2012年9月16日修養会
2012年9月16-17日 修養会 聖書講解 「召しにふさわしく歩み」 (Being & Doing) (パート2) 讃美歌 352番 あめなる 537番 我が主の
主題聖句: エペソ4:1−7
私たちを信仰にお召しくださった聖霊は、一人一人の地上生涯を通じて、キリストに似るものとするために存在(Being)と行為(Doing)において働きかけてくださっています。存在についての助けはクリスチャンの品性にかかわりますが、個々の人格に聖化をもたらしつつ、聖書に推奨されている徳目を達成させるように訓練をくださいます。修養会の主題は、存在(Being)のありように焦点を合わせています。
それは、主イエス様が教えてくださっているように(マルコ7:20-23)、私たちの内側(Being)から、外側(Doing)にかかわる行為が出てくるのであって、外側が正しいので、内側も聖いと言えるかというと、そうでない場合があるために、主にあるお互いの交わりが、自己中心や、傲慢や、高圧的なリーダーシップの発揮となったりして、聖霊がすでに生み出してくださっている霊的一致を妨げたり、自己高揚のためにとなったりすることがあるのです。存在と行為のすべての帰結は、教会の頭である主イエス様の栄光と愛と憐れみにあるはずなので、それを再確認して、新五カ年計画の推進のために祈りと実践を継続してまいりましょう。
Ⅰ エペソ4:1−3
「さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたはその召しにふさわしく歩みなさい。謙遜と柔和の限りをつくし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。」
「エペソ人への手紙」は1-3章が教理部分です。4-6章は実践部分です。クリスチャンの生き方(Being)を教えています。
1 「主の囚人である私」パウロ
3:1で名乗った事を繰り返しているように見えます。しかしここは「主の」とあり、3:1は「キリスト・イエスの」でした。自分は主にある者である。そして主のために囚人となっている。主のくるしみの足りないところを補っている。伝道という点である。自分はキリストの故の苦しみを恥とはしない。むしろ、心から尊んで受けている。偉そうぶっているのではない。同情を引こうとしているのでもない。
私は主の何者なのか?一人一人自分自身に問いかけてみる。主の弟子、主のしもべ、主にあがなわれた者、何であれ、わたしたちは主にあって新しく生きている者である。主に召されたものである。召された方の囚人である。そのお方をかしらと仰ぐ一人一人である。
2 そのわたしたち、即ち神の民・教会は、召しにふさわしく歩みなさいと勧められている。あとに続く節の総括、序論であり本論であるような言葉が続く。全般的な宣言である。エペソの教会的背景の中で、パウロが存在の中心として教えようとしていることがらである。 「召しにふさわしく歩け」ただこれだけである。
3 「神に対して自分を服従させること」召されたことのすばらしさは、1〜3章で教えておいた。今はその素晴らしい召しに「ふさわしく」歩むことである。
神の召しは、a 1:4「み前で聖く、傷のない者にしようとされた。十字架と復活の福音によって主イエス様が勝ち取ってくださった救いにあずかった。これがあらゆる事の原点です。ここからすべての事柄はスタートします。そして終着点です。完全な聖めをいただいて、御座におられるお方のまえに出るのです。存在の根拠。
b 1:5、6神の子、栄光を誉めたたえる者とされた。教会の仕事、神の栄光をほめたたえる者、それはキリストのご人格の栄光を、この世にしめすことである。1:22、23。行為の根拠。
c 教会はキリストが住んでおられるところ 2:19〜22.
d 3:9、10 神の豊な知恵を示すところ。
4 教会・わたしたちの召し
「神の民の間に住んでおられるイエス・キリストのご人格を、ことばによって宣べ伝え、態度(Being)と行為(Doing)によって表現する。」ことである。だから、私たちは生きておられるキリストとの出会いによって生活に革命が起こるという現実を伝え、その革命を無私で愛に満たされた生活によって例証する。これなしには何をしても効果がない。教会は神に「召された者たち」である。聖化、高挙、栄化を通して主キリストにあずかる。キリストをあらわす。教会は何をするかよりも大切なことがある。それはキリストと同様な神の家族であるか。あり方(Being)が問われている。「謙遜と柔和の限りをつくし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。」
Ⅱ エペソ4:2
[謙遜と柔和の限りをつくし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい.]
