makuhari Grace Church!!

2020年9月20日午後 講義2

2020年9月21日午前 講義3

講師:マーク・ボカネグラ牧師

KMGC修養会2020:第2講座
エゼキエル47:12 – 伝道の「場」:どのような場所でしょうか?

皆さんは変だと思うかもしれませんが、私は『伝道の「場」』のシリーズの準備のために、「インテリア・デザイン」の本を読みました。本当に興味深かったです。具体的に言うと、「インテリア・デザイン」の歴史について読みました。この本は、中世の時代から現代までの「家」を研究して、私たちの「家」の間取り、家具、デザインがどのように進化していったか、そして、それに応じて、どのように私たちの生活、価値観、世界観が変化していったのかが記録されています。これを読んで、私の心の中に一番印象に残ったのは、私たちの価値観によって家を造るのではなく、家の形、間取り、家具などが私たちの価値観を造ると言う事です。

本にはいろんな例がありましたが、一つの例を挙げます。中世時代の家には大きな部屋があり、その部屋は必要に応じて、部屋を変える事が出来ました。この部屋は、リビングでもあり、ダイニングでもあり、キッチンでもあり、寝室でもあったのです。そして、家族としもべたちは常に一緒にいました。そのような間取りだったので、「プライバシー」という発想は全くありませんでしたし、親も子も、しもべさえも一つの「家族」として見なされていました。しかし、16世紀になると、家の中に、それぞれ「夫婦の部屋」、「子供部屋」、「しもべの寝室」などができ始め、「プライバシー」という発想が発展し、家族という概念も「夫婦関係」、「親子関係」、「家族としもべ」と区別し始めるようになったのです。要するに、私たちの世界観によって家を造るのではなく、多くの場合、家の間取りによって私たちの世界観が形造られるのです。

これを通して、私が気が付いたのは教会会堂の間取りが教会生活とクリスチャンの価値観を形造ると言うことです。今まで通っていた教会を振り返れば、本当にそうだなと思います。小さい頃、私が通っていたカトリック教会は大きな礼拝堂しかなかったので、私の教会生活はただ日曜礼拝に行く事でした。その礼拝堂は大きかったので、誰にも会わずに遅れて参加し、早く帰ることができました。大学時代、私は韓国系長老派教会に通っていたのですが、礼拝堂には大きな講壇があり、御言葉が一番大事だと心に刻まれ、また、大きな食堂があって毎週無料でおいしいご飯を用意してくださったので、礼拝後の交わりも重要だと自然に心に刻まれました。そして、ある長老教会を訪問したときには、礼拝堂の中に大人の椅子と別に子供用の椅子が置かれていました。小さな子供たちが礼拝に参加できるように子供たちを訓練する場所があれば、礼拝は家族全員で礼拝するものだと心に刻まれると思います。そして、日本に来て、狭い教会堂で礼拝するようになりました。最初、不便だと思いましたが、海浜幕張めぐみ教会や、おゆみ野チャペルのような狭い教会堂の良さがすぐにわかりました。狭いから、誰とも会わないで帰る事は出来ません。そして、人との距離がすごく近いので人と話すのも簡単で、「親しみやすい」、「フレンドリーな」、「家族のような」礼拝ができるのです。つまり、私たちの教会堂の間取りによって、私たちのクリスチャン生活が自然に形づくられるのです。

今日、私は伝道の「場」である「教会」の間取りについて話したいのです。もちろん、教会は「会堂」ではないですが、聖書では教会は「神の家」として描かれています。この比喩を使って、「教会」がどのような場所なのかを考えてみたいと思います。もし教会を「家」または「マイホーム」に例えるなら、どのような間取りになるでしょうか?エゼキエル47:12に基づいて、神様が望まれる教会の「間取り」を想像してみたいと思います。そして、その「間取り」がどのように伝道を進めていくのか、そして、私たちの教会の「間取り」は本当に伝道を進めているかどうかを確かめたいと思います。

最初に、「神の家」の庭を見ていきましょう。
マイホームの「庭」は非常に重要だと思います。日々使わない所かもしれませんが、庭は周りの人に「その家に住んでいる人」についての印象を与える役割があります。例えば、庭に芸術的なオブジェが置いてあって、いつも綺麗にしていたら、ここは「センスがいい、ちゃんとしている家族」という印象が残ります。もし高級な車が置いてあったら、「金持ちな家族」という印象。もし庭にバーベキューセットがあって、しょっちゅう人をよんで、ハウスパーティーをしていたら、「友達が多くて、楽しそうな家族」という印象。もし子供のおもちゃがあって親子がいつも庭で遊んでいたら、ここは「幸せで、あったかく、にぎやかな家族」。庭の雰囲気によって、近寄りやすい家族なのか、近寄りがたい家族なのかが決まると思います。

とても有名な説教者、ビリー・グラハムがイギリスで伝道ツアーを始めようとしたときに、グラハムは急激に縮小していたイギリスの教会にこのように言いました。「伝道する前に、私たちがまず問うべきことは、私たちの教会に参加する「価値」があるか?」つまり、外部の人たちが教会を見て、「この家族に会ってみたい」と思うかどうかなのです。そして、良くも悪くも、外部の人たちは教会である「神の家」の庭を見て、それを判断するのです。私たちの教会である「神の家」の庭にどのようなものが置かれているでしょうか?もし伝道をしたいなら、まず神の家の「庭」を確かめなければなりません。

