2023年5月7日礼拝 説教「一杯の食物と引き替えに」

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礼拝式順

前 奏  Prelude

神の招き Call to Worship

司会者   主イエス・キリストの恵みがあなたがたすべてとともにありますように。

会衆     主の恵みがありますように。

司会者   さあ、主に向かって喜び歌おう。われらの救いの岩に向かって、喜び叫ぼう。

会衆     感謝の歌をもって、御前に進み行き、賛美の歌をもって、主に喜び叫ぼう。

一同     主は大いなる神であり、すべての神々にまさって、大いなる王である。

開会の賛美 Opening Praise 教会福音讃美歌322番「こひつじ主イェスの」1-4番

開会の祈り Opening Prayer

 

罪の告白の招き Call to Confession of Sin イザヤ書 Isaiah 55:6~7

罪の告白の祈り Common Prayer of Confession

会衆     あわれみ深い神よ。私たちはあなたに対して罪を犯したことを告白します。思いと言葉と行いにおいて、禁じられたことを行い、すべきことを怠りました。私たちは心と知性と力を尽くしてあなたを愛しませんでした。自分自身のように隣人(りんじん)を愛することもできませんでした。あわれみのゆえに、これまでの私たちをお赦しください。今ある私たちを造り変え、私たちのこれからの歩みを導いてください。そうすれば、あなたのみ心を喜び、あなたの道を歩むことができます。あなたの聖なる御名の栄光が現われますように。

アーメン。

個人的な告白( 黙祷のうちに )Private Prayer of Confession (quietly)

赦しの確証 Assurance of Pardon 詩篇 Psalm 32:1~2

会衆     アーメン。

平和のあいさつ Passing the Peace

司会者   神はキリストによって私たちを赦してくださいましたから、私たちも互いに赦しの恵みを分かち合いましょう。私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平和があなた方の上にありますように。

会衆    主の平和が、あなたとともにありますように。

 

賛美 Praise 教会福音讃美歌 465番 「キリストにはかえられません」

 

みことばの宣教 Reading and Proclamation of the Word

聖書朗読          創世記 Genesis 25章1〜34節

聖書の話    「一杯の食物と引き替えに」                                             マーク・ボカネグラ牧師

 

説教応答の賛美 Response of Praise 教会福音讃美歌390番
「主よわれは君のもの」

 

聖晩餐式 Communion                                        マーク・ボカネグラ牧師

[制定のことば] コリント人への手紙第一 I Corinthians 11:23~29

[式 辞][祈 り][分 餐]

配餐者 青木宏太長老 大場清文長老 那須宗泰長老

一同      私たちの贖い主イエス・キリストの父なる神よ。私たちは、主の聖晩餐(せいばんさん)にあずかることができた恵みを心から感謝いたします。この主との親しい交わりにおいて与えられた祝福によって、神の子、光の子らしく歩む誓いに生き、各々の十字架を負いつつ御国で祝うその日まで、この聖礼典(せいれいてん)を重んじ、守らせてくださいますように。

私たちの贖(あがな)い主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン。

献 金 Offering

報 告 Announcements

頌  栄 Doxology 教会福音讃美歌272番 「みつにましてひとつの神」

祝 祷                                                       マーク・ボカネグラ牧師

後 奏 Amen  讃美歌567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

 

聖書の話(説教)「一杯の食物と引き替えに」

 

子供たちに少し難しい質問をします。この質問の答えが当たったら、お菓子をあげます!双子の男の子がいます。どちらの子どもが神様に祝福されると思いますか?1人は、背が高くてイケメンで、スポーツも勉強もできる、いつも親孝行な一郎くん。もう1人は、いつも家に引きこもっていて、学校にも部活にも行かないで、いつもいたずらばかりして、全然親孝行をしない二郎くん。どっちの男の子が神様に祝福されると思いますか?正解は…全然わかりません!どうしてかというと、神様は、私たちに祝福を与えようとするとき、私たちのすることを全然見ないからです。神様は「一郎くんはいい子だから、一郎くんを祝福する」、「だけど、二郎くんが可哀そうだから、二郎くんを祝福する」というような条件によって、私たちを祝福するようなことはされません。しかし、ある日、イエス様が現れて、私たちに永遠のいのちを約束します。一郎くんは、イエス様を見て「え、イエスって誰?僕は、あのお兄さんよりもお父さんのためにプレゼントを買おう」と言います。しかし、二郎くんは、コンビニで100円のアイスを万引きして来て、イエス様に「どうか僕が盗んだアイスをあげるから、僕に永遠のいのちをちょうだい!」と謝りもしないで言います。どっちが神様に祝福されると思いますか?実は、はっきり言うと、一郎くんではなく、二郎くんなんです。それは、二郎くんが、良いことをしたからではありません。万引きした二郎くんは、親孝行の一郎くんよりもよっぽど悪かったのですが、二郎くんが祝福された理由は、イエス様が約束された永遠のいのちを望んだからなのです。それだけです。

