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10月11日礼拝の音声ファイルです。

2020年10月11日 礼拝式順

前   奏                    
招きの言葉    詩篇 31篇 21-24 節
さ ん び    その愛よりも
さ ん び    静まって知れ-Still
開会の祈り                 
主 の 祈り
教会福音讃美歌  312番 主とともに罪に死に
聖 書 朗 読     ヨシュア記 1章 1-9節
聖 書 の 話    「神様を信頼する勇気」 マーク・ボカネグラ牧師
教会福音讃美歌  353番 あなたこそわが望み
献   金            
報   告
とりなしの祈り    
頌栄(教会福音讃美歌) 272番 みつにましてひとつの神
祝   祷                           
後   奏 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

ヨシュア記1:1-9 – 神様を信頼する勇気
『天路歴程』はプロテスタントの世界で最も多く読まれた宗教書です。この本は堅苦しい神学を淡々と説明する本ではなく、クリスチャンライフを 主人公が「天の都」へ向かう冒険として描いている本です。この冒険のある場面は今日の聖書箇所を上手く描いていると思います。主人公であるクリスチャンは、山の上にある美しい宮殿に向かっていました。そこは冒険者クリスチャンに安らぎを与える場所です。そして、神様はクリスチャンがその宮殿に行くための最善で、最短な道を教えてくださり、彼がその道に沿って歩むなら、神様は完全に彼を守り、救いと勝利を与えてくださると約束されました。しかし、クリスチャンがその道に沿って山を昇っていると、二人の冒険者が慌てて山を降りてきました。そこで、クリスチャンは二人に何があったのか尋ねてみました。「宮殿への神様の道を歩いていたら、その道の右側と左側に恐ろしいライオン2頭いたんだよ!絶対食われる!やめた方がいいよ!」と二人は叫びました。クリスチャンが山に昇っていくと、その二人が言った通りでした。神様の道は美しい宮殿に続いていますが、入り口の右側と左側に2頭のライオンがいて、宮殿に行くには、そのライオンの間を通る必要がありました。どう見ても確実に食べられるパターンです。

もしあなたが主人公のクリスチャンだったら、神様が照らしてくださった道をぶれずに歩めますか?あなたはこのような試練を通っているクリスチャンかもしれません。または、まだ信仰告白をしていない人かもしれません。普通の人であれば、怖がってその道を歩まないでしょう。

しかし、宮殿の入口に立っていた男が主人公クリスチャンにこう呼びかけます。「どうして怖がるのか?まだ信仰がないのかい?ライオンを怖がるな。あの2頭は鎖で縛られている。この2頭はあなたに信仰があるかどうかを試す試練なのだ。道に沿って歩むならライオン達はあなたに触ることはできない。」主人公のクリスチャンは怯えながら、道に沿って歩いて行きました。ライオン達が吠えるのは聞こえましたが、彼は少しも傷つけられませんでした。

私たちが人生のいろんな試練を通るとき、そして、いろいろな恐れを感じるとき、常に問われるのは、「私たちが恐れるものの力 または神様の約束の力 どちらを選ぶか。」ということです。山から下りてきた二人のように神様の約束をあきらめることを選ぶか、または神様の約束に期待して進むかです。ヨシュアは似たような状況にいました。ヨシュアは美しい宮殿は見ませんでしたが、美しい約束の地を見ることができました。そしてそこには、2頭のライオンではなく、カナン人の強大な兵隊たちが約束の地を守っていました。二人の冒険者ではありませんが、イスラエルの民もびくびく怯えながら、ヨシュアに約束の地へ入ることをやめさせようとしました。しかも、ヨシュアを導いてくれたリーダーであったモーセも亡くなっていました。しかし、それにもかかわらず、神様は約束の地への道をヨシュアにはっきりと示されました。ヨシュアはどちらを選ぶでしょうか?恐れているものの力を選ぶか、神様の約束の力を選ぶか。神様は、ご自分に対するヨシュアの信頼を試されていたのです。そして、神様はこの箇所で三つの命令をもってヨシュアを励まされました。

まず、神様はこうヨシュアを励まします。「神の約束を思い出しなさい。」

この最初のステップは非常に大事です。「あなたのメンターであるモーセが成し遂げたことを思い出しなさい」ではありません。「あなたのミッションとビジョンの重要性を思い出しなさい」でもありません。「あなたが乗り越えた激しい試練を思い出しなさい」でもありません。神様は「神の約束」を思い出しなさいとはっきりと命令しておられます。

