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2013年6月2日 礼拝音声

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第一礼拝  説教 朴柱炫教師候補者  司会 廣橋嘉信

奏楽  石川智久兄弟     Fl.. 石川有希姉妹

第二礼拝  説教 朴柱炫教師候補者  司会 廣橋嘉信

奏楽  石川有希姉妹    大場かづさ姉妹

Vn 伊藤悠希兄弟  ソングリード.. 加治太郎兄弟

 

前 奏                                                                 神の招きと賛美

司式者:主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。

会 衆:さあ。主を恐れる者たちよ、言え。「主の恵みはとこしえまで」と。

司式者:主は私の味方。私は恐れない。人は、私に何ができよう。

会 衆:主は、私の力であり、ほめ歌である。主は、私の救いとなられた。

第一 讃 美 歌  66番 聖なる、聖なる    第二 ソング 「聖餐」

開会の祈り

司式者:祈りましょう。「全能の神よ。すべての者はあなたに向かって心を開きます。あなたはすべての願いを知られ、御前には隠されていることは何一つありません。どうぞ聖霊によって私たちの心の思いをきよめてください。あらゆるものを持ってあなたを愛し、ふさわしい仕方であなたの聖なる御名をほめたたえられますように。私たちの救い主キリストの御名によって祈ります。アーメン」

罪の告白の招き

司式者:神の御前に、またお互いに罪を告白しましょう。ヨハネ第一の手紙1章8-9節「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」                             罪の告白の祈り

会 衆:あわれみ深い聖なる神よ。御前に私たちの罪と過ち、あなたへの背きを告白します。あなたは、私たちがどれほどしばしば罪を犯したのかよくご存じです。私たちは、あなたの道からさ迷い出て、あなたの賜物を無駄にし、あなたの愛を忘れました。主よ。あわれんでください。私たちは、あなたのみ心に背いたすべてのことを恥じています。今、御前にへりくだって悔い改めます。どうか、私たちの罪をお赦しください。あなたの道を歩み、光の中を生きていけるように助けてください。私たちの救い主イエス・キリストの御名によって。アーメン

個人的な告白 ( 黙祷のうちに )

 

赦しの確証

司式者:赦しを与える福音のみことばを聞きましょう。 (ローマ8:34 /第Ⅱコリント5:17) 「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」                                      会 衆:アーメン

平和のあいさつ

司式者:神はキリストによって私たちを赦してくださいましたから、私たちも互いに赦しの恵みを分かち合いましょう。私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平和があなた方の上にありますように。

会 衆:主の平和が、あなたとともにありますように。

讃 美 歌     讃美歌第二篇 186番  日ごと主イエスに    

みことばの宣教

聖 書 朗 読    第一テモテ 4章 11-16節

聖 書 の 話     「 テモテの務め 」  朴柱炫先生

讃 美 歌          514 番  弱きものよ

 聖晩餐式  司式 廣橋嘉信牧師

[制定のことば] 

牧 師:私たちの主イエス・キリストが聖晩餐を定めた制定のみことばを聞きましょう。

コリント人への手紙 第一11章23-29節

[聖晩餐の教え]いま私たちが執り行おうとしている聖晩餐は、主イエス・キリストを思い起こし、交わりを喜び、御国の訪れを待ち望む祝いの礼典です。今、思い起こしましょう。私たちの主イエス・キリストは、御父のもとからこの世に遣わされ、私たちのために神の律法を成就し、十字架の苦しみと死を耐え忍ばれました。主は、ご自身の死とよみがえりによって、恵みと和解の新しい永遠の契約を結んでくださいました。神を受け入れる人は、決して見捨てられることはありません。今、主イエス・キリストとの交わりを感謝しましょう。主は世の終わりまで、いつも私たちとともにいてくださると約束してくださいました。パンを裂いて食するとき、主は永遠のいのちのパンとして私たちを強めてくださいます。また、杯から飲むことによって、主は私たちのうちにとどまり、豊かな実を結ばせてくださいます。さあ、信仰をもって待ち望みましょう。パンと杯は、やがて御国が成就することのしるしであり保証です。栄光のうちに顔をあわせて主にお会いするときに、私たちは永遠の愛の祝福を味わうのです。