聖書の全体を見ると、神様の望みは神の家の庭に「果樹園」を育てることです。エゼキエル47:12を見ると、
12 川のほとりには、こちら側にもあちら側にも、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。
前回の説教で教会は「川」だと説明しましたが、川の周りにはあらゆる果物が実っている果樹園のような場所です。そして、川の近くを通ると、最初に見えるのは「川」ではなく、川が成長させた「果樹園」なのです。そして、疲れていて、おなかがすいている人がいたら、その「果樹園」の香りやおいしそうな果物、木影と川から漂ってくる涼しい霧に引き寄せられると思います。川が成長させる「果樹」とは神様を信じる者達の「歩み方」を表しているのです。つまり、「神の家」にはクリスチャンの歩みや「生き方」によって、外部の人たちが教会に引き寄せられるということなのです。マハトマ・ガンジーはインドへの宣教師に次のようなことを言ったそうです。「あなたたちがよく頑張って伝道しているのはわかっているが、バラは自分の香りについて自己アピールはしない。もしバラが良い香りを放っていたら、トゲがあっても、人は庭をわたって嗅ぎに来る。」ガンジーが指摘している善い行いの「かぐわしさ」を忘れてはいけません。私たちの「神の家」の庭にある「クリスチャンの歩み」はかぐわしいでしょうか?そもそも、私たちは「神の家」の庭に自分たちの「歩み」を置いているでしょうか、それとも、違うものを利用して人を引き寄せているでしょうか?

新約聖書には全く同じメッセージが書いてあります。非常に興味深いのは、新約聖書の中で信徒たちが御言葉を分かち合う場面が数回ありますが、「個人伝道しなさい」という命令ははっきりと書かれているのは数回しかないと思います。もちろん、個人的に御言葉を分かち合うのは大事ですし、私たちはますます個人的に御言葉をいろんな人たちに分かち合う必要がありますが、新約聖書で圧倒的に多いのは、「あなたの歩み方によって、人を神様に引き寄せなさい!」という命令です。旧約から新約までいくつか例えがありますが、テトスへの手紙に焦点を充てます。

テトスへの手紙は、クレタという島のクリスチャンたちに送られました。パウロの望みはいろんな所で教会開拓がなされることでした。しかし、クレタ人の評判について1:12でクレタ人の預言者が言っています:「クレタ人はいつも噓をつく悪い獣、怠け者の大食漢だ。」と。 どのようにこの地域で教会開拓をしたら良いのでしょうか?どのようにクレタ人に伝道したら良いのでしょうか?まず覚えなければならないのは、長老たちや信徒たちに「個人伝道しなさい」という命令は一切ないと言う事です。長老たちが命じられた事は、クリスチャンらしい歩みをすることでした。「7 監督は神の家を管理する者として、非難されるところのない者であるべきです。わがままでなく、短気でなく、酒飲みでなく、乱暴でなく、不正な利を求めず、 8 むしろ、人をよくもてなし、善を愛し、慎み深く、正しく、敬虔で、自制心があり、 9 教えにかなった信頼すべきみことばを、しっかりと守っていなければなりません。」そして、テトス2章を読むと、信徒たちにも似たようなことを勧めています。「年配の男の人は、自分を自制しなさい。年配の女の人は、神に仕えている者にふさわしくふるまいなさい。若い女の人は善良であるように歩みなさい。若い男の人は、あらゆる点で思慮深くあるように歩みなさい。奴隷たちは自分の主人に従いなさい。」とパウロは延々と語るのです。ある人はそれを見て、「これは非常に内向きな教会開拓だな。」と思うかもしれませんが、よく見ると、パウロがクリスチャンの歩み方を強調する理由がはっきりと書いてあります。「神のことばが悪く言われることのないようにするためです。」「私たちについて何も悪いことが言えずに、恥じ入ることになるでしょう。」「彼らがあらゆる点で、私たちの救い主である神の教えを飾るようになるためです。」1ペテロと1テモテにも似たような箇所あります。そして、教父時代にも、当時の書物(ディダケーや1クレメント)を読むと、「伝道方法」や「御言葉の伝え方」ではなく、常にクリスチャンの生き方に焦点が充てられていました。つまり、初代教会はクリスチャンの歩み方によって、イエス様の教えを「飾り」、外部の人たちを教会に引き寄せると言うのが彼らの伝道戦略でした。

皆さんは、どのようにして初めて教会へ来ましたか?もちろん、いろんな方法が挙げられると思いますが、私の予想はあなたを招待したクリスチャンまたは会ったクリスチャンに興味をもったからだと思います。私はそうでした。「やさしさ」か「愛」なのかはわかりませんが、私はクリスチャンが持っていた何らかの聖霊様の「実」に引き寄せられたと思います。

私は人を集めるためにイベント、小グループ、あったかい交わりや、素晴らしい礼拝をすることなどに対して反対していませんが、それらはただの「入れ物」として見る必要があると思います。重要なのは、その入れ物に「何が入っているのか」です。もしクリスチャンの歩み方の「かぐわしさ」で人を集めるのであれば、それらの「入れ物」の中に「神様の教えを飾って」いるようなクリスチャンたちがいるべきなのです。