つまり、「誰があなたに約束したか忘れたのか?全知全能の「神」があなたに何かを約束したんだよ。」と2節で主張されています。神様はこうヨシュアを励まされます。「もちろん、海を割ったモーセは死んだ。しかし、あなたに約束しているのはモーセではない。全知全能の神、あなたのすでに死んでいる父祖であるアブラハム、イサク、ヤコブに約束した永遠に生きている神が約束したのだ。約束はモーセと共に死ななかった。なぜ恐れるのか?」と言われます。

そして、神様は3-4節でこうおっしゃいます。「私がどのようにあなたに約束したか忘れたのか?私はこの「約束の地」をあなたに「遺産」として与えると約束したのだ!」もちろん、神様は全てのことにおいて勝利を与えるとは約束されませんでした、しかし、神様はこの乳と蜜のあふれている、膨大な「約束の地」を「遺産」として一方的にヨシュアに与えてくださるのです。「遺産」を受け取るために、何か条件がいりますか?いいえ。ただ遺産を与えてくれる人の言葉を信じて受け取るだけです。そして、それはあなたの行いによって受け取る「遺産」の大きさが変わる事はありません。しかし、もし「遺産」を約束してくれた人を信頼していないのだったら、その遺産の存在を疑うでしょうし、「遺産」を受け取ることもできません。」と注意されました。

最後に、5節で神様はこう言われます。「私の過去の約束を忘れたのか?私が約束を破ったことがあっただろうか?」パロが神様に逆らおうとしても、神様は十の災いを送り、海を割ってイスラエルを解放する約束を成し遂げられました。荒野でオグ王とシホン王が神様を妨げようとした時も、神様は彼らを全滅させ、イスラエルを守る約束を成し遂げられました。イスラエルが何回も神様を裏切って神様を妨げようとした時も、神様は、裏切り者を裁かれ約束の地へ連れていくと言う約束を成し遂げられました。
ですから、神様はこうヨシュアに約束されます。「わたしはモーセとともにいたように、あなたとともにいる。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」神様はこのようにヨシュアを力強く励まして下さいました。

しかし、もしこの時点でヨシュアが「神様、あなた様の力強い約束を感謝します!御名を褒めたたえます。しかし、私は、神様が力強いお方だと言う事を知っていますが、もし私たちに500台の戦車を送っていただければ、私は安心することができます。神様が「遺産」を無条件で私に与えてくださるのは感謝なんですが、私も何か準備する必要が当然ありますよね?そして、神様は前に約束を成し遂げられましたが、この約束は前になかったので、100%成功するとは言い切れないと思うんですが…」と答えたらみなさんはどう思いますか?ヨシュアが、もし、そのように言ったとしたら、ヨシュアの恐れの裏には、「神様の力は足りない」または、「神様の約束に納得できない」という強い思いがあったと言えます。

私たちも同じです。私たちに「神様の約束」が与えられていても、試練を通るとき、すぐに怖がってしまいます。「神様、あなたの約束には感謝しますが・・・私には力も経験もないし、お金も影響力もないし、あなたから何の保証もありません。だから、試練を通るとき『神様の約束』だけで全部片づけることはできません」と思ってしまうことはありませんか?つまり、私たちが恐れる時とは、私たちが『今持っているもの』と『神様の約束』だけでは満足していないときです(ヘブル書13:5-6)。そして、恐れる時は、私たちの不安を抑えるお金、経験、影響力、美、人、愛で満足しようとする時です。皆さんはそのように思う時がないでしょうか?『神様の約束』をなにと取り替えようとしていますか?