[聖霊を求める祈り]私たちの主なる神よ。どうぞ聖霊をお注ぎください。このパンと杯を聖別して、キリストのからだと血の聖餐に与らせてください。あなたの御霊によって、私たち主にあるすべての者を、生けるキリストにあって一つにしてください。主への信仰と希望と愛を保ち続けられますように。主よ。あなたの栄光の御国に私たちを呼び集めてください。

[陪 餐 招 き]主イエス・キリストにある皆さま。主はご自身を愛する者、救いのために主にのみ信頼する者を、この聖晩餐の食卓に招いておられます。すでに洗礼を受けている方は、いずれの教会の信徒であっても、パンと杯をお受けください。まだ洗礼を受けておられない方、また、幼児洗礼を受けても信仰告白をされていない方は、どうぞ今日、主イエス・キリストを受け入れて、一日も早く陪餐する日を待ち望んでくださいますように。このパンと杯は、神の民のための神からの賜物です。傷んだたましいをいやす力です。どうか主イエスがすみやかに来てくださいますように。

[分餐] 配餐者  第一、第二 大場清文長老 那須宗泰長老

牧 師:また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子達に与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」(マタイ26:26) 分餐します。

牧師:これはあなたがたのためのわたしのからだです。私を覚えて、これを行いなさい。

会 衆:アーメン(と言って食す)

牧 師:また杯をとり、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。これは、私の契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。ただ、言っておきます。私の父の御国で,あなた方と新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」(マタイ26:27-29)分餐します。

牧 師:この杯は、私の血による新しい契約です。これを飲むたびに、私を覚えて、これを行いなさい。(第一コリント11:25)

会 衆:アーメン(と言って飲む)

[祈 り]恵みの神よ。御子イエス・キリストは、パンと杯によるこの聖なる食事を定めてくださいました。それゆえ、私たちはこれによって、キリストの体と血に与るかることができたのです。心より感謝と賛美をささげます。主が定めたこの大いなる愛のしるしを祝う者たちが、自分の歩みを通して贖いの実りを結ぶことができますように。永遠の御国に至るときまで,キリストとの交わりと聖霊の力によって私たちを強めて下さい。私たちの主イエスキリストの聖なる御名によっていのります。アーメン

献 金   第一 鄭 現伊姉妹   第二 堀江千恵子姉妹

頌 栄           541番  父 み子 みたまの

祝 祷                     廣橋嘉信牧師

後 奏     567番 アーメン・アーメン・アアアアーメン

 

2013年6月2日主日礼拝  説教題:「テモテの務め」 聖書:第一テモテ4:11−16

序文)私たちは前回の説教で、生ける神に望みを置く人生について学びました。今日もパウロの手紙は続きます。今日は、パウロがテモテに対する助言であり、人々を教える者に相応しい姿を教えています。聖霊様の助けによって、御言葉に書かれている神様の御心が何か分かるようにともに学びましょう。

