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2012年7月22日 礼拝

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 2012年 7月22日 説教個所 ルカの福音書11:24-28  「空虚な心の危険」

 序文)先週はイエス様の力づよい悪霊追放の記事を学びました。私たちキリストを信じ、全面的にキリストに従う者がキリストの味方であり、共に集める者である事を再確認いたしました。今朝の24節からは、19節で語られたユダヤ教の悪霊追い出しに関連した警告が語られています。

 Ⅰ 空虚な心の危険

 主イエス様とは無関係に、いわゆるまじないで悪霊をおいだしてやると自称していたユダヤ教まじない師の仕事がどのようなものか。つまり、悪霊どもが彼らの呪文に負けて追放されたのでは無くて、たまたま自分から出て行ったにすぎない。そして、出て行ってからも、その人のことを「出て来た自分の家に帰ろう」といって「自分の家」と呼んでいる。そのような状態である。悪霊が出ていったあとを空き家にしていた。そこに満たすべき真の神様、真の信仰、真の聖霊を与えようとしなかった。そのために、もっと悪い七つの霊を引き連れて、皆で入り込んで住みついた。後の状態は、始めの状態よりももっと悪くなるというのです。

 この警告は、いわゆる現代の「悪霊おいだし」に象徴された「救い」がどのようなたぐいであるかをはっきりと示しています。即ち、「その人の前の状態よりも、後の状態がもっと悪い」という結末をもたらすのです。たとえ其の事がいわゆる宗教と言う名を用いないで行われたとしても、同じです。様々な迷信、異教、悪霊を閉め出してのち、現代人はその空っぽの心を満たすまことのいのち、創造主を見いだせないままに、ついには、物質崇拝や、お金万能主義、科学万能主義、無神論、不可知論という、一見知恵深くみえる七つの悪霊を引き込んでしまっているのです。

 人間の心は空虚なままでいることはできない。常に、何かを満たしていなければおちつかない。そのために現代人は、さまざまに満たしてくれる物を求めているのです。そして、捜しているのです。そこで、発見したものは何であれ、手放す事ができないのです。十分でないことは分かるがと言った状態になるとき、袋小路に追い込められた自分に、はっと気がついたり、絶望という実りを刈り取るのです。少なくともイエス様の時代よりは21世紀の現代の方が、この悪い状況は深く、広く、蔓延しているのです。

  Ⅱ 「救い主キリストがもたらした聖霊様

 では、このような種類の救いに対して、主イエス・キリストの行われた神の力による悪霊追放はどのようなものであったか。クリスチャンにとって自分の救いを正しく理解して、それを守る事の大切さが自覚されねばなりません。七つの悪霊を引き込まなくてすむためです。120722_003

 わたしたちは生ける神のみことばである聖書にあらわされた真の神を信じています。このお方を心の中心に迎え入れたのです。「キリスト教は人間の信仰経験に依拠しているのではありません。キリスト教はまことの神の啓示と、その中心的出来事であるイエス・キリストの事実と、それについての神ご自身の解釈、すなわち福音の教理に根拠をもっているのです。」(吉岡繁牧師)神が、私たちに提供してくださった救い主と、救い主の働きと、救いの事実は、聖書に教えられています。それを受け入れて歩むときに、そこに信仰的経験が生まれるのです。

だから、わたしたちがイエス様を信じるという歩みは、さまざまな偶像礼拝にきっぱりとおさらばして、迷信や哲学や、絶望の神学や、思想に別れを告げ、聖書に神が示された、神のお働きの事実と、それをめぐる神ご自身の説明、すなわち、解釈を受け入れて、神が生きて今も受け入れる者の内に働いてくださっていることを確信してゆくことなのです。

福音の教えは、救いの事実についての神の説明なのですから、これを学び理解し、実践してゆくことなしに、神の救いの全体を正しく体現してゆく道はないのです。ウェストミンスター信仰基準を学ぶ事の重要性がここにあります。聖書に示されている神の啓示の全体像を把握する事は、あなたを助けます。そうしなくて、いつまでも自分の信仰体験だけに依拠してゆくと、それと反対の事象にぶつかった時に、あなたの信仰は揺らいでしまうのです。神様っているのかしら?と思ってしまいます。

神が聖書をとおして語っておられる事をもって心を満たす事により、体験が生じます。救いの確信が生まれてくるのです。順番にみことばの全体を学ぶ事が大切です。説教する者の好みとか、聞く者のこのみによってではなくて、神の啓示の全部を汲み取るのです。

