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2012年2月26日 ヨシュア書 1章1−9節 朴チュウヒュン教師候補者

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2012年2月26日 海浜幕張めぐみ教会 主日礼拝説教

朴チュウヒュン教師候補者

聖書:ヨシュア書 1章 1−9節

「強くあれ。雄雄しくあれ。あなたの神、主が、ともにあるから。」

 

序)今日の御言葉はヨシュア1章1節から9節までです。出エジプト後、40年に及ぶ荒野の旅の終わり、指導者モーセはすでに亡く、ヨルダン川東岸に至って、イスラエルの民が川の向こうに約束の地を望み見るところから、始まっています。今朝は、このことばをめぐって、主の御心を学びましょう。

Ⅰ 1〜4節 約束の地
さて、主のしもべモーセが死んで後、主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに告げて仰せられた。神のしもべであり、イスラエルの民の指導者であったモーセは約束の地に入らず死にました。そのモーセの従者であったヨシュアが選ばれ、神様の約束の成就のために働くようになります。ヨシュアはモーセの従者、ヌンの子ヨシュアだと紹介されています。彼の元々の名はホセア(「救い」の意味)と呼ばれていたが、モーセによりヨシュア(「主は救い」の意味)に改名されました。この名前は新約聖書ではギリシャ語でイエースースと呼ばれました。これは、ナザレのイエスの「イエス」に当たる言葉でもあります。イスラエルの民をエジプトの奴隷状態から導き出したのはモーセで、その民を約束の地に入らせ、土地を占領し、分け与し、勝利と安息を与えたのはヨシュアであります。この二人の働きはイエス様が私たちのためになさった救いの御業と似てます。イエス様と同じ名前を持っているヨシュアは神様の約束を成就するために彼の人生を捧げ、それを完成した者です。モーセの従者、すなわち補佐官であったヨシュアが初めて聖書に現れるのは出エジプト直後、アマレクとの戦いであります。彼はモーセとともにシナイ山へも登りました。また、モーセがカナンの地を探らせるために12人を派遣した時、エフライム族の代表とし行きました。その12人の中で、ヨシュアとカレブだけが神の約束を信頼して報告しました。その結果、出エジプトしたイスラエルの青年男性の中で、ヨシュアとカレブだけが約束の地に入ることが許されました。神様はイスラエルの民からヨシュアを選び、モーセの下で訓練をさせ成長するように導きました。モーセがその使命と役割を終え亡くなった後、イスラエルの民の指導者として使えるために主がヨシュアを準備したのです。イスラエルの民の救いの御業の真の指導者は神様であり、モーセとヨシュアは忠実に従った者だったのです。
しかし、神様のしもべモーセは約束の地であるカナンに入ることが出来ず、荒野で死にました。その主な原因は彼の不信仰な行動でした。イスラエルの民に対して自分の義による怒りは彼の不信仰な行動で、約束の地であるカナンに入る事が許されない結果になりました。けれども、それがモーセの救いと神様からの祝福まで奪われた事ではありません。その中には神様の恵み深い奥義が隠されていったのです。モーセは神様から律法をもらった者で、律法を象徴する者です。彼が約束の地に入ることが出来ず、荒野で死んだのは、人が律法よっては救いを得る事が出来ないことを象徴的に現す出来事でもあります。ですから、神様はモーセの失敗や過ちも用いて神の救いの御業を完成する方であります。私たちも多くの失敗や過ちをしますが、神様が憐れみをもってその失敗や過ちを用いて、救いに導いているのです。それが、私たちのめぐみなのです。

