2012年9月16日1部礼拝
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2012年9月16-17日 修養会 聖書講解 「召しにふさわしく歩み」 (パート1)(Being & Doing)
聖書箇所:エペソ1:3−9
序文)今日と明日の修養会で、主題聖句エペソ人への手紙4章「召しにふさわしく歩み」を学びます。今朝は、4章以降の前提になっている、教理部分(1−3章)から、私たちクリスチャンとしての存在(being)の根拠を再確認しておきましょう。
Ⅰ 霊的祝福を父なる神から受けた。 1:3
「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」
1 パウロが挨拶と祝祷をした後で、最初に書いたことばは、「ほめたたえられますように」です。主の囚人となっているパウロが、この手紙を書いたのは獄中でした。獄中で挨拶をしてのちに、「ほめたたえられますように」と書いたのです。しかもここでは「祝福、祝福、祝福」と三回も使っています。主にたいして日々の生活、それが主イエスの故に獄中に投じられているとしても、頌栄を歌うことは信仰生活の何であるかを教えています。パウロは肉体的な制約を受けていた。自由を制限されていた。しかし心までは繋ぐことはできない。神のみ前にそのすばらしさに圧倒されていた。求め、願い、訴えるばかりなら、偶像崇拝者でもしている。ここではパウロは讃美を上げたとたんに、原文ではピリオドなしに14節まで続く文章を書いている。恵みの賛歌です。そしてエペソ人への手紙のエッセンスがここに全部記されている。
栄光が褒め称えられる3-6節神がその民に与えられた霊的賜物の故に讃美している。
栄光を褒め称える7-8節キリストの血による贖いの故に讃美している。
9-10節贖いの経倫との関連で、神のご計画の啓示をさんびしている。
11-12節この贖い主を通してはやくから救い主を待ち望んでいたユダヤ人クリスチャンたちが、神の目的に同意し神の世継ぎとなること。
栄光を褒め称える13-14節異邦人(悔い改めた)は同じ相続を共にするものである。
2 神はここで、私たちの主イエス・キリストの父・神として表されている。主イエス・キリストが贖い主として地上で働かれたとき、人間性を取られた。その立場から、み父を「神」とも「父」とも呼ばれた。キリストの神性と人性、二性一人格の教理がここにある。(ヨハネ20:17)
3 神は私たちを祝福してくださった。天において与えられる祝福、地上のではなく、永遠のいのちにかかわる霊的な至福を与えてくださった。14節までにある内容、永遠のえらび、キリストの贖い、罪の赦し、聖霊によるみ国を受け継ぐことの保証。これらは神のみが与えることのできるもので、私たちにくださったことをさしている。人は自力では達しうる事や、見つけることが確かにあります。しかし、神様だけが、あたえることのできるものは、神からだけ受け取るのです。
Ⅱ 永遠の選びに与っている 4節
「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から、キリストの内に選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」
1 神を褒め称えた理由の第一は、神の選びの愛にある。ここからすべての霊的祝福が流れ出る。天地を創造される前から、救い主のうちにあって、私たちを選んでいてくださった。それは行き当たりばったりではない。思いつきの偶然でもない。宇宙創造以前の神の主権的選びは、私たちに何か功績や善行があったからというような考えを持ち込ませない。一人一人が価なしに選ばれた。ここの「世界の基の置かれる前から」というギリシャ語は、ヨハネ17:24でイエス様が「あなたが私を世の始まる前から愛しておられたためにわたしにくださった私の栄光を、彼らがみるようになるためです。」と言われたときのことばと全く同じことばです。
「選び出した」は文法上 中態で、自分自身のためになす行為を表します。神はご自分の民とするために私たちを選ばれた.〈キリストのうちに〉はin Himという句,すなわち「主にある」者として。
わたしたちはこのことばを読む時に、謙虚にさせられます。選びのめぐみ深さをおぼえさせられます。無限の感謝と救いの確かさとを強く覚えさせられます。自分が神を選んだのではない。神がご自分で私たちを民とするために選んでくださった。このことのすばらしさを覚える。
2 次に選びの目的がしるされている。「御前で聖く、傷のない者にしようとされました」
聖化のことです。選びの教理は現実的な目的をもっています。旧約聖書の犠牲のささげ物の条件は「御前で聖く、傷のない物」でなければならない。そして完全な犠牲のささげものは、キリストご自身であった。神はこのキリストに似たものとなるようにしようとされた。「傷も汚れもない、子羊のようなキリスト」に似たものとする。ローマ8:29「なぜなら神はあらかじめ知っておられる人々を御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。」
ここにでて来たことばと内容は、さらに5:26-27で詳しく展開されています。それは「キリストの花嫁である教会」の姿と一緒です。
Ⅲ 神の子とされた 1:5
「神は、ただ御心のままに、私たちをイエスキリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。」
1 神は世界の基の置かれる前から選んでいてくださった目的は、聖めてキリストの花嫁にするためであったのですが、ここでは、さらに、キリストにあって神の子にすることもあらかじめ定めてくださっていたと記しています。無償で神の子の身分を授けてくださった。〈あらかじめ定めておられた〉ギリシャ語文法は不定過去形の分詞で、「予定することによって選んだ」と前節を補完している。選んだとは、子へと予定されたことである。このギリシャ語は、英語のPredestinedと訳されます。予定論という日本語に当てはめる原語です。
〈ご自分の子にしようと〉は養子縁組を表す言葉で(ガラテヤ4:5「私たちが子として身分を受けるようになるためです。」本来神の子であられるイエスとは違うのです。にもかかわらず同様の特権にあずかる(ロマ8:17)とは何という恵みでありましょう。それは〈イエス・キリストによって〉です。この「によって」〈ギ〉ディアは,「〜を通して」という言葉で,私たちが子とされるのはただ十字架の贖罪によるのです。
ヨハネは第一の手紙3:1の中で『わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんな大きな愛を父から賜ったことかよく考えてみなさい。』と申しています。天の父から子と呼ばれる幸い、喜びを他のものと比べることはできません。クリスチャンの実際生活は、神の子としての生活です。これこそ、本当の幸福というべきことです。子とされる恵みは、家庭的、社会的、国家的な性質を帯びている。
2 エペソ1:6「それは神が、愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。」
永遠の選びに与り、子とされた目的は、神に栄光です。
神は子とすることをあらかじめ定めてくださった。これほどの神の民の高挙のゆえに、祝福のゆえに、溢れて与えられる恵みの故に、神をほめたたえよう。2:7参照!!