さて、私たちの心の中に、主イエスが働きかけて、聖霊様を通して新しい誕生を与えてくださったときに、何がおこったのでしょうか。聖書の言葉は次のように説明しています。第一コリント3:23「あなた方はキリストのものであり、キリストは神のものです。」もはや悪霊が「自分の家に帰ろう」といえないのです。私たちはキリストのものだからです。第一コリント6:19-20「あなた方のからだは、あなた方の内に住まれる神から受けた聖霊の宮であり、あなた方のからだはもはや自分のものではない事を知らないのですか。あなた方は代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。」

このことばによれば、私たちの心は空虚ではなく、聖霊様が住んでおられる。悔い改めて主を仰ぐ事により、あらゆる罪を引き起こす悪霊は追放され、むなしい人間の罪の思いは追放されました。神の聖霊は内に住んでおられる。これは神様の側のわたしたちのすくいについての認識です。私たちに取って救いは、単なるさまざまな不義と罪のわざをやめ、掃除をしてきれいにしたと言う事以上のことなのです。積極的に、神はわたしたちを聖霊によって造りかえ、なお、聖め、力づけ、いのちにあふれるようにし、聖霊を満たそうとしてくださっているのです。だから、コロサイ人に勧められたように「コロサイ 3:12-17」と言うことができるように変えられたのです。

この歩みの幸いをおもいます。罪に満ちた心が感謝にあふれるように変わる秘訣は、神が説明してくださっている聖霊のお働きにあるのです。だから自分の感情、感覚の上にキリスト信仰を築くのではなく、イエス様が「いや幸いなのは、神の言葉を聞いてそれを守る人たちです。」(ルカ11:28)といわれたとおり、神のことばにどのように勧められているかをみて、知って、それを守ることです。

Ⅲ 「神のことばを聞いて、それを守る」28節

この一見、平凡ともみえる事を主は勧め、誉め、幸いであると言われました。みことばを聞く。読む。祈って守る。この歩みは、神の救いの道として平凡ですが、必ずゴールに至る道です。

毎日の積み重ねでよいのです。誰でも進んでゆけるのです。何か、他の人にできないような特別なあり方を求めて、それを持って救われていることのしるしにしようと、心のよりどころをさがす必要はありません。イエス様がこのように語っておられるのです。その時代にも、「みことばを聞いてまもる」という単純さ、平凡さではなく、「しるし」を求める人々がいました。何か超自然的な体験、一種の精神恍惚状態において、神と交わるということを求めるような人々がいた。そうするあまりに、人々は、さまざまな、惑わす霊と接触するようになるのです。そのような精神的真空状態を求めて、悪霊を引き込んでしまう危険性は、はなはだ大きく

カルト的なものは悪魔から発して、そのひとの人格を破壊してしまうことになり、外部的な悪魔の支配に、その人生を揺りうごかされ用いられてしまうのです。「神のことばである聖書に聞く事」を放棄して、自分の神秘体験を求めるならば、精神的な危険は増大します。そのようなことを持って自分は力ある伝道者であると主張する者は、やがてみことばから離れ、神が啓示してくださった真理の全体をゆがめて、自分に合わせることにより、自分の欲望を満たすという仕方で救いを説いてゆくのです。それは主イエス様がおっしゃった道とは、全く違うのです。

「あなたのうちに自分の息子、娘を火の中を通らせる者があってはならない。占いをする者、卜者、まじない師、呪術者、呪文を唱える者、霊媒をする者、口寄せ、死人に伺いを立てる者があってはならない。これらの事を行う者はみな、主が忌みきらわれるからである。これらの忌みきらうべきことのために、あなたの神、主は、あなたの前から、彼らを追い払われる。」(申命記18:10-12)このような者たちと断じて交わってはなりません。「神のことばを聞く」という事は、心をみことばで満たす道です。聞くことなしに守る事はありません。

結び)私たちにくださった、神の救いのはたらきは、記された神のみことばと聖霊をもって、心をみたすことによって、以前の状態よりもさらに良いといわれるのです。いわば新しい人生としての歩みをいただいているのです。それですから、すべてのクリスチャンは、真心から、みことばに聞きつづけ、その啓示の全体をさらに追い求め、学び、したがいゆく者として、神様に従う者である事を示しつづけましょう。

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