今日の話は、アブラハムの子供たちの話です。神様の祝福を得た子供たちと、神様の祝福を得られなかった子供たちに分かれます。その象徴として、アブラハムの子孫として双子が生まれました。長男のエサウと次男のヤコブです。(エサウは一郎くんで、ヤコブは二郎くんですね。)神様がエサウに永遠のいのちを約束してくださったのに、エサウはその約束を一杯のスープのために売ってしまいました。一方、ヤコブは、どんなに汚い手段を使ってでも、その永遠のいのちを自分のものにしょうとしました。神様は、ヤコブを祝福してくださったのですが、その理由は、ヤコブが何かいいことをしたからではなく、ただ神様の約束を信じて、神様の永遠のいのちを望んだからです。その意味をもっと理解するために、本日の箇所を見ていきましょう。

 

私たちは、約1年前からアブラハムとサラの話を学んで来ましたが、この箇所はアブラハムとサラの話のエピローグとも言えます。アブラハムとサラは、創世記12章から約25年間も、神様の約束の成就を待ち望んでいました。神様が2人に約束されたのは、アブラハムとサラの間に生まれる子によって、彼らを①王家にすること、アブラハム家を②世界を治める王国にすること、そして③彼らに永遠の約束の地を与えることでした。彼らは、21章でやっとその成就の始まりを見ることができました。100歳のアブラハムと90歳のサラに、奇跡的にイサクという息子が与えられたのです。前回の聖書箇所では、彼らの一人息子イサクに同じ信仰をもっている結婚相手が奇跡的に与えられ、アブラハムの最後の願いがかなえられました。神様が最初から最後までアブラハムとサラを守り、慰め、喜びを与えてくださいました。そして「アブラハムは幸せな晩年を過ごし、年老いて満ち足り、息絶えて」175歳で死にました(25:7)。約束の地での「土地」も与えられませんでしたし、「王国」も与えられませんでした。しかし、死を迎えたアブラハムとサラは全く失望しませんでした。

「彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。ですから神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。神が彼らのために都を用意されたのです。」(ヘブル書11:16)。

つまり、アブラハムが頂いた神様の約束は、神の約束を信じることによって、彼らが「」の王家となって、「」の王国に入れられ、「」の永遠の約束の地を引き継ぐことでした。そして、カナンの地は、その恵みを指す「兆し」だと言えます。

しかし、皆さんもご存知のように、創世記の主人公はアブラハムとサラではありません。主人公は神様であり、神様がどのように罪深い人類に救いと永遠のいのちを与えてくださったかという話です。ですから、アブラハムとサラが亡くなれば二つの課題が残ります。1つは、神様がどのように約束通りにアブラハムに約束された「天」の恵みを与えてくださるのかという課題。そして、もう1つは、アブラハムとサラの子孫が信じ続けることができるのか否かという課題です。創世記25章は、その二つの課題がどう展開していくのかを見ることができるのです。

まず、神様の約束は、アブラハムのすべての子孫に与えられましたが、神様の約束を待ち望む、信仰のある子供たちだけにしか恵みは与えられませんでした。アブラハムには、サラ以外に、25:1に書いてある「ケトラ」と、25:12に書いてある「ハガル」という、2人の妻がいて、彼女たちもアブラハムに子どもを生みました。神様の約束は、「サラの子」に限らず、サラの女奴隷ハガルの子、アブラハムの側女(そばめ)ケトラの子、つまり、アブラハム家の奴隷たちにも与えられ、約束のしるしである「割礼」が施されました。しかし、その神様の約束は、「イサク」の子孫のみが「王家」になり、アブラハムの長男イサクの王家を通して、すべての恵みが与えられるというものでした。そのため、「アブラハムは自分の全財産をイサクに与えた」(25:5)のです。そして、最終的にサラの子「イサク」以外の子が、カナンという約束の地に残らなかった理由は、彼らが神様の約束を受け入れることができなかったからです。それゆえ、ハガルとケトラの子供たちは、約束の地から出て東へ行ったようです。神様は創世記17:20に約束された通り、ハガルの子であるイシュマエルに子孫を富ませ、大いに増やし、十二人の族長たちを生み、彼を大いなる国民にされました。しかし、イシュマエルは神様の約束を拒否したので、「天」の恵みを頂くことはありませんでした。それゆえ、彼は東の方へ行きました。