もちろん、「神の家」の庭で果樹園を育てるのは時間もかかりますし、かなりの苦労が要ります。ですから、私たちは別の方法を考えようとします。「高級車を買って、毎日庭でハウスパーティーをして、すごくきれいにして、いろんなおもちゃやオブジェを置こう。お金があればすぐにできるし、より多くの人が来るかもしれない。」と教会は考えるかもしれません。しかし、ノンクリスチャンもそのような物をいつでも手に入れる事が出来ます。神様が望まれるのは、聖霊様しか育てられない「果樹園」で人を引き寄せることなのです。そうでなければ、未信者にとって枯れている木に囲まれている川に誘っているようなことになってしまいます。誰一人そのような川には近寄らないと思いますし、神様の御名をただ汚すことになると思います。私にとっても、これは非常に心苦しい気づきでした。しかし、神様の優先順位を知ることができ、本当に良かったと思います。

次に見ていきたいのは、教会である「神の家」の中です。
外観も大切ですが、日々の生活を形作るのは家の中の間取りです。例えば、もし一番大きい部屋がリビングで大きなテレビが置いてあったら、テレビが家族の生活の中心になるのは当然です。もし家の個人部屋が広ければ、家族は一緒に過ごすのではなく、自分の部屋で個人的に過ごすことになります。ダイニングとキッチンが一番広ければ、家族の生活は一緒に料理することと食べることが中心になります。「神の家」の中では、中心になる部屋とはどういう部屋でしょうか?

エゼキエル47:12を読むと、「川」が中心であることがすぐにわかります。
川のほとりには、こちら側にもあちら側にも、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。
つまり、この「川」がなければ、そもそも、「神の家」の庭にある「果樹園」は育てることができないということです。前回の説教で、この「川」が教会であることを説明しましたが、もう少し具体的に言いますと、それは教会で語られる「御言葉」なのです。「御言葉」が私たちの「食べ物」であり、「栄養源」だと考えられます。ヨハネの福音書では、イエス様が弟子たちに大宣教命令を下されて、ヨハネに「わたしの羊を飼いなさい。」と命じられました。そして、ヨハネの福音書の文脈(4:34, 15:7,10)をみると、それは「御言葉」を指しています。つまり、教会の使命は羊たちに「みことば」を食べさせることなのです。他の箇所(マタイ22:1-14)では、教会の使命は王様の息子の結婚の披露宴にいろんな人たちを招待することであり、王様が用意してくださった御馳走をいろんな人たちに食べさせることでした。ですから、私は、「神の家」の中心は、ダイニング・ルームにあると思います。「御言葉」という贅沢な御馳走が並べられて、そのテーブルの上座に座られているのがイエス様で、大勢の人たちがイエス様を囲み、「御言葉」を楽しむと言う光景が「教会」の姿だと思います。

すごく重要なのは、教会は「御言葉」をただ勉強するのではなく、ただ「御言葉」を聞いて従うのではなく、「御言葉」という御馳走を食べて楽しむ集会だと言う事なのです。ノンクリスチャンが「神の家」に入るときに、クリスチャンたちが御言葉をよく味わい、心から喜び、体全体で楽しむ姿を見る必要があります。私は海浜幕張めぐみ教会のクリスマス会を想像しています。はじめて参加したときに、私は本当にびっくりしました。おなかがすいている大人も子供も何のためらいもなく、綺麗に並べてある御馳走をめいめい山のようにお皿に乗せて、みんな生き生きしながら、おいしそうにご飯を食べていました。だから、私もその勢いに釣られて、いっぱい食べてしまいました!教会の使命は「御言葉」をただ勉強して暗記することではなく、ただ聞いて従うだけではなく、「御言葉」を食べて、味わって、楽しむことなのです。
そして、先ほど、説明したように、御言葉を食べて楽しむことができなければ、聖霊様の実を結ぶことはできません。枯れている枝にセロハンテープで実をつけることはできません。私たちは「神の家」の中でイエス様の御言葉にとどまっていなければ、当然、前にある果樹園を育てることはできないのです。

ある人は、「御言葉」を常に勉強はするが 伝道はしない教会を見て、「内向きな教会」と認定し、「御言葉」を勉強するのをやめて、外に出て「御言葉」を分かち合う「外向きな教会」になれなければならないと結論付けます。しかし、それは正しい判定でしょうか?「内向きな教会」は「御言葉にとどまりすぎた」ではなく、「御言葉にちゃんととどまっていなかったので、実を結ばなかった」といったほうが正しいと思いませんか?言い換えると、「内向きな教会」の問題は、「内」にある根本的な問題を解決していない教会なのではないでしょうか?つまり、キリストの弟子が御言葉にますますとどまるということは伝道を妨げるものではなく、伝道という炎に油を注ぐ働きなのです。

ですから、伝道師であるテモテにパウロはこう勧めたのです。「自分自身にも、教えることにも、よく気をつけなさい。働きをあくまでも続けなさい。そうすれば、自分自身と、あなたの教えを聞く人たちとを、救うことになるのです。」外に目を向けている人は、常に自分自身をも見ている人なのです。