2節で神様は、ヨシュアに今、すぐ、すべての民、すなわちすべてのイスラエルの民が立って、ヨルダン川を渡ることを命じています。その命令はヨシュア一人に命じたことではなく、全ての民に命じたことです。神様の御言葉が一人一人に与えられていることです。2節に使われている「立って」という言葉の意味は戦争準備をする、戦争する、戦争の勝利等の意味で使われている軍事用語でもあります。神様はイスラエルの民にヨシュアを通して約束の地に入ることは戦いの始まりであり、それに備えなさいと教えています。荒野の40年の訓練を終え、これから本当の戦いが始まることを予告していることです。そんな彼らの前には長いヨルダン川が流れています。このヨルダン川は標高2、852mであるヘルモン山から死海まで流れるパレスチナの最大、最長の川であります。その向こうに約束の地、カナンがあったのです。神様はわたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行けと命じています。イスラエルの民の目の前にあるカナンの地は神様はイスラエルの民に与える神様のプレゼントであります。それは神様の真実さが現れることで、今、与えようとしているとその民を励ましています。神様の積極的な意志が現れています。
神様は今、モーセとの約束を覚え、ヨシュアを通して忠実に守ろうとしています。神様はご自身がなされた約束は必ず守り、成就する方です。その約束を成就するためにヨシュアを選び、励ましています。特にここで注目される言葉は3節の「あなたがたに与えている」という表現です。これはもうすでに与えることが完了している意味です。これから与えることより遥かに強い言葉であり確信を与える言葉であります。神様の強い意志が含まれている表現で、ヨシュアに大きな励ましになる言葉でもあります。それは神様であるから出来る表現であり、約束なのです。
4節では神様はイスラエルの民が所有する地について詳しく書いています。神様の計画と約束は具体的で、現実的な側面があります。実際に、この約束はイスラエルの民によって成就されます。しかし、歴史の中で、ダビデとソロモンの時代に少しだけ、その全土に似た範囲まで治めた事が出来たが、完全に占領することが出来なかったです。それは神様の約束と計画が変わらないが、その約束を成就するために一方的ではなく、人とともに働くからです。ですから、その全土は神様が許した理想的範囲であるが、人間の従順の問題で、その範囲が満たされないことが起きたのです。この出来事は私たちが神様に従うことが本当に大切であることを鮮明に現れることです。

 

Ⅱ 5〜9節 強くあれ。雄雄しくあれ。あなたの神、主が、ともにあるから。

5節では人が神の前に勝手に立つ事が出来ないように、ヨシュアの前にも誰一人立ちはだかる者がいないと、神様はヨシュアに約束しています。それはヨシュアに特別な神様の祝福であり、励ましいです。それは、これからヨシュアが戦わなければならない数多くの敵と戦争が待っているからです。いよいよ約束の地に入る大きなチャレンジが目の前にヨシュアとその民にあります。こんなに大切な時、今まで自分たちを指導し、導いたモーセは亡くなりました。ヨシュアは神様の約束に対する信仰はありましたが、自分にかけている大きな責任と役割に時々心が弱くなったり、不安になったかもしれません。自分がモーセのように出来るか。失敗したらどうするかなど様々な考えが頭の中にくるくる回ったかもしれません。それは聖書に書いてないからはっきり分かりませんが、はっきり書いているし、分かることは神様が徹底的にヨシュアに励ましを与えていることです。続けて神様はモーセとともにいたように、あなたとともにいることを約束しています。神様が40年間モーセとともにおられたことを誰よりしっていたヨシュアにとって、この言葉以上の励ましや確かなものはないでしょう。神様がともにおられること、それは、インマヌエルであり、ヨシュアの前に誰一人立ちはだかる者がいない根本的な理由であります。神様がともにおられるから、すべてが成立されることであり、勝利が保証されていることです。再び、神様はヨシュアにわたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てないと再び励ましを与えています。
強くあれ。雄々しくあれ。神様はヨシュアに勇気を出して、頑張ることが出来るように再び励ましを与えています。何回も何回も繰り返えながらヨシュアを励ましいます。それは、ヨシュアが成就しなければならない使命が大きいからであり、彼が神様に期待されているからです。ですから、精神的なことだけではなく行動的なところまで、強く、雄々しくあることを期待しているのです。神様がアブラハムとイサクとヤクプに約束された地をイスラエルの民に継がせなければならないからです。真実な神様はアブラハムとイサクとヤコブとの約束をヨシュアを通して成就しようとしているのです。そのため、ヨシュアに何度も何度も励ましを与えています。
7節、8節では神様はモーセを通して与えた律法を守り、右にも左にもそれないこと、すなわち神の律法から離れず、厳しく守る者は祝福され、成功し栄えることだと教えています。また、神様の律法を忘れないためには、それを覚えるなければならにことを意味します。覚えたことはただ勉強することや暗記することではありません。実際に生活の中で生かすことです。それは一回だけのものではなく、これからも行い続け守るべきであると教えています。それが祝福の道であり、成功の道であると教えています。結局、実際に生活の中に御言葉を覚え、従うことは神様が実際に生活の中に働くことを期待する行動であります。また、それが神様とともに生きる人生なのです。ですから、その人は神様から祝福を受けざるえないのです。ですから、その人は繁栄し、成功せざるえないのです。神様がともにいるかいないかがカギなのです。9節でヨシュアはその約束を神様からもらっているのです。
3 適用

