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2018年1月14日 礼拝 説教[マークボカネグラ宣教師]

 

序論

なり立てのクリスチャンであった私が、大学生のときに、何かの交わり会で、お互い自己紹介をして、なぜ教会へ行くかまたはクリスチャンの交わりに参加するか分かち合う時間がありました。もちろん、私たちは大学生だったので、ふざけて「おいしい食べ物を無料で食べれるから」または「楽しい時間を過ごしたいから、またはいい人に出会いたいから」を返答する子もいたし、ただ「父と母が行けってといったから」という正直な返答もあったし、超ホーリーな優等生っぽい子は「キリストにある友達、そして、クリスチャン同士と交わって、お互いを愛し奉仕するために来ている」という返答もありました。

 

だけど、その大学生グループをいつも支えて下さっていたある社会人が、信仰の先輩として、このように答えたのを今でも覚えています。「もちろん、教会の交わりも楽しいし、人と会うのも楽しいし、やりがいのある奉仕もあると思うし、皆さんの答えはいい答えだと思いますよ。でも私が社会人になって、いろんな人と会い、いろんなことをやって、教会へ行く目的は一つしかないと思い始めたんだよ。それは、御言葉を通して、キリストと触れ、キリストにある兄弟姉妹と一緒に熱く御言葉とキリストについて語り合うことなんだよ。正直、クリスチャンは、ノンクリスチャンと比べると、つまんないんだよね。ノンクリスチャンと一緒に遊んだり、おいしいご飯食べたり、キャンプしたり、スポーツしたり、旅行したり、その方がよっぽど楽しいんだよ。そして、ボランティアもノンクリスチャンとできるし、音楽を弾きたかったら、ノンクリスチャンと一緒にバンドと組んで、楽しく弾けるんだよ。だから、教会外いろいろやってみての、僕の結論は、教会以外ではできないことは、御言葉を聞いて、御言葉について熱く語り合ったり、一緒に祈って、キリストの似姿になるように共に歩むことだと思ったんだ。だから、僕は教会へ行くとき、交わりに参加するとき、それをできるだけしたいんだ。」今も私は彼の言葉をおぼえているし、その言葉は教会の使命の核心を指すような言葉だと思います。

 

教会の使命というのは、マタイ28:19-20に書いてある通り、あらゆる国の人々を弟子とすることです。父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授(さず)け、 また、イエス様が私たちに命じておいたすべてのことを守るように、教会は教えなければなりません。要するに、教会の使命とはイエス・キリストの御言葉が約束していることを信じるように、そして、御言葉の希望と掟によって歩むようにと教えることなのです。

 

しかし、歴史と聖書を見ると、教会は罪人の集まりなので、自分勝手にその使命に付け足す、または、違う使命に取り替える、もしくは使命を部分的に執り行う傾向があります。そして、教会の使命のちょっとした微調整によって、数十年後、神様の御言葉から離れる教会やクリスチャンがたくさん出てきますす。よく聞く例えは、もしマラソンの選手二人がスタートの地点で微妙に数度だけ方向がずれていたら、数キロ走った後、その二人は全く違う場所にいることになります

 

では、神様の教会の使命とは何でしょうか。今日の箇所からはっきりと学ぶことができます。教会の使命は、御言葉によって、私たちの希望であるキリストを私たちが宣べ伝えるのみなのです。だからこそ、教会は堅くキリストにより頼み、苦難を受けながらも、喜びをもって、御言葉だけを教え、宣べ伝える必要があるのです。本日、二つのポイントを見ていきたいと思います

 

一つ目のポイントは、教会の使命です。

24-29節によると、教会の使命は栄光に富んだ奥義であるイエス・キリストを宣べ伝え、キリストにあって、あらゆる人を戒め、教え、成人として立たせることです。それだけが、教会の使命です。この箇所から使命の三つの要素が説明されています。

 

24-25節では、教会の使命の一つ目の要素は御言葉を語ることのみなのです。

24   ですから、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。そして、キリストのからだのために、私の身(↓)をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストのからだとは、教会のことです。 25 私は、あなたがたのために神からゆだねられた務めに従って、教会に仕える者となりました。神のことばを余すところなく伝えるためです。