みなさん、私たちが伝道する前に問われているのは、教会として、そして、個人的に、私たちが「御言葉」という御馳走を食べて楽しんでいるかどうかなのです。栄養補給のためにコンビニで買ったカロリーメイトを30秒で食べてしまうように、私達は「御言葉」を食べていないでしょうか?または、ミシュラン三ツ星の超高級な御馳走のように「御言葉」を食べて楽しんでいるでしょうか?そもそも、私たちは毎日「御言葉」を食べて楽しんでいるでしょうか?もし、私たちがおいしくなさそうに「御言葉」を食べているとしたら、誰も「御言葉」を食べる気にはなりませんし、ましてや、毎日「御言葉」を食べていないで、「伝道する」ということは誠実さに欠けているとは思いませんか?私にとって、これも非常に心苦しい気づきでした。しかし、また言いますが、私たちの優先順位ではなく、神様の優先順位を再確認できて、本当に良かったと思います。

最後に見ていきたいのは、「神の家」からの眺めです。
ボカネグラ家がファンドレイジングをしていた時に、いろんな家に泊まりましたが、一つ忘れられない家がありました。家自体のインテリアは非常におしゃれな家ですが、大きな窓があって、家の後ろにあった、山の素敵な風景を眺めることができました。ですから、家に入ると、家のインテリアではなく、素敵な風景に目がすぐにいって、その眺めに圧倒されるのです。そして、私たちがその家で食事したり、話したり、家事をする間も、窓からの景色を眺めた瞬間、「わー、素敵な景色だな」と思うのです。

「神の家」は同じようなことが言えると思います。もちろん、「神の家」の前には素敵な果樹園があり、中にはおいしそうな御馳走があって、イエス様と御言葉を囲んで楽しい時間を過ごせます。しかし、私たちの目はそのような光景に行きません。「神の家」の後ろには大きな窓がずらっと並んでいて、圧倒される光景があります。

その光景はなんでしょうか?そこには、神の山と言われる「シオンの山」があり、その山の上には神様が座しておられ、神の栄光が常に輝いている「神の都」を見ることができ、その都の周りにはたくさんの大きな果樹園があり、都の中からとても楽しそうな祭りの様子が聞こえて来ます。そして、「神の家」の移住者が私たちに説明するのです。「この『神の家』は神の民のための仮設住宅のような所です。私たちが『神の家』で今経験している恵みは、ただの前味なのです。神様が私たちを迎えに来てくださって、天の「神の都」に引っ越す日が私たちの希望であり、私たちの楽しみなのです。」

エゼキエル47:12をもう一度お読みします。「川のほとりには、こちら側にもあちら側にも、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。」教会で私たちが経験している恵みとは「聖所から流れ出ている水」を頂くことなのです。つまり、今、私達が頂いている恵みは聖所の恵みの一部とも言えます。しかし、私たちが神様の聖所である天国に入るときは、私たちは「川」の源のそばで暮らすことができるのです!ですから、「神の家」である教会に住んでいるクリスチャンは、この世の教会に永遠にとどまることを望んではいないのです。私たちはこの世にいる間、寄留者として歩んでいるのです。
私たちは常に「神の都」を眺めつつ憧れながら、その「神の都」に希望を置いているのです。ヘブル書はこのようにまとめています。
13 これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。 14 そのように言っている人たちは、自分の故郷を求めていることを明らかにしています。 15 もし彼らが思っていたのが、出て来た故郷だったなら、帰る機会はあったでしょう。 16 しかし実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。ですから神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。神が彼らのために都を用意されたのです。
つまり、この世、この地上で、私達が全ての恵みを頂くことができなかったとしても、または、苦しい試練を通らされたり、すべてを犠牲にしたとしても、私達クリスチャンは失望しませんし、恥とも思わないのです。なぜなら、私たちの希望はこの世にはないからです。物理的なものでもなければ、私たちの名誉でもありません。私たちの希望はもっと良い故郷、すなわち天の故郷で、神様の都の果樹園から食べ、そこで行われる祝宴でイエス様と彼の御言葉を囲み、その時間を楽しむことなのです。

そして、この世の弱くて未熟な、罪の多い教会である「神の家」にとって、これは大きな励ましでもあります。もしかしたら、今の教会の「果樹園」の実の小ささ、教会の「御言葉」のみすぼらしい御馳走、または、教会の貧弱な礼拝に失望したり、悲しんだりしているかもしれません。または自分自身の信仰生活に失望しているかもしれません。しかし、この世の「神の家」または自分の悲惨な状況を見るのではなく、大きな窓から見える光景―シオンの山の上に栄光に包まれている「神の都」とその都から流れてくる「川」―を眺めながら、私たちは希望をもって、今ある現実を楽しみながら、仮設住宅である教会の生活を過ごすのです。もしその強い現実的な希望をもって、この世を歩んでいくなら、私たちはますます天から来る「御言葉」にとどまることになりますし、それによって、ますます「実」のある歩みをすることができます。つまり、私たちの「天に蓄えられている希望」が信仰生活のエンジンとなるのです。

そして、未信者はクリスチャンが何を眺めているのかすぐに気づきます。1ペテロ3:14-15では、私たちが天に座しておられるキリストを心の中で主とし、自分の希望として歩みはじめたら、ノンクリスチャンは「あなたがたのうちにある希望は何なのか?!」というふうに聞くと書かれています私たちの天の都を眺める窓の大きさはどれほどのものでしょうか?そして、ノンクリスチャンもその窓から見える風景を見ることができるでしょうか?または、そもそも私たちの歩みはキリストとの天国での生活という希望に基づいたものでしょうか?私たちの希望である主イエス・キリストを眺めつつ、より多くの人たちにその希望を分かち合うことができるように、お祈りしましょう。

KMGC修養会2020 第3講座
エゼキエル47:12 – 伝道の「場」:何をするところでしょうか?