これらはイエスのご人格のまことのしるしです。クリスチャンの内に住まれるイエス、教会の内に住まれるイエスを、このようにして現すのです。
謙遜—尊大、無礼、うぬぼれ、見せかけの敬虔をもってあかしすべきではない。へりくだった思いをだき、自分の力を誇ったり、自分の名声を広めようとしてはなりません。教会や私たちがこの世を救うのではない。かしらであるイエス・キリストが救われるのです。御霊の一致を保ちつづけるために、第一段階は、存在(Being)の深みにおいて,「謙遜」は出発点なのです。愛をもって互いに忍び合うには「謙遜」がんかえればできないのです。
柔和—謙遜は柔和と優しさを生じる。柔弱、優柔不断とは違います。へりくだりからそれらは来る。
寛容—ギリシャ語でマクロスミアといいます。マクロは「長い」シュモス「こころ」
苦難、困難に遭遇した時の忍耐として使われますが、特に神様が私たちかたくなな人間にたいして示された忍耐としての寛容を示すのに用いられます。
忍び合いーアネコー 寛容とほぼ同じです。特にいっしょに生活しにくいような人に対する態度で、冷淡、陰惨ではなく「愛」をもって、その愛そのものも「忍耐強い」ことを覚えましょう。
愛—ほかの人をあるがままの姿で受け入れる愛は、こころやさしく、また人をゆるし誤解や意見の相違によってクリスチャン同士を分け隔てるようなことはしない。
一致を保つことは、これらのありようによってすることができる。キリストが教会のかしらであり、私たちのうちに住んでおられ、満ちておられることを一同が認める時に、すべてが可能となる。
Ⅲ 一致を保つ理由は4〜6節に書いてあります。
一致の性質と基盤が 7つの観点から示されている。
1 一つのからだ εν σwμα エン ソーマ one body
これはキリストの体としての教会で、キリストに属するすべての者からなる神秘体 one mystical body of Christ すべての聖徒がキリストにある者。「ぶどうの幹に繋がる枝」です。
ローマ12:5「大勢いる私たちもキリストにあって一つからだです。一人一人互いに器官なのです。」第一コリント10:17「パンはひとつですから、私たちは多数であっても、一つ体です。それは皆のものがともに一つパンを食べるからです。」エペソ1:23「教会はキリストのからだです。」
2 一つの霊 εν πνεuμα エン プニューマ one Spirit これは一つの心ではない。これは感覚の同意とか、満場一致で決める式の一つ意志という意味ではない。Πνεuμαプニューマは聖霊のことで、一つのからだのあるところに一つの霊がある。そのからだのいのちである聖霊がすべてのメンバーの内に住んでおられる。第一コリント12:13「私たちは皆、ユダヤ人もギリシャ人も奴隷も自由人も、ひとつからだとなるように、一つ御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が、一つの御霊を飲むものとされたからです。」聖霊の内住がキリストの体の一致の究極的基盤である。一致に対するすべての罪は聖霊への罪である。ゆえに平和の絆でむすばれて兄弟達を愛するようにと命じられている。
3 望みが一つ εν μια ελπιδι エン ミアー エルピディ in one hope
一つからだ、ひとつ霊故に一つ望みを信徒は持つ。信徒達が同じ高い運命を持ち、同じ期待でみたされているという事実は、彼らが一つである証拠です。その望みにおける一致は、聖徒たちの交わりの根拠であり、要素でもある。コロサイ1:5「天にたくわえてある望み」テトス2:13「祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現れを待ち望むようにと教えさとしたからです。」
4 一つ主 εις κθριος エイス キュリオス one Lord 信仰対象である主は一つ
「キリストがわたしたちの正統な所有者であられ、絶対的な主権者であられる。また、この私たちに対して主であられるとは、キリストが神・人でありたもうゆえであり、ただキリストの神性によるばかりか、同時に其の贖罪によるのである。」(ホッジ)第一コリント12:5「主は同じ主である。」
5 信仰は一つ μια πιστις ミア ピスティス one faith