 

ここに書いてあることは、教会のために、神の言葉を余すところなく伝えるというパウロの使命です。そして、使徒の働きを見ると、それを確認することができます。パウロはそれ以外のことを全く言っていません。パウロは全力を尽くして、すべてを犠牲にして、いろんな迫害を受けながら、キリストの花嫁である教会に神の言葉を宣べ伝えることに専念したのです。

 

しかし、24節の言葉に引っかかる方々がいらっしゃるかもしれません。「キリストの苦しみの欠けたところを満たす」ために、教会のためにいろんな苦しみを受けたと書いてありますが、これはどういう意味なのでしょうか。この24節を理解するために、パウロがどういう人でだったのか、そして、どういう身分を持っていたのかを思い出す必要があります。

 

パウロはイエス・キリストを代表する使徒でした。イエス・キリストの使命は、ただ十字架にかかり、蘇り、天に昇られることだけではなく、御自分による救いを地の果てまで述べ伝えるということもありました。イザヤ49:6節では、メシヤであるイエス・キリストに、神様は「わたしはあなたを諸国の民の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする。」とおっしゃったのです。しかし、イエス様が天に昇られた後、イエス様が救いの御業をなしたこと、やそのメッセージの内容は誰も知りませんでした。イエス様は使命を完成させるために、救いのメッセージを地の果てまで宣べ伝える必要がありました。そして、イエス様はその使命を使徒たちに与えたのです。要するに、イエス様の使命は使徒たちが語るメッセージによって完成させられるのです。

 

パウロは、エペソ2:20-21で、使徒の役割をより深く説明しています。

20 あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石(そせき)です。 21 この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となる

 

初代教会には旧約以外の御言葉はありませんでした。もちろん旧約はイエス・キリストの存在と救いを説明するには充分でしたが、よりわかりやすく、より明確にイエス・キリストについて教える御言葉が必要だったので、イエス様は、使徒と預言者によって、その御言葉を与えたのです。そして、その御言葉は新約聖書になり、旧約と新約聖書はキリストを指す教会の土台でもありました。

 

だからこそ、キリストの花嫁である教会を建てるために、イエス様はパウロを通して「御自分の苦しみの欠(↓)け(↑)たところを満たす」ために御言葉を与えて、この御言葉の上に教会を建てたのです。そして、その土台をつくるために、パウロは長年教会のために色々な苦しみを受けたのです。

 

しかし、大変重要なことは、土台作りの働きはすでに完了したということです。使徒たちの御言葉によって、イエス様の使命が完成されましたなぜならキリストの救いを明らかにする新約に付け足す御言葉または預言は必要ないからです。それゆえ私たちは、パウロのように「キリストの苦しみの欠けたところを満たす」はできません。

 

では、私たちの使命とは何でしょうか。パウロは弟子であったテモテにただ「ゆだねられたものを守りなさい」と命じました。パウロと使徒の後の働きは、ただ使徒の土台の上に立って、教会の使命を果たすことなのです。その土台に何かを付け加えたり、その土台を取り替えたり、その土台を削ったりしたなら、全く違う建物になってしまいます。そして、全く違う使命になってしまうのです。教会の使命はただ、パウロが語った御言葉を、宣べ伝えるということなのです。

 

では、もし教会の使命が御言葉を宣べ伝えることなのであれば、パウロと使徒たちはどのような御言葉を与えたのでしょうか?25-26節によると、教会の使命の二つ目の要素は、イエス・キリストを宣べ伝えることです。

26 これは、多くの世代にわたって隠されていて、いま神の聖徒たちに現された奥義なのです。 27 神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。

 

26-27節によると、御言葉は私たちに神様の奥義を公に知らせることであり、キリストを宣べ伝えることであります。

 