自分の人生をガラッと変えるような判断をするとき、何が決め手だと思いますか?例えば、ある営業マンがあなたに話しかけます。「日本の生活と日本の国籍を捨て、アメリカの市民権をとってアメリカへ移住しませんか?」と営業マンが質問したら、どう答えますか?多くの人は断ると思います。そして、もしも営業マンが1時間をかけて、アメリカの生活と日本の生活を比較して、論理的に、客観的なデータを見せながら、明確にアメリカ生活の良い点を証明したとすれば、皆さんは日本を捨て、アメリカへ移住しますか?私の推測だと、皆さんが、日本人と日本文化に囲まれて日本にいる間は、アメリカへ行く気にならないと思います。私の妻はそうでした。めぐみは英語も話せて、アメリカ人の友達もいて、短期留学したこともありましたが、アメリカ人になることも、アメリカに永住することも考えたことはありませんでした。しかし、私たちがカリフォルニアに4年間住んで、アメリカ生活をどっぷり経験している時に、もしその営業マンがめぐみにアプローチしたら、めぐみは一瞬でその質問に「YES!」と返事すると思います。

人生をガラッと変えるような判断をするとき、多くの人は「データ」や「理性」だけで判断をしないと思います。結婚相手を探すとき、私たちは単に相手の写真、履歴書、そして、数時間のインタビューですべてのデータを集めて判断できると思いますか?人間はただ「脳みそ」の塊ではありません。神様が人間を造られたとき、「頭、心、体」の全てを人間として造られたので、人間は「頭」と「心」と「体」で判断する生き物なのです。つまり、「データ」だけではなく、その場の「雰囲気」や、何を「感じているか」も重要な要素なのです。

クリスチャンになることも、日常生活、結婚生活よりも自分の人生を変える判断です。クリスチャンになることは、この世の生活、この世の国籍を捨て、神の国の国籍をもって、神の国の生活を受け入れ、イエス様という王様の配下として「天国人」になることです。また、毎週教会に集まっている理由は、教室に集まって面白い「情報」を学ぶためではありません。礼拝はその「神の国」の生活や文化を味わう「場所」なのです。そして、礼拝のために集まっている教会は「天国人」が「神の国」のあり方や「神の国」の文化と生活を経験できる唯一の場所です。

しかし、私たちはいかに周りの人に自分の国籍を捨てて、天の国籍を得るべきかを説得できるのでしょうか?「神の国」の「良さ」と「必要性」だけを聞いただけでクリスチャンになる人はあまりいませんが、もし「天国人」に囲まれて、「神の国」の文化を経験しながら、「神の国」について聞いたら、その人の反応は全く違うと思います。伝道というのは、「聖書という原語」を学ぶ事だけではなく、「神の国の文化」を「頭」、「心」、「体」で経験することだと思います。

つまり、キリスト教の本質を伝えるときに、「内容」だけではなく、その「場」と「雰囲気」を通して伝える必要があります。具体的にいうと、周りの人に天の国籍を得ることを説得するために、三つの要素が必要です。それは、①献身的なもてなし ②驚きを引き起こす御言葉 ③違和感を与える望みです。そして、この三つの要素は、一人のクリスチャンとして表すことができません。一つの教会として、一つの共同体として、一つの民として、この三つの要素を「文化」として表す必要があります。前回の説教で紹介した「神の家」の「間取り」に沿って、私たちがどのようにこの三つの要素を表現するべきかを見ていきたいと思います。

最初の要素は、「献身的なもてなし」です。惜しみなく、ケチらずに、愛と真心をこめて、隣人を無条件にもてなし、愛することです。それが最初のステップだと思います。隣人を愛で圧倒することです。

説教の始まりに、「クリスチャンになること」を「自分の国籍を捨て、『神の国』へ移住すること」に例えました。皆さんにとって、変な例えかもしれませんが、実は、それは旧約聖書の伝道の感覚でした。旧約聖書には新約のような伝道はありませんが、イスラエルに住んでいる「寄留者」が神の民に改宗することがよくありました。

「寄留者」というのは、市民権のない外国人で、何等かの理由でイスラエルに住んでいる人でした。「商売」のために住んでいた「寄留者」もいたし、出エジプトの時にイスラエル人と共に奴隷制度から解放された奴隷もいたし、戦争によってイスラエルの配下や奴隷になった人もいたし、結婚でイスラエルに引越した人もいました。もちろん、ラハブやギブオン族のようにヤハウェイの一神教に改宗した「寄留者」もいましたが、自分たちの国の偶像を崇拝していた「寄留者」もいました。つまり、イスラエルの「国籍」を拒否した寄留者は何人かいました。

当時、「寄留者」として異国に住むことは非常に難しいことでした。市民権のない寄留者たちは、政府からは見過ごされ、自分の家族から離れていたのでお金やサポートもなかったのです。聖書では「寄留者」はやもめや孤児と同じように扱われ、社会にとって「負担」となる存在でした。当時は、「人権」という発想もなかったので市民たちはよく「寄留者」を利用することが多かったのです。一番わかりやすい例は、イスラエル人はエジプトでの「寄留者」だったので、エジプトは簡単にイスラエル人を「奴隷」にすることができました。当時の世界観では、寄留者は価値もなく、権利のない、かわいそうな存在でした。そして、寄留者に害を与えても、罰もなかったし、誰も彼らを守る人はいませんでした。