1.主のために働く人の真の権威

パウロは11節で、続けてテモテに助言をしています。「これらのことを命じ、また教えなさい。」と命じています。命じるという言葉で使っている表現はもともと軍隊で使う言葉です。この言葉は新約聖書ではイエス様が神の子としての権威を持って、命じる時に使った言葉でもあります。また、パウロも自分の同労者に対しても神様の権威を現す時も使った言葉です。
パウロはテモテに揺るがない確信の基で、権威を持って教会の人々を教え続けなさいと言っています。それはパウロがテモテの働きを応援し、彼に揺るがない確信を与えるために使っている言葉です。テモテの働きは自分で何とかして頑張っている私的な働きではなく、神様の御心であり、神様の御業であるから力強く働きなさいと励ましているのです。時には厳しく言わざるえない時や人々から嫌われる覚悟を持って教える時もあるでしょう。
また、今、自分が進んでいるこの道が正しい道であっても、時には疲れて心が弱くなる時もあるでしょう。そのような時、パウロの力強くで、確信に満ちたこの言葉はテモテに勇気を与える言葉です。また、12節を見ると若いテモテを攻撃する人や、軽く見た人があったのを推測できます。若いテモテに委ねられている働きと責任は大きなものであり大変なものです。ですから、パウロが神様の権威を現す言葉を使って励ましています。
それから、若い牧会者であるテモテに対するパウロの助言は続きます。「年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい。かえって、ことばにも、態度にも、愛にも、信仰にも、純潔にも信者の模範になりなさい。」と勧めています。若いという言葉はユダヤ社会では軍隊に行くことが出来る年代から40歳に至る人を指す言葉です。ここでのテモテの若さとは単に年齢的な若さを指す言葉ではなく、長老たちと聖徒たちの間で指導者としての経験が少ない若さを指す言葉として使われています。
もちろん、年齢的にも若いテモテでありましたが、教会の指導者が年齢と若さのゆえに軽く見られるのをパウロは望んでいません。ですから、パウロはテモテが持っている若さのゆえに起きる問題を乗り越えるために、行いの真実さを通して補うのを勧めています。もし、長老たちと年老いている信徒から軽く見られる時は行いを通して模範になり、そこから権威を得るようにしなさいと勧めています。イエス様のために働く者の権威は外面的な飾りである履歴や年齢によるのではなく、真実な教えときよい生活から出るものです。
そのためにパウロは「ことばにも、態度にも、愛にも、信仰にも、純潔にも信者の模範になりなさい。」と勧めています。まず、ことばによって模範になるのです。それは公の場での話だけではなくプライバシーの時の話も含まれます。どんな場合でも真実であり、ことばに注意を払うのです。次は態度によって模範になるのです。それは他の人との関係においての行動で欠けるところが無いように努力するのです。次は愛、信仰、純潔という内面的な品性について語っています。

それらは他の人と関係する生活につながっています。愛はことばと行いを通して現れます。信仰は愛に基づくものです。純潔とは純潔な良心を守るというギリシャ語から由来した言葉で、生活において罪が無いし、道徳的にも純潔である意味です。パウロはかりにテモテが若い人であっても十分な経験がある人生を生きた人のようにことばと行いにおいて愛と信仰をもって他の人々をケアする働きによって、神様と人の前でも充実で、信頼出来る人になるように勧めています。

2.テモテの務め

パウロは13節では私が行くまで、「聖書の朗読と勧めと教え」とに専念しなさい。とテモテに勧めています。それはパウロが3章14節に近いうちに行きたいと願うのと一致します。パウロはエペソに自分が不在の時にテモテが代理者として働き、公の礼拝に関する使命も忠実に努めるのを望みました。その内容は聖書の朗読と勧めと教えることへの専念です。聖書の朗読とは公に聖書を読むことで、初代教会のユダヤ会堂ではすべて公の礼拝で行われました。
その内容は律法、預言書とともに使徒たちの教え、パウロの手紙などが公に朗読されました。それはただ読むのではなく、朗読すること、そのものが公の礼拝にとって大切な働きでした。聖書が自分の言葉で、自分の聖書を手に入れるようになったのは近代の話です。聖書を読むためには会堂に行かなければ読むことも聞くことも出来ませんでした。ですから、聖書を朗読する働きはとても大切な働きでした。
今日も教会の礼拝の中で、司会者が聖書を朗読する時間がありますが、その時間はただ代表して読むことに意味があるのではなく、神様のみことばを読むという礼拝の大切な働きです。ある教会は賛美の時は座って、聖書を読む時には皆が立って聞くようにして、聖書朗読の大切さを強調する礼拝の形を持っています。大切なのはその時は神様のみことばが朗読される時間であるのを明確に認識しているのです。
人間の言葉ではなく神様のみことばとして読み、聞く時間です。それがテモテに任された大切な働きでした。