ですから、創世記を読んでいくと、アブラハム家の子孫の中で、神様の約束を信じる子供たちと、信じない子供たちとは、はっきり分けられるのです。新約聖書では、パウロはこう説明しています。

アブラハムの子どもたちがみな、アブラハムの子孫だということではありません。むしろ「イサクにあって、あなたの子孫が起こされる」からです。すなわち、肉の子どもがそのまま神の子どもなのではなく、むしろ、約束の子どもが子孫と認められるのです。 (ローマ 9:7-8)

サラの子、ハガルの子、ケトラの子はみな、アブラハムの「肉のこども」であり、一人一人に神様の約束のしるしが与えられました。しかし、サラの子であるイサクだけが「約束の子ども」でした。なぜなら、神様の約束を、信仰をもって待ち望んでいたからです。アブラハムの真の子孫は、神様の約束を待ち望んでいる人々であり、信仰を持っている子供たちは「神の子」として認められ(ローマ9:8)、天の王家に入れられるのです。私たちの契約の子供たちも同じです。幼児洗礼を受けたとしても、神様の約束を信じる子供たちと、神様の約束を信じない子供たちとでは、はっきりと分けられるのです。

しかし、「神様の約束を待ち望む」とは、具体的にどういうことでしょうか?神様の約束を信じたイサクとリベカから学ぶことができます。

イサクは、自分の妻のために主に祈った。彼女が不妊の女だったからである。主は彼の祈りを聞き入れ、妻リベカは身ごもった。 (創世記 25:21)

不思議なことに、イサクとリベカの状況は、アブラハムとサラと全く同じ状況でした。子どもができない、自分たちでは何かを生み出す力がないと言うどうにも出来ない状態でした。無力で、惨めな状態です。しかし、イサクとリベカは、アブラハムとサラとは違って、自分達の力で抜け道を探して前進しようとするような事はしませんでした。ただ「主に祈った」のです。「どうか助けてください。」と祈って、主により頼んだのです。つまり、「神様を信じる」と言うことは、自分には何もできない、神様しか私を救えないという事を認めて、神様の約束を受け入れて、主により頼むことです。そして、聖書には「主は彼の祈りを聞き入れ、妻リベカは身ごもった」とシンプルに書かれてます。そして、リベカは、一人ではなく双子の男の子を身ごもったのです(25:12)。つまり、イサクとリベカは、一人の息子という「奇跡」を願ったのですが、神様はその2倍の奇跡を与えてくださったのです。この25:21の短い説明は、私たちの救いのあり方と信仰の本質を描写していると思います。私たちも同じように、罪によって無力になり、神様の前では何も良いものを生み出すことができない状態です。イサクとリベカと同じように、また、アブラハムとサラと同じように、私たちも、ただ神様の約束により頼んで、「助けてください。」と祈ることが、神様の約束を待ち望むということなのです。それが聖書がいう「信仰」なのです。子供でも理解できるようなすごくシンプルなことです。

 

では、どのように自分が「約束の子」であると確信できるのでしょうか?二つの側面からみることができます。神様からの視点と、私たちからの視点です。言い換えると、天国から来る確信と、地上から見る確信です。

まず、天国から来る確信とは、何でしょうか。それは「約束の子」が愛される根拠は、神様の選びによる愛のみによるという事です。リベカにエサウとヤコブという双子が与えられました。長男のエサウは「赤くて、全身毛衣(けごろも)のようで」、「巧みな狩人(かりゅうど)、野の人」でした。また、次男のヤコブは、いつも天幕に住んでいる「穏やかな人」でした。そして、「エサウのかかとをつかんで」生まれて来たヤコブは、自分の欲しいものをいつもずる賢い手段で奪い取ろうとする人でした。ですから、好きな「猟(りょう)の獲物(えもの)」を正当な手段でお父さんのイサクにあげていた、男らしい長男エサウは、イサクのお気に入りでした。これは一般的に私たちがよくする愛し方ですね。しかし、人の行い、人の性質、人の態度を見てその人を愛することは、神様の愛ではありませんでした。

天におられる神様は、この双子が生まれる前にこのようにおっしゃいました。

「二つの国があなたの胎内にあり、 二つの国民があなたから分かれ出る。 一つの国民は、もう一つの国民より強く、 兄が弟に仕える。」 (創世記. 25:23)