激しい試練を通るとき、「神の約束」を思い出すのは非常に難しいです。ですから、神様は次に、「神の約束を思い出して、強く、雄々しくあれ!」と命じられました。

クリスチャンにとって信仰生活の中で、強く、雄々しくなることは欠かせない要素です。この9節の中で、「強く、雄々しくあれ!」という命令は3回も繰り返されています。しかし、神様から力強い約束を頂いているのに、なぜ「強く、雄々しく」なる必要があるのでしょうか?それは「約束の地」という「遺産」を受け取るまでの道程が非常に険しいからです。

考えてみてください。ヨシュアの前に、神様はアブラハムに「約束の地」を約束されましたが、アブラハムはその「遺産」を受け取るために、自分の故郷を離れ、何十年も放浪する必要がありました。神様はイスラエルにエジプトの奴隷制度から解放されることを約束されましたが、解放する前にエジプトはイスラエルを激しく迫害しました。神様はヨシュアに勝利を約束されましたが、ヨシュアは強大なカナン軍に戦争布告する必要がありました。つまり、「神の約束」を受け取る道は、様々な試練を受け取る道でもあるのです。

ですから、私たちは「強く、雄々しく」なる必要があります。私たちがこの道を通るとき、神様の敵は「この道は険しすぎる。」「『遺産』のためにここまで苦しむ必要はない」「自分の周りを見なよ。その道を歩んでいる人いないよ」とささやいて私たちを止めさせようとします。しかし、私たちはそのささやきをただただ聞くのではなく、「そんなの嘘だ!」と「強く、雄々しく」戦う必要があるのです。信仰はあったかいこたつに入って、みかんを食べながら「神の約束」という番組をテレビで見るのではなく、信仰は、「勝つぞ!」と将軍である神様とその約束を信頼して、神様の盾の下で、神様の後ろを追いかけながら敵に突進するようなことです。

しかし、正直、私がこれを聞いて、このように思いました。「ヨシュアさん。私はそんなカッコいいことできないよ。私は臆病者だから。そもそも、そんな根性もガッツもないんですよ。」と言うと思います。しかし、皆さん、信仰の源は「ガッツ」ですか?「根性」ですか?天路歴程の例えに戻りますが、主人公のクリスチャンは、神様が用意してくださった宮殿への道を見て、2頭のライオンを恐れて、帰ろうとしたのです。彼は根本的に臆病者でした。しかし、何をきっかけにして前に進んだのでしょうか?宮殿の入口に立っていた男は主人公のクリスチャンに「神の約束」をもう一度聞かせました。つまり、主人公のクリスチャンの勇気の源は自分の内にある「根性」ではなく、自分の外から来る「神の約束」だったのです!アブラハム、イサク、モーセ、ペテロは聖書の「信仰の英雄」たちと考えられがちですが、彼らはみな根本的には臆病者でした。しかし、試練を通った時、彼らは「神の約束」を思い出して信じた故に、強く、雄々しく、神様を信頼することができたのです。

クリスチャンでも、未信者であっても、試練を通るときに信仰を告白することは非常に恐れの多い行為だと思います。世界は「いや、そのクリスチャンの道を通ったら絶対にこの世に食われるし、楽しくないし、何の益にもならない。やめた方がいい」と私たちに言います。しかし、私たちがイエス様を自分の主として告白するとき、ある意味、神様の約束を信じて、神様が用意してくださった「遺産」に向かって、ライオンの間を通る瞬間でもあります。もし洗礼をもうすでに受けたのなら、あなたはすでに「強く、雄々しく」神様を信頼したのだし、今も信頼しているのです。ですから、信仰を告白した人は「私には勇気がありません」とは言えないのです。

しかし、現実は、私たちはクリスチャン生活の中でライオン2頭の間を数回通る必要があると言う事です。ですから、「神の約束を思い出して、強く雄々しく御言葉に従いなさい!」と神様は言われます。それが三つ目の命令です。

忘れてはいけないことは、ヨシュアのミッションはただ一つの戦いに勝つのではなく、長い「戦い」に勝ち続けなければならないと言う事でした。クリスチャン生活は100M走ではなく、マラソンなのです。ただ平たんな一直線をマラソンするのではなく、道もないジャングル山登りマラソンです。