次は勧めです。それは教理と道徳に反することがないように忠告し、勧める働きを意味します。初代教会はユダヤ教から改宗したユダヤ人と異邦人が、ともに信仰生活をしました。また、多くの異端的な教えと戦う教会でした。ですから、正しい教理が必要であり、それを忠実に教えるのは大切な働きでした。
また、異邦人が改宗する時には道徳なことも教える必要がありました。もちろん、ユダヤ教から改宗したユダヤ人の中では道徳を破って勝手に生きることで、教会を混乱させる人がいました。教会を正しく導き、守るためには教理と道徳に反することがないように忠告し、勧める働きはとても大切な働きでした。その働きがテモテの主な務めでした。次の働きは教える務めでした。それはキリストがなさったように誤った思想に流されずに確かな信仰の上に立つように助けることです。そのためにみことばを解釈し勧めました。
みことばを正しく解釈する働きによって、誤った教えからエペソ教会の人々を真理から守ることが出来るのです。今日の礼拝でもみことばの宣教、すなわち説教であります。みことばを正しく解釈し、教える働きはテモテの大切な務めでした。パウロはそれらのものにテモテが専念するように勧めています。それはイエス様から委ねられた働きであり、神様の民を愛する名誉ある働きです。

3.任された務めのために

パウロは14節では「長老たちによる按手を受けたとき、預言によって与えられた、あなたのうちにある聖霊の賜物を軽んじてはいけません。」と教えています。テモテが按手を受けたのはいつ、どこで受けたかは正確には分かりません。多分、パウロの第二宣教旅行の時、ルステラで按手を受けたと推測出来ます。その時、按手を行った人たちは聖霊様の豊かな働きによって、預言のみことばを通してテモテに賜物が与えられるのが分かりました。テモテに預言によって与えられた賜物は聖霊による霊的なめぐみと力を意味します。
この賜物は按手を通して、聖霊によって与えられていると描写されています。その賜物が職務に関係はありますが、それが職務、そのものだと解釈するのは適切ではないです。それは初代教会の職務には按手を受ける通常なプロセスがあるからです。しかし、テモテがもらった賜物はそれとは区別されたものであるからです。けれども按手は軽率に受けたり、するものではありません。それは古代からユダヤ社会の伝統であり、旧約聖書と新約聖書にも大切にした行為です。その意味は神様からの権威と祝福と力をその人に伝える象徴的な行為です。
按手をした人に権威と祝福と力があるのではないです。しかし、それを授ける人も按手をもらう人も真剣で大切に行うべきです。聖書の中で按手をした人は家の家長、祭司、いけにえを捧げる者、モーセ、イエス様、使徒たち等でした。按手はいけにえのための按手、祝福のための按手、癒しのための按手、証拠のための按手、後継者を任命するための按手、聖霊を伝えるための按手等があります。
いけにえのための按手はいけにえを持って来た人はだれでも自分が連れて来た動物の頭の上に手をのせて按手をしました。それは、自分の罪の代わりに殺される動物に罪を転嫁するために行われた行為です。この行為はイエス様が十字架を通して生きている供え物として神様にささげられ完了しましたから、今日はこのような按手はやる必要がないです。
祝福のための按手は他の人を祝福する行為であり、ヤコブがヨセフの息子に、イエス様が子供たちを祝福する時等、按手をしました。ヤコブがヨセフの息子に祝福する時の按手を見ると何回も出来るのではなく一回のみで取り消しが出来ない重大な行為です。また、普通は長男が祝福をもらうことになっていますが、それより神様のご計画に従うようになり、次男であるエフライムが祝福をもらいました。
癒しのための按手はイエス様とアナニア、パウロ等の人が癒しのために按手を行いました。このような行為は神様の癒しの力が転嫁するのが明確に現れる行為です。この行為の注意するべきところは癒しの力が按手する人にあるように誤解されるところです。パウロも癒しの按手によって神であると誤解され、それを徹底的に避けるように弁証しました。残念なことですが、その癒しの力が自分から出るものであるように振る舞う人がいますが、気をつけるべきです。
証拠のために按手は旧約の律法の中で神様の名前を冒瀆した者は石で殺すようにした戒めに関係があります。その時は、神様の名前を冒瀆した者に関わった全員は彼に按手をして石で殺しました。それは誤った行為による罪を彼に返して、共同体の責任を解除する役割をしました。
後継者を任命するための按手はヨシュアに対するモーセの按手とレビ人が祭司として働くために按手を受けました。新約の教会では長老と執事と宣教師等が按手を通してその職分が認められました。按手式は信仰共同体の前で、教会の指導者としての賜物と召しを明確にするために必要でした。テモテの場合は長老会を通して按手を受けましたが、その按手を通して霊的な賜物ももらうことになり、その時、パウロと長老たちも認識するようになりました。
聖霊を受けるための按手は主に初代教会の使徒たちを通して行われたことで、改宗者たちは使徒たちの按手を通して聖霊を受けました。パウロはテモテに牧会者の働きは聖霊によって与えられたものですからそれを大切にし、按手の時、もらった聖霊の賜物を生かしてその働きに専念しなさいと命じています。テモテが教会の指導者になったのは単なる人間的な儀式によるものではなく、按手を通して神様の祝福である教会の指導者としての権威があることを公に認めてもらいました。ですから、それを大切にして専念しなさいと命じ勧めています。
パウロはテモテにこのように大切な教会の働きに忠実に行うために必要なものを15節と16節に教えています。まず、これらの務めに「心を砕き、しっかりやりなさい」と教えています。心を砕きという言葉は実行する、耕作する、離れないという意味です。食物を耕作することのように短期間の働きではなく、長期間の働きですから勤勉に働くこととそこから離れないのが大切であると教えています。そうすれば、進歩され、それがすべての人に明らかになるだとパウロは励ましています。