つまり、神様はあらかじめ弟のヤコブを、愛する「約束の子」として選んでおられたのです。新約聖書で、パウロは前の一節をこのように説明しています。

「10 一人の人、すなわち私たちの父イサクによって身ごもったリベカの場合もそうです。 11  その子どもたちがまだ生まれもせず、善も悪も行わないうちに、選びによる神のご計画が、 12  行いによるのではなく、召してくださる方によって進められるために、「兄が弟に仕える」と彼女に告げられました。 13  「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と書かれているとおりです。」(ローマ9:10-13)

つまり、神さまがヤコブを「約束の子」として愛された理由は、ヤコブが何かいいことをしたから、ヤコブが力強い信仰をもっていたから、ヤコブが最後まで信じ切ったからではないのです。神様は、ヤコブが「まだ生まれもせず、善も悪も行わないうちに」、無条件にヤコブを選ばれ、ヤコブを愛されたのです。そして、聖書を読んでいくと、神様はあえて、この社会が期待するような「約束の子」を選ぶのではなく、みんなが驚くような人を選ばれる事がわかります。

しかし、多くの人は、それは非常に不公平だと考えます。忘れてはいけないのは、イサクのような条件付きの行いによる愛であれば、不公平になると言えますが、神様の愛は、「〜をしたから愛した」という愛ではないので、不公平にはなり得ません。むしろ、神様の恵みでしかないのです。そして、「無条件な選びによる愛」だからこそ、ヤコブのような人が愛されることもありますし、私たちのような罪人も神様によって愛されることもできるのです。私たちが頂いている愛は、自分が生み出した行いにかかっているのではなく、自分ではない、天におられる神様から頂いた「約束」だからです。

しかし、この地上では、エサウとヤコブは、アブラハム家の双子でした。2人とも、同じように神様の約束を頂いていました。そして、男らしく、いつも狩りに出ていた長男エサウは「約束の子」であるお父さんのイサクに気に入られていましたが、ヤコブは、狩りにも出ないで、いつも天幕の中で遊んでいた、役立たずの次男と思われていました。もし、先に、神様の選びについて聞いていなかったら、誰もヤコブが選ばれた「約束の子」であるとは思わなかったでしょう。しかし、ある出来事を通して、エサウが「約束の子」ではなく、ヤコブが「約束の子」であることがはっきりとわかります。

ある日、狩りから帰ってきたエサウは、疲れ切っていました。そして、エサウはヤコブにこう言いました。「どうか、その赤いのを、そこの赤い物を食べさせてくれ。疲れきっているのだ。」そして、ずる賢いヤコブは、長い間この瞬間を待っていたかのように、すぐにエサウにこう言いました。「今すぐ私に、あなたの長子の権利を売ってください。」当時の文化では、長子の特権は、アブラハム一族の家長になれることでした。つまり、アブラハムに約束されたすべての「天」の恵みを、その長子が受け継ぐことができるのです。しかし、エサウは、「見てくれ。私は死にそうだ。長子の権利など、私にとって何になろう。」と言って「長子の権利」を侮ったのです。つまり、エサウは、アブラハムが約束された天の恵みよりも「一杯の食物」(ヘブル12:16)のほうが価値があると、ことばと行動によって自分の「信仰」のなさを表したのです。エサウの不信仰は、「神様の約束」の存在を否定したことではありません。エサウの不信仰は、神様が約束されている「永遠のいのち」よりも、400円の牛丼のほうがマシだと思っていたことです。そして、聖書を読んでいくと、神様からのすべて天の恵みを「赤い食べ物」と引き替えてしまったエサウの不信仰は、エサウの子孫に継承されたことがわかります。「天のすべての恵みを売っちゃったの?!どれほど赤いもの好きなんだ!」というユーモアをまじえて、エサウとエサウの子孫に「エドム」(赤い)という名前が付けられました。

では、ヤコブはどうでしょう。まず、はっきり言いたいのは、ヤコブ、エサウと同じように、深い欲に縛られていました。創世記を続けて読むと、ヤコブはずる賢く、悪どい(あくどい)手段で自分が欲しいものを奪い取る者です。しかし、信仰は、人の罪深さで見分けることはできません。信仰は、神様が約束される「天の恵み」をその人がどれほどの価値を置いているのかによって、見分けることができます。ヤコブは、あくどい手段で、貪欲に、「長子の特権」を奪い取ろうとしました。それは、ヤコブが「長子の特権」や神様に約束されている恵みが、自分にとって人生を変えるような価値がある、と確信していたからです。ですから、私たちが「約束の子」であると確信できる根拠は、自分が他の人と比べると、他の人より罪を犯していないからだということではないのです。「約束の子」であることの決め手は、神様が約束されている「天の恵み」をあなたはそもそも望んでいるのか、ということなのです。