司会者が先ほど読んで下さった聖書箇所、そして、私たちが手に持っている御言葉は「多くの世代にわたって隠されていた」奥義なのです。旧約聖書では、あらゆる形でキリストを預言していましたが、パウロと使徒たちの言葉、そして新約聖書とこの箇所によって、その素晴らしいメッセージ、その福音がはっきりと語られています。ペテロはこのように説明します。

10 この救いについては、あなたがたに対する恵みについて預言した預言者たちも、熱心に尋ね、細かく調べました。 11 彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もってあかしされたとき、だれを、また、どのような時をさして言われたのかを調べたのです。 12 彼らは、それらのことが、自分たちのためではなく、あなたがたのための奉仕であるとの啓示を受けました。そして今や、それらのことは、天から送られた聖霊によってあなたがたに福音を語った人々を通して、あなたがたに告げ知らされたのです。それは御使いたちもはっきり見たいと願っていることなのです。

 

十の災いを放ち、紅海を割り、そして実際に、この地で神様と顔を合わせた預言者モーセ、夢を通して天の御座の前で、聖なる聖なる聖なる神様を見た預言者イザヤ、様々な奇跡を起こし直接天へ昇られた預言者エリヤ、そして、実際に天にある神様の御座の前に立っている御使いたちは、みな、私たちが知っていることを、はっきり見たいと思っていたのです。イエス様がどういう方だったのか、どのように私たちが救いを得るのか、私たちがどういう希望を持っているか、彼らはよく調べたけれども、わからいませんでした。新約の時代に入るまで、ユダヤ人以外はそのようなことは全く知らなかったのです。ですから、、教会はパウロのようにこの奥義を「余すところなく」宣べ伝えるということが使命なのです。御言葉のない教会以外の組織ではできない使命なのです。

 

その奥義とは、「あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」イエス・キリスト御自身が奥義そのものなのです。前の説教で説明しましたが、教会の王であるイエス・キリストがこの世まで来られ、コロサイ1:12-13に書いてある通りに、神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子、イエス・キリストのご支配の中に移してくださいました。そして、その救いによって、光の中にある、天国の聖徒の相続分にあずかる資格を私たちに与えてくださったのです。その天国の相続分は「栄光」として要約することができ、私たちはイエス・キリストの花嫁、兄弟、共同相続人として、その「栄光」を待ち望んでいるのです。そして、私たちは「栄光に富む」ものになるのです。この天の「栄光」はこの世の富、喜び、楽しみよりも「富んでいて」、この世の「富」を全て失っても、益となるものになるのです。イエス様はこのようにおっしゃっいました

44   天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。 45   また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。 46 すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。

 

このイエス・キリストを自分の「王」、自分の「主」、または自分の「救い主」として受け入れ、そして、すべてイエス・キリストのみに委ねれば、あなたはキリストのものになり、イエスキリスは再臨の時まで私たちの汚れた、罪深い心の中に住まわれ、私たちを聖くし、私たちと共にいてくださり、天の「栄光」を受けることを私たちに保証してくださるのです。この希望、そして、この良い知らせまたは福音を宣べ伝えるのが、パウロの役目でもあるし、教会の使命なのです。

 

しかし、具体的に、「キリストを宣べ伝える」とは、どういうことでしょうか?耳障りのいい話をするだけでしょうか。最後に、28-29節には、教会の使命の三つ目の要素は、あらゆる人を、戒め、教え、そして、成人として立たせるためだと書いてあります。

Col. 1:28 私たちは、このキリストを宣べ伝え、知恵を尽くして、あらゆる人を戒め、あらゆる人を教えています。それは、すべての人を、キリストにある成人として立たせるためです。 29 このために、私もまた、自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘(ふんとう)しています。

もし教会の使命がキリストと御言葉のみを宣べ伝えることならば、私たちはまず戒めを受けなければならないのです。御言葉はまず、クリスチャンであっても、クリスチャンでなくても、私たちは、老若男女(ろう↑にゃく↑なん↓にょ↓)を問わず、すべて、「罪人」として宣言されるのです。そして、その後、私たちはキリストについて教えられる必要があるのです。前の説教で言いましたが、「知識」なしでは信仰を持てないのです。そして、戒めと教えの唯一の目的は、私たちを「キリストにある成人として立たせるため」なのですクリスチャンとして、また神の子として私達が成長することです。