また、「自分自身にも、教える事にも、よく気をつけなさい。」と教えています。テモテ自身についても関心を払って注意しなさいと言っています。それは教会の働きと牧会に集中されて、自己管理が出来ないことが起こらないように自己管理をしなさいという意味です。また、公の教えにも気をつけ正しく教えるように命じています。パウロはテモテがそれを続けるように命じています。「そうすれば、自分自身をも、またあなたの教えを聞く人たちをも救うことになります。」とパウロはテモテに教えています。
教会の公の働きは耕作する働きのように長期間の働きですから勤勉に働くこととそこから離れないのが大切です。また、そのためには忍耐が必要です。自己管理もしっかりしながら、やり続けるのが最も大切です。主を信頼し、勤勉にやり続けることによって、進歩が現れ、自分の成長と救いが完成されますし、他の人々も救いに導かれます。

この世には上手で、立派な人が溢れています。私たちはそのような人々が教会の働きをするようになるのを望み、すごいと思うかもしりません。実際にそうなるとすごいでしょう。しかし、神様はそのような人々に関心があるのではありません。神様は私たちのような未熟で、下手で、問題だらけの人々に関心があります。なぜならば私たちは自分の弱さを認めイエス様が必要であると告白しているからです。いくら良い種であっても、地と水、空気、太陽という神様が下さるめぐみが無ければ良い実を結ぶことは出来ません。
教会の働きもいくら才能があり立派な人であっても神様のめぐみがなければ良い実を結ぶ働きは出来ません。私たちはそれぞれ神様から賜物をもらっています。テモテのように特別な賜物をもらうことができないかもしりませんが、誰でも神様のために奉仕出来る十分な力と賜物はもらっています。しかし、私たちはその賜物を使って教会の働き、奉仕をする時に戸惑うことや、うしろ向きになる時があります。それは、立派で上手にしなければならないと思うからです。神様は立派で、上手に出来ることによって高慢になる人より、未熟で、下手で、問題だらけの人で、自分の弱さを認めて、ひたすら続けて進む人に関心がある方です。
また、賜物は完成された状態で、私たちに与えられていないことも覚える必要があります。ですから、ひたすら進み続けることによって進歩するのです。特に教会の働き、奉仕はそのようなものです。私たちが自分に出来るものを忠実にすると次は神様が働くことによってその働き、奉仕が完成します。ですから、自分に賜物が無いと言うことは神様が下さった賜物を軽んじていることとつながっています。神様が下さった賜物を持って、今私たちに与えられている教会の働きと奉仕に忠実で、ひたすら続け、そこから離れないのはとても大切です。その働きによって自分も救われ、他の人々も救われるからです。

結論

主のための働き奉仕する者にはこのようなみことばが約束されています。

「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。」(第二テモテ4章7節—8節)

お祈りします。

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海浜幕張めぐみ教会 - Kaihin Makuhari Grace Church