私たちの信仰の旅は霊的な約束の地、すなわち神の国に入るための旅であります。また、私たちはアブラハムの契約をイエス・キリストを通して受け継ぐ者です。ヨシュアとイスラエルの民は約束の地、カナンに入りますが、それが終わりではなく、新たなスタートであり、戦いの始まりでした。私たちの信仰の旅もイエス様を信じて信仰告白し、洗礼を受けたら終わりではなく、そこからスタートであり、新たな戦いの始まりなのです。私たちには、それぞれ自分の信仰の旅において多くの敵と戦いが待っています。それは簡単でやさしい道ではありません。時にはあまりにも大きな敵との戦いに敗れたり、失敗したり、落ち込んだりします。あるいは、逃げたくなります。しかし、その戦いは勝利が保証されている戦いであります。私たちは既に「あなたがたに与えている」勝利の戦いであります。それはイエス・キリストの十字架で成就された戦いであるからです。ですから、私たちはその戦いを続けることが出来るし、前に進む事が出来ます。その戦いは救いの完成に至る戦いなのです。キリストの十字架と復活のめぐみが私たちの信仰の旅を完成させているのです。私たちはそのめぐみによって生かされている者です。
私たちはこの世に生きている者ですが、神の国の国民として生きるものです。主イエス様が神の国の到来の宣言後、信じる者は神の国を約束され、神の国に入ります。しかし、私たちは完全な神の国が成就するまでには「立って」戦い続けなければなりません。勝利を得、神の国のために征服しなければなり戦いがそれぞれあります。それは私たちが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えていると約束されたところがあるからです。それは自分しか届かない場所や人々に、神の国を宣べ伝える使命を意味します。この神の国の宣言を通して人々が救いと祝福を得ることが出来るし、私たちも祝福されるのです。神様は私たちが足の裏で踏む所はことごとく祝福するように御心に決めたのです。神様はその働きのために一方的ではなく、私たちとともに働く方です。イスラエルの民の不信仰と不従順により、神様が許した理想的範囲までのカナン征服が満たされないことが起きましたが、けれどもご自身の民に対する期待をあきらめなかったです。それが神様の御心であり、限りない愛なのです。
今日も、この戦いに神様が私たちを呼んでいます。また、命じています。神様はヨシュアに勇気を出して、頑張ることができるように励ましたように、何回も何回も繰りかえして、私たち一人一人の名前を呼びながら語っています。何々君、何々ちゃん、「強くあれ。雄々しくあれ。」と。また、主イエス様も「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」と約束しました。私たちが自分のために生きると失敗し、失望します。負けます。しかし、私たちが神様のために生きるなら大きな祝福と約束と勝利が保証されています。神様は私たち一人一人に非常に大きな関心を持って期待しています。ヨルダン川を渡り、約束の地に入り戦ったのがヨシュアだけの戦いではなく、イスラエルの民全体、一人一人の戦いであったように、この戦いは私たち一人一人の戦いであり、それぞれ神様からもらった大きな使命なのです。もし、私たちが不信仰と不従順や弱さにより失敗してうまくいかないことがあっても、神様は絶対に私たちに対する期待を曲げたり、歪んだりしません。私たちが勇気を出して、頑張ることが出来るように、何回も何回も繰り返えて励ましをしてくださる慈しみ深い方で、想像もつかないぐらい憐れみ深い方であります。その愛はたった、一人の息子を十字架に付けるほど情け深い愛なのです。その神様が私たちの耳と心に何回も何回も繰り返えしてささやきます。

結び)「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」

お祈りします。

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