多くの注解者が、この一つ信仰は、一つの信条の意味ではないとしている。ガラテヤ1:23「以前私たちを迫害した者が、そのとき滅ぼそうとした信仰を今は宣べ伝えている。」ユダ3「聖徒たちにひとたび伝えられた信仰の為に闘うよう」 主体的に信じるということの一致。地上にある限り信仰の一致、全面的完全な一致は達成されないが、「信条とか教理」の細部にわたって迄の意味で基本的な点では一致している。まことのクリスチャン達はそうである。聖書は神のことばと信じている。説教すべき内容、神の子イエス・キリストを礼拝し、その血による贖いを受け、信頼し、聖霊の聖めに信頼している。
6 一つ洗礼 バブテスマ εν βαπτισμα エン バプティスマ one baptism
一つ信仰の表れとしての洗礼。洗礼は聖なる一致への参加の礼典である。聖餐式は、一致を維持し、確認し、進展させる意味がある。洗礼は同じ告白、おなじ契約を受け入れ、同じ主・贖い主への献身である。それですべての信徒は一つからだである。 ガラテヤ3:27、28
7 父なる神は一つ εις θεοσエイス セオス one God
すべての 上に
すべてを つらぬき おられる すべてのものの 父なる神は 一つ
すべての うちに
神様の偉大さ
上に いと高き天にあって、地上を踏まえ 教会を支配、統治される絶対主権者、神
つらぬき 万物ことに教会にキリストにより住み、いのちを与え、制御される、神の摂理的臨在うちに 信じる者たちの中に聖霊によって宿りたもう内住の神です。
Ⅳ 7節 「しかし私たちひとりひとり,キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました。」
教会で救いの恵みは全員に同様に与えられている。しかしひとりひとりの信徒への天賦の賜物は十人十色なのです。ひとりひとりに与えられたこれらの賜物は、キリストの賜物の量りに従って与えられたものであって、それもまた恵みであるのです。「天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出てゆく人のようです。彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。」(マタイ25:14,15) クリスチャンとしての存在において、賜物が与えられていない者は一人もいないのです。皆、それぞれに与えられている存在なのです。
そこから賜物の発揮と言う行為doingが求められているのです。
この1節から10節の文脈は,パウロが第一コリント12:4〜11に言っていることとおなじです。キリストの体として七つの「一つ」といわれることがあります。教会の一致の基礎です。しかし、奉仕は違いがあります。賜物が違うからです。教会のからだとしての一致は、それぞれがちがった働きをすることで保たれている一致です。それは全体としての調和を持っているのです。調和が破壊されるような働きは、体全体を損なう危険性があります。信徒一人一人に存在価値と責任があるということです。
キリストが各人にめぐみを与えられたということは、圧倒的な勝利を収めて、天に凱旋し、父なる神の右に着座された王の王キリストというイメージを映し出します。天に上られたとき多くの捕虜をひきつれーキリストに敵対し征服されたものたちのことで、サタン、罪、死をさします,それらを引き連れて凱旋された。凱旋した主イエスが戦利品を王座に座して家来たちに分け与えられた。キリストが分け与えられるルールは、私たちの益や、将来の可能性や、私たちの応答ではなくて、キリストの「良い量り」によってである。その一例としてパウロは冒涜者、迫害者であったが、今は使徒とされた。
キリストがそのみからだのために必要とおもわれてひとりひとりを導き、教会に加えられた以上、あなたがた果たすべき働きの分野があること、みからだである、たがいのためにキリストが賜物を与えられていることがはっきりとしている。
だから教会で私たちが求められている配置について、その働きを行う事を拒否することは、キリストの体につながる事を拒否することである。足が足である事を拒否したら手になれるかというとなれない。切り取られてさばかれることになる。自分の分をわきまえるということは,出しゃばるなという意味に取られているが、むしろ、それは自分のなすべき事をしようという積極的意味に取るべきである。
結び)私たちに与えられた福音の故に、主にある存在の素晴らしさを再確認しつつ、主のみからだである教会の兄弟姉妹として、主からの大命令、すなわち互いに愛し合ってゆくことで、神の民の幸いを味わい、その上で、賜物を発揮して、大宣教命令を実行してゆくことは、海浜幕張めぐみ教会、新浦安めぐみ教会に相応しい歩みです。
召された召しにふさわしく歩みを,さらに整え導いていただきましょう。