しかし、イスラエルでは、びっくりするような「寄留者」の扱い方がされました。まず、イスラエルの神様はこのように命じられました。
Ex. 22:21 寄留者を苦しめてはならない。虐げてはならない。あなたがたもエジプトの地で寄留の民だったからである。Ex. 22:22 やもめ、みなしごはみな、苦しめてはならない。Ex. 22:23 もしも、あなたがその人たちを苦しめ、彼らがわたしに向かって切に叫ぶことがあれば、わたしは必ず彼らの叫びを聞き入れる。Ex. 22:24 そして、わたしの怒りは燃え上がり、わたしは剣によってあなたがたを殺す。あなたがたの妻はやもめとなり、あなたがたの子どもはみなしごとなる。
みなさん、これは本当にすごいことです。偶像崇拝する寄留者をイスラエル人が苦しませたら、ヤハウェイはそのイスラエル人を罰し、その寄留者を守ると約束されたのです。イスラエルの神様は、外国人の寄留者にイスラエル人のやもめやみなしごと全く同じ人権を与えられたのです。ヤハウェイは人種差別する神様ではなく、弱者の味方なのです。

それだけではありません。神様はイスラエル人に、異宗教の寄留者たちを惜しげもなくもてなすことを命じられたのです。まず神様は、毎週、寄留者と外国人の奴隷に、イスラエル人と全く同じように、丸一日の安息を与えられました(申命記5:12)。そして、すべての人たちに、畑で穀物の刈り入れをして、畑に残っている穀物があれば、それを全て寄留者や孤児、やもめのものにしなさいと神様は命じられました(申命24:19)。つまり、自分たちの収入に余分があれば、寄留者にあげなさいと神様は命令されたのです。それだけではなく、三年に一回、イスラエル人全員が、その年の収穫または収入の十分の一を、イスラエル人のレビ人、孤児、やもめと同様に、異宗教の寄留者にも分けたのです。そして、最後に、イスラエル人達は、7年間の内の一年は、自分たちの土地を休ませました。そして、その一年の間、寄留者はその土地で成長した実を自由に食べることができたのです(レビ25:3-7)。つまり、イスラエルの果樹園は、律法を常に守るイスラエル人を養うためだけのものではなく、神の国に住んでいた偶像崇拝する寄留者たちのためのものでもありました。そして、多くの寄留者たちはこの献身的なもてなしに圧倒され、改宗して、イスラエル人の印、「割礼」を受けた人たちが何人かいました。

エゼキエル47:12の果樹園についても同じ考え方だと思います。前回の説教で、伝道の「場」である教会の「間取り」について分かち合いました。もし教会である「神の家」の前には果樹園があるとします。その果樹園は私たちの「クリスチャンとしての歩み」を表しています。そして、この果樹園の「かぐわしさ」と美しい光景で人を引き寄せると話し分かち合いましたが、「神の家」の果樹園は単なる「飾り」でしょうか?47:12を見ると、「その実は食物となり、その葉は薬となる。」と書いてあります。つまり、果樹園が表している私たちの「歩み」はただの「飾り」ではなく、その目的は隣人をもてなすことなのです。そして、「もてなし」は伝道にとって欠かせない要素です。

想像してみてください。毎日、毎週、毎年、そして何年間も、旧約に書かれているように、無条件にもてなされたら、聖書を拒むと思いますか?クリスチャンを嫌いになると思いますか?むしろ、「なんで偶像を忌み嫌う聖書の神様が、私のような偶像崇拝する外国人をもてなしてくれるのかわからない…ヤハウェイとはどういう神様なのかな…」と考え始めるのは確実だと思います。聖書についてもっと知りたくなると思います。

しかし、忘れていけないのはこの「もてなし」の場は「神の国」の内にあると言う事です。つまり、一人ではできません。「もてなし」中心の伝道前伝道は1対1のテニスではなく、9対1の野球なのです。一人のノンクリスチャンをここまでもてなすために、9人のクリスチャンでその人を囲み、献身的犠牲的にもてなす必要があります。なぜかというと、神様が求めておられる「もてなし」は一人の力ではできないからです。ですから、「もてなし」中心の伝道前伝道は、個人プレイではなく、チームプレイなのです。

そして、「もてなし」の目的が教会である「神の国」の独特な「文化」を表すことだと言う事です。ある国の文化を表すとき、一人よりも大勢のほうが有効です。「天国人」の集まりで、ノンクリスチャンは福音から来る「愛のもてなし」を受け、神様からのおしげもない、無条件の愛を「具体的に」受けることができるのです。体で「神の国」という「文化」を感じ、体験する必要があります。いかがでしょうか?私たちは、神様から頂いた無条件の愛を、どのようにクリスチャンが集まる「場」でノンクリスチャンに表しているでしょうか?