 

私たちはアブラハムの子孫のあり方を見てきました。イサク、イシュマエル、ケトラの子、エサウ、ヤコブ。そして、本日の聖書箇所から覚えていただきたいことはこれです。エサウのように、一杯の食物と引き替えに、イエス様ご自身を売ってはいけません。むしろ、どのような手段を使ってでも、イエス様に近づきなさい!ということです。

神様がアブラハム、イサク、ヤコブに約束されたのは、抽象的な天の恵みではありません。アブラハム、イサク、ヤコブの究極の子孫は、イエス様なのです。イエス様を通して、私たちが神の子になり、神の国と天の王家に入り、天の約束の地を相続することになります。イエス様を通して、使徒信条に書いてある通り、聖徒の交わり、罪のゆるし、身体のよみがえり、永遠のいのちが与えられるのです。

子供でも、大人でも、洗礼を受けた者は、この約束のしるしが与えられたのです。イサク、イシュマエル、ケトラの子、エサウ、ヤコブと同じように。しかし、アブラハム家のすべての子供たちに与えられたましたが、アブラハム家のすべてが救われた訳ではありませんでした。一杯の食物と引き替えに(エサウ)、潤っている土地と引き替えに(イシュマエル、ケトラの子)、神の約束を売ったものは神様の恵みを受け入れることはできなかったのです。ヘブル書にはこう書いてあります。

だれも神の恵みから落ちないように、また、苦い根が生え出て悩ませたり、これによって多くの人が汚されたりしないように、気をつけなさい。また、だれも、一杯の食物と引き替えに自分の長子の権利を売ったエサウのように、淫らな者、俗悪な者にならないようにしなさい。(ヘブル12:15-16)

ですから、私たちも気をつけましょう。イエス様が私たちに与えてくださった恵みを、そもそも私たちは、欲しいと望んでいますか?私たちは、イエス様ご自身と会いたいと思っていますか?イエス様と会うよりも、安い何かと引き換えにしたいと思ってはいませんか?そのような苦い根が、自分の心の中に少しでも芽生えてしまっているようなことはないでしょうか。

もしそのような誘惑を感じているなら、どんな方法でも良いですからイエス様に近づいてください。「え!これほどイエス様を侮ったとしてもですか?これほどイエス様に対して罪を犯したとしてもですか?私は全くエサウと同じような者じゃないですか?」と思う方がおられるかもしれませんが、「約束の子」になることは、私たちの行いによるのではなく、召してくださる方の無条件な選びによる愛」によるのです。イエス様は、私たちの罪深さ、信仰の貧弱さを見てはおられません。イエス様が私たちを愛すると約束してくださり、その約束を絶対に守ってくださる、ただ、それだけのことなのです。イエス様が罪深い教会を愛し、約束を守ってくださるお方であると信じていますか?それとも、イエス様は嘘つきだと思っているでしょうか。イエス様の約束は私たちの確信の源なのです。

しかし、ある人は、「いや、それは信じるけど…自分が救われるかわからない。確信がほしい。」と考えるかもしれませんが、そのような人に私がお聞きしたいのは、抽象的な「確信」が欲しいのか、「イエス様」が欲しいのか、どちらでしょうか?イエス様を欲するなら、イサクとヤコブのように、どのような手段を使ってでも、イエス様に近づく必要があります。罪深いザアカイが木に登ったように。中風(ちゅうぶ)の人を運んだ4人の男性が、屋根に穴をぶち開けたように。長血(ながち)をわずらっている女が大勢の群衆の中でもイエス様に触ったように。盲人がイエス様を探すために「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください」と大声で何回も叫んだように(ルカ18:38)。長年クリスチャンとして歩んでいる人にも、まだ洗礼を受けていない人にも、全く同じことが問われます。「私たちは、どのようなことがあっても、イエス様により頼みたいですか?」ローマ10:9-13をお読みいたします。

もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。聖書はこう言っています。 「この方に信頼する者は、 だれも失望させられることがない。」 ユダヤ人とギリシア人の区別はありません。同じ主がすべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人に豊かに恵みをお与えになるからです。「主の御名を呼び求める者はみな救われる」 のです。(ローマ 10:9-13)

ですから、もう一度いいます。エサウのように、一杯の食物と引き替えに、イエス様ご自身を売らないように、気をつけてください。むしろ、どのような手段を使ってでも、イエス様に近づいていきましょう。

海浜幕張めぐみ教会 - Kaihin Makuhari Grace Church