ですから、神様はこういわれます。「自分の力で最善、最短、最速の道を見つけるのは不可能だから、私の御言葉通りの道にそって歩みなさい。」そのため、神様はこのようにヨシュアに命令されました。
7 ただ強くあれ。雄々しくあれ。わたしのしもべモーセがあなたに命じた律法のすべてを守り行うためである。これを離れて、右にも左にもそれてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたが栄えるためである。 8 このみおしえの書をあなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさめ。そのうちに記されていることすべてを守り行うためである。そのとき、あなたは自分がすることで繁栄し、そのとき、あなたは栄えるからである。
つまり、「強くあれ、雄々しくあれ」ということは、「リスクをとって、マッチョな肉食男子になれ」ということではありません。クリスチャンライフが道もないジャングル山登りマラソンだとしたら、神様が私たちに求められる勇気は、「何があっても、神様の道に沿って歩む」と言う意味の勇気なのです。何があっても、イノシシが突進して来ても、ライオンが吠えても、心地いいオアシスが見えても、「近道がありそう」だと思っても、神様が用意してくださった道を離れず、右にも左にもそれない勇気を神様は私たちに求めておられるのです。神様は私たちに「クリエイティブ」な道を造ることを求めてはおられません。カッコよく道を歩むことも求めておられません。ただただ御言葉に記されていることすべてを守り行う勇気を求めておられるのです。カルヴァンは雄々しく、積極的に、勇気をもって進む不従順よりも、女々しく、のろい、弱々しい従順さの方がいいと言いました。

しかし、私は「強く」または「カッコよく」神様に従うことを見せびらかしたい願望がかなり強いのです。私は周りの人たちを意識しすぎて、「カッコよく」神様に従うために、神様の御言葉に従わなかったことが何回かあります。皆さんは、いかがでしょうか?「カッコよく」、「強く」、「美しく」見せることによって、神様が求める完璧な「従順さ」を手放したことがありますか?しかし、神様が求められる「従順さ」は私たちの「カッコよさ」とは全く関係がありません。むしろ、神様に信頼して従うことは、どう考えてもカッコ悪いことです。しかし、周りの人があなたの神様に従う姿を女々しい、奇妙、気持ち悪いと思ったとしても、神様の道から離れないで前に進むように「強くあれ、雄々しくあれ」と命じておられるのです。

私たちはこのように「強く、雄々しく」神様の道を歩んでいるでしょうか。前回の説教で説明したように、ヨシュア記の第一の目的は私たちの「従順さ」を認めることではなく、私たちの「不従順さ」を明らかにすることです。ヨシュア記の内容は「ヨシュアを見よ!彼は完全に神様に従って約束の地を獲得した。だから、あなたたちも天国という遺産を受け取るために、神様に従いなさい!」と言う事ではなく、「神様の律法のすべてを守り行える人はいるでしょうか?やってみなさい。あなたは失敗するでしょう」というメッセージです。

そして、考えてみてください。今日の聖書箇所は誰に向けて書かれているものですか?神の民、全体にでしょうか?いいえ。神様はヨシュアだけに書かれたのです。そして、6節をよく読んでください。
強くあれ。雄々しくあれ。あなたはわたしが父祖たちに与えると誓った地を、この民に受け継がせなければならないからだ。
最後の部分が一番大事です。つまり、ヨシュアの「強さ」、ヨシュアの「雄々しさ」、ヨシュアの「従順さ」によって、この民に「約束の地」を受け継がせなければならないのです。これは本当にびっくりするような展開です!

要するに、イスラエルの民は一人一人の「強さ」、「雄々しさ」、「従順さ」によって「遺産」を受け取るのではないのです。ヨシュアがイスラエルの「代表」または王様として、強く、雄々しく、神様の律法を守り、この民に「約束の地」を受け継がせなければならないのです。ヨシュア記1:8節の「このみおしえの書をあなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさめ。そのうちに記されていることすべてを守り行うためである。」は申命記17章を引用しています。そして、申命記17章はイスラエルの代表である王様の責任について詳しく書いてあります。王様の責任は戦争に勝つことではなく、経済を活性化させることでもなく、民を祝福することでもなく、ただ「神様の御言葉」だけに従うことでした。そして、王様の「従順さ」によって神様は勝利を与えられ、経済を活性化し、民を祝福されるのです。それは、常に罪を犯し、常に不従順であるイスラエルにとって、素晴らしいニュースでした!そして実際に、代表であったヨシュアが従順だったので、神の民は「約束の地」を受け継ぐことができたのです。