前回の説教の例えに戻りますと、問題は多くのクリスチャンたちは「神の家」の「庭」にある果樹園で隣人と挨拶し、もてなすが、それだけで満足してしまう事です。私たちはノンクリスチャンを「神の家」の中に招待する必要があります。しかし、中に招いてから、次に、私たちは「神の家」の食卓でどうしたらいいのでしょうか?ここで、次の要素を紹介します。それは、驚きを引き起こす御言葉です。

また冒頭にあった質問に戻りますが、私たちはいかに周りの人に自分の国籍を捨てて、天の国籍を得るべきかを説得できるのでしょうか?「人の心をつかむ道は胃袋から」という表現は皆さん聞いたことがあると思います。伝道も同じだと思います。人の心をつかむ道は御言葉という「クリスチャン料理」だと思います。前回の説教で、教会である「神の家」の中心には食卓があり、「御言葉」という贅沢な御馳走が並べられて、その食卓の上座(かみざ)に座られているのがイエス様で、大勢の人たちがイエス様を囲み、「御言葉」を食べて楽しんでいると、お話ししました。ですから、もしノンクリスチャンが「神の家」の食卓に着いたら、一番自然なのは、おいしい「御言葉」を食べさせることです。しかし、私たちの目的は口に合った「御言葉」を提供するのではなく、「御言葉」でノンクリスチャンを「驚かせる」ことなのです。

「料理」というのは、単にカロリーと栄養を摂る手段でもないし、ただの「食べ物」ではありません。「料理」というのは、その民族の文化を体と心で味わえる手段でもありますし、「料理」の特徴によってその民族の文化の違いもわかります。同じように、「御言葉」は単に「神様についての知識」を得る手段ではありません。「御言葉」というのは、「神の国」の文化を心で味わう手段でもありますし、御言葉の特徴によって「神の民」と「この世の価値観」の違いをもより理解することができます。

では、「御言葉」という「クリスチャン料理」は何でしょうか?二つの特徴的な味が入っています。「律法から出る辛さ」と「福音から出る甘さ」です。エゼキエル47章の預言によると、神殿から来る川は聖霊様で、聖霊様はいつも御言葉を通して働かれます。そして、聖霊様は御言葉を通して私たちの心に働かれるとき、主に二つのことをなさいます。まず、聖霊様は神様の律法によって、私たちの罪の深さを明らかにし、私たちの心を突き刺します(ヨハネ16:8,使徒2:37)。次に、聖霊様は神様が約束された「良い知らせ」、つまり、「福音」によって、キリストにあるびっくりするような神様の愛で私たちを驚かせます(ヨハネ14:26)。つまり、汗が出るほどの律法の辛さと、自然に笑顔になるような優しい福音の甘さがないと「クリスチャン料理」にはならないのです。そして、面白いことは、律法が辛ければ辛いほど、福音の甘さが増すのです。そして、福音が甘ければ甘いほど、律法の辛さが増すのです。これが「御言葉」という料理の特徴なのです。私たちが御言葉を人に分かち合う時、律法の辛さと福音の甘さは入っているでしょうか?

そして、もし人に律法の辛さと福音の甘さを薄めずに「御言葉」をそのまま食べさせたら、律法の辛さに心が刺さらない人、また、福音の甘さに驚かない人はいないと思います。もちろん、御言葉を受け入れない人もたくさんいますが、驚かない人はいないと思います。なぜなら、御言葉以上に私たちの罪を明らかにするものはありませんし、聖書の神様の愛以上に深い愛はないからです。この世にない味を味わって、驚かない人はいません。しかし、伝道に関するよくある問題は、人の口に合わせるために、「御言葉」の味を薄め、驚きを薄めてしまうことです。アメリカにも、日本料理店がいくつかありますが、アメリカ人の口に合わせるために、クリームチーズやアボカドの入った巻き寿司やチリソースが掛けられた揚げ手巻き寿司を売っている日本料理店がたくさんあります。アメリカ人にとっては、おいしいかもしれませんが、日本食ではないのは確かです。つまり、日本風アメリカ料理なのです。伝道に言い換えると、驚くほどの律法の辛さと福音の甘さのない「御言葉」は、クリスチャン風の「この世」の価値観なのです。

しかし、もう一回言いますが、伝道は教会またはクリスチャンが集まっているところで行うべきです。この場面を想像してみてください。ある人が御言葉を一口食べて、「こんなに辛いものとこんなに甘いもの楽しんで食べる人がいるのか?!」思った瞬間、食卓に集まっている人たちを見ると、クリスチャンたちがすごい勢いで食べているのを目にします。クリスチャンたちは舌が燃えるほど辛い律法を食べて、自分たちの罪深さを大胆に告白し、汗と涙を流しながら分かち合います。そして、次の一口で、舌がとろけるほど甘い「福音」を食べて、イエス様の救いのすばらしさを大声で褒めたたえます。そしてまた辛そうな律法を食べて、このサイクルを繰り返すのです。とても変な光景なのですが、御言葉という「クリスチャン料理」が天国人の文化の核心を表しているのです。皆さんのクリスチャンの集まりはいかがでしょうか?自分たちの罪との戦いについて分かち合っていますか?イエス様の救いを褒めたたえていますか?ノンクリスチャンにとって、クリスチャンの集まりは「異文化」の独特な「香り」がしているでしょうか?

もしそうでなければ、その裏に根本的な問題が潜んでいるかもしれません。御言葉ではなく、私達は違った食べ物を食べているかもしれません。または、私たちが御言葉の辛さと甘さに何か抵抗を感じているのかもしれません。単に自分たちの罪深さを見たくないのかもしれません。または、私たちの「良さ」や「頑張り」を否定されるような恵みの救いを受け入れたくないのかもしれません。皆さんは御言葉を食べるとき、薄味にする傾向がありますか?それはなぜでしょうか?