 

教会の働きの全て、礼拝、説教、教会学校、セルグループ、交わり、伝道は全てこれを意識して行う必要があります。御言葉を語って、キリストを宣べ伝え、あらゆる人を戒め、教え、キリストにある成人として立たせるためなのです。もちろん、常にこの三つの要素を踏まえる必要はありませんが、意識しないでこの方向に向かっていかないのなら

、神様から頂いた教会の使命を果たしていない事になるのです。

 

ある方は、これが教会の使命なら、、幅が狭すぎると思うかもしれません。「教会は社会または地域に貢献する義務がある。または、教会はこの世の教育、経済、政治、技術、学問を発展させる必要がある。」と思うかもしれません。もちろん、個人のクリスチャンとして、私たちはそのようなものを執り行うことは良(よ)いことです。

 

しかし、そのようなことは教会またはクリスチャンとしての使命の本質にふさわしいでしょうか。

 

私の義理の父はクリスチャンですが、ラーメン屋もやってます。もちろん、教会は彼に福音を語る義務と権威はありますが、教会はそれ以上に彼に何かを求める使命はあるでしょうか。「クリスチャンとして、日本一おいしいラーメンをつくってまたはクリスチャンラーメンを開発して、社会に貢献しなさい」ということを教会が求めるべきでしょうか。もちろん、一番おいしいラーメンはいいことですが、それは教会の大宣教命令でしょうか?御言葉の中に、よりおいしいラーメンを作る秘訣があるしょうか。そういうことは入っていません。御言葉には全くそういうことは書いてありませんし、教会の使命はラーメン業界を発展させることではありません。。もちろん、クリスチャンとして、勤勉に働くこと、バイトの方に愛をもって接すること、知恵をもってお金を運用すること、適正な価格でラーメンを売ることは求められますが、それはクリスチャンでも、ノンクリスチャンでも知っていることですし、できることでもあります。

 

では、どこが違うのでしょうか?経営者がどういう希望をもって、その仕事をするかどうかが違うのだと思います。多くの店主は様々な望みをいだいてラーメンを作っていると思います。しかし、私の義理の父は、それ以上にイエス・キリストの再臨の望みをもって、お店を経営しているのだと思います

 

それゆえに、教会はキリストにある信仰と望みをあらゆる人に宣べ伝えるべきなのです。教会はこの世のものを「クリスチャン」的なものに変える必要はありません。教会の使命はクリスチャンラーメン、クリスチャン科学、クリスチャン銀行、クリスチャン政治をたてることでは全くありません。そのようなプレッシャーをクリスチャンが感じたとしても、神様と御言葉は私たちにそのようことを求めてはいません。

 

教会は、ただクリスチャンであるラーメン屋さん、クリスチャンである科学者、クリスチャンである銀行員、クリスチャンである政治家、クリスチャンである主婦に、キリストにある希望を語り、キリストにある成人として立たせることだけです。教会の使命とはそれほどに重要なもので、それほどにユニークで御言葉とキリストを宣べ伝えるのみなのです。この世界で、その使命を果たす組織はなく、教会はパウロのようにそれだけに専念するべきなのです。

 

しかし、私たちはそれを聞いて、コロサイ人のように教会の使命に対して「ものたりなさ」を感じるかもしれません。ここでパウロは私たちに次のように問います。「あなたは本当にこの御言葉が栄光に富んでいる奥義だと信じているでしょうか。あなたは本当にキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているということを本当に信じていますか。」もしそうなら、持ち物を全部売り払ってすばらしい値うちの真珠を買った者のように、教会もクリスチャンも御言葉とキリストにのみより頼んで、御言葉とキリストのみを人々に宣べ伝えることができます。

 

この教会に、イエス・キリストが膨大な救いの恵みを与え、想像以上にすばらしい奥義を私たちに啓示され、私たちのようなものにこの福音を宣べ伝える特権が委ねられ、せっかく聖霊様が私たち一人一人に住ンでくださっているのに、

