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2017年11月12日 礼拝 説教(日本語文、韓国語訳)


 
2017年11月12日 マタイの福音書5章13-16節 「地の塩・世の光」
 
序文)キリスト者はこの世の中で生活している。主が言われた。「わたしはもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、わたしはあなたのみもとに参ります」(ヨハネ17:11)。「わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではないからです」(ヨハネ17:14) 。私たちは、この世から隠遁して生活しているのではない。社会を離れて瞑想の生活をすることを、主は求めておられない。マタイ5章3-10節に見られるキリスト者の特質は、「地の塩」「世の光」となるために必要であった。この世でのキリスト者の機能と存在理由がここに示されている。それはこの世に主から派遣された者としての機能、存在である。キリスト者の存在は、この世に対する主イエス様からの祝福である。いろいろの祝福となっている。

Ⅰ この世について聖書の描写ははっきりしている。

1 この世は罪により腐敗している。ますます堕落し汚れ不快なものとなってゆく傾向を持っている。罪に満ち悪に染まっている。争いに向かう。予防薬や防腐剤がなかったら健全さを保てないような存在である。健全さの源にクリスチャンはなる。

 

2 クリスチャンは「地の塩」である。

地の塩は地と同じものではない。5:3-10節にみてきたとおりである。

塩が塩という特徴を失えば(13節)何の役にも立たない。わずかな塩でも、すぐに存在は分かる。外に現れる相違があるから。キリスト者は、他の人々と相違している。この世のものでない、独特な種類の人々である。

 

塩は防腐剤であり、保存に役立つ。自分がこのような役割を与えられていることを自覚しているかが問われている。この世が罪によりたちまちにして滅びてしまわないのは防腐の役割をしている存在があるからである。

 

塩は味付けになる。キリスト者の生活は味付けになっている。生活からキリスト信仰を取り除いたら、人生は味気ない物に終わる。死に直面してどうだろうか。老年になってどうだろうか。思想と感情、言葉と行為、あらゆるものがめぐみの味付けを持っていなければならない。「あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい」(コロサイ4:6)。

 

個人として地の塩としての機能を果たして行くことが求められている。教会はこのようなキリスト者を増やすことに意を用いなければならない。

 

このような存在は地味である。しかしこの次に光がくる。地の塩が先で次が世の光である。主イエス様が話された、この順番は正しい。逆にしてはいけない。

 

Ⅱ クリスチャンがこの世に対して祝福なのは、世の光であるから。

1 主イエスが言われる。「あなたがたは世の光である。」あなたがたがいなくては、霊的に世は暗闇である。この世は暗黒状態である。世の進歩、発展は常に取り上げられ語られるが、実際に暗い部分は隠されている。科学や物理など進歩は見られても、それと人間の生き方、存在という根本的な問題を結びつけて考えられなくなってきている。個人の生活、行為の領域は暗いままである。

 

イエス様の言われたことをよく考えよう。あなたがた以外は世の光となることはないということでしょう。どのような思想家、哲学者も現代の人間の霊性に光を掲げることに失敗している。それは現状をもたらした原因をみつけることができないか、罪の現実を認めたくないから。人間の真の問題に関わっていたくないから。たとえ 問題を分析し、指摘できても、解決策を語ることが出来ない。

主イエス・キリストにおいて示されるまことの光なしには、光はない。「わたしは世の光である」(ヨハネ9:4,12:35-36)。

2 キリスト者は世の光である。

全てのキリスト者は世の光である。特別な人だけではない。全てのキリスト者である。「あなたがたは以前は暗やみでしたが、今は、主にあって光となりました。光の子どもらしく歩きなさい」(エペソ5:8)。光をいただくことで、光にしていただいた。主イエスのいのちに結びついているので、主のご性質を宿す者となっている。光は、闇と闇に属するものをはっきりと示す。この世の暗闇をはっきりと示すのは光である。光は闇の原因を指摘する、神からの離反、光を嫌うこと、離れること等である。「光より闇を愛している」(ヨハネ3:19)。

福音ははっきりと、人間のこの姿を照らし出す。光はやみからの解放の道を明らかにする。ここにキリスト者の務めがある。主にあって新しく生まれた者は、光を愛し、闇を憎む。そのために人は福音に捕らえられて、神に立ちかえらなければならない。その道を示すのがこの世にいるクリスチャンである。「あなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父を崇めるようにしなさい」(ヨハネ5:16)。光であることの表れは「良い行い」に表れる。口でする主イエス様が自分にしてくださったことのあかしは、良い行いです。同時にまた生活を通して神の子として生まれ変わらせられ変化した自分を見せることも良い行いでしょう。口と行動のセットでなされる福音のあかしは、光り輝くあかしでしょう。

 

結び)この世の人々はキリストの望みをなしに、光のない日々を送っていることを知り、地の塩として効き目をあらわし、世の光として輝いて、あかしの生活を展開しよう。

イエス様は、私たちに分からせようとしておられることは、「あなたがたはすでにこの世の塩であり、光です。救われた神の子クリスチャンです。だから、世を照らします。隠れようがないのです。輝かしてしまうのです。」ということです。それは天の父を崇めることにつながります。第一ペテロ2:12「異邦人の中にあって立派に振る舞いなさい。そうすれば彼らは、何かのことであなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのその立派な行いを見て、おとずれの日に神をほめたたえるようになります」。

 

 

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