しかし、最も印象に残るのはある文化のやさしさ、ある文化の料理と特徴ではなく、その文化が持っている望みだと思います。なぜかというと、その民の望みはその民の行動、話し方、姿勢の根底にあるからなのです。そして、言葉にしなくても、私たちの振舞い、価値観、話し方、優先順位、お金や時間の使い方などによって、その人の望みがどこにあるかを感じさせる事が出来ます。では教会の食卓についている人からどのような望みを感じとれるのでしょうか?注意したいのは、彼らが公に言う望みではなく、彼らの振舞いで感じとれる望みです。

単刀直入に言いますと、ここが伝道の「決め手」だと思います。やさしい教会、御言葉を楽しむ教会を建てても、ノンクリスチャンがクリスチャンと接し始めると、「この人は快楽のために生きている。」「この人は人に好かれるために生きている。」「この人は家族のために生きている。」と自然に感じ始めたら、「クリスチャンと私が求めるものは全く同じだ」と感じ、クリスチャンになる気は一瞬で消えると思います。

しかし、神様が望まれている教会はこの世界の「負け組」の人々です。そして、イエス様は、神の国の「天国人」をこのように描かれます。天国人に自分の人生を自由に扱うためのお金、力、名誉、地位を得る為の保証は全くありません。天国人にはこの世の人に好かれるための美、知識、能力、いい性格を得る為の保証も全くありません。天国人には、この世の人生を幸せに過ごすための快楽、快適さ、友達や家族からの愛、達成感のあるキャリア、心地いい退職生活なども全く保証されていないのです。むしろ、それをすべて失う傾向にあります。しかし、最低な人生を送っていたとしても、なぜかクリスチャンは幸せで、楽しく御言葉を食べ、惜しげもなく隣人をもてなす事ができるのです。そんなクリスチャンを見ると、ノンクリスチャンはこんな疑問を最後に持つと思います。「何でこの世が望んでいるものを持っていないのに、こんなに落ち着いていて、幸せそうで、生き生きしているの?あなたたちが望んでいるものは何ですか?!」という質問です。

つまり、クリスチャンの望みは一般の人に「違和感」を与えるものです。この世の人とクリスチャンの間に境界線を引くものなのです。しかし、ノンクリスチャンは教会に来て、どんな「望み」を感じとれるのでしょうか?私たちの小グループに来て、私たちが祈るとき、どんな「望み」を感じとれるのでしょうか?いい大学か就職先に受かることでしょうか?結婚して、幸せな家族を築き、子供たちにいい大学へ行かせ、退職して人生を満喫することでしょうか?または、単にみんなに好かれ、平均よりも頭がよく、比較的いいひとになることでしょうか?もしそうであれば、その望みは一般の日本人とあまり変わらないので、ノンクリスチャンは違和感を感じずに心地よく教会へ来れます。しかし、また言いますが、クリスチャンの望みは「違和感」を与えるものです。この世の人たちに違和感を与えていないのなら、この世の人と似た「望み」があるかもしれません。

しかし、伝道の「場」は私たちが何をするところでしょうか?ただ言葉だけではなく、体で、歩みで、自分の振舞いで、ノンクリスチャンに私たちの望みを見せることです。「神の家」である教会の間取りの例えに戻りますと、「食卓」の後ろには大きな窓がずらっと並んでいて、その窓から天の「神の都」を眺められることができます。そして、その風景を指しながら、私たちはこう答えるべきです。「天の「神の都」で私たちの神様、全てを支配する王、復活された救い主、私たちの花婿と永遠に過ごすことが私たちの望みです。」

私は「復活」という映画の場面を想像しています。この映画は、イエス様がなくなられた後の話なのです。十字架で死なれたイエス様の遺体がなくなり、主人公であるローマ兵が遺体の在処を探す話なのです。もちろん、ローマ兵は未信者であり、キリスト教なんか信じていません。そして、このローマ兵は11人の弟子たちと出会うのです。ローマ兵は弟子たちを捕まえて、イエス様の遺体を探し出すために、いろんな手を使います。しかし、お金で釣っても、彼らの恥ずかしい裏切りを思い出させても、十字架刑で彼らを脅しても、何にも通用しないのです。変なことに、弟子たちはただ笑ってるんですよ。「そんなのどうでもいい!イエス様が復活したんだよ!わはははは!」と何かの祭りのように11人の弟子たちが騒ぐのです。しかし、皮肉なことに、今までローマ兵はイエス様の復活を疑っていたのですが、その瞬間で「彼らは本当に復活されたイエス様を見たかもしれない」と考え始めるのです。つまり、違和感を与える弟子たちの復活の望みは、真実であることの証明だったのです。ですから、クリスチャンたちにこの世の喜びがなくても、ノンクリスチャンは納得すると思います。「なるほど。この人たちは「神の都」が本当に存在していると信じてるんだ。だから、こんなに苦しんでも希望があるんだ。どういう天国なんだろう。」と彼らが思った瞬間が伝道のチャンスなのです。もちろん、これは一人ではできません。一つの「民」として、天国人の「文化」、「特徴」、「望み」を感じさせる必要があります。

いかがでしょうか?私たちは死からの蘇り、永遠のいのち、イエス様の救いを本当に事実として受け入れて、ノンクリスチャンに違和感を与えるような望みを持っているのでしょうか。その望みを土台にして、隣人を惜しげもなくもてなし、驚きを引き起こす御言葉を楽しみながら、伝道の「場」を建て上げてみましょう。お祈りします