なぜ、私たちは教会で、他のクリスチャンと交わりしたいとき、御言葉とキリスト以外のことをやりたいのでしょうか。天国では永遠にキリストと御言葉しかないのに、なぜ私たちは他のものがほしいのでしょうか。それは、私たちが罪深く、信仰の弱い、自己中心なものだからなのです。私は牧師なのに、毎朝葛藤しています、「今日はボーションしたくないなー」と考えます。しかし、私たちは弱く罪深いものだからこそ、教会は私たちにキリストと御言葉のみを語り続ける必要があるのです。ある意味、教会の狭い使命は、常にさまよう羊、常に面倒くさがる神の子である私たちのための神様、御子と、聖霊様からの恵みなのです。この使命によって、教会が私たちの母親のような存在になり、私たちを御言葉によって注意し、養ない、キリストにある成人として立たせるのです

 

二つ目のポイントは、キリストを宣べ伝える実です。

2:1-5節をみると、キリストを常に指す御言葉が私たちに宣べ伝えられるとき、私達はキリストにあって、励まされ、愛によって結び合わされ、理解と確信が与えられるのです、だからこそ、私たちはキリストに対する信仰をもち、秩序をもって教会の使命を果たすのです。

 

1-2節を見ると、キリストを宣べ伝えることによって、4つの実が結ばれることがわかります。最初に、パウロはキリストを宣べ伝えることによって、そして、教会が御言葉を受けることによって、苦難と迫害の中でも、「喜び」の実が与えられたのです。2:1では、パウロは教会のために苦労して、御言葉の敵と苦闘しており、苦しみを受けていると言っていますが、1:24節ではこれはすべてパウロにとって「喜び」であったのです。それはなぜでしょうか?パウロはイエス・キリストを知ることや、キリストにあって天に蓄えられている希望、イエス・キリストと永遠に過ごし、永遠に「栄光」を受けることなどは、自分の今の苦しみとは比べることができないと思っていたからです。パウロはローマ8:17節で、「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。」と言っています。

 

二つ目の実は、「励まし」または「確信」の実です。私たちが罪を犯すたびに、キリストは「あなたは聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださる私により頼みなさい!」と励ましてくださるのです。私たちは自分が弱く感じるとき、御言葉は力強く御国を地の果てまで前進させたことや、私たちの死んでいた心を蘇らせたことや、これからこの世を新しく作り出すことなどを思い出させます。私たちが不安になるとき、御言葉は「わたしたちのために天にたくわえられている望みは全くゆがんでいない」と私たちを安心させるのです。私たちが苦難の中にいるとき、キリストは「天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて私が治めている」と宣言し、私たちを強めて下さるのです。そして、これは盲目な信仰ではなく、2:3によると、「理解をもって豊かな全き確信」が与えられるのです。客観的な証拠、歴史的事実、筋が通った論理から来る理解を通して、私たちに全き確信を与えるのです。

 

三つ目の実は、「一致」の実です。教会が一致する理由は、みんなが一人一人「一致」を求めることではありません。パウロはエペソ4:15-16節で、教会の皆さんが真理の御言葉とキリストと結び合わされているゆえに、一つの体になると言っています。キリストの御言葉があるから、私たちは教会として集まり、イエス・キリストと結ばれており、キリストにある兄弟姉妹と結び合い、お互いを支え合えるのです。

 

四つ目の実は、最初の三つの実の結実です。それは、2:2節にかいてあるように、「神の奥義であるキリストを真(しん)に知る」ためなのです。「喜び」、「励まし」、「確信」、「一致」という実はキリストをより深く知り、より頼み、愛するために与えられた実です。私たちがこのような実を求める理由は、イエス・キリストとより深く交わるためなのです。クリスチャンが求めるものは、ものではなく、人なのです。

 