「私たちに与えてくださった」この原語は(エカリトーセン)で、このことばは「恵み」(カリス)という名詞ができた動詞(カリトー)から派生した。これは上下関係をしめし、上から一方的に下に与えられる事柄をさすときに使います。それで、神様が、自由に与えようと意志してくださったことをさします。
人生の最終の主要目的 私たちへの愛から注がれている、かくもすぐれた恵みを大いにほめたたえること。
「恵みの栄光」と言う表現は、神の栄光とは、神の存在の数々の属性に溢れる栄光を取り上げており、ここでは神の「恵み」に輝く栄光である。義の栄光とか、聖の栄光とか、力の栄光とかいってよいのですが、ここは私たちへの一方的に示されている「恵み」の栄光が輝いている。それをほめたたえよう。
人生の中心目的 主旋律が、ここに響いている。
うけた恵みに留まってしまうのではなく、この土塊、ちりに等しい者に恵みを与えられた神に、栄光を帰し、ほめたたえる者となる事である。
Ⅳ 「御子による贖い」を受けた。
7節「私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、即ち、罪のゆるしをうけているのです。これは神の豊かな恵みによることです。」
直訳「彼にあって、我々はもつ 贖いと 彼の血を通して 罪の ゆるしを
彼の恵みの豊かさに従って。」
1 私たちの救いの全部ではなく、贖いと言う側面をパウロは伝えています。それは先ず御子にあっての贖いです。贖いは、我々自身からは決して出ない。キリストが我々の贖い主です。
「あがない」と言うことばは、〈ギ〉アポリュトゥローシスは、キリストのわざとして用いられるときは、常に罪からの贖いによる救いを指すことばとして用いられている。
「贖い」は旧約聖書のレビ記の「買い戻す」と言う概念で、土地や人で、人手に渡ったものを、お金を払って買い戻すこと,あるいは代価を払って解放することを言いました。
(レビ記25:25-27.47-49)「贖い」は必ず買い戻すための代価が払われる事が必要であった。旧約の代価である犠牲は、動物の「血」を流すことが要件で、血を流すことなくして、罪の赦しはなかった。血は動物のいのちだからでした。
2 新約聖書では,ⅰキリストの血によって身の代金を支払う(Ⅰコリ6:20,黙5:9),
ⅱ律法ののろいを取り除く(ガラ3:13,4:5),
ⅲ罪の束縛から解放する(Ⅰペテ1:18‐19)という救いの神学が展開されている.
キリストの血は十字架の上で流された血である。それはキリストのいのちそのものである。
〈罪の赦し〉。ここの「罪」は〈ギ〉ハマルティアではなく、〈ギ〉パラプトーマの複数である。すなわち罪の性質全般ではなく,もろもろの過失の帳消しです。英語では[sin]ではなく[sins]と訳されている。
「赦し」は「解放」「釈放」を意味するギリシャ語アフェシンを使っている。
3〈神の豊かな恵みによる〉。原文は「彼の恵みの豊かさに従って」。神の恵みの豊かさとは、無限の恵みを指す(参照2:4,7,3:8)。私たちの能力や業績の入る余地はない。それはいつも私たちに向かって働く神の一方的な好意です。
豊かさの内容:この犠牲の備えと罪人たちに代わって、それを受け入れられたことにおいて、次に、なんの益もないものを受け入れることにおいて、さらに、この贖いを与えることと、人間の善をみることなしに贖いの実りのすべてを与えることにおいて、豊かである。
結び)「神はこの恵みを私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって。みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。」
神が神の知恵と思慮深さをもって、我々の弱さや鈍さの欠陥に配慮されて、対応されつつ、ご自信の奥義を適切に無理なく理解させようとしておられる。しかも、人間の必要について万全を期しておられる。慎重さと有効さが思われる。みこころの奥義、新約聖書で、奥義とは長い間あらわされなかったことがらが、いまや示された、と言う意味。何か知ることができない神秘的なものという意味ではない。しかし、その意味を知らされなかったら。今でも理解できないという意味でもある。未信者には隠されているが、信者にはすでに分かっている。御子イエス・キリストに関する事柄である。
霊的祝福を父なる神から受け、永遠の選びに与り、神の子とされている。御子による血の贖いをいただいた。このような、みこころの奥義は、私たちに知らされた。私たちは聖霊のお働きにより、今や、神の子として新しく生まれ変わった。この存在へと召されたので、ふさわしく歩ことが祈られているのです。あとは、午後からのパート2の学びにつづきます。祈りましょう。