しかし、大きな問題があります。もしヨシュアが死んだら、どうなるのでしょうか?強くて、雄々しい、従順な王様がいなければ、神の民は「約束の地」、神様からの「遺産」を全て失う事になります。そして、旧約聖書を読むと、それが結論であった事がわかります。そして、何百年もイスラエルは次の「強い、雄々しい、従順な王様」を待っていたのです。そして、その王様は実際に来られました。その王様は「イエス様」です。実は、イエスという名前はヘブル語では「ヨシュア」なのです。つまり、イエス様は究極のヨシュア王なのです。

考えてみてください。誰が一番強く、雄々しく、神様の道からそれず、神様の御言葉のすべてを守り行った王様だったでしょうか?イエス様しかいません。そして、イエス様の従順によって、私たちは神様からの遺産、天国という「約束の地」を受け継ぐことができるのです。

イエス様が一番「神の約束」を思い出し続けた神様のしもべです。サタンがイエス様に水もパンもない荒野で、過酷な40日間の試練を与えたとき、真のヨシュア王であるイエス様は「神の約束」を思い出したのです。「お金、経験、影響力、美、人、愛よりも、「神の約束」は断然私たちを満たすことができる。『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と神様は約束してくださったから、私は信頼する」と真のヨシュア王はおっしゃいました。

真のヨシュア王が一番「神様の約束を思い出して、強く、雄々しく神様に従った」神のしもべでした。12人の弟子達と神の民に「イエス様!十字架に行かないで!それよりも私たちのためにカッコよくエルサレムを勝利に導いてくれ」と言われても、真のヨシュア王はカルバリーへ突撃しました。この世の権力者はイエス様につばを吐き、馬鹿にし、真のヨシュア王を十字架にかけ、恥をかかせました。しかし、真のヨシュア王は十字架へと続く神の道を右にも左にもそれず、死に至るまで神様の約束を思い出して、強く、雄々しく神様を信頼しきったのです。

しかし、イエス様が十字架に掛けられたのは、神様が御自分の約束を守らなかったからということでしょうか?十字架上でイエス様は詩編22篇を引用してこのように叫びました。「わが神 わが神 どうして私をお見捨てになったのですか。 」あるクリスチャンは、神様はイエス様をお見捨てになり、イエス様は絶望されたのだと解釈しますが、本当にそうでしょうか?イエス様が引用された詩編22篇の終わりを読むと、「どうして私をお見捨てになったのですか」と叫んでいる人は、最終的に神様が勝利をお与えになることを期待しているのです。激しい試練の中でも、神様は絶対に約束を守られると言う強い信頼が書かれている詩編なのです。ですから、これは私の勝手な想像かもしれませんが、イエス様が詩編22:1の言葉で神に叫ばれたとき、神様は御自分の息子にこう応えられたのではないかと思います。
「わが子よ。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたの神、主があなたとともにおられるのだから。」
そして、その瞬間、イエス様は御父の御怒りを受けられ、私たちの「遺産」を獲得してくださったのです。しかし、御父はイエス様をお見捨てになられたのでしょうか?全くそうではありません。神様のお約束通りに、三日後に、御父はイエス様を死から蘇らせ、お約束通りに、天においても地においても、すべての権威をイエス様に与えられ、お約束通りに、天まで昇らせ、御父の右の座をイエス様にお与えになりました。神様はイエス様への約束を守られたのです!

このような神学的な話は難しいかもしれないので、天路歴程の例えのマーク版に言い換えます。イエス様は私たちが試練を通るときに、このように言われます。「わが友よ。ライオンの間にある道を誰が造ったと思うか?私なのだ。私が前もって歩んだから、これが一番安全な道だと保証する。ライオンを縛っている鎖が見えるか?誰がその鎖をつけたか知ってるか?私がこの道を通ったときに、あなたを守るためにライオンと戦い、その鎖を付けたのだ。そして、あの宮殿の入り口に立っている男が見えるか?それが私だよ。怖がってるなら安心しなさい。私とあなたをつなぐ聖霊様というロープがあるから、大丈夫だ。怖がったり、迷ったりする時、または、違う方向へ行ってしまうとき、私がロープを引っ張ってあなたを守る。安心しなさい。御父が私を見捨てなかったように、私はあなたを見捨てない。」

イエス様は真のヨシュアで、私たちのために、天国という「約束の地」を獲得して下さった救い主です。ですから、私たちはイエス様の素晴らしい約束を思い出しつつ、強く、雄々しく、試練を通りながら、神様の道を歩みましょう。期待してお祈りしましょう。

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