要するに、教会の使命が求める結果は、私たちが、一つの教会として、より親しくイエス様と交わることです。教会の使命はこの世界を変えることではありません。教会の使命はただ人を愛することでもありません。教会の使命はただ御父と交わることでもありません。教会が目指しているものは、あらゆる人たちにキリストの御言葉を宣べ伝え、キリストにある成人として立たせ、イエス・キリストと親しい交わりを持つことです。

 

ここでまた問われます。私たちの教会の使命とは何でしょうか。そして、私たちは教会の働きから、どのような実を期待しているでしょうか。キリストと御言葉が宣べ伝えられるとき、私たちは私たちの苦難が取り去られることではなく、私たちが喜びをもって苦難を乗り越えることができるようになることを期待するでしょうか。キリストと御言葉が宣べ伝えられるとき、苦難の中で、富、成功、楽しみとか人間の慰めではなく、キリストの望みにある慰めを期待するでしょうか。キリストと御言葉が宣べ伝えられるとき、自分が合う人または自分が好きな人だけではなく、自分が合わない人または自分が苦手な人をも親しくなることを期待するでしょうか。そして、キリストと御言葉が宣べ伝えられるとき、ただ「いい人になるため」ではなく、または「いい人たちと親しくなりたい」ではなく、最終的に、私たちの救い主イエス・キリストをより深く知ることを期待するでしょうか。

 

またこのような問いを聞いて、本当にそれで十分なのかまた不安になるかもしれません。教会の礼拝、セルグループ、教会のイベントや他のもの、または他の「実」を求めてもいいじゃないか、と思うかもしれません。または自分はなぜイエスキリスト以外のものを求めてしまうのか、その理由がわからないかもしれません。

 

そして、パウロはコロサイ2:3-4でまた私たちに答えます

3 このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。4 私がこう言うのは、だれも まことしやかな 議論によって、あなたがたをあやまちに導くことのないためです。

 

もしキリストの価値を理解するなら、私たちは絶対に揺るぐことはないとパウロは熱く語ります。もしある友達の愛車のカギを渡されて、その愛車はボロボロの車なんですけど、トランクに1兆円が入っています。誰か、もし、「その車を私の新しいピカピカの高い新車と交換するよ」と言われたら、交換しますか?しませんよね。どれほどいいものが出されていても、どれほどバカにされても、どれほど誘惑されても、どれほど痛い目になっても、絶対にそのカギを手ばなさないと思います。

 

十字架に掛けられた、みじめなイエスキリストを信じることはそれと似たようなことだと思います。もしイエス・キリストの価値と良さを理解できれば、キリスト以外の喜び、楽しみ、安定、安らぎ、慰め、名誉、知恵、愛情のために、イエス・キリストを手放すことはないと思います。この世の価値観からみると、イエスキリストがボロボロの車に見えても、私たちはぶれずに、イエス・キリストを愛し、より頼み、待ち望むでしょう。そして、5節に書いてある通り、私たちは秩序をもって、勤勉に御言葉を読み、キリストに対して堅い信仰を持つことができるのです

 

もし何かの作物の実を実らせたいのなら、水を枝か実にはやりませんよね?何リットル水をかけても何の効果もありません。根に水をやります。私達がもし、罪から救われ、変えられてキリストにある成長をしたいのなら、私達に与えられた信仰と望みという根に水をやる必要があります。私達は自分の力では自分を成長させる事はできないからです。そしてその水とは御言葉です。御言葉という水を通して、イエス・キリストがどれほど素晴らしいお方なのか、私達がどれほどの恵を頂いているのか、また、どのような望みがこれから待っているのかを知ることによって、私達の信仰と望みは深まり、実を結ぶようになるのです。

 

今日の話を聞いて、イエスキリストの価値を知らない自分、またはイエス・キリスト素晴らしさを知りながらもより頼まない自分に気付いたなら、一人で落ち込んだり自分の力で問題を解決をするのをやめる必要があります。まず、自分のことばや人のことばを聞くのではなく、教会にきて、神様の御言葉を通して、キリストを知り、イエスキリストというお方により頼んでください。これこそ、教会の使命であり、神様が私たちに恵みを与える唯一の手段なのです。

 

感謝してお祈りしましょう。

 

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